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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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昨日も少し書きましたが、74年前の今日、1945年6月19日に、牛島中将が、最後の玉砕命令を出しました。
wikipediaに、以下の文面が出ています。

「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」

長野参謀がこの文面を作成し、「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」 という有名な部分は長参謀長により付け加えられたもの、という記述になっています。
いずれにしろ、この命令を出し、さらに指揮官である牛島中将が自決したことで、沖縄戦を終わらせることができなくなります。6月23日の慰霊の日で、組織的戦闘終結とされていますが、その後も終戦さえ知らず、さまよい、戦い続けた人たちが少なからずいました。
命令の伝達がどの程度できていたのかはわかりませんが、実際に「デテコイ」の声に従わなかったために攻撃を受けて死亡する状況が相次ぎます。非戦闘員も巻き添えになりました。
これと時期を同じくして沖縄陸軍病院や野戦病院の多くが解散し、動ける負傷兵たちも斬り込みに出ていきました。
学徒隊は、行くところがなく南部をさまよううちに砲弾に当たったり、やはり壕に潜んで攻撃を受けたりして、多くの犠牲を出しました。

特に32軍の南部撤退後、住民が巻き込まれる状況が加速したこともあり、沖縄戦というと、この末期の悲劇が連想されることが多いようです。
軍のぶつかり合いであった、5月までの2か月間の戦闘、中部戦線などは、本土の一般の人にはなじみが薄いところがあると思います。
軍事に関心のある方の場合は、前半の戦いをだいぶ詳細に研究しているもののようで、一言で沖縄戦といっても、認識に隔たりがあるといえそうです。
ただ、沖縄戦初期に水際作戦を捨てて持久戦略をとったことも、首里陥落を前にして南部撤退を決めたことも、この最後の命令も、本土決戦の時間稼ぎであったというのは確かなのでしょう。
その中で、兵士も民間人も最後まで必死に戦っていたのは間違いないのだけれど、そこに、現在まで続く沖縄と本土の溝の根源があるのだと思います。
うまく説明できませんが。
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本日、山の手空襲から74年です。
1945(昭和20)5月25日夜間、B29 502機が東京の山の手地域に来襲し、うち470機が無差別に焼夷弾を投弾する絨毯爆撃を行いました。投下された焼夷弾は3月10日の東京大空襲の倍近い3258トン。「東京空襲の総仕上げ」とも言われるこの空襲での死者は3651人。東京大空襲よりだいぶ犠牲者が少なくなったのは、疎開が進んだためと、空襲時の行動指針が避難優先に変わったためだったようです。
赤坂・青山・中野などが標的になり、特に表参道には死体の山ができる状況となりました。
皇居も半蔵門に被弾し、延焼により建物の半分以上が焼けました。これは、誤爆だったということです。
首相官邸もこのとき焼失。
食糧不足にあえぐ大戦末期、国会議事堂周辺にも畑がつくられていたという話を見かけたことがありますが、空襲でこのあたりの建物が焼けていたため、それが可能だったのでしょうか。

日本のほうも、空襲に対して迎撃態勢を整えて臨み、この空襲の際、B29が26機、撃墜または行方不明となりました。
その損害を問題視し、空襲の際のB29の護衛が強化されたということです。

5月のこの時期には、名古屋などでも大規模な空襲が行われています。
4月1日以降、B29の攻撃が、特攻機の出撃基地であった九州に集中していたため、都市への爆撃は一時中断されていました。
その間に、米軍の配備も変わり、改めて都市空襲を行うに十分な態勢が整えられていたようです。
5月27日には、沖縄の第32軍が首里から南部への撤退を決めることになり、沖縄の日本軍は、戦闘も場当たり的に行わざるをえなくなっていきます。
本土決戦の準備のための防波堤と位置づけられる沖縄戦が、避難民を巻き込んでの南部の戦いに進んだ時期でもありますが、本土への攻撃自体を食い止めることにはなりませんでした。
少し前に、保存の会公式twitterのリツイートで、長崎の民家から三・一運動の独立宣言書が発見されたニュースが目に入っていました。
そういえば、今年はその三・一運動から100年なのだなと気づきました。
ちょっとした個人的事情により、中学時代、駆け足で進められた歴史の近代の部分で、この運動の年月日は頭に残っていました。

