あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
昨日、大田昌秀さんの死と遺されたものについて考えていました。運動の先駆者として形をつくられた方が亡くなった後、どのように引き継がれていくのかと。

そこで思い当たりました。保存の会も、先駆者が亡くなっていることに。
保存の会を設立し、初代代表(2代目はいない)を務められていた上田哲さんは、戦場体験史料館が今の場所に開館するのを目前に亡くなったのでした。
私は、来場者として初めて保存の会の活動に参加したのが第2回日比谷証言集会で、そのときには上田さんはすでに病床にあり、ストレッチャーであいさつをされていたのを見ました。
私がこの方を見たのは、これが最初で最後となり。この第2回日比谷証言集会の後保存の会に顔を出すようになるのですが、この方と一緒に活動をするということはありませんでした。
2008年のことです。
保存の会設立が2004年の年末、それから4年後に、初代代表が亡くなった、ということです。
そして現在2017年。すでに8年半が経とうとしています。
保存の会が、保存の会として初代代表と歩んだ年月の2倍以上が、いつしかすぎていたのでした。

保存の会は・・・元気です。
もちろん、初代代表に鍛えられた初期メンバーがしっかり後を引き受けるばかりかいっそう暴走していることによる部分がかなり大きいですが、そこに巻き込まれてうっかり無茶を言い出してしまうメンバーも後を絶たず。(自分もその主要な一人ですが)
・・・・・・まあ、こういう組織もあるんだなあと、今更しみじみ思いました。
一緒に歩んできた体験者の方々との別れも時折やってきていて、先駆者を失っていく状況は続いているところではありますが。
保存の会のあり様は、偉大な先駆者を亡くして、これからに不安を抱える組織、運動の方々の希望になれるのではなかろうか、と思ったところでもあります。

遺されたものを引き継ぎ成長させながら、これからも、歩んでいきましょう。
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元沖縄県知事、田昌秀さんが亡くなったとのニュースが、保存の会公式twitterのつぶやきに出ていました。
ずっと戦争の体験を語り続け、世に問い続けていかれると思っていた方が、また一人去ってゆかれました。
沖縄戦から72年、沖縄の日本への復帰から45年。
その長い歳月の間に、ついに目指すところに届かないまま逝かねばならなかったのは、どういう思いだったのでしょうか。

沖縄戦と、世界で起きた虐殺を伝える拠点は、沖縄国際平和研究所として、展示室を備えて遺されました。
蒔かれた種は、これからどのように展開していくのでしょうか。

もう1つ形になったもの、「平和の礎」は、今年も刻銘者が増えました。
名前が増えるということは、あの戦争の時代生きて亡くなった方々が確かに存在したことが明らかになっていくということですが、それだけ犠牲者が多かったこと、今になってもその全貌がわかっていないことを伝えています。

ご冥福をお祈りするとともに、これまでの道のりと、遺されたもののこれからの道を改めて想います。
6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終結した、現在の「沖縄慰霊の日」です。
それもあって、6月は沖縄の慰霊の月となっていて、体験者の方々は学校などで講話をされていることと思います。

6月はまた、本土の方では大規模な空襲が相次いだ時期でもあります。
昨年大阪で沖縄戦展を開催するころ、6月に大阪で繰り返し空襲があり、慰霊の行事が行われているのを意識したものでした。
6月19日は、福岡大空襲がありました。昨年、九大の「生体解剖事件」と福岡大空襲の展示に行き、改めてこの時期というのを意識したものでした。今年は福岡でも「戦場体験者と出会える茶話会」を開催予定なので、いくぶん調べて当ブログでも少し描いているところではありますが。

これらは民間人に多くの死傷者を出した戦災ということになりますが、こうした戦災で家族を亡くされたり、障害が残ったりで、終戦後も困難を抱えることになった方々が多くいらっしゃいます。
全国の被害者が連携して声をあげられるようになっていましたが、望むような結果にはなっていないようです。
72年前のことが、ずっと影を落とし続けていることに、目を向けたいものです。

地上戦となった沖縄では、毎日が大空襲のようなものだったことになります。
年表上に特別に記されることのない、大空襲、銃砲撃の日々。
加えて直接敵兵と対峙することも起こるようになった、沖縄本島南部での戦いがあったのが主に6月でした。

