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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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75年前の昨日、1944年8月3日、サイパン島につづき、テニアン島も米軍の手に落ちました。
7月24日から8月2日にかけてテニアン島の地上戦が展開され、後退中に司令部の将官は相次いで戦死、自決、8月3日の夜明けには戦闘終了、とあります。
7月9日にサイパン島が陥落して、半月してテニアン上陸というのは、改めて見たとき、意外に感じました。
不勉強と言ってしまえばそれまでなのですが、テニアンの戦いの体験者の方のお話を伺っていて、なんとなくサイパン陥落後すぐにテニアンの戦い、というイメージだったのです。
サイパン島とテニアン島の間は狭く、対岸から大砲が飛んできていた話を聞いたような気がします。それで、サイパンの戦いの最中からテニアンへの砲撃が行われていたイメージでした。

上陸にあたり、米軍は陽動作戦をとって、南西部のテニアン港方面から上陸しようとして日本軍に撃退されたと見せかけ、手薄となった北西部のチューロ海岸から上陸。サイパン島から見ると、回り込んだ形になります。
24日夜に日本軍が反撃を試みたときには、米軍は激しい弾幕と照明弾により応戦、この戦いだけで日本軍の犠牲は2500人にもなり、戦車などはほとんど失われたということです。
日本軍は、民間人の中から16歳から45歳までの男子約3,500名を集め、民間義勇隊6個中隊を編制して戦力の不足を補いますが、30日にはテニアン市街も占領されます。
31日からはカロリナス高地を拠点とした戦いとなります。
主な戦場となった1つ、マルポ水源地は島唯一の水源である井戸で、ここが陥落したことで長期戦が困難となり、グアム島の第31軍に向けて最後の報告を打電。
8月1日も繰り返し反撃を続けるも失敗、8月2日、民間義勇隊を含む約1000名が最後の突撃をかけます。

この戦いには民間人も多く巻き込まれ、集団自決が相次ぎました。
テニアンの守備隊は、民間人が軍と共に自決する行為を戒めたという話もあるようですが、実際には民間人死者のほとんどが集団自決で亡くなっているということです。
実際に証言を伺うと、周りの人たちが次々と自決を試みる中、自分の家はお父さんが「すぐに死ぬのはよそう」と言って・・・といった内容が出てきます。
民間人に配慮したとはいっても、男性を根こそぎ召集していることから、戦闘協力による犠牲とともに、残された家族が追い詰められることになったのも確かでしょう。
南端のカロリナス高地には、サイパン島のマッピ岬と同様、スーサイドクリフと呼ばれる場所があります。

一方、組織的戦闘終了後も生き延びて潜伏していた兵士もいました。
神社が情報交換の場所になっていて、各地に潜伏している兵士たちが夜になるとそこに集まったという話を聞いたことがあります。
私が初めて単独で行った聞き取りだったのですが、ビデオのセッティング中に出ていた被弾して怪我をする話が、ビデオを回し始めてからは撮れていません。何度かその場面にたどり着こうとするたびにテープが終わって中断し、また話がずれて、というのを繰り返すという、今のハードディスクタイプのカメラならないはずの困った状況に陥ったのでした。
帰省のついでの長崎での取材で、帰りの時間が決まっていたため、撮り直しもできず。それから3年ほどして、その方は亡くなったため、重要部分を欠いたままの記録映像となっています。

テニアン島陥落後、ここはB29の発進基地となります。
本土への空襲が本格化することにつながり、そして、1年後、ここから飛び立ったB29により、広島・長崎に原爆が投下されます。
お話を伺ったのが爆心地に近い場所でした。
ご本人は鹿児島出身の方だったので、ご家族が被爆されるということはなかったのですが、原爆が飛び立った地で戦い、落とされた地で戦後を生きるという、ご縁と言っていいのかわかりませんが、思えば運命的な体験をされた方でした。
テニアン島陥落から75年目の今年、鹿児島で茶話会をすることになったのも、ご縁であるかもしれません。しかし、テニアン島の慰霊などに積極的に参加されていた方だったので、お元気であったならば、鹿児島に行っていただけたかもしれないと思うと、それは残念です。

