あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
昨日、送迎だけのはずが話の誘導を頼まれたことで、考えたことについて。
送迎自体についても、うすうす感じていながら大きな道まで出てやっぱりタクシーがなかなか来なくてへこんだというのもありましたが。(行きは合流前に乗り場をチェックしていたのですが。エスコート不十分だとへこむのです)

相手の学生さんたちがどのくらいの知識を持っているのかというのもわからない状況なので、体験以外の当時の中国の情勢や、徴兵検査が19歳に引き下げられた辺りの話が入っても流しました。
最初の地図の説明で、一度歩いた工程を話してからエピソードを話すという説明を自らされたので、その前のちょっとした打ち合わせが伝わったのかと思っていたのですが。
話し始めてみると、さあようやくエピソードに行くか、と思ったらそこからまた一般的な話に戻るということを繰り返す流れで。それが確実に3回はありました。
前からこうだったんだろうか、と思っても、そんなに前のことは意外と知らないことに気づき。
ただ、11月の茶話会のときとは、脱線のパターンが違っていて、歳とともにどんどん回りくどくループするようになってくるものなのだろうか?それがけっこう短期間で進行するのだろうか?と思いました。

といいつつ、私も、これまでお話の中で聞いていないと思った背景などの部分は多少そのまま話してもらおうと思ったのもありました。保存の会のカメラも回っていたので。
印象に残るエピソードが3つ4つあるのですが、その時系列がこれまで何度か聞いていてもいまひとつつかめていなかったので、その辺の話がご本人の口から出るのならそれは記録しておこうというのがあったもので。
これは、何度か聞いているから出てくる発想ですね。
結局、全てが長引きすぎてよくわからなかったという状況になったわけですが。

何度か話すうちに出てくる新しい事実もあったりするので、その辺は常に探るというのはありますし、エピソードのみを語ってもらうということも、外野としては望むけれどご本人としてはそうでもないのかなというところもあります。
30分ぐらいで一通り経歴を話して残り30分でエピソード、とか、考えますが、それがうまくはいかないし、もしかしたらうまくいかせようというのが実体験をよくわかっていないということかもしれないし。
すっきりわかりやすく、とはいかないということまで含めて戦場体験の語りなのかと思い始めるともうだめなんだろうなと思います。

そういうわけで、正直私は仕切りは下手なほうです。
東京の茶話会の前、「もう、テーブルに着くのは無理」と思いました。ただでさえスタッフ不足でやらざるを得ないからやって、だからそのままフェードアウトとはならなかったのですが。
ずばずば仕切るというのは、自分はどんどんできなくなりそうな気がしています。
しかし、体験者の方も、伝わる話し方というものはイベントなどで会得していかれるものだとしたら、誘導してこうするのがよいというのを示すことも大切なのでしょう。

個人的には、かかわりが長くなってくるごとに、思い切りというものはすり減っていくものなのかもしれないと思うのですが、もともとがそうでどうにかましになったり戻ったりしているだけなのかもしれないとも思います。
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立て続けに、昔のことを思い出して書いてみました。
実際、ちょうど時期が時期でふと思い出した高校時代のことがきっかけですが、その気になればいろいろ出てくるものです。

さて、こちらをお読みの皆様には、そういうことはないでしょうか?
今から思えば、あれは大戦の名残だった、というようなことが思い当たりませんか?
あの頃はあったけど、今はお目にかからなくなったと気づくものはないでしょうか?

正直なところ、これをやるとしたら本当に最終段階なのかもしれないと思いますが、フライングでやっても悪くはないはず。
大戦と関係があったのではないかということを、片っ端から思い出してみることを、皆々様にお勧めする、ということを。

全国キャラバン再強化で何をするか?
これまで行っていない場所に行く、これまでやっていないことをする。
そのとっかかりとして、日常の中に何気なくあった戦争の記憶らしきものをとりあえず引っ張り出してみる。
さらにそれをお薦めしてみる。

そんなところです。
まじめな話、戦没者追悼イベントをやっているセクションを調べるというのは有効なのでしょうし、何かしらの戦争の記憶を直接持っている方を探すというのは本来の目的の一つであるわけなので、ここは何でも考えてみるべし、ということにしておきます。
15日ということで、8月15日を連想してみる本日。

地元では、8月15日前後に村(当時)主催の剣道大会がありました。
「戦没者追悼」を謳った剣道大会でした。
奉納試合のようなものだったのでしょうか。
記憶にあるのは中学校ぐらいまでで、高校のときは「受験勉強で真っ黒に」だったので、観に行った記憶があまりない気がします。
30年以上前なので、当時は戦後40年前後。先の大戦はまだけっこう身近なかんじでした。
同じころ、夏休みには、「おじいちゃんおばあちゃんから戦争の話を聞こう」という宿題も出ていました。
そういうわけで、戦没者追悼の剣道大会があることも特に違和感はなかったのでした。

