あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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今日11月11日は、「世界平和記念日」となっています。
ヨーロッパでは休日になっている国もあるようです。今年は土曜日なので、たまたま休みのところも多いと思われますが。

これは、第1次世界大戦の停戦記念日にちなんで設定された記念日であるようです。
1918年11月11日、パリ郊外コンピエーニュの森に停車中の食堂車2419Dの車内で、マティアス・エルツベルガーを代表とするドイツ軍代表団が連合軍との休戦協定に調印、ドイツの敗戦により大戦が終結するわけです。
「世界大戦」と呼ばれるだけあって、ヨーロッパのみならず世界中を巻き込んで戦われ、かつてない規模の被害を生んだ戦い。犠牲者もこれまでとはけた違いでした。
その悲劇を繰り返さないために、ということで、国際連盟の発足が提案されることにもなりました。
日本も、このときは戦勝国の一つであり、やがて国際連盟の常任理事国ともなりました。

しかし、日本ではこの日はあまり注目されていないと思います。かく言う私も最近(2ヶ月ぐらい前?)に知りました。それから、今日はそのことについて書こうと思っていました。
というか、第1次大戦自体があまり日本では意識されていない気がします。
第1次大戦の始まった日は1914年7月28日。オーストリアからセルビアへの宣戦布告が大戦の始まりにあたります。
1914年は中学校の歴史の授業前後から知っていましたが、日付は先ほど確認して知りました。
これについては、8月15日や原爆投下の日ほど知っているべき日という空気もない気がします。

それは、世界大戦といっても、第1次大戦はヨーロッパの戦いであり、日本は同盟国だった英国との関係で参戦したものだったため、本土には被害が出なかったというのが大きいと思います。
むしろ、第1次大戦中は、直接戦禍に見舞われない位置だっただけに、同盟国に軍需品の補給をすることで景気がよくなっていました。さらに、戦勝国として得たものもありました。
米国も同様でした。
戦闘による死傷者は出ていますので、被害がなかったとはいえません。
それでも、日本国民が戦争の悲劇を実感することにはならず。それは幸いなことではありました。

しかし、第1次大戦中の日本の行動が、やがて世界から孤立するきっかけともなっているわけで。
歴史としては、第2次大戦とのつながりをもう少し意識するべきなのかもしれません。
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75年前の今日1942年10月26日~翌27日にかけて、南太平洋海戦が行われていました。

ガダルカナル島にある米軍のヘンダーソン飛行場に対し、日本陸軍第17軍が総攻撃を仕掛けることになり、海軍はその支援に当たりました。
それを阻止しようとする米軍の空母機動部隊との間で起こったのが南太平洋海戦でした。日米双方の機動部隊どうしの戦いです。
お互いに索敵に力を入れていたようで、日本軍も空母翔鶴にレーダーを搭載していたということです。それにより、効果的な防空ができたということなので、ミッドウェー海戦の失敗に学んだ部分ともいえるかもしれません。

戦闘経過については、wikipediaその他ネット上の情報を見ても、知識が足りないと状況が頭に入ってこないので、現時点ではあまり詳しく書けません。(頭が働くときに勉強します。)
結果としては、艦のほうを見ると、米軍の空母 ホーネット、駆逐艦 ポーターが沈没したのに対し、日本軍は沈没艦なし、日米双方空母・駆逐艦・巡洋艦それぞれ4隻に損害が出たということで、日本軍の勝利ということになります。
一次的にアメリカ太平洋艦隊が展開する空母戦力が無くなりました。
一方、航空機搭乗員の戦死が、日本軍148名、米軍39名。日本軍は、ここで多くのベテラン搭乗員を失ったことが、その後の戦闘で致命的となります。これ以後、実戦経験のほとんどない搭乗員が前線に出ることになり、航空戦で大敗が続くことになっていきます。

海戦のきっかけとなった陸軍の総攻撃のほうは、不十分な装備とジャングル対策の不足により失敗。
指揮系統の混乱の中、勝利の誤報が飛び交い、さらに混乱を招いていたということです。
兵員と物資の不足を補うべく、11月には大輸送が計画されるのですが。
それによって第3次ソロモン海戦が勃発。辛うじて2000人を上陸させるも、物資はほとんどが焼失し、ガダルカナル島は「餓島」飢餓の島となっていくのでした。
急に選挙が行われることになり、「戦場体験者と出会える茶話会」in大阪もいろいろ影響を受けたようです。
体験者の方から選挙についてコメントをもらおうというマスコミの取材もいくつか来ていました。
取材に来ていた記者さんたちは、かなり本気でお話を聞いていらっしゃったようですが。

