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2012年9月に行いました第2回山陰キャラバンが9月24日(月)に伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。


◎居川伊勢松さん

取材日時:2012年9月24日
受領資料:中隊史2巻のコピー、ハルマヘラ会戦記のコピー

生年月日:1920(大正9)年1月8日
当時の本籍地:鳥取県

陸軍
所属:歩兵第63連隊、歩兵第211連隊
兵科:歩兵

1941(昭和16)年2月10日 現役兵として松江の歩兵第63連隊に入営。
 満州・興山に3年間駐屯。
 太平洋戦争の開戦は「やった、やった」と言う感じ、当時は勝つと思っていた。
 2年目、3年目は教育係を務めた。

1944(昭和19)年3月 歩兵第211連隊転属のためウースンに移動
 歩兵第211連隊第3大隊第12中隊の所属に。
 歩兵第211連隊は東京編成の部隊だったが、第3大隊がマレー方面に転属になり、その後部隊全体の南方転属に伴い63連隊から新たに第3大隊が編成された。

同年4月~ 上海からマニラを経てハルマヘラ島(セレベス島とニューギニアの間に位置する)へ
 輸送船1隻に5000人ほど乗り込み10数隻と、護衛艦も10隻ほどが船団を組んだが、潜水艦に待ち伏せされバシー海峡では隣の輸送船が、セレベス沖ではさらに3隻が沈められた。
 救命胴衣を着け出来るだけ甲板に出ていた。
 沈んだ輸送船の兵隊は護衛艦が救助したり、自分で島に泳ぎ着いた人もいたが多く亡くなった。
 自分たちは当初ニューギニア・ビアク島に行く予定だったがこれらの沈没によってハルマヘラ島に行く先が変わったらしい。

同年5月11日 ハルマヘラ島北部のワシレ湾に上陸
同年12月半ば モロタイ島(ハルマヘラ島北方の小島)へ敵前上陸
 モロタイ島は米軍が9月に上陸して島南部のドルバに飛行場を作りフィリピンへの攻撃拠点となっていた。
 元の歩兵64連隊は精鋭部隊と言われており上陸要員に選ばれたらしい。
 1隻に2個分隊が乗り2隻で西岸中部のチウに逆上陸。
 偶々米軍とは遭わず無事上陸できたが、武器などの揚陸作業にあたっているうちに、先に上がっていた日本軍の別の部隊に海岸に置いておいた背嚢を盗まれてしまった。
 そのため食糧が1週間分ぐらいしかなくなってしまった。
同年12月24日 米軍の陣地を攻撃
 上陸の際いなくなっていた米軍が再度海側から上陸し海岸沿いに陣地を作っていた。
 ここを中隊全体で総攻撃する事になり射撃を開始した途端、米陣地から照明弾が上がり明るくなって、米軍とは50mぐらいの距離しかなく手榴弾を投げてくるのがはっきり見えた。
 砲弾はモロタイ対岸のラウ島からもどんどん撃ってくる。
 手榴弾や銃弾がどんどん周りに落ち、あちこちで絶叫があがった。
 小隊長が戦死、呼びかけて背中を押すと返事はなくぶよぶよしていた。
 中隊長は腕をやられ重症、ほかの分隊長や少尉も亡くなって一時指揮官がいなくなってしまった。
 照明弾が消え攻撃が病んだので戦死者の小指を短剣で切り落として廻り遺骨として持ち帰る。

1945(昭和20)年 以降は大きな戦闘はなく米軍も積極的に攻めては来ず持久戦に。
 米軍の飛行場には鉄条網が張られ聴音機がつけられて攻撃は出来なかった。
 そのうち米軍自体がミンダナオなどの飛行場を手に入れ主力は移動していった。

同年4~5月頃 栄養失調が広がり始める
 塩も醤油も無くなったのが一番困ったが、海水を飯盒で炊くと50gぐらい採ることが出来た。
 でんぷんはサゴヤシから取る、サトイモ、サツマイモも。
 パパイア、パイナップル、エビ、カニ、ゴドゴ、モンキーバナナをヤシの葉で蒸す。
 野菜をてんぷらや炒めものにもした、ヤシの実のコプラも。
 個々に取った食べ物は分隊のものとする事が徹底されており、団結はしていたのが良かった。
 満州以来の部隊で規律が崩れなかった。

同年8月20日頃 敗戦を聞く
 ハルマヘラ島の方にいた部隊から連絡が来た。
ハルマヘラ島・ガレラに戻り、カウで自活生活に入る。
 収容所のようなものはなく自分たちで宿谷を作り自活生活を行った。
 東大農学部出身の兵隊がいて計画を立て指導をしてくれたので割と順調にいった。

