あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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ゴールデンウイークの全国キャラバン南九州チームが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
ゴールデンウイークのキャラバンについては、昨年夏と同じように、当面、証言概要をブログに転載する都度、お名前を掲載し、リンクをしていく形にします。
南九州チームについては、ほぼ全員の証言が上がっています。

南九州チーム
訪問都道府県:宮崎県、鹿児島県
日程:2011年5月3日(火・祝)~5月8日(日)

◆◆5月3日(火・祝)◆◆

鹿児島県知覧町

知覧特攻会館訪問

◆◆5月4日(水・祝)◆◆

鹿児島県さつま町

◎田中茂さん
戦地等:海軍。通信技術者。マーシャル諸島・ヤルート環礁。

◎堀敏郎さん
戦地等:陸軍。衛生兵。中国。

◎久保成夫さん
戦地等:陸軍。中国。

◎外囿哲実さん
戦地等:中国・ハイラル。

◆◆5月5日(木・祝)◆◆

宮崎県宮崎市

◎中西学さん
戦地等:海軍。駆逐艦「初霜」乗員。アッツ島、キスカ島、マリアナ沖海戦等。

◆◆5月6日(金)◆◆

宮崎県宮崎市

◎井ノ久保武義さん
戦地等:海軍。軽巡洋艦「阿武隈」主計~航空偵察。真珠湾攻撃、フィリピン・レイテ島等。

◎金丸幸輔さん
戦地等:満州鉄道職員。

◆◆5月7日(土)◆◆

「宮崎空襲を語り継ぐ映画、交流、集い」参加

◆◆5月8日(日)◆◆

宮崎空港慰霊祭参加
宮崎公立大学の広瀬訓教授の研究室訪問
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南九州チームが5月4日(水・祝)に伺った証言の概要です。
さつま町高齢者クラブ連合会の4人の体験者の方の4人目です。

◆◆◆

◎外囿(ほかぞの)哲実さん
大正8年7月5日生まれ

昭和14年2月28日現役
第23師団558連隊 ハイラル

6ヶ月間初年兵教育。

昭和14年から昭和17年
塹壕堀、野外演習で過ごし、昭和17年4月に除隊。
除隊と同時に915部隊に軍属として配属。(病院勤務)

終戦まで病院の事務方を勤める。

【概要】
第23師団配属連隊で最初、弾薬庫保守を担当し、上官の評価よく、営門の担当、軍旗の保管まで任せられた。
23師団に一度、大変に失敗をしており、短剣を傷つけてしまった。
兵器検査が怖いと思っていたら、案の定引っかかってしまった。
3年兵に「奥歯をかめ」と言われて、軍靴で顔を殴られた。50往復は覚えていたが、その後気を失った。気付いたら藁の上で寝ており、顔がはれて目が開かなかった。一ヶ月くらいしてようやく顔のはれがおさまった。
兵士時代は、とにかく訓練。塹壕堀り、強行軍。強行軍の後に背嚢をおろせといわれ、おろすと重りを入れられた。すぐに走れといわれて殆どの兵士が途中で倒れて、自分を含めて3名完遂した。
歩哨は零下33度までは一時間、それ以上は30分。凍傷の危機が身近にあった。射撃よりも銃剣術を重視する訓練だった。白浜隊長は銃剣術の大家だった。ある日師団長に「銃剣術だけでいいのか?」と問われ、隊長は、「はい。銃剣術が最強です」と答えた。