しかし、今は、敗戦直後、米軍占領下では、武道が戦争あるいは軍事色と関連するものとして禁止されたこともあったという知識が入ってきています。
剣道部の顧問の先生やお寺の住職にも戦場体験者がいた当時。
天皇家の写真が各家庭に飾られていた地元。
今から思えば、戦没者追悼で剣道大会を行うことになった背景が気になります。
この剣道大会は、今も行われているのかどうか?おそらく、少子化の影響で、平成の大合併より前になくなってしまったのではないかと思うのですが、今度それとなく聞いてみることにしましょうかね。
バレンタインデーだなあと思ったら、突如頭に浮かんだこの言葉。
世の男子の心の叫びであろうことはさておき、終戦直後に子供たちが米兵にものをねだったという話で出てくる象徴的な言葉です。
試しにネットで「戦争とチョコレート」を検索してみると、物語やアニメのタイトルばかりがヒットするのですが。
中に、質問掲示板で米兵がチョコレートを配っていたのにはどういう意味があったのかというのを見かけました。

・米軍の進駐マニュアルに載っているという説
・米兵に標準的に支給されているレーションにチョコレートの入ったものがあり、あまりそれを好まない米兵が配っていたという説
・道端の猫にエサを与えるのと同じ感覚だったという説
・個々の米兵の善意説

などがありました。
ちゃんと調べれば、占領政策としてあったのかどうかということは出てくるのかもしれません。
また、当時のチョコレート事情というものも、もしかしたら関係あるのかもしれません。

子どもたちの側からすると、敗戦直後は食糧難で、カロリーと甘さの両方を備えるチョコレートを欲するのはわかります。
今でも、非常食となるぐらいですから。

元兵士の話の中でも、上官にチョコレートをもらうエピソードなどあった気がします。
どのくらいの範囲で普及していたものだったのか、歴史的背景として調べてみるとまた時代の見方が変わってくるのかもしれません。
なんとなく象徴的過ぎて当たり前になっていることに、改めて関心を持つことは、時に必要なのかもしれないとも思います。
なんとなく、そういえば今を去ること30年ぐらい前、高校合格が決まったのが今頃だったなあ、と、ふと思い出しました。
高校は若い先生たちが多く、父と母の中間ぐらいの先生が年齢的に上から数えて5本の指に入るというようなところで、受験校で、「高校時代は灰色など生ぬるい、真っ黒になれ」とのたまうような環境だったわけなのですが。

その、父と母の間の年齢ぐらいの英語の先生(今だと74歳ぐらい?)が、授業中の脱線話で、自身の経歴を少し話されていたことがありました。
外語大を出る年、商社を受けたところ、2つの理由で落とされたと。
1つは、視力が非常に悪かったこと。これは、戦後栄養失調だったため、とのことでした。
もう1つは、父親がいなかったこと。戦争で亡くなっていた、とのことです。当時は、戦死だと思っていたのですが、空襲などの可能性もあるというのは、今になって気づきます。その辺ははっきり聞かなかったのか、実際戦死だと聞いたのか?
親父がいないのは自分のせいではなく戦争のせいなのに、それを理由に採用されなかったことが悔しかった、とのことでした。
むろん、そのとき商社に入っていれば、教壇に立つことなどなかったわけで、人生万事塞翁が馬ではあるのかもしれませんが、それはさておき。
1つ目の理由、栄養失調も、父の不在の影響が大きかったのかもしれません。

高校卒業後、正月には先生のお宅にお邪魔して、歴代教え子有志と飲む、という集まりに何度か出たことがありましたが、もちろん「今」の話に花が咲き、在学中に聞いたその話を思い返すことはありませんでした。
それはごく普通で、そうあるべきものなのだと思いますが、今の自分からすると、惜しいことをしたと思ってしまいます。

高校の頃、将来何になるかというのを考えたとき、国連職員というのを考えたのは、小学校の頃からずっと戦争のことが頭の片隅どころでない範囲にあったからで。
その先生のおかげで、在学中は英語の成績はそれなりによかったのですが。
いかんせん、その受験一直線で英語漬けになった故にか大学に入ってからは英語を勉強するのに身が入らず、また勉強しても使いこなせるようにはならず。
条件の1つである大学院卒はなんとかやったものの、語学はまったくのまま受験可能年齢を越えて今に至るのも、また塞翁が馬の途中なのでありましょうか。
先生、誠に申し訳ございません。