なお、先日お知らせしました外部イベント「Memories of War 〜生の声で聴く6テーマの戦争体験〜」には、当時子供でテニアンの戦いを経験された方が、話し手として参加されます。
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1944年7月9日、サイパン島攻略軍最高指揮官リッチモンド・ターナー海軍中将がサイパン占領を宣言。6月15日から続いたサイパン島の戦いがひとまず終わりました。
このとき、最北部のマッピ岬に追い詰められた、約1万人ともいわれる民間人が崖から飛び降りました。それから、このマッピ岬はバンザイクリフ、スーサイドクリフなどと呼ばれるようになります。
その2日前の7月7日には、生き残っていた兵士や一部民間人が最後の突撃を行っていました。いわゆる万歳突撃です。武器もほとんどなく、竹槍や石などを持っての突撃も、ほとんど自殺といえるようなものでしたが、この突撃によって大きな被害を出した米軍の大隊もあったようです。
続いてテニアン島が陥落すると、ここを拠点にし、いよいよ日本本土への空襲が現実のものとなっていくのです。

自決に至らなかった人々も、もちろん、戦闘に巻き込まれて命を落としています。
自身は助かっても、両親を失ったために、その後の人生を通して苦難を味わうことになった子供たちも多数出ました。
また、南洋諸島に多くの移民を出していた沖縄も、それから1年の間に戦場になり、やはり大きな犠牲を出すことになりました。
あの大戦で特に多くの民間人の犠牲者を出したことで特筆される、沖縄戦、大空襲、原爆と、南洋諸島の陥落は深くつながっているのです。

なお、7月9日に陥落したといっても、その後もゲリラ戦を続ける兵士もいました。
1年以上にわたり、戦闘状態のままサバイバルをしていた場合もあります。
5月の茶話会で行った、映像を使った茶話会で紹介した方もそういう兵士の1人でした。
75年前の今日ごろは、マッピ岬の下の辺りにいらっしゃったらしく、上からどんどん人が落ちてきて危なくてしょうがなかった、というすさまじい話をされていました。
昨日も少し書きましたが、74年前の今日、1945年6月19日に、牛島中将が、最後の玉砕命令を出しました。
wikipediaに、以下の文面が出ています。

「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」

長野参謀がこの文面を作成し、「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」 という有名な部分は長参謀長により付け加えられたもの、という記述になっています。
いずれにしろ、この命令を出し、さらに指揮官である牛島中将が自決したことで、沖縄戦を終わらせることができなくなります。6月23日の慰霊の日で、組織的戦闘終結とされていますが、その後も終戦さえ知らず、さまよい、戦い続けた人たちが少なからずいました。
命令の伝達がどの程度できていたのかはわかりませんが、実際に「デテコイ」の声に従わなかったために攻撃を受けて死亡する状況が相次ぎます。非戦闘員も巻き添えになりました。
これと時期を同じくして沖縄陸軍病院や野戦病院の多くが解散し、動ける負傷兵たちも斬り込みに出ていきました。
学徒隊は、行くところがなく南部をさまよううちに砲弾に当たったり、やはり壕に潜んで攻撃を受けたりして、多くの犠牲を出しました。