昭和17年、除隊してから免渡河の915部隊に軍属として病院勤務。
被服の出し入れを担当していた。忘れられないのは、昭和20年8月3日にハイラルの陸軍病院にいったときにソ連のスパイが2人いるといって、憲兵が走りまわっていたこと。その5日後にハイラルがソ連から空襲を受け、部隊が損害を受けた。免渡河からブハトの移動を命令される。
病院の患者は自分で歩けるものは歩き、歩けないものはひとりずつ銃で殺されていた。
重要書類を焼却するようにいわれ、作業をしていたが、ソ連の戦車の砲撃音が聞こえ、逃げ遅れることを恐れ部屋ごとガソリンをまいて燃やした。
8月9日から後は衛生兵は戦場にいき、重傷者は手に負えず馬家は血だらけになった。日本軍が圧倒的なソ連軍に、爆弾を抱いて戦車に飛び込んでいると伝え聞いた。8月16日敗戦の報がきて、915部隊陸軍病院はチチハルの54部隊
で武装解除せよと命令があった。正式な武装解除後、兵士は連行され、軍属と看護婦は連行されなかった。

最後に「戦闘経験がなかった。兵士として戦いたかった」とおっしゃっていたのが印象的でした。
南九州チームが5月4日(水・祝)に伺った証言の概要です。
さつま町高齢者クラブ連合会の4人の体験者の方の3人目です。

◆◆◆

◎久保成夫さん
大正12年9月26日生

昭和17年12月10日 志願
第58師団96連隊
鹿児島から九江へ。訓練。

昭和18年
移動場所の記憶はなく、とにかく歩いた記憶しかないそうです。中隊についた初年兵30名のうち、半分が落伍し、他の兵士もマラリヤにやられ、戦闘をしていないのに、人が死んでいき、とてもつらかった行軍としか覚えていないそうです。

昭和19年6月 衡陽城攻略作戦参加
昭和19年8月 桂林掃討作戦参加
昭和20年   抑州に行軍中終戦

【概要】
工場で働いていましたが、肌に合わず、軍隊に志願します。とにかく、行軍はしんどく、それ以外話すことはない、といってました。
昭和19年の衡陽攻略は、夜間に陣地を作り、2日間で準備を完了させました。
歩兵砲担当だったので、攻撃命令とともに直接照準で目標に砲撃を加えました。1日で80発を発射しました。
昼の戦闘が終わると、夜間攻撃に歩兵は移りました。久保さんは、砲の監視を命じられて待機していましたが、小銃弾が激しく飛んできて、とてもたっていられず、砲の下に潜り、気がつくと寝てました。
朝になると夜間攻撃に参加した兵士が戻り、目が覚めました。そうしてまた砲撃をはじめ、昼頃に友軍機が3機きて攻撃、目標の屋根から白旗があがり、攻撃は静まりました。白旗とはある意味こんなに力の強いものかと感じました。
桂林攻略は予備を命じられ、陥落と同時に岩山の掃討作戦に参加しました。洞窟に敗残兵がおり、手榴弾を投げられたそうです。
やがて、洞窟から追い出し、5人の敵兵を捕虜にしました。そして、皆の前で銃剣で突いてその場で殺しました。
処刑が終わり、抑州に行軍中に終戦の知らせを聞きました。
南九州チームが5月4日(水・祝)に伺った証言の概要です。
さつま町高齢者クラブ連合会の4人の体験者の方のお2人目です。

