あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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四国チーム2班が5月3日(火・祝)に伺った証言の概要です。
「元兵士・戦場体験・百人展」に向けて、キャラバンでお話を伺った方の証言概要もまた上がってきつつあります。まだメーリングリスト等では流れていないものが多いですが、おいおい掲載していきます。
ブログ係もようやくキャラバンの証言概要を上げました。四国チーム2班とは、ブログ係のことです。香川での取材でした。

◆◆◆

◎城武夫(しろたけお)さん

○1934(昭和9)年6月 高松南高校の前身香川県立香川農業学校3年の途中で海軍志願。
横須賀海軍航空隊予科練習部に入隊。
・1937(昭和12)年8月まで予科練。普通学(数学、英語、漢文等一般の授業)と兵学(兵術、機関術、航海術等海軍の全て)をみっちり。
 体を鍛えるのが半分。「空を制せんとする者はまず海を制せ」ということで、夏は半日は水泳だった。
 予科練に入って最初に1回だけ体験飛行で飛行機に乗せてもらったが、それ以降3年間飛行機に乗ることはなかった。

○1937(昭和12)年、予科練を卒業してから1年間は毎日飛行機に乗って訓練。
 霞ヶ浦で単独飛行できるまでやる。(練習機)
 偵察、爆撃、機銃等、飛行機の上でやることを全て学ぶ。
 特に目印のない海の上で何時間飛んでも戻ってこられるように訓練をした。

○1938(昭和13)年、今度は3カ月(本来は半年)の延長教育。
 各鎮守府ごとに分かれて、管轄の飛行場で実際に戦闘で使う飛行機に乗って訓練。四国出身なので佐世保鎮守府。大村の飛行場で訓練をした。
 これが終わるとやっと一人前。艦隊で実用機に乗れるようになり、実習部隊に派遣される。
 支那事変の最中だったので、すぐに戦地へ。
 佐世保から上川丸に4~5人乗せられて広東の南、三窯(さんそう)島という島へ。海軍第14航空隊に配属される。
 1年ほどここで、援蒋ルートの爆撃。イギリスから蒋介石軍への物資補給を断つために、日々鉄橋や線路を爆撃。
 このころは相手の飛行機はほとんどなく、下から撃ってきていた。

○1939(昭和14)年暮れ、巡洋艦妙高の艦隊へ転勤。
 妙高に4機配備されていた水上機で爆撃や索敵。
・その年のうちに、三重県の鈴鹿航空隊の教官となり帰国。
・しばらくして爆撃専門の募集があり、千葉県で訓練に入る。

○1940(昭和15)年10月、飛龍で戦闘訓練。

○1941(昭和16)年8月ごろから、鹿児島での基地訓練。
 3000メートルの高度からの爆撃訓練だったのが、海面すれすれを飛んで爆弾を落とす訓練に変わる。

○1941(昭和16)年11月中頃、8隻あった航空母艦が終結。
・11月18日出航。択捉島単冠(ひとかっぷ)に着いた。
・11月22日、目覚めるとあらゆる船が集まっており、いよいよ戦争が始まるのだと思った。
・11月23日、飛行機の搭乗員が集められ、アメリカと戦争をすることを告げられる。
 このときはまだアメリカとの交渉中で、交渉が成立すれば攻撃せずに引き返すことになっていた。
・11月26日朝、単冠(ひとかっぷ)を出航。航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等、集まっていた船全てで船団を組み、北を通るルートでハワイに向かう。
・12月4日、オアフ島の北230カイリに到着。
 ずっと天気が悪く、上空に雲がかかっていた。その上を敵機が飛んでいて、「我が哨戒圏内に何ら見えない」といった電報を打っているのがわかった。
 このころ艦上では、灯火管制をし、無線の発信を止めていたが傍受はしていた。
 艦の上で射撃訓練や敵の船の識別訓練。8畳ぐらいの広さの模型を使って図上訓練をした。
・12月7日の夜、すでに交渉は決裂、いよいよ明日攻撃をするということで、艦長が祝杯を用意してくれた。
 髪と爪を切って包み、遺書を書く。特に書くこともなかったので、「男児の本懐これに勝る(すぐる)ものなし」と書いて託した。
 その日は早く休み、翌日は早くに目が覚めた。

・12月8日午前4:30ごろ、制服に着替えて甲板に出ると空は晴れて半分ぐらい雲がかかっている状態。
 整備の人たちがエンジンを回して整備、試運転をしている。
 急いで食事を済ませて、出撃用意で飛行甲板に上がる。
 5:00ごろ1次の183機、6:00ごろ2次の167機が出撃。1次として出撃。そろって編隊を組んで飛ぶ。
 7:30ごろ、オアフ島上空着。
 7:35、突撃準備態勢をつくれとの指令。
 7:40、全軍突撃せよとの命令により、出撃。
 海面すれすれを飛び、水雷を発射。他に、3000mほど上空から爆弾を落とす飛行機、急降下爆撃をする飛行機、敵の飛行機を迎撃する飛行機で総攻撃。
 7:49、「トラトラトラ」の電報が内地に打たれる。

