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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
本日5月19日(日)、戦場体験の証言動画を見る会を行いました。
テーマは「インパール作戦」。
31人の参加がありました。ご遺族の方もいらっしゃったようです。

無謀な作戦の代名詞のような有名な作戦です。白骨街道とも呼ばれます。
この「白骨街道」というのは、インパール攻略作戦の中では、撤退のときの状況にあたります。
攻略戦では、英印軍との間で激しい戦闘が行われ、それで全滅した部隊もありました。
今回は、インパール作戦がどういうものであったのかについての説明、また、各部隊がどういう戦闘に参加し、どのように撤退することになったのか、というところから、解説と証言でまとめられていました。

戦闘になる前の時点で、生きた糧秣として連れて行った牛の扱いに苦労したけれども、牛は山に入るとすぐに死んでしまったという話がありました。
攻略戦では、橋を落とされて動きが取れなくなるなど、現場ではどうすることもできない事態が発生。相手は潤沢な物資や応援部隊をそろえて戦っていることもあり、戦闘での犠牲も多く出ました。
師団長が独断で撤退を指示した場面もあり。
そして、撤退の途中での出来事。
屋根の下で寝たことは一度もなく、木の下で、どうにか体を冷やさないように、鉄兜に座ったり、わずかなご飯を炊くときに一緒に温めた水筒を湯たんぽにしたりと工夫していたとのこと。
ご飯は、米はわずかしかないので、そのあたりの草をたくさん入れて炊き、1食は炊いたお湯だけを飲んで、2食目で中身を食べる。
自分で歩けなくなった兵士は、戦友の肩を借りることが申し訳なくて、大勢自決。
やっと目的地が見えてきたところで、気が緩んで力尽きる。
実際に、通り道には白骨化した死体、腐りかけの死体、生きてはいるかもしれないけれども動けない者などが転がっており、地獄というのはこういうものだろうかと思った、との証言も。

時間いっぱいまで証言映像を見せる構成でした。
戦闘のことなどは、図解した地図のようなものと併せて映していましたが、それでもわかりにくいところが、個人的にはありました。
飢えているところ、逃亡兵の話など、1つ1つのエピソードとしては、悲惨さが伝わりました。
聞き取りをするのが自分だったら、話についていけただろうか、と思いながら聞いていました。

たくさんの証言が集まったからこそ、こういう動画を見る会ができるようになったわけですが。
聞き取りをたくさんしている時期にも、こうやって主だった戦地についていっしょに見ていく機会があったらよかったのかもなあ、と、動画を見る会の内容と違うことを考えたりもしてしまいました。

こういう感想でなく、参加された方の感想をぜひ伺いたいです。アンケートへのご回答、また感想メールなどお待ちしています。
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5月3日(金・祝)に行われました、「“戦中派”が遺したもの 岡本喜八監督生誕100年 講演会」の保存の会事務局からの報告が、保存の会メーリングリストに流れましたので、転載します。

◆◆◆

皆様へ

いつもどおりご報告が遅くなりましたが、5月3日の講演会「“戦中派”が遺したもの」に
お越しいただいた皆様、ありがとうございました! スタッフの皆様、
飛び入りでお手伝い頂いた(せざるを得なくなった)皆様、お疲れ様でした!!
(以下長文ですみませんが、当日の様子のご報告です)

10代から99歳まで、それこそ“戦中派”や空襲体験者、ご遺族の一方、
20代30代も少なくなく、映画好き、自ら作品を作ってきた人、
また講師の前田さんがお声がけ下さった岡本喜八監督の関係者の方々、
学者やジャーナリストの方々など多様な方々にご参加頂けたのはとても嬉しい事で、
来場者も100名を超え、晴天のGW午後の充実した時間となりました。

会場は旧千駄ヶ谷区民会館を新築して4月1日にオープンしたもので
新しい木のにおいがそこここにあります。
広い木の床のホールに、倉庫をほとんど空っぽにして机と椅子を出して並べる催しは
もしかすると会館初? 会館の方も音響画像設備などに慣れたスタッフが少なく
準備も撤収もそれなりに大変でしたが、ホール前の待合にも木の椅子があるので
開場時間を早めないで済んだのは助かりました。