◆◆◆

◎堀敏郎さん
大正11年10月7日生

昭和18年2月11日 
現役 漢口第一陸軍病院配属 軍直轄の衛生兵に。

昭和18年9月 
教育終了、事務の仕事。
病院の電話交換手をしたり、病院のラッパ手も勤めた。
何でもやらされた。

昭和18年末
応山の第三師団の野戦病院が移動したことに伴い、漢口第一陸軍病院から20名ほど補填にいく。堀さんも補填要員として応山へ。

昭和19年初頭
予備役の衛生兵下士官候補生教育。
武昌の陸軍学校で教育。
教育後、漢口第一陸軍病院に戻り、死亡係を拝命。

昭和20年8月15日 終戦
8月20日 武装解除 中国軍管轄で病院業務継続。

昭和21年5月 病院施設引渡し。
7月29日 復員完了。

【概要】
軍直轄の衛生兵として「呂第1639部隊」にて漢口第一陸軍病院に配属。戦前に医者であった叔父さんのお手伝いをしていた。外科以外は全て経験があったそうです。
配属後、上官に「希望の科はあるか」に「外科がしたいです」といったそうです。他の科は経験があるので、やったことのない外科をしてみたかったそうで、希望が通ります。ただし、手先が不器用なのでちょっと心配をしたそうです。
昭和19年から「死亡係」になります。これは、死体の処理をして、遺骨を司令部に納めるかかりです。
昭和20年8月15日の敗戦で、それまで死体を焼いていた火葬場が「活動停止」になります。火葬場は軍の管轄で、敗戦と同時に利用ができなくなったそうです。上官に掛け合い、上同士で役所仕事に抗議をしますが、なかなかラチがあきません。数日が過ぎていきます。
その間も、死体は放置され、新しい死体も入ってきます。
だんだん放置された死体は、顔が変形し、見られたものではなく、内臓腐敗が進んで、その水液が死体部屋の床に溜まります。ゴム長をはいて部屋に入ると「ザブザブ」と音がする始末です。
匂いも大変なので、ガーゼにメンタ油を1,2滴落としてマスクとしたそうです。
どうしても、火葬場が空かないので腐った死体を運び出し、自作の小さな火葬場(レンガで造った)で焼こうと試みます。ただし、死体全てを焼くことはできないので、大きなメスで手を切って、手だけを焼いて遺骨をとりだし、司令部に納めたそうです。手以外の部分は、病院の裏の薬草園に埋めたそうです。日がたつと、マキもなくなり、最後には指を切って遺骨を作ることにしたそうです。
南九州チームが5月4日(水・祝)に伺った証言の概要です。
この日はさつま町高齢者クラブ連合会にご協力をいただき、4名の方の取材を行っています。
そして、その日のうちに全ての証言概要がメーリングリストに上がってきていました。

◆◆◆

◎田中茂さん
大正15年3月5日生

昭和17年1月15日 
国民徴用令により2年間徴用を命じられる。
即日 海軍通信学校入校。
電波探信儀技術者(レーダー手)。

3月17日 
臨時通信術講習終了。
総動員業務を行う管区を佐世保鎮守府に変更。
 
3月19日
佐世保海兵団入団。

6月4日
第62警備隊付を命じられる ヤルート環礁防衛に。

8月6日
現地志願。 

昭和20年10月28日 
復員のため空母鳳翔に乗船して帰国。

【概要】
電波探信儀技術者として、軍属扱いで第62警備隊とヤルート環礁防衛のレーダー手として活躍します。
ヤルート環礁は、マーシャル諸島の南端にあり、連合軍の激しい空襲に見舞われた島です。およそ8,000機の航空機から5,000トンの爆撃を受けました。
田中さんの仕事は30km圏内に入った敵機の情報を高角砲手に伝えて、正確な対空射撃を支援することです。
空襲は毎日のようにあり、田中さんは「いつものことだから、情報を伝えて防空壕に逃げる」を繰り返していたそうです。警備隊の防空能力は高かったようで、「かなりの確率で敵機を落とした」そうです。
田中さんの近くで死ぬ人は少なかったようですが、まわりの木は裸になってしまい、だんだんと電探基地の場所が隠し切れなくなってきたそうです。
そんなある日、いつものように敵機を発見しましたが、7km圏内でも
基地のほうに近づいてきており、「あ、まずい。逃げないと」と思って防空壕入った瞬間に、電探基地は爆撃の直撃を受けたそうです。
もうもうと土ぼこりがおこり、高い防空能力を支えた電探は木っ端微塵になってしまいました。
昭和19年以後、補給も途絶え、高角砲の弾丸もなくなり、食料も不足しました。幸い、ヤルート島は魚が豊富にいたそうで、「漁労班」を組織して、田中さんと周りにいた200名は餓死することはなかったそうです。