あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
TOPフリーエリア
65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
元兵士の連絡所


元兵士から孫世代まで、ご連絡をお待ちしています
※質問、疑問などもお気軽にお問い合わせください
電話 03-3916-2664
※戦場体験史料館開館時間=火・木・土・日・祝日の10時~17時
FAX 03-3916-2676
e-Mail senjyou@notnet.jp
※FAX、Mailは24時間受付
住所 〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
     戦場体験史料館内・元兵士の連絡所

戦場体験史料館までの道順
ゴールデンウイーク中心に展開した沖縄ミニキャラバン2018の様子が、保存の会公式twitterにも流れていましたので、拾ってまとめておきます。
基本的には、同じ方の分は1つの記事にまとめます。
今回は、旅の記録ということで、同じ日の分をひとまとめにしました。

2018.5.2 1:57

おばあたちのグランドゴルフやら畑やら体操の合間を縫って戦争体験を聞いて歩いてるので、小さな集落の中をやたらウロついている。今日は4回もミニパトとすれ違った。観光客してないし、最後はそろそろ職務質問されるかと思ったが何もなかった😌そんなわけで渡嘉敷っぽい写真も撮れないが猫を見かけた
DcLhT__U8AAOLA5.jpg

2018.5.2 4:30

2日間夕食を食べた民宿提携のお店は、第2中隊の中隊長以下将校が最初に宿泊した場所らしい。その後軍の連絡所になった。その隣の空き屋敷に当時は医務室があって、飯上げに来た傷病兵がつまずいて転び、少尉に蹴飛ばされまくった話を思い出しながらアカユー🐟らしき煮付けをいただく。

2018:5.2 4:43

そのお店の目と鼻の先の公民館は、戦中国民学校だった。渡嘉敷部落には米軍に伊江島から移された人々が先に入っていたため、この学校の校庭に多くの天幕が張られ、部落の人たちはしばらくそこで生活したらしい。

2018.5.2 4:57

自決場(じけつばと島民は呼ぶ)に偶々行かなかった人の理由は様々。ある人は、避難壕にヌル(祝女)がいたので彼女がそう判断したのではと思っている。別の人は、幼子が遅れて集団について行ききれず、親が本島出身だったので道が分からなかった。しかし、おとうさん(夫)は、嫁いだ姉は…となる。

2018.5.2 5:46

集団自決後山にこもってから、ある夜兵隊の命令で集落に降りて稲刈り(二期作)をした。翌日親戚の叔母さんは、ある村のおじいが稲を盗んだと避難場の中に立たされ、兵隊に帯革で叩かれて泣かされまくっている(ママ)のを見て恐くてたまらなかった。
スポンサーサイト
ゴールデンウイーク中心に展開した沖縄ミニキャラバン2018の様子が、保存の会公式twitterにも流れていましたので、拾ってまとめておきます。
基本的には、同じ方の分は1つの記事にまとめます。
このミニキャラバンについては、個別に証言一覧にするかどうか悩んでいるところです。足元ではないし・・・と思いつつ、ゴールデンウイークの一連のキャラバンの仲間として入れています。

◆◆◆

2018.5.1 14:53

渡嘉敷の慰霊祭で出会った90歳のおばあの話を聞きました。自決の中生きたこと、男の同級生が歩くところを一緒に歩いて軍の置き去った玄米を家族に確保していたこと、今米🌾も野菜🍅🍆も自給自足で暮らしていること、断る人も多い島の戦争の話をしてくれることが、一貫して繋がっている女性でした🐬
ゴールデンウイーク中心に展開した足元キャラバン(仮)の様子が、保存の会公式twitterにも流れていましたので、拾ってまとめておきます。
基本的には、同じ方の分は1つの記事にまとめます。

◆◆◆

2018.4.30 2:02

幡ヶ谷にお住まいだった85歳の方、5月25日の山の手空襲の時は、代々木大山公園に兵隊が掘ってくれていた横穴式の防空壕に逃げて難を逃れたそうです。数日後焼くのが間に合わないないご遺体がトラックで運ばれてきて、公園に仮埋葬されるのを目撃。都内の多くの公園であった光景です。

