あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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70年前の今日、1947年4月25日、第23回衆議院議員総選挙の投票が行われました。
参議院の選挙とは少し日程をずらしてあったようで、衆参同日選挙ではなかったのですね。

5月3日の日本国憲法施行前最後となるこの選挙は、衆議院解散によるもので、このときの解散は「新憲法解散」と呼ばれているようです。
第1次吉田茂内閣は、大日本帝国憲法の下で組閣されており、吉田茂は貴族院議員でした。
そのため、新しい憲法の施行を前に、改めて正当性を問うために解散となったようです。
選挙の結果、与党である日本自由党(吉田が総裁を務める)と民主党合わせて255議席、野党は199議席ということで、一応は与党側の勝利ではあったのですが。
最高得票は、参議院選挙と同じく日本社会党。選挙後、日本社会党も与党に参加することになり、吉田続投を企図するも、吉田自身が、首相は第1党から出すべきと「憲政の常道」を唱え、5月20日に総辞職。
選挙から約1ヶ月後の5月24日、片山内閣が成立します。

この選挙結果をみて、マッカーサーは、「国民は中庸を選んだ」との声明を発表。
死ぬまで吉田と親密だったマッカーサーとしては、複雑なものがあったのではないでしょうか。

これより1年前の1946年4月22日には、幣原喜重郎内閣が総辞職していました。
GHQ草案が出された後の混乱を超えて、憲法草案がだいぶ出来上がってきたころ、「憲法改正は現内閣で」と語るもかないませんでした。草案作成をリードしていた首相は、日本国憲法公布を迎えることなく退陣したのです。
第1次吉田内閣は、憲法施行までは継続したので、だいぶ幸運だったとはいえるかもしれません。
ともあれ、改憲の節目とともに、2つの内閣が総辞職しているわけです。
憲法の変わり目は、政界に大きな動きをもたらすものであるようです。
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日本国憲法施行70周年が近づいています。

70年前の今頃は、地方の首長選挙が行われるとともに、毎日のように次々と法律が制定されていました。

4月5日:都道長官・府県知事・市区町村長選挙。
4月7日:労働基準法公布。
4月14日:独占禁止法公布。
4月16日:裁判所法公布。
4月17日:地方自治法公布。
4月18日:日本国憲法施行の際に現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律公布。
4月19日:民法、民事訴訟法、刑事訴訟法の各応急的措置法、公布。

そして、70年前の今日1947年4月20日には、第1回参議院選挙が行われました。
3月20日公示、4月20日投開票。1か月間選挙期間がありました。
参議院議員は任期6年、3年ごとに半数を改選ですが、このときは議員が1人もいないところからスタートなので、250人全員について選挙が行われました。
そして、当選順位にもとづいて、選挙区ごとに高位当選グループと低位当選グループに分け、低位グループは3年後改選とされます。
参議院は解散がないため、全員を選ぶのも、半数が任期3年なのも、初回ならではの特別な状況でした。
そして、この選挙で最も多くの議席を得たのは、社会党。この辺もなかなか特別感があります。

ちなみに、この時期はまだ貴族院が存在しています。
日本国憲法施行の前日、5月2日まで貴族院が存続し、5月3日から参議院に切り替わります。4月20日の選挙で選ばれた高位当選者の任期満了はきっちり6年後の1953年5月2日です。

選挙から1ヶ月後の5月20日から、第1回特別国会が開かれることになるのでした。
昨日ドーリットル空襲のことを書くのは4月に入ったころから決めていたのですが、大戦中の4月の年表を見ていて気づいたことがありました。
保存の会公式twitterでもつぶやかれていること、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死が、翌年の同じ4月18日だったことです。

1943年4月18日、山本五十六長官はニューギニア方面の米軍を迎え撃つことになる将兵たちの激励にラバウルへ向かい、その帰途にブーゲンビル島上空で撃墜されました。
なので、ドーリットル空襲から1年後ということとは、作戦上直接の関係はないのでしょう。
ただ、日本軍の暗号が米軍に解読されていたことが、狙い撃たれた大きな要因であることから、暗号解読が進んだきっかけの1つであるドーリットル空襲の影響が1年後に大きく出た、という面もあるのかもしれません。

1年後のことはまた1年後に、ということにして(本当か?)、1942年4月18日、ドーリットル空襲の当日のことをもう少し見てみると。
この日、マッカーサーが南西太平洋連合軍司令官に就任しています。
日本軍の快進撃により、フィリピンから脱出したマッカーサーが、ニューギニア方面の戦闘を指揮することになります。終戦まで、この地位にありました。
ということで、1年後に山本五十六長官が迎え撃とうとしたニューギニア方面の米軍を指揮していたのはマッカーサーです。

