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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
1941年12月8日、太平洋戦争は真珠湾攻撃、マレー半島コタバル上陸などで始まりました。同じ12月8日、フィリピンに対しても上陸作戦が展開されていました。
12月8日、ミンダナオ島ダバオ近辺の航空攻撃、ルソン島付近の離島バタン島への上陸作戦が成功。
ダバオのほうは20日に上陸作戦を行い、占領を果たします。
ルソン島のほうは、10日に北端のアパリとビガン、12日に南端のレガスピーに第14軍の一部が上陸。
22日、第14軍の主力がリンガエン湾に上陸。
24日、第16軍がラモン湾に上陸。

リンガエン湾上陸は苦戦するものの、ビガンに上陸した部隊が援護に駆け付け、米比軍を退けることに成功。
22日、マッカーサー司令官はマニラを放棄し、マニラの対岸にあたるバターン半島とコレヒドール島から応戦することを決定、マーシャル参謀総長の許可を得て、翌23日には移動を開始します。
日本軍は南北からマニラへ進撃。
12月26日には、マニラ市が無防備都市宣言を出したため、日本軍のフィリピン作戦はほぼ完了。
翌1942年1月2日、マニラ陥落。
開戦から1ヶ月足らずで、フィリピン作戦は一応の成功を収めたことになります。
その後も日本軍の進撃は続き、3月12日にはマッカーサーがオーストラリアに脱出、3月20日、有名な「I shall return」のスピーチが行われます。
しかし・・・

「リンガエン湾に上陸」は、2015年、当ブログで、日比谷証言集会に向けてのカウントダウンと併せて終戦の日までをカウントダウンする企画をしたきっかけになった言葉です。
そちらは、1945年1月9日「米軍、ルソン島リンガエン湾上陸 70周年」でした。
同じ「リンガエン湾上陸」ですが、日本にフィリピンを攻略された米軍の反撃作戦、帰ってきたマッカーサーです。
日本軍が上陸してからだいたい3年後、米軍が上陸してきたということなのかと、日付を眺めて思ったので、本日取り上げてみた次第です。
実際のカウントダウンは、リンガエン湾上陸までのカウントダウンとなった砲撃開始の1月6日からスタートしましたので、日本がマニラを陥落させた1月2日と並べると、だいぶ日付も近くなります。

後の世から見れば、という世界ですが、米軍のリンガエン湾上陸へのカウントダウンは、だいたいその3年前、日本が同じ上陸作戦を行ったところから始まっていたともいえそうです。
もちろん、当時そこにいた方々は、そんなことは知る由もなく、全力で戦っていたのです。おそらくはそれが日本を守る道だと信じて、命がけで。そのことは忘れてはならないと思いますし、後の世の目で軽く扱うことはできないと思います。
同時に、このギャップが、戦争の姿なのだろうかとも、ふと感じました。
証言映像を使った企画で表現しようとしているのは、そういうところなのかもしれないと。
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1945年12月1日の御前会議で、太平洋戦争(当時で言うなら大東亜戦争)開戦が最終決定され。
翌12月2日、大本営より機動部隊へ「「新高山登レ一二〇八」という電文が発信されました。
Xデーを12月8日に定める、という意味の隠語です。
これをさらに暗号にして発信されたということです。

少年飛行兵・通信の体験者である瀬戸山定さんは、イベントで手製の通信機によるデモンストレーションをされますが、この「ニイタカヤマノボレ」は定番です。
デモでは、わかりやすいようそのまま打電されますが、実際は暗号が追加された形なのですね。
なお、同じ12月8日にコタバル上陸作戦を行うことになった陸軍のほうは、「日の出は山形」という電文でした。
少年飛行兵は陸軍なので、瀬戸山さんのデモは、実はけっこうねじれている?ことになるのでしょうか。

閑話休題。
そういうわけで、80年前の今日、いよいよ機動部隊は12月8日の開戦に向けて決意を新たにしたのでしょう。

電文については、真珠湾攻撃の本番での「トラトラトラ」にまつわるエピソードなどあります。
また、真珠湾攻撃で墜落した機のパイロットが暗号書を奪われた事件もあり、宣戦布告の遅れ以外にも、最初から波乱含みな開戦となったのでした。
今日は天皇家のご長女敬宮様の20歳のお誕生日で、お祝いのニュースがよく目に入ります。
この日に先立って、宮内庁が敬宮さまのこの1年を振り返る文章が出ていましたが、東日本大震災から10年やオリンピックと併せて、沖縄慰霊の日、広島・長崎の原爆の日、終戦の日の様子が伝えられていました。
皇室の周囲でも、特別に触れるべき日だという認識になっているのでしょう。
それをよいことだと思いながら、80年前のこの日を振り返るのは、水を差したいわけではありません。
偶然の一致で、重みが増してしまっているなあと、勝手に感じたものです。

wikipediaをもとに、その日について書いてみます。

80年前、1941年12月1日、第8回御前会議で、東條内閣は12月8日の開戦を最終決定。

同年11月26日、「ハル・ノート」を最後通牒として受け止め、日本政府としては開戦が決断されており、それが12月1日、昭和天皇の御前で確定したわけです。
米国側は、その後も交渉の意思を見せていたようです。
日本の側では、11月26日には、真珠湾に向けて機動部隊が単冠湾を出発していました。
飛龍の艦上攻撃機搭乗員だった方から、真珠湾へ向かう艦内では、大きな地図と船の模型を使って模擬戦闘が行われていたという証言を伺ったことがあります。交渉が成立すれば引き返すことになっていた、ともおっしゃっていました。