冒頭に、“戦中派”というのは、「松坂世代」などほかの世代論が周囲(社会)が名付けた
のと違い、当事者自らが名乗ったのが特徴というお話がありました。
かなり詳しいレジュメをご用意頂いていましたが、
1924(大正13)年早生まれの岡本喜八監督の生涯を、喜八自身が発表したものや
今回新発見の日記、生家や会場から徒歩10分ほどの下宿先の今の写真と取材エピソードなど
織り交ぜて紹介。レジュメにはこれらの間に、その時々の戦争の進行が書かれていたのですが、
喜八監督の日記が、見た映画や、美味しい食べものや、周囲の女性や、とても素直で
青年らしく、抽象的なものがない内容なので、逆に昭和18年半ば頃までは
戦争はしっかり進行しているのにその影があまり出て来ないのが印象的でした。

そこが後で映像を紹介した「江分利満氏の優雅な生活」(1963年)の江分利満氏(小林桂樹)
の大演説「しかし白髪の老人は許さんぞ。美しい言葉で若者たちを誘惑した奴は許さんぞ。
神宮球場の若者の半数は死んでしまった。「かっせ、かっせ、ゴォゴォゴォ」なんて
やっているうちに戦争にかり出されてしまった。(中略)みんなが許しても俺は許さないよ。
心の中で許さないよ」と呼応しているように思いました。

また何のためになら死ねるのかを探す喜八に、故郷のふられたことのある少女が
千人針を持って地元の壮行会に現れ、彼女のためになら死ねると思い定める場面は、
そのモデルの少女の実在や喜八の恋心が日記から確認されて、
何とか死ぬ理由を見つけられた喜八のいじらしさが胸に迫りました。
(結局生き残ったというのは後からのことなので。)

これは「肉弾」の映画そのものなのですが、予定より少し長めに見て頂いて
このお話の後だと余計しみじみとしてしまいました。
(そういう話がなくそこだけ短く見ると、前衛的、独立系!な映像ですが)

休憩をはさんで質疑応答の中で、コメントをお願いした戸部良一先生(日本近現代史)が、
前田さんの書籍を見ていると爆撃での死者数(の数名の差)など、なぜそんな
些末なことにこだわるのだろうと思っていたけれど、今日の話を聞いて
それが歴史学者とジャーナリストの違いなのだと思ったというお話がありました。
これは「戦争を伝える」と言った時、何を伝えようと思うのかに関わる
重要な点だと思います。
保存の会の活動は、証言に対してジャーナリズムほどの検証を行うわけでは
ありませんが、体験者がおられなくなっても歴史を解説するための戦争体験ではなく、
個別の戦争と死を埋もれさせない、戦争で誰が死んだかをはっきりさせる
という立場だよなあということを再度考えました。

質疑応答には、こういう催しではよくある、質問ではない元兵士やご遺族の
体験や思いの吐露も溢れましたが、そういうものも含めて
講演や、岡本監督の作品に触発された、そこにあるべきものだと感じました。
この日時間切れで流しそこなった「近頃なぜかチャールストン」(1981年)のシナリオに
「俺の〈戦争とか8/15へのコダワリが〉今の世間にどこまで通用するか」という自筆メモ
があったと言いますが、その答えになるような時間ではなかったでしょうか。
本日5月3日(金・祝)、「“戦中派”が遺したもの 岡本喜八監督生誕100年 講演会」を開催しました。
先日の会議頃の時点で、50席ぐらいでいいかな、などと話していたのですが、2倍のご来場があり、大変盛況でした。その分、見えにくい席などもあったと思われ、そこは申し訳ありません。
講師の前田さんご自身が、取材で出会った方々や出版関係の方などご招待されていて、岡本喜八監督のご家族の方もいらっしゃっていました。
一般のご来場者の方々の中にも、戦場体験者の方やご遺族の方もいらっしゃっていました。