さて、18歳から投票できるようになったのも、もうあまり話題に上ることもなくなったように思うところですが。
投票権の拡大という話になると、5年ほど前、当時早稲田大学の准教授だった(現在は大阪大学)北村毅先生の特別講義を思い出します。法政大学で行われた沖縄についての連続講義の1回分でした。
沖縄戦では県民の4分の1が死亡したと言われますが、幼い年代の死亡率が特別高かったというのを、様々なデータで説明されていました。
一方で、後に極東裁判で裁かれた政治家の年齢についても出されており。
つまり、沖縄戦で亡くなった県民の多くは、選挙権を持たない年齢だったという視点での話がありました。
現役の学生は単位がもらえる講義ということもあって、学生の年代に合わせた話の展開だったようです。選挙権を持つ前後の年代です。
その後、18歳選挙権が現実のものとなりましたが、沖縄戦での犠牲者の多くは、それでも選挙権を持たない年齢です。

というのを思い出したのは、大戦中の今日10月16日は何があったのかというのを調べたからです。
1944年10月16日、陸軍特別志願兵令改正(17歳未満の志願を許可)とありました。
同じ年の10月10日には、沖縄では10・10空襲があり、いよいよ空襲が日本に及んできた時期。10月19日にはアンガウル島が玉砕、そして、これからレイテ沖海戦が展開され、フィリピンの戦いも始まろうという時期です。
17歳でも選挙権はありませんが、さらにそれより若い年齢でも、志願をして軍隊に入ることが法的に認められたのでした。軍隊に入るということについては、もっと若くても立候補可能となったというと、皮肉が入りすぎでしょうか。
こうして志願した中で生き残った方々は、戦後72年の今年、80代で、実際に戦場に出た体験を語られることになっているわけです。

実際、体験者の方々へのインタビューがどんな記事になったかは確認できていませんが、選挙で何を選択するのかという以前に、選挙権があるということについて一度考えてみたほうがいいのではないかという気がしました。
ちなみに、ブログ係、22日は帰省中のため、昨日期日前投票してきました。
1945年8月15日を境に、故郷へ引揚げようとする人々が続々と出てくることになりました。
一般的に言われる引揚げは、外地に住んでいた日本人が日本に帰ってくることですが、一方で、日本にいた中国・朝鮮などの人々が母国に帰るという動きもありました。
外地につながる港には、そうした人たちが殺到したということです。

博多港もそういった状況となっていたため、1945年9月5日、福岡県が日本馬事会建物を借り受けて事務所を開設して対応にあたったということです。
宿舎・食事を用意し、乗船の手続きなど行ったようです。

9月2日、ミズーリ号で降伏調印が行われ、手続き上も終戦となると、米軍が進駐してきます。
それに伴って、引揚げの世話をする施設も移転をします。博多ふ頭内の倉庫に、朝鮮へ引き揚げる人たちの宿舎が設けられました。

外地から引き揚げてくる日本人に対しては、福岡県の厚生課が対応しており、こちらは、大浜国民学校に事務所を開設していました。

これらを統一する形で、11月15日、福岡県は「福岡県臨時引揚民事務所」を開設。11月24日援護業務を厚生大臣の管轄下に置くという厚生省告示により、「厚生省博多引揚援護局」が開設されました。
翌1946年3月12日、「博多引揚援護局」となり、1947年4月29日に閉所するまでの1年余り、引揚げの援護にあたりました。
この間、博多に引揚・復員した日本人は139万2429人、博多からの外国人送出人数は50万5496~5497人。引き揚げてきた人数は、佐世保に次いで2番目に多かったようです。
7月10日が仙台空襲の日で、その日に向けて毎年戦災復興展が催されているところですが。
この時期は、他の都市でも空襲が激化していました。

七夕の今日、7月7日には、千葉市をターゲットにした空襲がありました。
「七夕空襲」などと呼ばれるようです。

千葉市に対する空襲は、6月10日と7月7日の2回。
6月10日にはB29が27機、7月7日は129機で、7月7日のほうが大規模でした。
この2回の空襲による被害は、死傷者1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人ということです。(総務省「一般戦災」のページによる)

千葉は、戦時に至るまで「千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、「軍郷千葉市」と呼ばれていた。」ということで、これが主な攻撃対象となったのです。
それらの施設で働く人々も、攻撃対象でした。
女学校なども被災しています。

また、本土決戦の際には、千葉県の九十九里が米軍上陸地点に設定されていました。
上陸作戦に備えての破壊の意味もあったのかもしれません。戦争が長引いていたら、さらに攻撃が加えられた可能性もあります。

7月7日の空襲は、午前1時39分~3時5分の間続いたということです。その地域一帯を焼き尽くすつもりの夜間空襲です。
正確には七夕の夜ではなく前夜ということになるのですが。
ゆっくり星を見ていられなかった時期があったということを記憶しておくべきなのでしょう。
もしかしたら、街のあらゆるものが焼けて真っ暗になってしまい、七夕の夜は恐ろしいほど星が見えたのかもしれません。あるいは、火災の煙で何も見えなかったのかもしれません。
そういうところは、意外と妙に心に残っているものであったりするようで。体験を伺うと、そうした情景も出てくるのかもしれません。
空を見上げるときの心持も、違ったものなのだろうと思います。