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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
昨日まで2日間開催の「沖縄の戦争展」、大変たくさんの方にご来場いただきました。
証言映像を使った座談会、講演会ともに座り切れないぐらいの状態で、展示を見たい方が諦めるほどでした。この点は一考の余地ありです。しかし、会場が広くなれば余裕ができるかというと、結局その分お客さんが増えて、やっぱり壁際を空けるのが難しい状況になるような気がします。
今回の企画で思ったのは、やっぱり講演会というのは、一定の需要があるものなのだなということでした。
東京で開催する茶話会は、常に満員御礼状態で、テーブルを囲んで話し合うことができるのがいいのだと思うのですが、じっくり講演を聞くというのも、変わらず求められてはいるのですね。
もちろん、講師の方の人気も大いに関係あると思いますが。

今年は、いろいろなところで茶話会を行いたいと考えていますが、イベントとしては、今後も講演会と展示のセットというのはありなのだと思いました。
体験者の方がお元気なうちは、できる限り直接会ってほしいというので、体験者の方と会えるイベントを最優先しています。
ただ、今後先々まで、その証言をどのように活用していくかというのを考える必要はあり、そういうテーマを一緒に考えていくことも大切です。
様々な取り組みを共有していくことも、体験者の方がお元気なうちに、今後さらに進めていくことになるでしょう。

いずれにしても、多くの方が実は関心を持っていて、機会を求めているというのが感じられてよかったです。
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74年前の今日、沖縄戦末期の真栄里で、沖縄戦を指揮する米軍側の指揮官バックナー中将が戦死しました。
それから数日は、報復のため、米軍は白旗を上げる住民も殺したということです。戦車でひき殺す、並ばせて銃殺するなど、虐殺と呼べる状況もあったようで、沖縄キャラバンの途中、その場所の近くで会った方にちらっと状況を伺ったことがあります。(収録はできていません)
「この道に並ばされて・・・」という、まさにその場所でのことで、地上戦が行われた場所ならではの話でした。
その方がどういう状況で生き延びたのかというあたりなど、もっと伺いたかったのですが、次の機会があるかと思ううちにそのままになってしまいました。

各部隊に配属され、南部まで一緒に移動した女子学徒隊に解散命令が出るのが、このころです。
どちらかというと、翌19日の、牛島中将による最後の玉砕命令と関係するのだと思いますが。
「デテコイ」の声に応えず、壕内に潜み続けて攻撃を受け、大勢が亡くなるということが起こっており、投降すればみんな生き残れたのにという思いはそれぞれにあるはずです。
ただ、この時期は、特に出会った米兵次第というところもあったのかもしれません。

ところで、バックナーの碑と白梅の塔はすぐ近くにあります。
投降してバックナーの前に出ていた白梅学徒隊が、バックナーを道連れに手榴弾自決をしたと思っていた、という話を、ある体験者の方から聞いたことがありますが、沖縄でそういう噂もあったのでしょうか。
米軍が報復に非戦闘員を殺害したのが、バックナーが非戦闘員に殺されたため、というように伝わったのかもしれません。戦場に飛び交ったデマの1つというほうが可能性は高いですが。
実際のところそういう噂があったのかというのも、なかなか聞きづらい面もあり、やはりこれまでの沖縄キャラバンで他の方に聞いてみたことはありません。
6月22日(土)23日(日)、八重洲ブックセンターで開催の「沖縄の戦争展」、いよいよ目前に迫ってきました。

講演パートと、沖縄戦の兵士の上映座談会については、だいたい方向性が決まっています。
民間人被害者の上映座談会についても、だいたいの案が決まっていると思われます。
いまだ確定しないのが、女子学徒隊の映像上映です。空き時間使用のため、凝ったことをしなければ流しっぱなしもありなだけに、悩ましいところです。
動画を切り取る作業の時間があまりないこともあり、あまり細かい切り替えはできなさそう。
一方で、女子学徒にプラスして、証言パネルのある看護婦さんの証言は入れたら、という提案が事務局からあったので、実質1人当たり10分ぐらい、ハイライト部分を流す形なのか?という状況になってきました。
ただ、すぐに映像を取り出せない方のもあり、それは映像が間に合えば、ということになってきそうです。
第3高等女学校の方の映像もその1つで、もともと北部の戦いなので、他の学徒隊と同じ流れに置くことが難しいので、これは映像が間に合えば、単独で流しっぱなしにすることになる見込みです。
聞き取りと本当に同じものを流すとどうなるのかというサンプルにもなるでしょう。

