あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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戦場体験史料館までの道順
2015年9月20日(日)に開催されました「第4回あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い」の第1部の動画がyoutubeで公開されました。
(実は当日の看板から、タイトルに「老若の」が入っています)
保存の会公式twitterにも先程告知が出ました。

https://www.youtube.com/watch?v=XDeWYQXcxo8&feature=youtu.be

当日は映画『冬の兵士』の田保寿一監督が記録映像撮影をしてくださっていました。
その後文字入れして公開まで担っていただき、とことんお世話になっております。本当にありがとうございました。

『戦場体験史料館つうしん』第20号で、この映像のDVD頒布予定ということでお知らせしていた件につきましては、手続き等諸々準備中です。
お話しくださった体験者の方中心に、ネットを見られる状況ではない方も多いと思いますので、DVDも用意します。
ただ、手続き関係が時間がかかるため、次の第21号で詳細ご案内、ぐらいになるかもしれません。

当ブログをご覧の方は、ネットが見られる環境の方が多いと思いますので、ぜひ公開されている動画をご覧ください。
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年内に、というより忘年会前に、どうやらこうやら日比谷証言集会登壇者特集を、第1部の最後の方までやりました。
本番では、登壇者の方が一通りお話をされた後、トップバッターの猪熊得郎さんが再び中央へ、そして、戦場体験者からこの先を生きていく人へのメッセージという流れでした。この時代を問う内容、そして、戦場体験をただの昔話としてではなく、これからの為に語り継いでいくという決意。平和のために、幸せのために、しっかりと生きてください、というメッセージ。
猪熊さんの呼びかけで、客席にいらっしゃった体験者の方がご起立されました。登壇された方より年配の方も数名いらっしゃったようです。
そうした方々と、若い世代が入り混じった客席が、日比谷証言集会でもう一つできていた「舞台」だったかもしれません。壇上からのメッセージは、今同じ時を生きている方々からのものだというのが実感できるひとときだったのではないかと思います。

当ブログでの登壇者紹介は、ひとまず第1部までということにさせていただきます。
『戦場体験史料館つうしん』第20号の最後をご覧いただくと、第2部は全文を近いうちに「戦場体験史料館・電子版」で公開予定、と書かれています。
事務局メンバーがテープ起こしを進めております。
一応12月末予定らしいので、そちらをお待ちいただき、じっくり振り返っていただければと思います。

さて、登壇者特集を忘年会前に一区切りつけたのは、忘年会ではもうこれから、戦後70年が過ぎた後の話が始まるからです。
しばらくそちらの話題が出ることが多くなるかと思ったので、登壇者特集、ちょっとペースを上げました。
当ブログでは一応締めということにしましたが、保存の会の活動は「一区切り」ではありません。日比谷集会のことは確かに蓄積しつつ、継続的な歩みが続くのです。
明日、また一歩、かと思われます。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者20人目は、台湾人ですが日本兵として戦いカザフスタンに抑留、呉正男さんです。

呉正男さん

呉正男さん

スクリーンの画像です。
呉正男さん

台湾出身だが、父が有力者だったため、日本人用の小学校に通っていた。
1941(昭和16)年4月、日本の中学校に留学。
1944(昭和19)年4月、中学校を卒業するとすぐに陸軍特別幹部候補生に志願(1期生)
•水戸航空通信学校長岡教育隊に入隊。台湾人だからということで特に肩身が狭いこともなく、選抜されて機上通信士の教育を受ける。
1944(昭和19)年12月 西筑波飛行場の滑空飛行第一戦隊に転属。
「滑空飛行戦隊」に配属される。九七式重爆撃機が大型グライダーを曳行して、敵飛行場に強制着陸させる空挺隊だった。
レイテに派遣される予定だったが、実際に出発することはなかった。
1945(昭和20)年5月、現在の北朝鮮の宣徳飛行場に移転。
沖縄への降下が考えられたが、今度も実現しなかった。
6月、特攻の希望を聞かれ、「熱烈望」にしるしをつける。
8月15日、玉音放送を聞く。雑音で内容が聞き取れなかった。
8月16日、平壌飛行場に移動して命令を待っているところに、ソ連兵が来て汽車に乗せられ武装解除。
9月、元山へ連れていかれ、興南の港から船でポシェットへ、さらに鉄道で西へ向かう。
中央アジア・カザフスタン・北部グズホルダ収容所に到着。抑留生活が始まる。
土木作業、コルホーズでの農作業、通信関係の作業など。
中国に引き渡されるのを恐れ、日本人で通す。
1947(昭和22)年7月、舞鶴に復員。「大山」という苗字を名乗っていたため、50音順で早く呼ばれた。
1952(昭和27)年~1953(昭和28)年ごろ、多くの大学卒の台湾人が日本から中国へ渡ったが、そのまま消息不明になった。自分は大学生だったので、日本に残った。

