あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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保存の会公式twitterにもニュースが紹介されていますが、戦後海没処理された旧日本海軍の潜水艦24隻が、ソナーによる調査で確認されたということです。
その中で、船体の半分ぐらいとみられる部分が見つかった艦は、「伊58潜水艦」ではないかとみられているそうです。

「伊58潜水艦」は、テニアンに原爆の材料を下して戻る途中の米軍の重巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈したことで有名です。(世間一般的に有名とまでいうレベルではないと思いますが。)
2015年に日比谷証言集会までのカウントダウンをしていたとき、当ブログでもこの撃沈のことは書きました。
原爆投下した米軍に対して一矢報いた、というとらえ方もあるようです。インディアナポリスの撃沈は太平洋戦争の中で米軍の艦では最大級の悲劇とされているようで、艦長が軍法会議にかけられ有罪となりました。この艦長は、遺族に責められ、自殺するのですが、彼の名誉回復のために、沈めた側の「伊58潜水艦」の艦長だった橋本中佐(当時は少佐)が尽力していたということです。
敵味方は、戦中と戦後でだいぶ変わるものなのですね。
wikipediaによると、

マクベイ3世艦長の名誉回復に先立って、1995年8月2日にはインディアナポリス市内にインディアナポリス・ナショナル・メモリアルが建立された。石灰岩と花崗岩で出来たメモリアルは、沈没で落命した乗組員の名前が全て刻み込まれている。また、インディアナポリスに関する資料はインディアナ州博物館(英語版)に納められ、艦鐘と公式ペナントはヘスラー海軍倉庫(英語版)で保管されている。

2007年7月7日には、インディアナ大戦記念プラザ(英語版)内にインディアナポリス博物館がオープンした。

ということで、「インディアナポリス」関連は展示として存在しているようです。

話を今日のニュースのほうに戻すと、確認された24隻の潜水艦について、将来的には船体や部品を引き揚げて、記念館を設立することも検討されているとのこと。
沈めたほうの「伊58潜水艦」関連の展示も、今後現実のものとなるのでしょうか。

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○伊58潜水艦、重巡インディアナポリスを撃沈
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選挙に翻弄される昨今の6月23日沖縄慰霊の日の話をしたところですが。

70年前を振り返ると、この日は新憲法下での第1回目の国会の開会式の日でした。1947年6月23日。
昭和天皇の開会の勅語は、初めて、「朕」ではなく、「わたくし」という一人称で述べられたということです。

ちなみに、この第1回国会(特別会)は、1947年5月20日、70年前の明日召集です。(同年12月9日閉会)
この第1回国会の召集とともに、第1次吉田茂内閣は総辞職。5月24日に片山哲内閣が成立します。6月1日に組閣完了しますが、召集から開会式までけっこう時間がかかっている印象です。
そして、基本的に通常国会が1月中に召集されることを考えると、次の国会が開かれるけっこうぎりぎりまでこの特別会が続いたことになります。
通常国会は1月中に召集され、会期が150日。近年、延長がかかることがほとんどになっています。なので、6月23日ごろというのは、国会の終盤の余波があるものだったりします。

今年選挙がかぶったのは都議会議員選挙で、国政ではありませんが。
まあ、毎年この時期のイベントはいろいろと政治のあおりを食うものなのです。
沖縄戦の組織的戦闘終結がこの時期になったのは、本土決戦までの時間稼ぎをめいっぱいやった結果ですが、戦後こういう時期になるというのは、戦闘中はとても考えつかなかったでしょうね。

6月23日、今年は保存の会は「沖縄の戦争展」初日です。
そのころは、もちろんイベントのことを書かねばならないので、今のうちに「大戦とその前後」1947年6月23日周辺をやってみました。
ちなみに、ここでよく参考にしているサイト、国立国会図書館の電子展示会「日本国憲法の誕生」の年表の最後が、この1947年6月23日第1回国会開会式です。
75年前の今日、1942年5月5日、大本営から連合艦隊にミッドウェーとアリューシャンの攻略実施が発令されました。大海令第18号です。
連合艦隊は、第2段作戦計画命令を下達し、ミッドウェー・アッツ・キスカ攻略期日を6月7日と決定したということです。

実際には、それから1ヶ月後、6月5日にミッドウェー海戦が始まり、6月7日までの間に大敗を喫することになります。
一方、そのサブの作戦であったアッツ島・キスカ島の攻略は一応成功しました。攻略成功したものの、ミッドウェー海戦で多くの空母・戦闘機を失ったことで、長期保持はいきなり難しくなります。それから1週間ぐらいの間に、アッツ・キスカを長期確保するための方策が検討されることになるのですが。
約1年後1943年5月12日にアッツ島の戦いが始まり、月末には、「玉砕」の言葉とともに、初めて日本軍の敗北が発表されることになります。
それにより取り残されたキスカ島では、撤退作戦が行われ、こちらは成功。島にいた日本軍は密かに撤退を完了し、奇跡の作戦、と呼ばれます。