看護婦さんは62師団野戦病院の配属で、兵士の上映座談会が62師団の近藤一さんなので、やはり62師団関連しばりで1つまとめるか?というのが再浮上。看護婦さん、瑞泉学徒隊、梯梧学徒隊の3人分構成。それだと、1人当たり2場面ぐらい使えることになります。流れとしても、扱いやすいのは確かです。
もう一方で、24師団のほうの2名分をまとめるのはかなり難しいです。沖縄陸軍病院を入れてこちらも3人、というのも別の面で問題あるような。となると、全学徒隊分使うのなら、全てひとまとめに混ぜるべき。
どうしたものか。
とりあえず、まずは62師団の分だけでもいけるようにまとめて最小限の形をつくるか、というところでしょうか。
今のところまだ手元に映像のDVDが来ていないので、どちらの形も難しいのですが・・・
明日DVDが手元に来るかどうかにより、手を付けられるところから組む、というなし崩しに結局はなるのかもしれません。

ということで、公開で自分がこれからやるべきことを確認しております。
途中経過の作業などで、公開可能なものが出て来たら、またここに書くかもしれません。

第13回表郷戦争回顧展最終日でした。

今日は、お隣棚倉町の衣山武秀さんがお話。
普段は、戦争の状況などについて講演される場合が多いようですが、今日はご自身の子どもの頃のことをお話されました。
フィリピンミンダナオ島の小学校1年生の12月に太平洋戦争が始まり、1ヶ月ほど学校から出られなくなったそうです。
その間に、校庭でフィリピン人やアメリカ系の人たちが銃剣で刺殺されるのを目撃。
やっと家に帰ると、現地で病院を建てるなどしていたお祖父さんとお父さんが、しばらく投獄されていました。
麻を扱う施設に日本兵20人ほど入りますが、その人たちの顔色が悪くなっていくのに、戦局の悪化を感じました。
1945年4月29日、米軍が迫っているというので、避難を開始。麻工場の人たちと一緒にジャングルに逃げ、そこで共同生活。
食糧がなくなり、先が見えなくなってくると、毎朝自決が起こるようになりました。
終戦を知らずその後も2ヶ月ぐらい潜んでおり、その間に亡くなった方も多かったのでした。
米軍に投降してからは、十分な食事が得られるようになり、体力も回復。
引き揚げの途中、小舟の中や待機場所で、日本兵による荷物泥棒に悩まされたということです。
周りには、孤児になった人たちもいて、日本に来てからも苦労が続きました。
写真や地図のパワーポイントを使ってのお話は大変わかりやすかったです。

展示のほうは、新しく寄贈もありました。
90代の方も送迎付きながらいらっしゃっていました。
地元で続けているからこその展開もあるのだなと思いました。

第13回表郷戦争回顧展にやってきました。
戦争体験語りの写真を撮らせていただいたのですが、遠いのと、なんか今回スポットライトが当たっていたのとで、よくわからない写真になりました。
向かって左が語り手の中島和子さん、右が実行委員長の緑川さんです。
さいしょ、中島さんが過去に書かれた体験記を、朗読の会の方が読まれてから、インタビュー形式でお話される形でした。
体験者の方の負担を軽減するために、何度も打ち合わせてこの形になったそうです。
が、質問に淀みなく答えられていて、かなりしっかりとお話が聞けました。

中島さんは、9歳のとき満州から引き揚げ。
お父さんは根こそぎ動員で兵隊にとられ、お母さんと妹、2人の弟と一緒に村全体の逃避行を始めます。
しかし、途中で弟妹は亡くなり、川に流すなどして、日本に帰れたのは、お母さんと2人だけでした。
たまたま先に帰国できていたお父さんと再会、子供3人が亡くなったことを告げることになります。
村の人たちと一緒にひたすら移動するだけで、何度も家族離ればなれになり、いつも、だれが死んだというのばかりを聞いていて、もう何も感じなくなっていたそうです。

今回、満蒙開拓資料館から借用のパネルも展示されており、いつもの引き揚げ、シベリア抑留のコーナーと併せて、状況がよりわかりやすくなっています。

表郷戦争回顧展は明日16時まで行われています。
明日は、子どもの頃フィリピンの戦いに巻き込まれた体験です。