第1部最後の証言者となりました。
当日のお話は、シベリア抑留までの軍隊生活を一通り、後半は台湾人元日本兵の戦後補償について。
シベリア特措法では、抑留経験の生存者を対象に、抑留年数に応じて25万円または35万円の支給が決められたが、国籍条項があるため、日本国籍でない人は対象外であるとのこと。該当する台湾人、韓国人を合わせても30人もいないにもかかわらず。(少ないのは、帰国した人が多かったことも関係しているのでしょうか)
呉さんは自分の力で日本に根付き、人や財が集まる立場となられています。それを知っていると、「些細な額の支給で差別をする日本政府の恥かしさ」という言葉に迫力が増します。
冒頭は、「私は台湾人です。しかし、生まれたときは日本人でありました」という言葉から語り始められており、当時の情勢であるとしても、日本のよいところも悪いところも見つめてきたうえでの思いの深さがあるのだと思います。

保存の会とのおつきあいは長く、日比谷集会では「きっと時間が足りなくなるから、そうしたら自分は出なくていいよ、名前も呼ばなくていいよ」とおっしゃっていました。本気です。
実際時間は押したので返す言葉もないのですが、絶対にお話しいただかねば、と、進行の時間管理にいっそう気合いが入りました。
「今日ここに立てたのは神仏のご加護と感謝している」という締めの言葉に、頭が下がるとともに、第1部登壇者の方皆さんに登壇出来てよかったと思っていただけていたらよいのだけれど、と思ったものです。

「戦場体験史料館・電子版」に、呉さんの簡単な証言概要が掲載されていますので、併せてごらんください。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者19人目は、東京大空襲を隅田川で耐えられた清岡美知子さんです。

清岡美知子さん

清岡美知子さん

スクリーンの画像です。
清岡美知子さん

1945(昭和20)年3月10日時点で21歳。
浅草馬道に両親とお姉さんの4人家族で暮らしていました。
東京都経済局食糧課にタイピストとして勤務。米穀の配給を所管する部署。戦争末期には米がなかなか手に入らなくなり、大豆やトモロコシを混ぜることが多くなったようです。
3月10日、空襲警報で外へ出ると、ものすごい数のB29が低空飛行で焼夷弾を落としており、消火をあきらめて言問橋まで逃げていきました。防空群長だったお父さんが号令をかけていました。
隅田公園の橋の下に走ると、大勢の群衆が荷物とともに逃げこんで来ました。
火が激しくなり、川下側の船着場の石段から川へ入ったところで家族とはぐれてしまいます。
桟橋に掴まり、鉄兜で水をかぶりながら、1人で夜明けまで耐えました。このとき、言問橋は炎に包まれ、多くの人が身動きがとれないまま焼かれています。
水から上がって、寒いので橋の上で燃えている火にあたっていると、燃えていたのは逃げ遅れた人の死体でした。
死体が転がる中、家族を探しにいき、お母さんが倒れているのを見つけます。火のそばに運んで介抱していると、お母さんは目を覚ましました。お母さんの話では、お父さんとお姉さんは川でおぼれたようです。
船橋から来てくれたお父さんのいとこといっしょに遺体を探して3日後、2人の遺体が見つかりました。(公園に仮埋葬されていたのを掘って確認)
6月、お母さんの郷里の長野県へ疎開し、そこで農商省食糧管理局統計検査課に勤務するものの、食糧のデータを集める仕事はほとんど機能しなかったようです。

