あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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急に選挙が行われることになり、「戦場体験者と出会える茶話会」in大阪もいろいろ影響を受けたようです。
体験者の方から選挙についてコメントをもらおうというマスコミの取材もいくつか来ていました。
取材に来ていた記者さんたちは、かなり本気でお話を聞いていらっしゃったようですが。

さて、18歳から投票できるようになったのも、もうあまり話題に上ることもなくなったように思うところですが。
投票権の拡大という話になると、5年ほど前、当時早稲田大学の准教授だった(現在は大阪大学)北村毅先生の特別講義を思い出します。法政大学で行われた沖縄についての連続講義の1回分でした。
沖縄戦では県民の4分の1が死亡したと言われますが、幼い年代の死亡率が特別高かったというのを、様々なデータで説明されていました。
一方で、後に極東裁判で裁かれた政治家の年齢についても出されており。
つまり、沖縄戦で亡くなった県民の多くは、選挙権を持たない年齢だったという視点での話がありました。
現役の学生は単位がもらえる講義ということもあって、学生の年代に合わせた話の展開だったようです。選挙権を持つ前後の年代です。
その後、18歳選挙権が現実のものとなりましたが、沖縄戦での犠牲者の多くは、それでも選挙権を持たない年齢です。

というのを思い出したのは、大戦中の今日10月16日は何があったのかというのを調べたからです。
1944年10月16日、陸軍特別志願兵令改正(17歳未満の志願を許可)とありました。
同じ年の10月10日には、沖縄では10・10空襲があり、いよいよ空襲が日本に及んできた時期。10月19日にはアンガウル島が玉砕、そして、これからレイテ沖海戦が展開され、フィリピンの戦いも始まろうという時期です。
17歳でも選挙権はありませんが、さらにそれより若い年齢でも、志願をして軍隊に入ることが法的に認められたのでした。軍隊に入るということについては、もっと若くても立候補可能となったというと、皮肉が入りすぎでしょうか。
こうして志願した中で生き残った方々は、戦後72年の今年、80代で、実際に戦場に出た体験を語られることになっているわけです。

実際、体験者の方々へのインタビューがどんな記事になったかは確認できていませんが、選挙で何を選択するのかという以前に、選挙権があるということについて一度考えてみたほうがいいのではないかという気がしました。
ちなみに、ブログ係、22日は帰省中のため、昨日期日前投票してきました。
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1945年8月15日を境に、故郷へ引揚げようとする人々が続々と出てくることになりました。
一般的に言われる引揚げは、外地に住んでいた日本人が日本に帰ってくることですが、一方で、日本にいた中国・朝鮮などの人々が母国に帰るという動きもありました。
外地につながる港には、そうした人たちが殺到したということです。

博多港もそういった状況となっていたため、1945年9月5日、福岡県が日本馬事会建物を借り受けて事務所を開設して対応にあたったということです。
宿舎・食事を用意し、乗船の手続きなど行ったようです。

9月2日、ミズーリ号で降伏調印が行われ、手続き上も終戦となると、米軍が進駐してきます。
それに伴って、引揚げの世話をする施設も移転をします。博多ふ頭内の倉庫に、朝鮮へ引き揚げる人たちの宿舎が設けられました。

外地から引き揚げてくる日本人に対しては、福岡県の厚生課が対応しており、こちらは、大浜国民学校に事務所を開設していました。

これらを統一する形で、11月15日、福岡県は「福岡県臨時引揚民事務所」を開設。11月24日援護業務を厚生大臣の管轄下に置くという厚生省告示により、「厚生省博多引揚援護局」が開設されました。
翌1946年3月12日、「博多引揚援護局」となり、1947年4月29日に閉所するまでの1年余り、引揚げの援護にあたりました。
この間、博多に引揚・復員した日本人は139万2429人、博多からの外国人送出人数は50万5496~5497人。引き揚げてきた人数は、佐世保に次いで2番目に多かったようです。
7月10日が仙台空襲の日で、その日に向けて毎年戦災復興展が催されているところですが。
この時期は、他の都市でも空襲が激化していました。

七夕の今日、7月7日には、千葉市をターゲットにした空襲がありました。
「七夕空襲」などと呼ばれるようです。

千葉市に対する空襲は、6月10日と7月7日の2回。
6月10日にはB29が27機、7月7日は129機で、7月7日のほうが大規模でした。
この2回の空襲による被害は、死傷者1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人ということです。(総務省「一般戦災」のページによる)

千葉は、戦時に至るまで「千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、「軍郷千葉市」と呼ばれていた。」ということで、これが主な攻撃対象となったのです。
それらの施設で働く人々も、攻撃対象でした。
女学校なども被災しています。