1946(昭和21)年6月5日 田辺に復員する
 母が亡くなっていた、親戚が田んぼを預かってくれていた。
 田植えの季節ですぐに田植えをした、秋には自分の作った新米を食べた。
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9月下旬の第2回山陰キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
第2回山陰キャラバンは、皆様メーリングリストの日々の報告にお名前が挙がっていましたので、先に載せさせていただきました。

第2回山陰キャラバン
訪問都道府県:鳥取県・島根県
日程:2012年9月22日(土・祝)~9月27日(木)


◆◆9月22日(土・祝)◆◆

午前:鳥取県八頭町(やずちょう)
◎坂口栄さん
戦地等:歩兵63連隊。フィリピン、バレテ。

◆◆9月23日(日)◆◆

午後:島根県松江市
◎難波靖直さん
戦地等:湖北省→満州→シベリア5年→撫順→1956年復員

◆◆9月24日(月)◆◆

午前:鳥取県鳥取市
◎居川伊勢松さん
戦地等:歩兵第212連隊。ハルマヘラ島。
午後:
◎井上平夫さん
シベリア抑留11年。最後の船で帰国。

◆◆9月25日(火)◆◆

午後:島根県松江市
◎難波靖直さん(再訪)
戦地等:湖北省→満州→シベリア5年→撫順→1956年復員

◆◆9月26日(水)◆◆

午前:島根県邑南町(おおなんちょう)
◎品川始さん
戦地等:歩兵第232連隊。中国~満州~シベリア抑留。

◆◆9月27日(木)◆◆

午後:島根県松江市
◎柳楽林市(なぎらりんいち)さん
戦地等:浜田21連隊、ノモンハン
第2回山陰キャラバン3日目の9月24日(月)の様子です。
旅の最中にメーリングリストに流れたため、旅の途中のかんじが出ています。文中の日付はブログ係の方で入れました。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

都会人間という事になるのでしょうが、キャラバンに来ると列車の乗り降りに結構ハラハラします。
目的地が観光地でないので、ワンマンカーは1両目の前しか扉が開かないとか、自分でボタンを押すと前方の扉は開くとか列車ごとのルールがいろいろあって、地元の人にはどうという事のない事が思わぬドキドキの原因になります。
運転席の側に座っていると間違いはないのですが、そもそもどちら向きに走り出すのか分からず(単なる方向音痴?)
結局大きな荷物を持って走り出すはめになったりします。

もう一つ困るのは特にお昼時の便数が限られている事で、昨日は午後の聞き取りを入れるには午前の聞き取りを終えて11時37分の列車に乗るしか選択肢がなく、結果お一人目のお宅には8時過ぎに伺うことになってしまいました。
快く迎えてくださった居川さんには感謝あるのみです。


居川伊勢松さん(92歳)は満州からハルマヘラ島へ、(ハルマヘラ島はセレベス島とニューギニアの間に位置しています)更にそのそばの小島モロタイ島へ渡りました。
当初米軍の飛行場を奪取しようと激しい戦闘が行われ、指揮官が皆いなくなるような戦闘も経験しておられましたが、奪取は不可能で、そのうち米軍も前線を移していく中、中心は食糧をどう確保していくかという事に変化していきます。
それでも満州時代から強いと言われていた部隊は食べ物を自分のものとせず部隊のものにするという事が徹底されたようで、お話に殺伐とした感じが無かったのが救いでした。

中隊史(歩兵第211連隊12中隊)を作っておられましたが、皆が寄稿したものを時には分解して時系列に並べなおした手作り感溢れる力作で、173名中61名が亡くなられたそのおひとりおひとりの亡くなった状況がよく分かり、ご遺族にそれを伝えるために制作したという事が伝わってきました。
(お借りしてコピーさせて頂くことになりました)

いささか慌ただしく聞き取りを終えた後は、キャラバン恒例の92歳が運転する軽トラ! で無事予定の列車に。

午後の井上平夫さん(91歳)はNPO「十人十色」の福島さんにご紹介頂きました。
体験者の親族たちを若手語り部”カタライザー”として活躍させている団体で、甥の井上光弘さんはその中心の存在、郡家(こうげ)駅まで迎えてくださいました。

井上平夫さんは17歳で志願、兵隊さんにあこがれて入ったものの初日にいきなり欠礼で殴られ「えらいところに来た」と思ったそうですが、成績も射撃も抜群で陸軍中野学校に行くよう命令されます。
ご本人の意思や選択の余地はなく、行くまで詳しいことは知らされていなかったようで、師団長命令で連隊で選抜されたという事のようでした。
中野学校卒業後は主にモンゴルで情報収集に務め、敗戦はモンゴルの村の長老から聞かされました。
その後11年余のシベリア抑留、一番最後の船で復員された方です。
「こんな田舎者が何で中野学校に選ばれたのか」と話しておられましたが、そのことが大きく運命を変える事になりました。
あと1~2年早くお目にかかれていたらもっとたくさんのお話を伺えただろうと申し訳なく思うところもありましたが、光弘さんがたくさんの資料を用意して助けてくださいました。
以前ご本人の書かれたかなり分厚い手記があって、百冊だけ作りお手元にも最後の1冊だったのですが県内の図書館にはありそうなので何とか再会を果たさねば(今回は無理そうですが・・・)と思っています。
第2回山陰キャラバンが9月22日(土・祝)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。
史料館・電子版に掲載することを意識した構成になっているようです。ブログ仕様としては、いつものとおり一行文字数を決めずつめた形にしています。