2人の指揮官にとって、4月18日は重要な日だったのですね。
保存の会の聞き取りの対象となるのは、こういう指揮官ではなく、彼らに指揮された戦いに末端で翻弄されるような兵士たちがほとんどなのですが。
ときには、指揮官たちの大事件とニアミスしたような方にお話を伺う機会もあり。その辺のことが、保存の会twitterでつぶやかれていたわけです。
1942年4月18日、ドーリットル空襲。
米軍艦載機による、初の日本本土への空襲でした。

空母エンタープライズ、ホーネットから出撃した16機のB-25が、東京、横須賀海軍工廠、横浜、名古屋、神戸、大阪を空襲。
民間人にも被害者が出ました。
死者87名、重傷者151名(うち後日死亡1名)、軽傷者311名以上、家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上。校庭にいて機銃掃射を受けた小学生も含まれていました。
中には積極的に民間人に対する攻撃を行った機もあり、攻撃の後捕虜になった搭乗員のうち3名が死刑となるのですが、それがプロパガンダに利用され、米国内に「日本人を全滅させるべき」といった風潮を生んだという話もあるようです。

当時は日本の勝ち戦の時期で、日本本土へ米軍の攻撃が到達するのは難しく、むしろ日本軍が米国本土への攻撃も行っていたようです。
それに悩まされていた米国としては、厭戦ムードを払うためにも、日本本土への爆撃を行う必要があったということです。
難易度の高い空襲を実行すべく、航続距離の長いB-25を少数編隊で使用した空襲となりました。

対する日本軍の側は、米軍空母の接近を察知しており、警戒に当たってはいましたが、本土への米軍機の到達を翌19日と見越していたこと、高高度でやってくると思い込んでいたことなどから混乱を生じ、ほとんど迎撃の効果は上がらず。
敵味方の誤認や高射砲の破片による周辺への被害などが多発していたようです。
そして、この間に多数やりとりをした軍の通信が、米軍による暗号解読に大いにヒントを与えることになり。MO作戦がポートモレスビー攻略であることも、このとき米軍の知るところとなったようです。

この空襲の衝撃は大きく、日本軍はミッドウェー海戦に向けてより積極的となります。
米国の側では、この空襲をもとにした戦意高揚はだいぶ成功したようであり。
戦局の変化に関わる大事件であったのは確かです。
75年前の今日、1942年4月13日、連合艦隊が大本営に第二段作戦の日程を報告しました。
第1段である、真珠湾とマレー攻略に始まる南方作戦に一応の成功が見えたところで、これからどのように戦っていくのかを改めて考えた計画です。
いずれはハワイまで本格的に攻略することを目指す作戦だったようです。

同年の4月1日の時点で、おおよその計画が、山本五十六連合艦隊司令長官により承認されており。13日になって具体的な日付まで報告されるに至ったのでした。
内容は以下のようなものです。

5月7日 ポートモレスビー攻略(MO作戦)
6月7日 ミッドウェーとアリューシャン攻略
6月18日 ミッドウェー作戦部隊トラックに集結
7月1日 機動部隊トラック島を出撃
7月8日 ニューカレドニア攻略
7月18日 フィジー攻略
7月21日 サモア攻略

後の世から見れば、「やめてくれ」と叫びたくなるようなラインナップです。
勝ち戦から一気に戦局が変わり悪化する、そのきっかけとなった作戦、ということになります。
勝ち戦続きだったために、欲を出し、さらに戦局を見誤った、というべきでしょうか。
開戦当初は、連合艦隊司令長官も米国との戦力差の認識から、早期終戦を目指す方向で考えていました。
第一段の南方作戦が成功した時点で和平交渉を始める、という意見もあったようです。それを唱えた代表的な人物は、東久邇宮稔彦防衛総司令官。戦後初の内閣総理大臣となる皇族です。
しかし、最終的には山本五十六に押し切られる形で、第二段作戦は決定されました。
5月7日、珊瑚海海戦の結果、ポートモレスビー攻略(MO作戦)は中止され、7月に延期の方針が出されることになりますが。
その間に、6月5日のミッドウェー海戦で大敗を喫するのです。

敗戦への道は、ここから始まった、ともいえるかもしれません。
が、実際は、戦争を始めた時点で、敗戦への道は始まっていたのでしょう。