大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)が急死し、その葬儀が1919年3月3日に行われることになっていたのが直接のきっかけであるようです。
この日に向けた3月1日に、宗教家たちが中心になって、公の場で独立宣言を読むことを計画、実行。
独立宣言は、朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものですが、日本から独立した先に、日本と対等な友好関係を結ぶことを望む、平和的なものであったようです。
この独立宣言から始まった運動は、市の立つ日に合わせたデモなどで展開し、都市部から農村にまで広がっていきます。
しかし、やがて暴徒化して破壊行為が行われる場合も多くなり、それと前後して日本による武力鎮圧も行われました。
多数の検挙者を出しながら終息していきますが、この運動の結果、日本の朝鮮統治が武力によるものから文化統治へとだいぶ変化し、ある程度の成果を残したとされるようです。
今も朝鮮では祭日になっているようです。

日本で5.15事件や2.26事件などが、大戦とのつながりの中でとらえられるように、朝鮮にも大戦に向かう歴史と切り離せない出来事があるわけです。
正直、歴史の授業で記憶に残っていたのは独立宣言の出された年月日だけでしたが、日本の中学校の教科書の中で扱われているということは、確かにそれなりに影響力のあった出来事だったということであり、大戦とのかかわりの中でとらえられていたということなのだろうと思います。
明後日、択捉島の体験を伺うので、真珠湾攻撃ごろの択捉島について確認しておこうかと思いました。

wikipediaによると、1941年11月20日に、突如情報統制が始まったとあります。真珠湾攻撃当日の12月8日まで。
「海軍により突如、あらゆる船の島への入出港が禁じられ、また島唯一の紗那郵便局は通信業務を停止させられて電信機には常時、水兵の見張りがついた。」
そして単冠湾に南雲忠一中将率いる航空母艦6隻を含む軍艦30隻の機動部隊が秘密裏に集結、真珠湾攻撃のため11月26日にハワイへ向け出港。
このあたりについては、真珠湾攻撃に参加されたパイロットの故城武夫さんからお話を伺いました。
明後日のお話で、このときの択捉島の住民側から見た状況を伺えればよいと思います。

真珠湾攻撃の奇襲が成功したのが、この結集が米国に気づかれなかったからだとしたら、情報統制は功を奏したことになるのでしょうか。
ソ連も近いわけですが、全く気付かれないものなのでしょうか。
海戦を見ていくと、本当にお互いに気づかないものであるようで、現代の目から見ると不思議な気がします。

華々しい勝ち戦のスタートを切った場所ですが、戦争が終わりに近づくにつれて、兵力は本土決戦要員に引き抜かれていきます。
日本の降伏調印がなされる日、ソ連が侵攻してきて、そのまま実効支配が続くことになり、その問題はいまだに解決されずにいるのです。
今日11月11日は、「世界平和記念日」となっています。
ヨーロッパでは休日になっている国もあるようです。今年は土曜日なので、たまたま休みのところも多いと思われますが。

これは、第1次世界大戦の停戦記念日にちなんで設定された記念日であるようです。
1918年11月11日、パリ郊外コンピエーニュの森に停車中の食堂車2419Dの車内で、マティアス・エルツベルガーを代表とするドイツ軍代表団が連合軍との休戦協定に調印、ドイツの敗戦により大戦が終結するわけです。
「世界大戦」と呼ばれるだけあって、ヨーロッパのみならず世界中を巻き込んで戦われ、かつてない規模の被害を生んだ戦い。犠牲者もこれまでとはけた違いでした。
その悲劇を繰り返さないために、ということで、国際連盟の発足が提案されることにもなりました。
日本も、このときは戦勝国の一つであり、やがて国際連盟の常任理事国ともなりました。

しかし、日本ではこの日はあまり注目されていないと思います。かく言う私も最近(2ヶ月ぐらい前?)に知りました。それから、今日はそのことについて書こうと思っていました。
というか、第1次大戦自体があまり日本では意識されていない気がします。
第1次大戦の始まった日は1914年7月28日。オーストリアからセルビアへの宣戦布告が大戦の始まりにあたります。
1914年は中学校の歴史の授業前後から知っていましたが、日付は先ほど確認して知りました。
これについては、8月15日や原爆投下の日ほど知っているべき日という空気もない気がします。

それは、世界大戦といっても、第1次大戦はヨーロッパの戦いであり、日本は同盟国だった英国との関係で参戦したものだったため、本土には被害が出なかったというのが大きいと思います。
むしろ、第1次大戦中は、直接戦禍に見舞われない位置だっただけに、同盟国に軍需品の補給をすることで景気がよくなっていました。さらに、戦勝国として得たものもありました。
米国も同様でした。
戦闘による死傷者は出ていますので、被害がなかったとはいえません。
それでも、日本国民が戦争の悲劇を実感することにはならず。それは幸いなことではありました。

しかし、第1次大戦中の日本の行動が、やがて世界から孤立するきっかけともなっているわけで。
歴史としては、第2次大戦とのつながりをもう少し意識するべきなのかもしれません。