12月1日の御前会議では、対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことも決定されたようです。
しかし、12月8日当日の手違いにより、宣戦布告が真珠湾攻撃より遅れ、その後ずっと尾を引くことになります。

80年前、太平洋戦争開戦が正式決定された日。
20年前の同じ日に生を受けられた方が、大戦中の大きな悲劇に祈りを捧げられていたということだなと、より感慨深くなりました。(勝手に)

同じく12月生まれの平成天皇がまだ幼い皇太子の頃、この年の誕生日は開戦後最初のその日ということで、また特別な意味づけをしてお祝いが行われたらしいことも思い出しました。
当時の新聞の切り抜きを、展示イベントではよく使っていました。(過去形にしたくはないですが。)

ともあれ、今後迎えられるこの日が全て平和な世の中の一日であることを願います。
太平洋戦争開戦から80年目の12月8日が近づいています。
先月のWEB茶話会に向けて瑞鶴のことを調べたので、80年前の今頃、真珠湾攻撃のために艦隊が動いていたのをいつもより意識しています。
80年前の今日、1941年11月22日には、択捉島の単冠湾に日本海軍空母機動部隊が集結していました。
各艦は、そこに向かうのだということを悟られないよう、カモフラージュ行動をしつつ集まったということです。
この時点では、参加する乗員たちのほとんどは、何か大きな作戦が始まるらしいと思いながらも、それが何なのかは告げられていませんでした。
米軍太平洋艦隊を攻撃することが告げられるのは、単冠湾を出発する26日です。

出発してからも、政治の側では米国との交渉が続けられており、交渉が成立した場合は引き返すことになっていたのだという証言を聞いたことがあります。
22日はそれより前なので、指揮官たちは開戦回避の望みをいくばくか持ちつつも、戦闘の準備を整えているという状況でしょう。いくばくか・・・おそらくその可能性は低いとわかっていただろうと思います。

開戦するか、資源を止められたままじり貧になるか。交渉が決裂した場合の選択肢はその2つ。
戦うなら短期決戦、と、山本五十六司令官はじめ、米国の強大さを知る海軍の上層部はギリギリの判断をしていたようです。
中国との戦闘が泥沼化していた陸軍とは、だいぶ感覚が違っています。

80年前は、いよいよ開戦に向けてのカウントダウンが静かにしかし本格的に始まったような日だったのでしょう。
昨日・今日と聖火リレーは沖縄で開催されています。
コロナの影響で、本島のリレーは公道での開催を避けて無観客で行う形だったようです。

1964年東京オリンピックの聖火リレーは、沖縄から始まりました。
米国施政権下にあっても、東京オリンピックの感動を日本人として分かち合いたい、聖火リレーだけでも沖縄を含めて行ってほしい、という県民の声を受け、実現したということです。
聖火リレーというと、開催国内を走ることのイメージがありますが、本来は、オリンピック発祥の地から開催地まで聖火を送り届けるものです。オリンピアから日本に届くまでの「海外リレー」と、聖火が日本に届いてから日本国内を走る「国内リレー」とがあります。
1964年の沖縄は、国際的にみると、国内リレーのスタートの地というよりも、海外リレーの最終開催地という扱いだったとのことです。
米国施政権下のため聖火が最初に日本に到着する場所は沖縄だったという事情があるようですが、海外リレーと国内リレーをつなぐところとなりました。

10月10日の大会スタートに向け、聖火の到着予定は9月6日でした。
が、台風のため、1日遅れて9月7日に、那覇に聖火が到着しました。
9月7日というのは、沖縄にとって特別な日付です。
1945年9月7日、沖縄の離島や奄美大島でいまだ戦闘状態にあった沖縄守備軍が降伏調印をしました。
沖縄戦が正式に終結した日はこの日とされています。
9月2日のミズーリ号での日本の降伏調印に遅れること5日。6月23日(22日)に司令官が自決しても、9月7日まで、沖縄守備軍は戦闘状態だったのでした。
台風のために、聖火の到着がこの9月7日になったのは、なんだか運命的に見えます。
翌9月8日~11日、本島をぐるりと回る聖火リレーが行われました。

現在行われている聖火リレーでは、昨日は石垣島、今日は座間味など、離島もコースに入っています。
ちなみに、2020年のオリンピックの東京開催が決定したのは、2013年9月7日でした。
確認してみて、偶然、ですよね?と、疑問符をつけたくなりました。
招致決定からまだ1年経たない2014年7月~2015年1月に、沖縄県公文書館で「1964年 沖縄をかけぬけた聖火リレー」という企画展示会が行われており、今日の話はそちらを参考にしています。

沖縄県公文書館展示会「1964年 沖縄をかけぬけた聖火リレー」
https://www.archives.pref.okinawa.jp/event_information/past_exhibitions/929