日比谷証言集会当日は、東京大空襲を迎えるころの状況、当日から数日後までの詳細な体験、そして戦後補償を求めての活動まで。
あえて「です」「ます」を排した原稿、一言一言にとても力がこもっているのが伝わりました。
いち早く原稿を書かれた方の一人です。「隅田川の生と死」というタイトルもご自身で最初からつけられていました。第1稿から当日に向けて、戦後補償をめぐる動きについて加筆してこられました。
空襲被害者の遺族会に入会し、大空襲の体験を語り、補償を求める裁判等で中心的な活動をされてきました。
8月6日、空襲被害の補償を目的とした超党派議員連盟が設立集会を開いたところで、タイムリーな時期でもあったのです。これも日比谷集会を企画したころには予想していなかったこと。
「私の存命中に実現することを切望している。皆様方のご支援をお願い申し上げます。」という言葉でしめくくられました。

戦場体験史料館に南鳥島で従軍されていたご主人の資料を持ってこられたのが保存の会との出会いですが、そのとき自己紹介として、ご自身の東京大空襲の経験と現在の活動について10分程度でさらりと話されたということです。
日比谷集会が決まった時に、ぜひお話いただきたい方としてお名前が挙がっていました。
そういう経緯のため、実は聞き取りという形ではお話を伺っていません。これからぜひ取材させていただきたいと思っているところです。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者18人目は、仙台空襲で負傷し右足を切断、日佐戸輝さんです。

日佐戸輝さん

日佐戸輝さん

日佐戸輝さん

スクリーンの画像です。
日佐戸輝さん 日佐戸輝さん

1943(昭和18)年、徴兵検査を受けるが、過去の病気の影響で丙種合格。第二国民兵として普通に働き続ける。
1944(昭和19)年7月、教育召集の召集令状が届く。朝鮮第22部隊の機関銃中隊で3ヶ月訓練を受ける。集められたのはほとんど体の弱い人ばかりに見えた。
1945(昭和20)年3月10日、当時住んでいた千葉県から東京大空襲の炎を見る。本所に住んでいたお姉さんが行方不明に。
このときから本格的に大規模空襲が行われるようになる。千葉では空襲に遭わなかったものの、連日空襲に向かうB29が通り過ぎていた。
5月、2度目の召集。市川の高射砲第115連隊の照空中隊計算班へ。各地の電波探知機の情報から敵の現在地を計算する任務。
7月、部隊はいったん青森に移動、すぐに仙台へ。
7月9日、仙台駅へ到着。仙台駅の倉庫で待機。
真夜中を回り7月10日になって間もなく、仙台空襲が始まる。
空襲を知らせる号令を受け、貨物ホームに走ると、弾が屋根を突き破ってくる。線路に伏せたが、右膝に被弾。戦友の助けでその場を逃れ、夜が明けて陸軍病院で切断手術。
激化する空襲を避け、病院は米沢へ、さらに山の中の小野川温泉へ移動。
8月15日、入院中に終戦。
病院が閉鎖されることになり、実家に帰った。義足を得て復職したが、片足では苦労の連続だった。
1957(昭和32)年、鉄道事故障害者との出会いをきっかけに、心身障害者児福祉会を設立。公的支援が不十分な障害者といっしょに、福祉の発展のための運動を続ける。

2005年、千葉県野田市で「野田市戦争かたりべの会」を結成。2006年からほぼ毎月、戦争を語る会を開催してこられました。今も代表を務められており、「平和のつどい」をはじめ野田市の平和活動の中心でいらっしゃいます。(かたりべの会の活動は、ほぼ保存の会と期間が重なっていることになります。)
2年前から、日比谷証言集会実行委員長を務めた板橋君が定期的に野田に行き、このかたりべの会の方々の証言を収録させていただくようになりました。そのきっかけをくださったのも、もちろん日佐戸さんです。「戦場体験史料館・電子版」の設立記念式典にもご参加いただき、それから保存の会の総会にはいつも来てくださっています。
保存の会では、昨年から、野田市の平和のつどいに、野田市戦争かたりべの会で今も活動される16名の方の証言パネルを出展させていただいています。

時に壇上のボランティアの助けを借りながらも、両手に持った杖を支えに、しっかりと壇上に進まれました。
当日のお話は、仙台空襲を告げる号令からスタート。さすがかたりべの会を開催されてきただけあって、大変臨場感のあるお話でした。
いち早く原稿をまとめてこられました。それから傷痍軍人となってからの苦難についての具体的な描写を入れて当日に臨まれました。
民間人の空襲被害者に補償がなかったことに心を痛めていらっしゃいました。

保存の会公式twitterに日佐戸さんの体験についてのつぶやきがあります。