特に32軍の南部撤退後、住民が巻き込まれる状況が加速したこともあり、沖縄戦というと、この末期の悲劇が連想されることが多いようです。
軍のぶつかり合いであった、5月までの2か月間の戦闘、中部戦線などは、本土の一般の人にはなじみが薄いところがあると思います。
軍事に関心のある方の場合は、前半の戦いをだいぶ詳細に研究しているもののようで、一言で沖縄戦といっても、認識に隔たりがあるといえそうです。
ただ、沖縄戦初期に水際作戦を捨てて持久戦略をとったことも、首里陥落を前にして南部撤退を決めたことも、この最後の命令も、本土決戦の時間稼ぎであったというのは確かなのでしょう。
その中で、兵士も民間人も最後まで必死に戦っていたのは間違いないのだけれど、そこに、現在まで続く沖縄と本土の溝の根源があるのだと思います。
うまく説明できませんが。
本日、山の手空襲から74年です。
1945(昭和20)5月25日夜間、B29 502機が東京の山の手地域に来襲し、うち470機が無差別に焼夷弾を投弾する絨毯爆撃を行いました。投下された焼夷弾は3月10日の東京大空襲の倍近い3258トン。「東京空襲の総仕上げ」とも言われるこの空襲での死者は3651人。東京大空襲よりだいぶ犠牲者が少なくなったのは、疎開が進んだためと、空襲時の行動指針が避難優先に変わったためだったようです。
赤坂・青山・中野などが標的になり、特に表参道には死体の山ができる状況となりました。
皇居も半蔵門に被弾し、延焼により建物の半分以上が焼けました。これは、誤爆だったということです。
首相官邸もこのとき焼失。
食糧不足にあえぐ大戦末期、国会議事堂周辺にも畑がつくられていたという話を見かけたことがありますが、空襲でこのあたりの建物が焼けていたため、それが可能だったのでしょうか。

日本のほうも、空襲に対して迎撃態勢を整えて臨み、この空襲の際、B29が26機、撃墜または行方不明となりました。
その損害を問題視し、空襲の際のB29の護衛が強化されたということです。

5月のこの時期には、名古屋などでも大規模な空襲が行われています。
4月1日以降、B29の攻撃が、特攻機の出撃基地であった九州に集中していたため、都市への爆撃は一時中断されていました。
その間に、米軍の配備も変わり、改めて都市空襲を行うに十分な態勢が整えられていたようです。
5月27日には、沖縄の第32軍が首里から南部への撤退を決めることになり、沖縄の日本軍は、戦闘も場当たり的に行わざるをえなくなっていきます。
本土決戦の準備のための防波堤と位置づけられる沖縄戦が、避難民を巻き込んでの南部の戦いに進んだ時期でもありますが、本土への攻撃自体を食い止めることにはなりませんでした。
少し前に、保存の会公式twitterのリツイートで、長崎の民家から三・一運動の独立宣言書が発見されたニュースが目に入っていました。
そういえば、今年はその三・一運動から100年なのだなと気づきました。
ちょっとした個人的事情により、中学時代、駆け足で進められた歴史の近代の部分で、この運動の年月日は頭に残っていました。

大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)が急死し、その葬儀が1919年3月3日に行われることになっていたのが直接のきっかけであるようです。
この日に向けた3月1日に、宗教家たちが中心になって、公の場で独立宣言を読むことを計画、実行。
独立宣言は、朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものですが、日本から独立した先に、日本と対等な友好関係を結ぶことを望む、平和的なものであったようです。
この独立宣言から始まった運動は、市の立つ日に合わせたデモなどで展開し、都市部から農村にまで広がっていきます。
しかし、やがて暴徒化して破壊行為が行われる場合も多くなり、それと前後して日本による武力鎮圧も行われました。
多数の検挙者を出しながら終息していきますが、この運動の結果、日本の朝鮮統治が武力によるものから文化統治へとだいぶ変化し、ある程度の成果を残したとされるようです。
今も朝鮮では祭日になっているようです。

日本で5.15事件や2.26事件などが、大戦とのつながりの中でとらえられるように、朝鮮にも大戦に向かう歴史と切り離せない出来事があるわけです。
正直、歴史の授業で記憶に残っていたのは独立宣言の出された年月日だけでしたが、日本の中学校の教科書の中で扱われているということは、確かにそれなりに影響力のあった出来事だったということであり、大戦とのかかわりの中でとらえられていたということなのだろうと思います。