2018.4.30 2:07

配給券があっても物はないので、みな生鮮食料品店の店主の顔色を伺ったとか。すごく威張っている🐟屋さんがいたそうです😱。戦後自由経済が戻ってくると、戦中親切だった店は繁盛したけれど、評判の悪かった店にはみんな行かなくなったと😅
ゴールデンウイーク中心に展開した足元キャラバン(仮)の様子が、保存の会公式twitterにも流れていましたので、拾ってまとめておきます。
実際のところ、twitterは、すぐに流れていくのを基本に書いているものかもしれませんが。
後でタイムラインをたどるというのが(私が)苦手なので、同じ証言に関する分はブログでひとまとめにしておこうと思います。

◆◆◆

2018.4.29 7:41

Db9TLKYV0AAv1_B.jpg
連休初日は東京大空襲を経験した97歳のおばあさまのお話を聞きました。空襲翌日人を探して日本堤から砂町まで歩いたら、亀戸駅までのご遺体は衣服ごと黒焦げになっているのに、駅を過ぎると燃えずに白い身体のままで、でも服は全く着けていなかったのだそうです。火災旋風⁉︎写真はおばあさまの手作り
足元キャラバン(仮)の一環にくわえましたが、本日、東京大空襲でご両親を亡くされた星野光世さんのお話を伺いました。
星野さんは、11人で構成されていた戦災孤児の会(昨年解散)のお一人で、絵本『もしも魔法が使えたら』を出版されています。
もともとは本当に自費出版の絵本だったものが、講談社から書籍として出版されたばかり。すべてのページにフルカラーの絵が入っている労作です。

星野さんは、東京大空襲当時、ご両親と兄、妹、弟、さらに疎開中に生まれて一度も会わなかった妹というご家族でした。
ご自身は前の年から学童疎開で千葉県の君津に行っておられ、お母さんと下の兄弟も千葉県内の親戚の家に疎開中でした。
が、お父さんが病気で入院されるということで、お母さんが一番下の妹を背負って東京に出られたそのときに、東京大空襲があり、ご両親とお兄さん、妹さんを亡くされました。
大空襲の翌日には、東京湾を越えて、大空襲の燃えカスが君津まで飛んできたそうです。
それから、疎開先に親や親せきが迎えに来て帰る子供たちが出始めました。
両親が亡くなって親戚に引き取られていく友達もいたので、親戚が迎えに来て「お父さんもお母さんも死んでしまったよ」と告げられた時、悲しいというより「自分の番が来たか」という思いだったとのことです。
それから、2ヶ月千葉の母方の親戚のところにいてから、弟・妹と3人、新潟の父方の親戚に預けられます。そちらは貧しい農家で、いつも怒られていたそうです。
そういう中、隣の村のおじさんが、一晩泊りに来なさいと迎えに来て、山を越えてついた先でごちそうを出されます。そして、「今日からここの子になるんだ」と告げられ、騙された、と感じます。
それで危険を感じて、再び山を越えて、もとの親戚の家に帰り着くと、いつも怒っているおばあさんが驚いて「なんだお前たち」と言いながらも、白いご飯を食べさせてくれて、自分たちに背中を向けて泣いていて。
後で孤児の会の仲間に話を聞いて、どうも自分たちは売られそうになったのらしいと知ったとのことです。
それから弟をその家に残し、星野さんと妹さんは千葉の親戚の家にまた引き取られます。そこで10年働いて東京に出て、自分たちの人生を始められたとのことです。

直接空襲に遭われた体験ではありませんが、戦災孤児の厳しい状況がうかがえるお話でした。
疎開先に親が迎えに来る子供を見て「とても幸せなことだなあ」と思ったとのことで、その思いが、本のタイトル『もしも魔法が使えたら』につながっているようです。