あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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昨日、憲法研究会の「憲法草案要綱」について書きましたが、憲法研究会のメンバーの名前を見てそれがどんな人なのかまったくわからなかったので(不勉強ですみません)、主要メンバー7人について簡単にまとめてみることにします。
読売新聞関係者や、戦時中は国粋主義者だった人等、意外な顔ぶれであることに驚きました。

高野岩三郎
東京帝国大学法科大学卒業、ミュンヘン大学に留学し、統計学を学ぶ。東京帝国大学法科大学助教授(統計学)。経済学部を法学部から独立させることに尽力。大原社会問題研究所設立に参加し、設立から死ぬまで所長を務める。1946年日本放送協会 (NHK) 第5代会長。1948年日本統計学会初代会長。日本社会党の顧問。

馬場恒吾
同志社神学校から東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業。ジャパン・タイムス、国民新聞の記者を経て、読売新聞社の主筆・社長などを歴任。リベラリストの言論人として活躍。『暗黒日記』に「戦争に心から反対したのは石橋湛山、馬場恒吾両君ぐらいのもの」と記された。

杉森孝次郎
早稲田大学卒業。文部省特別留学生としてドイツ・イギリスに渡り、イギリス倫理思想を学ぶ。帰国後、早稲田大学文学部及び政経学部の教授を務めた。教授時代、「後進に道を譲る」と言って、学生が来ると道を空けたといわれる。象徴天皇制を考案。英語が堪能で、「憲法草案要綱」を英訳、GHQに持参する役目を果たした。

森戸辰男
東京帝国大学法科大学経済学科卒業。高野岩三郎の経済統計研究室で助手後に経済学科助教授となる。経済学部の法学部からの独立を主導。同じ助教の大内兵衛編集による機関誌『経済学研究』にクロポトキンの思想を紹介したことで新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により起訴された。大学を失職した後、大原社会問題研究所へ。戦後初の衆議院議員総選挙に出馬し当選。天野貞祐らと教育基本法原案の骨組み作成に携わる。日本国憲法に第25条「生存権」を加えた。

岩淵辰雄
自由通信社、国民新聞、読売新聞、東京日日新聞の政治記者。1945年、近衛文麿を中心とする、いわゆる「ヨハンセングループ」による早期終戦の和平工作に参加し「近衛上奏文」の草稿作成に関与し、同年4月に吉田茂・殖田俊吉とともに憲兵隊に逮捕される。後に読売新聞に復帰、鳩山一郎のブレーンとなる。科学技術庁顧問となり、原子力基本法に深く関わる。

室伏高信
明治大学法科を中退、二六新報、時事新報、朝日新聞の政治部記者を経て、第一次世界大戦後に雑誌『改造』の特派員としてヨーロッパに渡る。雑誌「日本評論」主筆を務めた。満州事変後、軍部とのつながりを深め、太平洋戦争を賛美。戦後は公職追放の後、思想を転換。新生社を創立し、雑誌『新生』を発刊、憲法研究会メンバーが多く寄稿した。

鈴木安蔵
京都帝国大学哲学科に入学するが、経済学部に移る。京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり大学を自主退学、豊多摩刑務所に服役。マルクス主義的立場から大日本帝国憲法をはじめとする憲法史・政治史を研究、特に大日本帝国憲法の成立過程の実証研究のさきがけとなった。静岡大学教授、愛知大学教授、立正大学教授等を歴任。憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)結成に参加し、初代代表委員に就任。
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本来当日にやるべき戦後70年、今日は何の日特集、忘年会の影響で2日遅れでお送りします。

