あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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4月10日、さださんの誕生日です。
けっこうさだファンが集まっている保存の会、今年は長崎に行くわけで。
それも、さださんが立ち上げられたナガサキピースミュージアムで展示をやるわけなんですよ。すごいですね~。

・・・・・・と、いつもよりさらにテンションがおかしなことになっています。
さださんのバースデーライブに保存の会の名前を載せた提灯を出し、「語らずに死ねるか」をさりげなく掲げたはっぴを着たのはもう6年も前ですか。
アイテムはどちらも健在です。はっぴはこの前の年末年始も活躍しました。
しかし、長崎で着ることはないでしょうね。

保存の会はっぴまたはキャラバンはっぴでも作って着るべきかと思いますが、不謹慎だと怒られそうな気もします。
それでも集客が必要な場面なら、何か考えますが。

全国キャラバン、村を回る、とか言い出すと、さださんのチャリティーコンサートの行き先ともかぶってくるのです。
聞き取りや茶話会のボランティアでは、窮地にある方々を元気づけることは難しいというか、それどころじゃないと言われそうです。
しかし、意外と体験者の方を元気にする力はあったりするものです。

と、よくわからない思考が巡っておりますが。
ともかく、今年は長崎でお世話になりますのご挨拶を、誕生日おめでとうございますとともに、ひっそりとおおっぴらに行う次第です。
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昨日は4月8日、花祭り。釈迦の誕生日とされている日でした。
そんな中でも、ブログ係の頭は一日一度は大戦のことを考えるモードに入るのであり。
大戦中は、お寺の鐘なんかも供出させられたという話があるなあと思い出しました。

大戦中は、基本的に国家神道の下に動いていたのだろうというイメージがあります。
天皇を現人神としていましたが、その根拠となったのは神道だったはず。
となれば、戦時中、神社はそういう供出のようなことには遭わなかったのだろうか、というのが気になりました。

神社といってもいろいろで、稲荷神社など、八百万の神の類はまた別なのだと思いますが。
八幡神社などは、戦神として参拝対象となっていたのでは。
そういうところの賽銭箱の上の鐘などを供出対象とすると、なんだか罰当たりなような気がするのですが、そういうこともあったのでしょうか。

ちょっと調べれば本などあるのかもしれませんが、こうしてみると、戦争を記録する活動を9年ぐらいやっているわりに、あんまり当時の常識を知らないものだとつくづく思います。
知っていたら、例外も見つけることがあるものでしょうから、もっと「珍しい体験」に出会うのではないかな、という気もします。
しかし、そうやっていくと、際限ないですね。
広島で被爆された、詩人・エッセイストの山中茉莉さんの講演会に行きました。
放送大学多摩学習センターの同窓会主催です。
昨日の入学者の集いで開催情報を得たので、同窓生ではないですが参加させていただきました。

最初少し原爆の基本的なことについてお話されました。
爆風・熱線・放射線の3つが来ること。
特に、2km圏内では、町全体が持ち上がり上空で解体されて降り注ぐ、という説明にはびっくりしました。
原爆についての話などはそれなりに見聞あるのですが、この表現は、爆風(衝撃波)のすさまじさがリアルに伝わってきます。
山中さんはその圏内、爆心地から1.3kmぐらいのところで被爆されました。
当時2歳ということで、お話の内容はお母様から伝え聞かれたことが多いようです。
本来の家は山の陰にあったけれども、お父さんが戦争に行っている間実家に帰るように言われ、そこで被害に遭われたとのこと。食いぶち減らしの面があり、当時の生活の苦しさが関係しているわけです。
しかし、そのことで、帰ってきたお父さんが、「なぜわざわざ子供たちを被爆させた」と、お母さんを責めることになり、お母さんの苦悩に追い打ちをかけることになります。
原爆投下直後は、閃光の後、気づいたら町が瓦礫に変わっており、子どもたち(おばさんの子ども含めて6人いた)は、それぞれ遠くに飛ばされてケガをしていたそうです。
瓦礫の下敷きになった人たち、顔見知りを見捨てて炎から逃げたことが、お母さんを一生苦しめます。
黒い雨にもあたりました。
学校を卒業すると、差別を逃れて東京に出て、そこで就職、結婚されます。就職先では、むしろ広島からということでよくしてもらったそうです。結婚のときは、相手のお父さんが「あんな大勢の人が亡くなったところから生き延びてお前と出会ったのだから、ぜひきてもらいなさい」ということで、相手よりもその言葉に引かれて決められたのだそうです。
旦那さんと一緒に放送大学受講中なのだそうです。