◆◆◆

◎坂口栄さん(旧姓:倉岡)

取材日:2012年9月22日

1923(大正12)年11月15日生まれ
当時の本籍地:鳥取県

陸軍
所属:歩兵第63連隊
兵科:歩兵

6人兄弟の末っ子の五男

1940(昭和15)年 満蒙開拓青少年義勇軍に志願
 10町の土地をもらえると聞いていた。
 最初の1年は大訓練所、匪賊の襲撃を受け関東軍の1個小隊が来て助けてくれたのがきっかけで義勇軍でも軍事教練を行うようになった。
 後の2年は小訓練所、主に南満州鉄道の沿線警備にあたり開拓団としての農業訓練は殆ど無かった。
 これからは兵隊が必要だと訓練所の所長に言われ志願することに。

1943(昭和18)年1月 帰国して鳥取連隊に入隊(志願)
歩兵第63連隊(満州、留守部隊:松江)第3大隊第9中隊に編入。
 ※千田川以東は鳥取連隊、以西は松江連隊に入った。

延吉の第2教導学校で下士官教育を受ける、伍長に任官、3番で卒業したと中隊長が喜んでくれた。
連隊の幹部候補生教育の助教に。
 尋常小学校しか出ていないので高学歴者を相手に無理だと思ったが、教官に「頭はこちらで教育するから身体はお前が教育しろ」と言われた。
 候補生と自分とどちらが先に倒れるかだと思ってやった。
 のちに甲種幹部候補生は内地に戻ったが乙幹はフィリピンで全員戦死した。

1944(昭和19)年1月 台湾に 陣地構築を

同年12月 フィリピンへ
同年12月23日 フィリピン・サンフェルナンド港上陸直前に魚雷攻撃を受け輸送船が沈没
 輸送船には3個中隊が乗船していた。
 6時間泳いで救助される。
 同じ中隊では29人が亡くなった。
 駆潜艇が1隻いて魚雷を打ち油が浮いたので艇長が「お前らの敵を討ったぞ」と言った。

5~6日野戦病院で休んだのち原隊を追いかける。

1945(昭和20)年1月10日頃 連隊はバレテ峠近くまで引いて陣地構築に入る
 私の中隊はバレテの手前のプットラン(※要調査)に前進陣地を構築していた。
同年3月8日 米軍との戦闘で負傷
 中隊から2個分隊・20名を任されてこの山を守れと言われていた。
 双眼鏡で見ているとフィリピン人を道案内に米軍が来た。
 陣地構築はうまくいっていて、上空から見ても下から見ても分からないと友軍の飛行機から通信筒を落として貰っていた。
 深く誘い込むつもりだったが他の小隊の兵が撃って仕舞い米軍はどんどん集結。
 米軍はまず煙幕を作り近づいてくる、煙幕が薄くなると鉢合わせしていた。
 迫撃砲で左前腕と頭部に負傷を負う。
 敵が下がると分隊は殆どやられていた。
 中隊長に報告に帰ると「何で帰った、あと2個分隊やるからすぐ戻れ」
 衛生兵がヨーチンだけで処置をして包帯をして「戻ります」と報告すると、中隊長は「負傷した兵隊を前線に出す将校はおらん。2週間もすれば治るから帰って来い。それまで陣地はしっかり守るから」
 なぜ中隊長が方針を変えたかは今も分からない。
 それが同じ中隊の人に会った最後。

野戦病院に入院
 野戦病院と言ってもバレテ峠よりは前、最前線から一つ下がったところ。
 天幕もベッドも毛布もあるわけではない。
 空爆があるので固まっていると危険、握り飯を1個貰ってジャングルの中で銘々過ごす。
 軍医と治療をするところだけ横壕になっていた。
 誰かうちの兵隊が入らんか入らんかと毎日受付に行って待ったが誰も来なかった。

自己退院して大隊本部へ、中隊の全滅を知る。大隊本部付きに。
 中隊の最後の様子を伝えた軍曹も他の陣地に送られ戦死していた。
 (この最後の報告をまとめた連隊副官のお手紙を写させて頂きました)
“妙高”(日本兵が付けた名前)にいた。
 米軍は戦車で山に入り戦車砲で攻撃してくる。
 日本軍の速射砲は当たっても受け付けないので速射砲を撃った後出て来る兵隊を重機関銃で攻撃した。