終戦の年、憲法改正の議論が、政府のみならず、民間でも行われていました。軍国主義が解体されてゆき、一応自由と民主主義を主導する米国の占領下、いろいろなグループや個人によって憲法草案が発表されていたわけです。
その代表が、1945年12月26日に発表された憲法研究会の「憲法草案要綱」でした。
天皇の権限を国家的儀礼のみに限定し、主権在民、生存権、男女平等などを盛り込んでおり、GHQの憲法改正研究のスタッフも関心を寄せました。実際に、GHQによる憲法案に大きな影響を与えたようです。
憲法研究会は、統計学者の高野岩三郎の呼びかけで1945年11月5日に結成された民間グループで、メンバーは、高野、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵ら。
呼びかけ人の高野は、この「憲法草案要綱」にも満足できず、天皇制廃止・大統領制を採用した独自の「改正憲法私案要綱」を雑誌に発表したということです。GHQはこのころには天皇の存在を戦後の統治に利用する方針をとっていたので、高野案までいくと少々微妙な反応だったかもしれません。

さて、今年はたまたまこの日忘年会が開催されましたが、戦場体験放映保存の会は、2004年12月26日設立です。
戦場体験放映保存の会設立の日は、現在の日本国憲法と近い形の憲法案が民間から提示された日にあたっているのです。
「年末ごろに設立すると1年早く○周年と言えるよ」と初代代表が言ったのがきっかけでこの時期に総会を開いて設立となったらしいので、日付が被っているのは偶然でしょう。たぶん、設立からのメンバーも気づいていないのではないかと思います。

70年たっても、憲法をめぐってはいろいろな議論があるところですが。
つい4ヶ月ほど前まで戦時下で思想・言論統制されていたところから、GHQよりも早く民主主義的社会を描いた憲法を民間のグループが生み出したというのは画期的なことだと思います。
一昨日、来年の計画を発表する時に、事務局長が、一連の活動について「保存の会がやらなければ、誰もやらないと自負しています」と豪語しているのを見て、70年前のグループのことを思い浮かべました。
というのを、2日遅れでぼそりと言ってみるのでありました。
74年前の今日12月8日は、真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦した日です。
戦後は、この日に合わせるように、それに対抗するような動きが見られます。

1945年12月8日には、日本共産党など5団体主催の「戦争犯罪人追及人民大会」が神田の共立講堂で開催されました。
そこでは、天皇・皇后を含む1000名以上の戦犯の名前が挙げられたということです。戦争犯罪人名簿は軍部・警察・財閥・右翼・政党・言論・婦人など各界の指導者に及んでいたものの、この大会から直接戦争犯罪追及の具体的な動きにはならなかったようです。

一方、連合国側による軍事裁判が本格的に動き出していました。
12月6日には、GHQが近衛文麿・木戸幸一ら9名の逮捕指令。10日後の16日、巣鴨拘置所出頭の日、近衛文麿は服毒自殺します。
12月7日には、マニラの軍事裁判で山下奉文大将に死刑宣告が出ていました。
12月10日以降になると、捕虜の虐待等の容疑でBC級戦犯の逮捕、軍事裁判も始まります。

連合国側によるこうした動きは、戦争を支えたシステムの解体という面だけでなく、日本に対する報復の意味もあったといわれています。
軍人恩給の停止もその流れの中にあり、その結果傷痍軍人や戦没者遺族への手当ての支給まで停止されることになったようです。

対馬丸を撃沈したボーフィン号が12月8日に進水したことから、「真珠湾の復讐者」と呼ばれていましたが、12月8日という日は、連合国側にとって、戦争を始めた日本に対する憎しみを象徴する日となっているのです。
「真珠湾を忘れるな」の合言葉は、戦中だけでなく、むしろ終戦後に、現実的な力を持って現れたといえるかもしれません。

昨日の全国空襲被害者連絡協議会の院内集会も、12月8日に合わせて行われた面があると思います。
こちらは、また違う方向から、戦争を始め、また終わらせなかった国の責任を問うものですが、空襲以降の苦難と亡くなった身内への思いを背景とする切実なものです。

