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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
10月10日、旧体育の日です。
ということは、前の東京オリンピックから55年目。
そして、沖縄の10・10空襲から75年目になります。

サイパン・テニアンの陥落から、いよいよ国内が戦場になることが現実味を帯びてきていました。
それを受けて、沖縄では、疎開が進められましたが、多くの人たちは本土への疎開をせず、残っていました。
日本は勝つのだという言葉を信じていた、というのが大きな理由だったと聞きます。
同年の8月22日には、疎開船対馬丸が撃沈されました。
多くの民間人の犠牲者が出ましたが、そのことは隠されていました。

沖縄の人々が、初めて戦争というものを目の当たりにしたのが、10・10空襲でした。
第1波の攻撃は、軍需施設を狙ったものでしたが、その後夕方まで繰り返された爆撃は、那覇市を中心に、市街地を破壊していきました。
このときには、すでに米軍は偵察により、沖縄の地勢や軍備、町の状況などを把握していました。

その後、11月に入って、第32軍の中心を成していた第9師団が台湾に抽出されることになり、各部隊は何度も配置換えされることになります。
意外と、それが不確定要素になってはいないだろうかと思いもするのですが、もちろん、米軍はその後も繰り返し偵察を重ねているはずです。
それでも、泥沼の持久戦となり、双方にとてつもない犠牲が出ることは、このときはまだ予想していなかったでしょう。

ともかく、学校などに軍隊を受け入れながらも続いていた日常が、10・10空襲を境に崩れます。
家も財産もなくして北部に身を寄せる人々も多く出て、避難生活に入っていきます。
本土で大規模な空襲が始まる3月10日の5か月前です。

ところで、もし日本が8月15日に敗戦を迎えていなかった場合、1945年11月1日には、米軍が九州に上陸する計画でした。
オリンピック作戦と呼ばれるものです。
10月10日から比較的近い日付の作戦に、「オリンピック」の名前が付けられているのは、今にして思えば皮肉に感じられます。
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9月15日(日)16日(月・祝)に鹿児島で開催する「語らずに死ねるか! 戦場体験の展示・上映・お話し会」のために、鹿児島関連のパネルを作ろうとしているところです。
先の日曜日に、真珠湾攻撃のパイロット城武夫さんのテープ起こしが終わったのですが、難航しています。
テープの映像を変換してDVDにしたものが、私のパソコンではほとんど読めず、分割されたファイルを1つ1つ開く形で再生しているので、時間設定がしにくいのは、ここ最近の茶話会前の悩みです。
ちなみに、真珠湾攻撃の部分は、保存の会の本『戦場体験キャラバン』に収録されていますので、本来起こす部分は少な目なのですが、映像上映にも使うはずなので、どこをどうピックアップすればいいのか頭を抱えています。
あと、パネルとして作るには、鹿児島の訓練の部分はだいぶ短いのも難点です。もともとの城さんのパネルは活かす方向なので、なかなかまとめにくいです。
ともかく、明日にはケリをつけるべくやっております。

さて、証言の中に、「昭和16年8月ごろから、水面すれすれを飛んで魚雷を落とす訓練が始まった」というものがあります。これが11月まで続きます。
海底の浅い真珠湾で魚雷攻撃をするための訓練です。高いところから落とすほど、魚雷が深く沈みこむので、魚雷が沈んでも海底にぶつからない程度の低空を飛ぶ必要があったのです。
この訓練をしていたのが、1941年のちょうど今頃ということになります。
1941年のカレンダーを見ると、今年より1日曜日がずれています。今年は12月8日は日曜日、1941年は月曜日でした。
現地時間では7日(日)となるため、ハワイではのんびりした日曜日が始まろうとしていたところ、という状況を書いた資料もあるようです。
曜日がそこそこ近いので、1941年の今頃、というのもなんとなく実感しやすい気がします。(気がするだけかもしれませんが)

イベントを行う今月15日、16日も、すぐ近くで訓練が行われていた時期だというのを想像すると、また違った感慨があるのではないかと思います。
ということで、パネルをまとめねば。
体験はすごいのに、できあがるものは微妙、というのは申し訳ない限りですが、どんなことになるのか、結果は当日に、というところです。