 その時はちょうど夜明け前で、半分くらいいったところで太陽が出て、雲量4ぐらいで海が見える、攻撃が十分できるような天気だった。
 ちょうど雲の上に太陽が出て、非常にきれいで、あんな美しい日の出と言うのは生まれて見たことがないというかんじがした。搭乗員みんな同じように言っていた。
 これで日本が大変なことになる戦争の初めをつくるんだなということで、複雑な感じがして、しかしそういう世紀の大きな戦争のはじめを先駆けてやれることは、男の生きがいだなと思った。
 戦争時代を美化したり肯定したりはしないけれども、やはり戦争そのものには今日本は我々がやらなかったら、誰かが出て行ってやらなければならない、だったら自分が先陣を切る。これは男の生きがいだ本懐だということで、強い喜びと言うか感動的なものをもっていた。
 こういう太陽を見るというのは素晴らしいという気持ちでいっぱいだった。

 1次2次合わせて29機が落とされた。
 ハワイをたたいて本土までいくのではないかと言っていたが、それはできなかった。

○真珠湾の後、飛龍と蒼龍はウェーク島の攻略に参加したため、他の船より5~6日遅く日本に帰った。
 それで、休暇をとって帰ることもできず、別府で正月を過ごした。

○1942(昭和17)年1月12日、インド洋作戦に出発。
 アンボン、パラオ、ポートダーウィンにある施設の攻撃や、陸軍のニューギニア上陸の援護をして4月までいた。
 さらに、ジャワ、スマトラを回り、イギリス艦隊の船を攻撃。
・4月9日に、イギリス艦隊の基地になっていたセイロン島東海岸のトリンコマリーという港を攻撃したら帰るということになっていた。
 その最終日の攻撃でやられた。

 爆撃を終わって引き返そうとしたときに、敵の戦闘機が2機上がってきており、13ミリの機銃が40発ほど機体に当たった。
 かぶっていた飛行帽に弾が当たって炸裂、ゴーグルを上げていたので破片が目に入った。触るとべろっとした。
 燃料タンクを撃ち抜かれて、霧のように燃料を噴きだしながら、母艦に向かったが、ようやく母艦が見えたところでエンストしてベンガル湾に不時着。
 3人で乗っていたが、後ろに乗っていた同郷出身の稲毛君は直撃を受け意識がない。もう1人耳の後ろを撃たれた高橋君と2人で、稲毛君を飛行機から引っ張り出した。
 40分ほどだか泳いでいたら、味方の飛行機に誘導されて駆逐艦が来て拾ってくれた。
 駆逐艦は母艦の横について、そこからそれぞれ簀巻きにされて3人ともひっぱりあげられた。
 そこで気を失い、次に気づいたら稲毛君は死んでいた。
 翌日、(たまたま兵隊としていた)坊さんの読経と葬送曲とともに、稲毛君の水葬が行われた。
 緯度と経度で水葬地点はわかるので、そこが稲毛君の海の墓地になっている。まだ勝ち戦で余裕があったからこういうことができたのだと思う。

 飛龍に戻ったが、そこではほとんど治療ができない。赤城の軍医長は眼科を見られるというので、赤城に移った。
 そのとき、飛竜の甲板に艦長と山口多聞司令官がいて、「大変だったが、片目は大丈夫だから早く治して現役復帰して、これから搭乗員が足りなくなるから教育部隊でがんばってくれ」と握手をしてくれた。感激した。
 赤城で治療を受けたが、義眼をつくる等本格的な治療はできないので、内地へ。
 飛龍は佐世保に帰ったが、自分は赤城で横須賀へ運ばれた。横須賀の海軍病院に入院し本格的な治療を受ける。
 それをやってもらっているうちに、5月、飛龍もミッドウェーに行ってしまっていた。
 その後5月何日か、ミッドウェーで生き残った人たちが、何人かずつに分かれて収容されてきた。
 飛龍の同じ分隊だったのも、横須賀海軍病院に10人ぐらい来た。高知から来ていた小山という若い兵隊が夜中に訪ねてきて、ミッドウェーの話をしてくれた。
 飛龍の搭乗員は108名ぐらい乗っていたのがだいぶやられていた。飛龍で生き残った搭乗員はだいぶいたが、他の船に乗って戦争して、終戦時には11名になっていた。
 私も行っていたらやられていたと思う。インド洋で目をけがをして入院したから生きながらえたことになる。
 しばらくは情けない、みんなにすまないような気がして終戦になって帰ってからも話をするのも嫌になっていた。
・佐世保の海軍病院で療養勤務で、佐世保鎮守府付ということで、3カ月ぐらい、佐世保に下宿して病院に通う。