一昨年の日比谷証言集会の前には、終戦までを併せてカウントダウンしていました。
それは、日々戦争によって人々が意図的に傷つけられ、殺されていく日々のカウントダウンでもありました。
今はそういう数字を書いてはいませんが、折に触れて意識できるようにやっていければと思っています。
本日より開催の表郷戦争回顧展。昨年10回記念で、今年は11回目なのですが。
この1年の間に、これまで実行委員会を引っ張ってこられた体験者の方が相次いで亡くなられています。
体験者の方々は、実際に戦争の体験をされた方としてはもちろん、戦争体験語りの語り手としていらっしゃる体験者の方やお客さん対応でも活躍されていました。
会場設営などの作業にはあまり多くは参加できなかったとしても、本番の会場で担う役割が大きかったことは容易に想像できます。

何度も繰り返しつきつけられる、戦後70年を超える歳月の現実。
体験者の方々と直接触れ合える機会については、世間一般的に減っていく一方です。

節目の年を超えて、これからが本番、という時。
それぞれの地域で着実に活動を続けつつ、さらに力を合わせていくことが必要となるのでしょう。

表郷戦争回顧展11回目、保存の会は12年半ぐらい。
保存の会のほうが少しだけこれまでの活動が長く、全国展開である分、体験者の方々と一緒にやっていける時間が幾分長いとはいえるのですが。
状況としては、表郷のほうが先輩ということになるかもしれません。
これからどのように取り組んでいくのか。お互い末永く続けていくために、学び合いたいところです。
情報交換とネットワークが、これからを進んでいく課題なのでしょう。

・・・・・・なんとなく、脳細胞の減少に抗って脳のしわを増やすというのを想像してしまいました。
それも時間の経過と学びとの関係であるわけだし。なんか、うまいたとえだったかもしれない、と自画自賛してみるのは、イベントが近づいてテンションが変わっているせいでありましょうか。
「憲法ミュージカル」、最終公演を見に行ったのですが、その最中に、ものすごい疲労を感じました。
日々の仕事やらと今やっている作業と、自分としてエネルギーをものすごく使って神経すり減らすタイプのものが重なっているせいもあると思いますが、「しばらく遠ざかりたい」という気持ちがよぎって焦りました。

ミュージカル自体は、参加者が多いのもあって、壮観でした。
沖縄戦のシーンは、集団自決の部分がだいぶ占めていた気がします。
その先に、新基地建設の問題がつながってきている構図が見えるもので。
沖縄の人たちが、どれだけ声をあげても行動しても届かないのをキジムナーも見ていて、基地建設に伴う自然の破壊とともに自分たちも危険にさらされている、というのが伝わってきましたが。

そういう中で、初めて沖縄キャラバンに行ったとき、運転してくださった大嶺先生が、しょっちゅう県民集会をしないといけないから大変だと話しておられたのを思い出しました。
国会議事堂の周りでも、仕事をどうにか調整して座り込んでいる人たちがいて、けっこうな頻度で集会がありますが。
資金的にも時間的にも圧迫されるけれど、やらないわけにはいかないという状況があって、日常の中に「集会」があることが普通になっている事態をリアルに思い浮かべて、それがきっかけで、最初の疲労感を自覚したのでした。

昨年、「松村幸子さんの戦争展」に平日ちょっと顔を出していて、「戦争展のある日常」というのを感じていたときは、状況が許すならこういうのもありだなあと思って、そんなことをブログでも書いたのですが。
差し迫った現実を相手に、繰り返し声を上げ、無視されるというのは、まったく違うしんどさがあるのだろうなと思います。

保存の会の活動は、平和というものにつながるものであるとしても、そういう「集会」とはだいぶ趣が異なっていて、関心のある意外な人たちと出会える場ともなっているし、自分たち自身も体験者の方々のお話が聴けるのが楽しみなところも大きく。
無茶なイベントを繰り返すのも、大変といっても、充実感があるものであったりもして。
けれども、そういう活動がどれほどの人に届いているのだろうか、伝わっているのだろうか、というのがよくわからない、というのは、日々実感するところで。
その辺のもやもやが、ミュージカルを見ている最中に、自分の中で、ふとシンクロしてしまったようです。
どうであっても、発信を続けていくということには、変わりないのですけれども。