「語らずに死ねるか! 戦場体験の展示・上映・お話し会」
9月15日(日)16日(月・祝)、かごしま県民交流センター 6階ギャラリー第2にて。入場無料。
75年前の昨日、1944年8月3日、サイパン島につづき、テニアン島も米軍の手に落ちました。
7月24日から8月2日にかけてテニアン島の地上戦が展開され、後退中に司令部の将官は相次いで戦死、自決、8月3日の夜明けには戦闘終了、とあります。
7月9日にサイパン島が陥落して、半月してテニアン上陸というのは、改めて見たとき、意外に感じました。
不勉強と言ってしまえばそれまでなのですが、テニアンの戦いの体験者の方のお話を伺っていて、なんとなくサイパン陥落後すぐにテニアンの戦い、というイメージだったのです。
サイパン島とテニアン島の間は狭く、対岸から大砲が飛んできていた話を聞いたような気がします。それで、サイパンの戦いの最中からテニアンへの砲撃が行われていたイメージでした。

上陸にあたり、米軍は陽動作戦をとって、南西部のテニアン港方面から上陸しようとして日本軍に撃退されたと見せかけ、手薄となった北西部のチューロ海岸から上陸。サイパン島から見ると、回り込んだ形になります。
24日夜に日本軍が反撃を試みたときには、米軍は激しい弾幕と照明弾により応戦、この戦いだけで日本軍の犠牲は2500人にもなり、戦車などはほとんど失われたということです。
日本軍は、民間人の中から16歳から45歳までの男子約3,500名を集め、民間義勇隊6個中隊を編制して戦力の不足を補いますが、30日にはテニアン市街も占領されます。
31日からはカロリナス高地を拠点とした戦いとなります。
主な戦場となった1つ、マルポ水源地は島唯一の水源である井戸で、ここが陥落したことで長期戦が困難となり、グアム島の第31軍に向けて最後の報告を打電。
8月1日も繰り返し反撃を続けるも失敗、8月2日、民間義勇隊を含む約1000名が最後の突撃をかけます。

この戦いには民間人も多く巻き込まれ、集団自決が相次ぎました。
テニアンの守備隊は、民間人が軍と共に自決する行為を戒めたという話もあるようですが、実際には民間人死者のほとんどが集団自決で亡くなっているということです。
実際に証言を伺うと、周りの人たちが次々と自決を試みる中、自分の家はお父さんが「すぐに死ぬのはよそう」と言って・・・といった内容が出てきます。
民間人に配慮したとはいっても、男性を根こそぎ召集していることから、戦闘協力による犠牲とともに、残された家族が追い詰められることになったのも確かでしょう。
南端のカロリナス高地には、サイパン島のマッピ岬と同様、スーサイドクリフと呼ばれる場所があります。

一方、組織的戦闘終了後も生き延びて潜伏していた兵士もいました。
神社が情報交換の場所になっていて、各地に潜伏している兵士たちが夜になるとそこに集まったという話を聞いたことがあります。
私が初めて単独で行った聞き取りだったのですが、ビデオのセッティング中に出ていた被弾して怪我をする話が、ビデオを回し始めてからは撮れていません。何度かその場面にたどり着こうとするたびにテープが終わって中断し、また話がずれて、というのを繰り返すという、今のハードディスクタイプのカメラならないはずの困った状況に陥ったのでした。
帰省のついでの長崎での取材で、帰りの時間が決まっていたため、撮り直しもできず。それから3年ほどして、その方は亡くなったため、重要部分を欠いたままの記録映像となっています。

テニアン島陥落後、ここはB29の発進基地となります。
本土への空襲が本格化することにつながり、そして、1年後、ここから飛び立ったB29により、広島・長崎に原爆が投下されます。
お話を伺ったのが爆心地に近い場所でした。
ご本人は鹿児島出身の方だったので、ご家族が被爆されるということはなかったのですが、原爆が飛び立った地で戦い、落とされた地で戦後を生きるという、ご縁と言っていいのかわかりませんが、思えば運命的な体験をされた方でした。
テニアン島陥落から75年目の今年、鹿児島で茶話会をすることになったのも、ご縁であるかもしれません。しかし、テニアン島の慰霊などに積極的に参加されていた方だったので、お元気であったならば、鹿児島に行っていただけたかもしれないと思うと、それは残念です。