山中さんを放送大学に誘ったそらさんという方もいらっしゃっていました。
当時は中学3年生で、呉海軍工廠に動員されていて直接被爆はしなかったものの、中学1年生の弟さんを探すために2次被爆されているとのこと。
この弟さんは、『いしぶみ』という本になっている、全滅した中学1年生の一人とのこと。

『いしぶみ』は、中学生の時に感想文を書かされました。自分だけ、何かのコンクールに出すために読まされて書かされたのでした。
こんなところで、その犠牲者の身内の方(本にも出てきたのかもしれない)と遭遇することになるとは、本当に人生わからないものです。

そういうかんじで、いくぶん久しぶりに、原爆の証言を伺う機会となりました。
同窓会会員ではない(卒業していないので入れない)ので、懇親会などには参加できなかったので、ご挨拶はできませんでした。
当ブログを書き始めて、今日で8年が経ちました。
毎日書き続ける記録は、とっくの昔に自己ベストを更新しています。
8年、よく続いたもんだと、自分で思います。ちょっとほめておこう。そして、うっかり明日書き忘れたりしたら大笑いしましょう。
まあ、実際問題、これを書いているおかげで、毎日必ず大戦のことを思い出す時間が一定量あるわけで。毎日、「今日は何を書くんだっけ」と一度は思うことになるのです。
正直、しんどい。だから、1回休むと転げ落ちるのが目に見えています。

保存の会の活動は、毎年毎年、忙しすぎてヤバイ!と思いながら、どうにかやりきって乗り切って続いています。
それこそ、1年間イベントを何も打ち出さなかったら途切れてしまうのでは?という危惧がある気がします。そして、かなりの度合いでそれは当たっているのでしょう、きっと。
自分たちはここにいる、いつだって戦争の話を聞きたいのだと、広く伝え続けることで維持している活動、なのかもしれません。
存在が伝わらなければ、出会えるものも出会えないのです。

そんな保存の会は、今年から3年計画ぐらいで、再び全国キャラバン強化をメインに掲げることになりました。
3年計画、だと、3年目にはキャラバン10周年ですね。東京オリンピックの年、戦後75年でもありますが。
キャラバン出発10周年・・・そこまで、毎日書き続けられるのかというのは、未知数です。何年たっても、それは保証の限りではありません。というか、すでに自己ベスト更新してからは、毎日未知の領域です。
来年の今頃、また「9年経ちました」と書いているのかどうか。
みなさん、見届けてください。(隙あらばイベント打ち出し路線が継続のコツだと言ったばかりですが何か)
昨日は保存の会の2018年総会でした。
体験者の方の参加が、昨年に比べるとだいぶ少なくなりました。
毎年いらっしゃっていた方々の姿が見られなくなり。昨年の総会の後で亡くなった方もいらっしゃいます。
比較的お元気な方も、茶話会はがんばって出てくるけれども、総会や交歓会までは無理できないという場合が多いようです。

そんな中でも、10名ほどは体験者の方が参加してくださったのですが。
10代で戦場を体験された方が目立っていたかんじがします。
海軍特別年将兵、陸軍特別幹部候補生、子どもの頃にテニアンの戦いに巻き込まれる、満州からの引揚げなどなど。
徴兵検査を受ける19歳以上のみならず、もっと若い、幼い世代にも戦場が広がっていたことを感じます。

全国キャラバンでまず第一に聞かねば、という対象は、当時成人で戦地に赴いた方々ということにはなっています。
一番、急を要するから、という理由です。
とはいえ、もっと若い層にも、大変な戦場を体験された方々は少なからずいらっしゃるわけで。
それゆえに、語りたいという声があれば、体験者の中でも老若男女を問わず、全国どこへでも伺います、というのを掲げることになります。
そういうことも考えた総会の一日でした。