「戦中派」の特徴として、死ぬことを前提として生きていること、自ら「戦中派」と名乗っていることなど挙げられ、岡本喜八監督の映画にもそれが反映されていることについて。
早生まれだったために、徴兵の時期が遅くなったことで自らは戦死することがなかったことから、戦死した人たちの存在する状況について、あえて描くことを避けていたこと。
日記を通して見えてくるもの。
『肉弾』に描かれた「あいつ」と「うさぎ」のシーンのモデルになった出来事と人物。
調査や取材から読み解かれた内容が、戦時の歴史に沿って語られました。
また、岡本監督ゆかりの地の今の状況他、取材での裏話のような内容もあり、ときどき会場内に笑いが起きることもありました。

質疑応答に先立ち、監督ゆかりの方などにコメントをいただきました。
質疑応答の際、戦場体験者の方、ご遺族の方のコメントがあり、戦中派とその周囲の人たちのリアルな声も聴くことができました。

会場からの要請で途中で扉を閉めることになったため、受付周辺にいた私などは、聞けなかったところもあり、十分な報告を書くことができません。
後日また保存の会事務局から、報告が出ると思いますので、そちらをお待ちください。

講師の前田さん、今日のイベントを一緒に作ってくださった皆様、ありがとうございました。
本日4月21日(日)、「戦場体験の証言動画を見る会」(大和特攻~坊ノ岬沖海戦~)を開催しました。
昨年12月~今年3月お休みだったので、久しぶりの開催です。
大和特攻について本を書かれた、毎日新聞の栗原俊雄記者にコメンテーターとして参加いただきました。

どうも、我が家のパソコンがどんどんZOOM・ウェビナーに対応しなくなってきており、冒頭15分参加できなかった上、途中も怪しくて、開催レポートをするのが難しいです。すみません。

沖縄戦の初期、航空作戦と連動して行われた大和特攻。
片道分の燃料で、沖縄に座礁して砲台替わりになるという、無謀な作戦でした。
証言の中では、途中燃料の補給に寄ったが十分ではなかったような内容がありましたが、栗原さんによると、片道分の燃料でという命令があった中、補給地の指揮官ががんばって往復分をかき集めたのだとのこと。
4月7日は雲が厚く、敵機がどこからどう来るのか予測ができず、来たら対処するつもりでいるしかなかったという話。
大和と一緒に一度沈んで、海水を飲んだが、海水を飲んだおかげで窒息せずにすんだというお話。
磯風乗員の方は、矢矧に横付けするよう命じられたことで、磯風も動きがとれなくなり、狙い打たれたと証言。
救出に向かったのが沈められ、最終的に雪風に救助されます。
雪風では、一生懸命引き揚げたけれども、引き揚げられて安心したとたん意識を失う者が多かったとのこと。

「証言動画を見る会」では、同じ作戦の中で、沈む艦にいた方、それを見ていた方、救助された方、救助した方と、いろいろな方向からの証言が組み合わせられています。
そのときの情景や心境も、そこにいたからこそ語れるものです。
「戦場体験史料館・電子版」に、今回のまとめも載るはずですので、そちらをご覧いただければと思います。
昨日4月17日の毎日新聞夕刊に、保存の会が吉川英治文化賞受賞を受賞した件の記事が載ったそうです。

ネット上にもありますが、途中から有料記事になっています。
https://mainichi.jp/articles/20240417/dde/014/040/001000c

記事を書いてくださったのは、いつもお世話になっている栗原俊雄記者です。
実は、今回この賞に保存の会を推薦してくださった方でもあります。

授賞式でも、中田事務局長が挨拶していましたが、改めてインタビュー記事になりました。
受賞にあたっての気持ちとともに、しっかり活動のアピールをしていました。
新聞に載ることで、また新たな体験者の方や、戦争の記憶を残そうとされている方の目に留まって、新しい出会いにつながったらいいと思います。

授賞式には、いろいろなメディアの記者が参加していましたが、他の報道の状況は、今のところ聞いていません。
より多くの方の目に留まってほしいところなので、できればたくさん掲載していただきたいのですが。