なお、先日お知らせしました外部イベント「Memories of War 〜生の声で聴く6テーマの戦争体験〜」には、当時子供でテニアンの戦いを経験された方が、話し手として参加されます。
1944年7月9日、サイパン島攻略軍最高指揮官リッチモンド・ターナー海軍中将がサイパン占領を宣言。6月15日から続いたサイパン島の戦いがひとまず終わりました。
このとき、最北部のマッピ岬に追い詰められた、約1万人ともいわれる民間人が崖から飛び降りました。それから、このマッピ岬はバンザイクリフ、スーサイドクリフなどと呼ばれるようになります。
その2日前の7月7日には、生き残っていた兵士や一部民間人が最後の突撃を行っていました。いわゆる万歳突撃です。武器もほとんどなく、竹槍や石などを持っての突撃も、ほとんど自殺といえるようなものでしたが、この突撃によって大きな被害を出した米軍の大隊もあったようです。
続いてテニアン島が陥落すると、ここを拠点にし、いよいよ日本本土への空襲が現実のものとなっていくのです。

自決に至らなかった人々も、もちろん、戦闘に巻き込まれて命を落としています。
自身は助かっても、両親を失ったために、その後の人生を通して苦難を味わうことになった子供たちも多数出ました。
また、南洋諸島に多くの移民を出していた沖縄も、それから1年の間に戦場になり、やはり大きな犠牲を出すことになりました。
あの大戦で特に多くの民間人の犠牲者を出したことで特筆される、沖縄戦、大空襲、原爆と、南洋諸島の陥落は深くつながっているのです。

なお、7月9日に陥落したといっても、その後もゲリラ戦を続ける兵士もいました。
1年以上にわたり、戦闘状態のままサバイバルをしていた場合もあります。
5月の茶話会で行った、映像を使った茶話会で紹介した方もそういう兵士の1人でした。
75年前の今日ごろは、マッピ岬の下の辺りにいらっしゃったらしく、上からどんどん人が落ちてきて危なくてしょうがなかった、というすさまじい話をされていました。
昨日も少し書きましたが、74年前の今日、1945年6月19日に、牛島中将が、最後の玉砕命令を出しました。
wikipediaに、以下の文面が出ています。

「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」

長野参謀がこの文面を作成し、「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」 という有名な部分は長参謀長により付け加えられたもの、という記述になっています。
いずれにしろ、この命令を出し、さらに指揮官である牛島中将が自決したことで、沖縄戦を終わらせることができなくなります。6月23日の慰霊の日で、組織的戦闘終結とされていますが、その後も終戦さえ知らず、さまよい、戦い続けた人たちが少なからずいました。
命令の伝達がどの程度できていたのかはわかりませんが、実際に「デテコイ」の声に従わなかったために攻撃を受けて死亡する状況が相次ぎます。非戦闘員も巻き添えになりました。
これと時期を同じくして沖縄陸軍病院や野戦病院の多くが解散し、動ける負傷兵たちも斬り込みに出ていきました。
学徒隊は、行くところがなく南部をさまよううちに砲弾に当たったり、やはり壕に潜んで攻撃を受けたりして、多くの犠牲を出しました。

特に32軍の南部撤退後、住民が巻き込まれる状況が加速したこともあり、沖縄戦というと、この末期の悲劇が連想されることが多いようです。
軍のぶつかり合いであった、5月までの2か月間の戦闘、中部戦線などは、本土の一般の人にはなじみが薄いところがあると思います。
軍事に関心のある方の場合は、前半の戦いをだいぶ詳細に研究しているもののようで、一言で沖縄戦といっても、認識に隔たりがあるといえそうです。
ただ、沖縄戦初期に水際作戦を捨てて持久戦略をとったことも、首里陥落を前にして南部撤退を決めたことも、この最後の命令も、本土決戦の時間稼ぎであったというのは確かなのでしょう。
その中で、兵士も民間人も最後まで必死に戦っていたのは間違いないのだけれど、そこに、現在まで続く沖縄と本土の溝の根源があるのだと思います。
うまく説明できませんが。