○1942(昭和17)年6月、静岡の大井海軍航空隊の練習部隊へ。
 そこで教官をやっているところへ市丸少将が来て、徳島航空隊へ転勤させてくれた。
 徳島で教えたのは、1943(昭和18)年に大学が停止になって学徒動員された人たち。13期~15期の予備学生。
 14期に裏千家の千や、水戸黄門の西村晃がいた。
 教え子は最後は特攻隊へ。各地から編成されて出ていく。訓練も短くして送り出した。
 何人かずつ編成されて出ていくので、選ばれなかった者は、「なぜ特攻にだしてくれないのか」と怒っていた。
 「いっぺんに行くわけにはいかないし、そのうちみんな行くし、しまいには我々も行くから慌てるな」と言ってなだめた。

○1945(昭和20)年8月、そのまま徳島の航空隊で終戦を迎えた。
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ゴールデンウイークの全国キャラバン四国チームが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
ゴールデンウイークのキャラバンについては、昨年夏と同じように、当面、証言概要をブログに転載する都度、お名前を掲載し、リンクをしていく形にします。

四国チーム
訪問都道府県:香川県、愛媛県、徳島県、高知県
日程:2011年4月28日(木)~5月5日(木)

◆◆4月28日(木)◆◆

午前:愛媛県松山市
◎堀本邦雄さん
戦地等:満州軍官学校、シベリア抑留

午後:愛媛県松山市

戦地等:ボナベ島

◆◆4月29日(金・祝)◆◆

午前:愛媛県西条市
◎矢野正美さん
戦地等:フィリピン・ルソン島。

午後:愛媛県新居浜市

戦地等:西部ニューギニア

◆◆4月30日(土)◆◆

愛媛県宇和島市

戦地等:海軍特殊潜航艇

◆◆5月1日(日)◆◆

高知県東洋町
◎坂本弘勝さん
戦地等:中国、ビルマ。

◆◆5月2日(月)◆◆

午前:徳島県徳島市

戦地等:ビルマ

午後:徳島県徳島市
◎木村義次さん
戦地等:燃料廠
協力:校舎のない学校

◆◆5月3日(火・祝)◆◆

●1班
午前:徳島県徳島市
◎勝浦守さん
戦地等:ビルマ

午後:徳島パゴダ見学

●2班

香川県高松市
◎城武夫さん
戦地等:真珠湾攻撃

◆◆5月4日(水・祝)◆◆

徳島県阿波市

午前:市場図書館収録会

午後:
●1班
◎大塚唯士さん
戦地等:青年学校2年時、市場飛行場建設に動員。

●2班
◎後藤田茂明さん
戦地等:海軍。重巡洋艦「妙高」乗員。ブーゲンビル沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦。

◆◆5月5日(木・祝)◆◆

午前:徳島県阿波市

●1班
◎吉川格郎さん
戦地等:勤労動員。市場飛行場接収経験。

●2班
全国キャラバン四国チーム、無事帰還しました。


市場図書館最寄りの「学」駅にて。被写体は四国チームのリーダー。


徳島から高松へ向かう列車にて。瀬戸内海が少しだけ見えます。


高松駅。

帰る経路で写真を撮りました。徳島駅はうっかり撮りそびれていました。
リーダーは1便早い飛行機だったため、高松駅に着いてすぐ空港へ。そしてもちろん一足先に東京着です。
高松空港発最終便のブログ係は、先ほど22:50ごろ、東京の自宅までたどりつきました。

リーダーはひたすら長距離移動続きで、四国の外周3分の2ぐらい回っていたことになるようです。四国4県回っています。
ブログ係は、香川・徳島のみで、移動距離はそれほどでもなかったのですが、3日に亘って聞き取りをしたのは初めてで、「キャラバンに参加した」と少しは言える旅になったと思います。

四国の皆様、ありがとうございました。
お疲れさまでした。
5月3日(火・祝)その後、体験者の方に、午後伺いますという確認の電話を入れ、香南楽湯にいると告げたところ、今からどうぞ、ということになり、お昼ご飯をご一緒させていただくことに。奥様の車で、ご本人がおいしいとおすみつきのうどん屋さんへ。

「天下うどん本舗秀」さんです。
本場讃岐うどんは、とてもこしのある麺でした。



たけのことたらの芽のてんぷら付き。さすがにおいしゅうございました。
ご馳走様でした。

せっかくだから記念写真を、ということで、お店の方も一緒に記念写真。たまたま他に食べに来られていたお客さんに撮影していただきました。(笑)



向かって左から
体験者の城武雄さん、奥様、うどん屋のおかみさん、ブログ係、うどん屋のだんなさん

おいしいお昼ご飯の後、いよいよ聞き取りです。
後ほどまた証言概要を書きます。

城さん、皆さん、ありがとうございました。





ブログ係、高松市内に到着です。
高松空港から、なぜか香南楽湯で途中下車。ここから体験者の方のご自宅へ向かうわけですが、さすがにまだ早い。

ということで、朝ご飯を。ご飯食べるようなところはまだ開かないようなので、朝市で売っていたコロッケ、メンチカツ、エビフライをおかずに、米粉パンクリームチーズ味を食します。ちなみに今日はコロッケ特売日40円でした。




さて、取材開始まであと3時間。
予習して待ちますか。

そういえば、山陰地方の今日の予定詳細がまだわからない…
更新する時間くらいありそうですが。