また、本土決戦の際には、千葉県の九十九里が米軍上陸地点に設定されていました。
上陸作戦に備えての破壊の意味もあったのかもしれません。戦争が長引いていたら、さらに攻撃が加えられた可能性もあります。

7月7日の空襲は、午前1時39分~3時5分の間続いたということです。その地域一帯を焼き尽くすつもりの夜間空襲です。
正確には七夕の夜ではなく前夜ということになるのですが。
ゆっくり星を見ていられなかった時期があったということを記憶しておくべきなのでしょう。
もしかしたら、街のあらゆるものが焼けて真っ暗になってしまい、七夕の夜は恐ろしいほど星が見えたのかもしれません。あるいは、火災の煙で何も見えなかったのかもしれません。
そういうところは、意外と妙に心に残っているものであったりするようで。体験を伺うと、そうした情景も出てくるのかもしれません。
空を見上げるときの心持も、違ったものなのだろうと思います。
保存の会公式twitterにもニュースが紹介されていますが、戦後海没処理された旧日本海軍の潜水艦24隻が、ソナーによる調査で確認されたということです。
その中で、船体の半分ぐらいとみられる部分が見つかった艦は、「伊58潜水艦」ではないかとみられているそうです。

「伊58潜水艦」は、テニアンに原爆の材料を下して戻る途中の米軍の重巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈したことで有名です。(世間一般的に有名とまでいうレベルではないと思いますが。)
2015年に日比谷証言集会までのカウントダウンをしていたとき、当ブログでもこの撃沈のことは書きました。
原爆投下した米軍に対して一矢報いた、というとらえ方もあるようです。インディアナポリスの撃沈は太平洋戦争の中で米軍の艦では最大級の悲劇とされているようで、艦長が軍法会議にかけられ有罪となりました。この艦長は、遺族に責められ、自殺するのですが、彼の名誉回復のために、沈めた側の「伊58潜水艦」の艦長だった橋本中佐(当時は少佐)が尽力していたということです。
敵味方は、戦中と戦後でだいぶ変わるものなのですね。
wikipediaによると、

マクベイ3世艦長の名誉回復に先立って、1995年8月2日にはインディアナポリス市内にインディアナポリス・ナショナル・メモリアルが建立された。石灰岩と花崗岩で出来たメモリアルは、沈没で落命した乗組員の名前が全て刻み込まれている。また、インディアナポリスに関する資料はインディアナ州博物館(英語版)に納められ、艦鐘と公式ペナントはヘスラー海軍倉庫(英語版)で保管されている。

2007年7月7日には、インディアナ大戦記念プラザ(英語版)内にインディアナポリス博物館がオープンした。

ということで、「インディアナポリス」関連は展示として存在しているようです。

話を今日のニュースのほうに戻すと、確認された24隻の潜水艦について、将来的には船体や部品を引き揚げて、記念館を設立することも検討されているとのこと。
沈めたほうの「伊58潜水艦」関連の展示も、今後現実のものとなるのでしょうか。

ブログ内関連記事
○伊58潜水艦、重巡インディアナポリスを撃沈
選挙に翻弄される昨今の6月23日沖縄慰霊の日の話をしたところですが。

70年前を振り返ると、この日は新憲法下での第1回目の国会の開会式の日でした。1947年6月23日。
昭和天皇の開会の勅語は、初めて、「朕」ではなく、「わたくし」という一人称で述べられたということです。

ちなみに、この第1回国会(特別会)は、1947年5月20日、70年前の明日召集です。(同年12月9日閉会)
この第1回国会の召集とともに、第1次吉田茂内閣は総辞職。5月24日に片山哲内閣が成立します。6月1日に組閣完了しますが、召集から開会式までけっこう時間がかかっている印象です。
そして、基本的に通常国会が1月中に召集されることを考えると、次の国会が開かれるけっこうぎりぎりまでこの特別会が続いたことになります。
通常国会は1月中に召集され、会期が150日。近年、延長がかかることがほとんどになっています。なので、6月23日ごろというのは、国会の終盤の余波があるものだったりします。

今年選挙がかぶったのは都議会議員選挙で、国政ではありませんが。
まあ、毎年この時期のイベントはいろいろと政治のあおりを食うものなのです。
沖縄戦の組織的戦闘終結がこの時期になったのは、本土決戦までの時間稼ぎをめいっぱいやった結果ですが、戦後こういう時期になるというのは、戦闘中はとても考えつかなかったでしょうね。

6月23日、今年は保存の会は「沖縄の戦争展」初日です。
そのころは、もちろんイベントのことを書かねばならないので、今のうちに「大戦とその前後」1947年6月23日周辺をやってみました。
ちなみに、ここでよく参考にしているサイト、国立国会図書館の電子展示会「日本国憲法の誕生」の年表の最後が、この1947年6月23日第1回国会開会式です。