戦争が人災である以上、始めた人が存在します。
ただ、戦争が始まるまでの流れの中、戦争を始めた人だけが悪いとはいえないところはあるでしょう。その辺りの歴史も振り返ってみる必要があるかもしれません。いかにして戦争が始まったのかについては、議論が絶えないのも確かですが。
そして、戦争を始めれば取り返しのつかない被害が出ることを歴史に学び、未来に繰り返すことを避ける責任は、誰しもが負っているのだと思います。
1945年8月15日以降の占領期の日本に関する年表を検索してみると、「11月26日 軍人恩給停止」という記述のあるものをいくつか見つけました。
しかし、実際にこの日から停止されたという文書等は、ネットでみた限りではみつけられませんでした。
戦後70年特集、ネットに転がる年表上で見つけても、裏が取れない場合はネタにしない(できない)ことにしているのですが、今回、一応70年後になるかもしれない今日取り上げてみることにします。来年の2月1日も戦後70年的な特集やっているかどうかわからないですので。

GHQから、軍人恩給停止についての覚書が出されたのは11月24日となっています。そして、覚書を受けて軍人恩給が廃止されるのが翌1946年2月1日からであるようです。(サンフランシスコ講和条約発効に伴って復活します。)
当初「戦犯者の恩給停止」の指令であったようですが、結局重症者を除く傷痍軍人や戦没者遺族への支給も停止されることになります。「名誉の負傷」とされたり、戦死者を出して「誉の家」と呼ばれたりしていた社会は一変するのです。
ただ、一般的な軍人恩給については、軍人として一定の年限を満たした場合にのみ受けられるもので、根こそぎ動員された多くの人達は対象外でした。シベリア抑留されていた方々も、抑留の期間は戦時とみなされず、従軍した年限として数えることができないことになっているようです。
恩給停止によっていっそう苦難が続いたというのが一応知識としてあっても、実態はあまりよくわかっていないことに気づきます。

保存の会でも今後、戦後の部分まで広げて証言を伺うようにしようという話をしていますが、恩給については一つのポイントなのかもしれません。
そして、やっぱりネット上を調べるのでは限界があるものだと感じました。

実は戦中までは、軍人以外の被害を救済する制度もあったのだという記述も見つけました。恩給が復活したとき、そちらは顧みられなかったのだと。
この辺りも、確認ができていないので、今後調べてみたいと思います。
70年前の今日、1945年11月22日、近衛文麿が、「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」(いわゆる「帝国憲法改正要綱」)を天皇に奉答しました。
もともとは同年10月4日にマッカーサーにより憲法改正を示唆されて始まった内大臣府による憲法調査の結果報告ということになります。しかし、翌10月5日には東久邇宮稔彦内閣が総辞職、、幣原喜重郎内閣になると、天皇を補佐する宮中の役職である内大臣府が憲法問題を扱うことに対して反発が生じてきました。
そのため、10月25日に設置された松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)が、政府側として調査を進めており、国の公式な調査はこちらということになります。

近衛文麿の要請で、佐々木惣一元京大教授が内大臣御用掛に任命され、憲法調査が始まり、政府側の憲法問題調査委員会とは別に調査を続けていました。
近衛文麿により「帝国憲法改正要綱」が上奏されて2日後、11月24日に「帝国憲法改正ノ必要」を上奏。この日、内大臣府は廃止されました。
12月6日には近衛文麿含め9名を戦犯として逮捕する指令が出ました。そして12月16日、出頭を命じられた近衛は服毒自殺します。
内大臣府の調査は、憲法改正すべきところを調査した結果の報告ということになるのでしょうが、憲法改正案の1つに入るようです。

政府側の憲法改正案は、基本方針が出されるのが12月8日、こちらの「憲法改正要綱」がGHQに提出されるのは、年が明けて2月8日です。
法制局や外務省、各政党、民間の団体・個人による私案も多数出たのは、今年11月3日にも書きました。
憲法改正されていないので、このころはまだ憲法上は天皇を長とする国家なのだと思うのですが、国家をつかさどる各機関等、一枚岩ではなかったということでしょうか。

と、当時の流れを振り返っているだけで、どうまとめたものかわからないのがこの辺の話の特徴です。(いや、私にとっての、です)
この調子で、年をまたいでもこの関係の話をやることになりそうです。1947年5月3日、日本国憲法が施行されるところまで、70年前のすったもんだの話を引っ張ることになるかもしれません。さすがに2年は続ける自信ないので、来年やっとこうかと思うのですが、予定は未定です。