戦局の変わり目まであと1ヶ月。
このときは、勝ち戦の中。第4師団がコレヒドール島に上陸したのも、同じく1947年6月5日です。

短い勝ち戦の時期ですが。それだけに、2~3日で攻略したアリューシャンの島々を、ミッドウェー海戦での敗北の後1年前後保持し、玉砕まで17日間戦ったというのは、実はすごいことだったのかもしれません。
相手側の撤退が、余力を残してのものだったとしても。
70年前の明日、1947年5月3日、日本国憲法が施行。
それにより、大日本帝国憲法は完全に改正され、日本国憲法がこの国の憲法となり。
大日本帝国憲法の下使われていた「大日本帝国」というこの国の呼称は、正式に終わりを迎えた。

・・・・・・ことになるのでしょうか。法律的には。
70年前の今日が大日本帝国の最終日なのかと思って本やらネットやら見てみたのですが、なんとなくもやっとした表現になっているものばかりです。
大辞林 第三版の解説によると、「旧憲法下における日本の国号。」であるということなので、旧憲法下でなくなったときがこの国号の終わり、ということだという解釈になりそうです。
1889年2月11日発布、1890年11月29日施行の大日本帝国憲法。
大日本帝国憲法の下の国家は、約56年半。ほとんど大きな改正をされることなくきた期間としてはけっこう長いほうでしょうか。
この大日本帝国憲法第73条の改正要件に基づいて、憲法改正という形で日本国憲法が公布、施行されたので、旧憲法といっても、一応連続性があることになり、それがもやっとしている要因なのでしょう。
「日本」と書いて「にほん」と読んだり「にっぽん」と読んだりが普通で、普段あんまりじっくり考えることもないのですが。

日本国憲法公布に至る、草案を練り上げていく過程での激動に比べると、その後の半年は比較的落ち着いて「準備」する期間だっただろうと思いますが。
日本国憲法施行前夜というのはどういうものだったのだろう?と考えたところから、「大日本帝国の終わり?」というのに及んで、よくわからないことになりました。
連続性のある憲法でも、「改正」の仕方でずいぶんと違うものになるのだというのは確かで、70年前の今日から明日にかけてはその正式な転換点だったわけで。
このあたりの感覚は、当時学校に通っていた世代の人たちにとって、けっこうな大きな変化だったのではないかと思います。
そういう世代も、もう後期高齢者。
証言を記録できる期間を考えると焦りますが。平均寿命が延びたのも、日本国憲法になったおかげという部分はあるのかなとも思います。
だとすると、70年前の今日終わったのは、短命の時代、かもしれません。
大戦とその前後、選挙関連の話題が最近続けて出ています。
日本国憲法施行前という時期的に、70年前、衆参両選挙が行われたのはさもありなんというところですが、今日は75年前の選挙の話となります。
太平洋戦争開戦から半年以内。勝ち戦のころ、衆議院議員の任期満了を迎えていました。
本当は1年前に満了だったのですが、第2次近衛内閣によって1年延長の措置が取られていたのです。その1年の間に、当の近衛文麿が東條英機陸相との対立の中で自ら首相を降り、東條が首相になっていたのですが。選挙は行われていませんでした。
そして、米英との戦争の最中に、改選の時を迎えることになったのでした。
1942年4月30日、75年前の今日のことです。

任期再延長という話もあったのですが、この選挙で、これまでの政党政治の形を大きく変え、大政翼賛会などの推薦する候補者で議会を占める機会ととらえる考えの方が多数だったため、選挙を行うことになりました。
推薦を受けた候補者は選挙のための資金を受け、推薦されなかった候補者は妨害を受けるというような、公正さを欠く選挙となり、「翼賛選挙」と呼ばれています。
結果はもちろん、推薦された候補者が80%余りを占めることになりました。
が、それだけやっても20%は推薦されなかった候補者が当選したというところにも注目すべきなのかもしれません。
ちなみに、このとき推薦を受けずに当選した中には、鳩山一郎、安倍寛(安倍晋三現首相の父方の祖父)がいます。安倍首相の母方の祖父である岸信介は推薦されての当選でした。

もともとあった政党の関係者を一掃するには至らなかったものの、当時の内閣や軍にとって都合のよい議会の形は出来上がったことになります。
これから1ヶ月ちょっと後、戦局が負け戦に転じても、政治の現場は、冷静に顧みる力も、戦争を止める力も持たなくなったということです。
なお、このとき当選した議員の中から、戦死者、空襲による死者、広島原爆による死者が出ています。戦争を続けた結果、自分たちの中からも、戦争の犠牲者が出たのでした。