 あるとき連隊本部に帰ると大隊長のいた壕が分からなくなっている。
 迫撃砲で壕が潰れていて生き埋めになった大隊長を掘り反して引っ張り出した。
 これ以降大隊長はほかの下士官を切り込みに出しても私を指名することはなかった。

同年5月頃 “南妙高”が落ちた。
 時期を見て脱出しろという連隊命令が出た。
 ある日土砂降り、今日が良いのではないかと退却(転進)を試みる。
 米軍には気づかれなかった。
 この頃には連隊(約3000名)は100名以下になっていた。

ジャングルの中を移動
 そこからが大変、人が通った道ではない、地図にはある地名を目標誰かいるはずだと行く。
 衰弱して体力が無い、 「班長、僕は行けません」
 「そういわずに1歩でもいいから抜けなきゃいかんで」と言っても殆ど行けない。
 森林を抜けた所に川があって、竹を切って筏を作り下ろうとした者たちもいたが急流があって淵に落ち込み殆ど亡くなっていた。
 私は筏を作ろうと言う大隊長を止めて牛車で下がった。
 木の実やニイナ(カヤの一種)、カエルを食べた。
“妙高”からの転進以降米兵を見ることは無かった。

ピナパガンに到着、ここで暮らすことに。
 部落があり住民は逃げていてそこで生活をする、畑も残っていた。
 マンゴ、パパイア、ドリアン、ミカン、米粒の入った壺やアメやさとうきびを見つけることもあった。

1945(昭和20)年9月 敗戦を知る
 師団司令部から軍使が来て敗戦が伝わった。
 武装解除で上陸以来ほぼ初めて現地人を見た。(双眼鏡で道案内を見た以外)
 トラックでマニラに移動、現地民が「パタイ、パタイ」と首を切られる真似をしたが、フィリピン人の護衛が付いて空砲を撃ってくれた。(米兵ではなくフィリピン人だったと)
 バレテ峠を通るとき皆で泣いた。
マニラの収容所に収容

1946(昭和21)年9月 名古屋に復員

最終階級:軍曹
写真資料:教導学校、幹部候補生の助教時代の写真複数
第2回山陰キャラバンの9月22日(土・祝)の様子です。
旅の最中にメーリングリストに流れていましたが、終了後の掲載となってしまいました。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

6時35分羽田発の鳥取便。
祝日の土曜日とあって早朝にも関わらず満席でしたが鳥取空港は比較的市街地に近く8時20分頃には鳥取駅に、あっと言うまです。

鳥取駅から若桜(わかさ)鉄道で因幡船岡駅へ。一両編成のワンマンカーでしたが午前中は2本だけの列車とあってかこちらも結構お客さんは乗っていました。
ちなみに帰りは車掌さんが乗っていて切符を切ってくれましたが(駅は無人駅で券売機もないので)首からぶらさげたパンチで乗車駅、降車駅、運賃、片道に穴をあけると言うもので懐かしいと書きつつ、本当に子供の頃経験したことがあったかは不明。

鳥取はちょうど稲刈りの時期のようで、車窓には刈り取りを終えた田んぼと黄金色の田んぼが互い違いに広がっていました。
駅に降り立つと、農夫がリアカーを押してその上に子供が2人乗った案山子のような等身大の人形。
インターネットの地図ではよく分からなかったのですが駅前の衣料品店で尋ねると「間違ってたら堪忍な、坂口さんは他にないと思うけど」と言いながらすぐに教えてくださいました。

坂口栄さん(88歳)は鳥取バレテ会から紹介頂いた歩兵第63連隊の体験者で
中隊で生還されたのは4名だけ、連隊全体でも100名帰れなかった部隊の方です。
「あれだけ迫撃砲が周りに落ちたのになぜ自分に当たらなかったかは分からない(本当は当たって負傷はしておられるのですが)思わぬ不思議や幸運が時々に起こって自分は生きるほうにいった」と。
戦後20回慰霊に行かれ、今春もバレテに行かれた!とおっしゃっていましたがその気持ちが溢れたお話で、特に負傷して野戦病院に入った後戦友が運ばれてくるのを待ち続けた(来ないことはむしろ戦死を意味している)けれども誰も来なかったお話が印象的でした。

とても愛らしい奥様と、ビデオカメラに興味津々の曾孫さんがたびたび登場する証言ビデオですが良い記録になったと思います。
列車の便数の都合でお昼ご飯までに終われないと分かりつつ伺ってしまいましたが「御祖父さんが戦争の話が出来るなら」ととても親切にして頂いたご家族の方も本当にお世話になりました。
奥様が全身で手を振って見えなくなるまで見送ってくださいました。