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大学生1人旅2012夏休み、8月23日(木)に伺った証言の概要です。
かなりリアルタイムでの報告でしたが、掲載が遅くなりました。メーリングリストより転載します。

◎神谷房之輔さん(90)
取材日:平成二十四年八月二十三日
所属:関東軍司令部~第二十軍司令部~第十五野戦飛行場設定隊
陸軍軍属(技手)
戦地:満州~西部ニューギニア
―――――――――――――

○大正十年十月二十九日、静岡県生まれ。

・実家は製材業を営んでいた。
・浜松工業学校建築科に入学。
・四年の時に、満州と朝鮮を旅行した。
・卒業しないうちに、陸軍から学校に何名出せと言われたのか軍に行くことになった。
・二十八名のうち九名が関東軍に行った。
・卒業式は出ていない。

○昭和十四年二月五日、新京の関東軍経理部到着。

・一番偉い人は勅任官。
・元張学良の大学の寮に入った。
・二つのグループに分かれ、三週間新京の独立守備隊で教育を受ける。
・おわってから奉天出張所にしばらくいた。

○昭和十四年三月三十一日、東京城に移動。

・飛行場建設の現場で仕事を始める。
・飛行場と兵舎と宿舎の作業に分かれていた。
・飛行場は土木屋がやる。レンガの宿舎づくりをしていた。三百人くらいいた。
・関東軍の経理部からは二十人たらずが来ていた。経理部員は監督。
・清水組が工事を請け負っていて、その下請けに日本の大工がいて、その大工が満人のレンガ工を使って仕事を進めていく。
・多い時は五千人くらいいた。
・人が足りなくて、満州の人ではなく中支の山東省あたりの人が来ていた。
・中国人とうまくやれていたかはわからない。片言で話すだけ。考え方まではわからない。
・この時は雇員。五年で技手になる。
・40円くらいもらえた。現場手当で35円ついた。
・しばらくしてパラチフスに罹った。軍医が来て、すぐ他の三人と牡丹江の陸軍病院に入院することになった。
・伝染病棟。点滴がなかったのでリンゲル注射をした。痛い注射で五本くらい看護婦にやられた。
・そのうちノモンハン事件が停戦して、負傷兵が送られてくるためか、押し出されて退院した。

○昭和十五年三月三十一日、林口へ移動。

・何もないところ。歩兵や山砲の兵舎をつくることになった。
・本部のほうに残って材料の仕分けをした。
・水道をつくることになった。五メートルも掘れば岩盤に突き当たる。地中ダムをつくった。
・この時は鹿島がいた
・冬は水道が凍った。

○昭和十六年、貨物廠をつくることに。

・兵舎は出来上がってきた。
・大きな倉庫をいくつも作った。どんどん荷物を入れて行った。
・設計図は本部で描く。現場の監督。

○昭和十六年六月か七月、第二十軍司令部へ。

・鶏西の炭坑のところにあった。大きい街ではないが、ホテルが一軒、バーが一、二軒あった。
・設計図を描いたり、下っ端なのでいろいろなことをやった。
・上着だけ背広に帰れば民間人に見える。朝までに戻ってくれば問題なかった。
・上司に申し出ればいつでも実家に帰れた。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・曹長が戦争が始まったといって喜んでいた。
・戦争がどうなるか、負けるとか勝つとかいう考え方は持っていなかった。「これでいいのかな」とは思った。

○昭和十八年八月、豊橋の第十五野戦飛行場設定隊に転属。

・設定隊の中に軍属は四人。自分一人だけ建築で、あとは土木だった。
・一個大隊編成、三個中隊。本部にいた。
・ブルドーザーは一個中隊に一台。他にも伐かい車やローラーがあった。

○昭和十八年九月二十六日、宇品出港。

・若津丸。
・ブルドーザーや器材を積んだ。
・食糧は三ヶ月分持って行った。

○昭和十八年十月九日、マニラ寄港。

・一週間くらいいて、セブ島にも三週間くらいいた。

○昭和十八年十一月十一日、マノクワリ上陸。

・一万トン級の船がすぐに荷物を降ろせる港がマノクワリしかなかった。
・隊長と技手四人と先発隊で出発。器材はムミに

○昭和十八年十一月、ランシキ到着。

・ランシキはマノクワリから八十キロ。オランダが農場を拓い十二、三年くらいたっていて、小さなゴムの木が生えていた。開戦後、南洋興発が引き継いでいた。
・残りの人員や機材は大発で運んだ。
・元オランダ人の農場主の家に入った。
・すぐに飛行場建設が始まった。
・木に火を付ける。、一週間くらいでみんな燃えてきれいになった。
・土を持っていく要領がよくわからなくてブルドーザーはあんまり使えなかった。
・綿の紐が湿気で伸びてしまって、ジャングルから籐をとってきて五十メートル計って使っていた。

○昭和十九年一月おわり、飛行場完成。

・もう米がなくなった。
・農場後にタピオカが二ヘクタールくらいあって、大事にしていたら、命令で他の部隊へ出すことになった。
・それから毎日朝昼晩サツマイモ。飯盒の蓋に葉っぱの入った塩汁。
・飛行機が来ないうちは海岸で発破をかけて魚をとっていた。
・イノシシと鹿がいた。なかなか取れない。
・栄養失調で太る者と痩せる者がいた。
・軍医が二人いたが、薬がなくなった。
・マラリアで熱発。三日に一度と、四日に一度でるものがあった。体力がうんと弱くなる。幸いたいしたものに罹らなかった。
・飛行場が出来た後は、誘導路と飛行機を退避場所を作っていた。

○昭和十九年三月、判任官(陸軍技手)になる。

・給料は全部親元に送っていた。

○昭和十九年四月末ごろ、飛行場の発着テスト始まる。

○昭和十九年四月、ホーランジアに敵部隊上陸。

・あくる日、日本の軽爆撃機がきて、部隊で爆弾や燃料を入れた。
・下士官室で休んでいると、パイロットの准尉が来て、「飛行機もなくなってしょうがないね」と話をしてくれた。「あ~こりゃ戦争負けだなあ」と思った。
・情報が全然入って来なかった。

○昭和十九年五月二十七日、ランシキ初空襲。

・敵が十機くらいで爆撃に来た。
・ちょうど滑走路にいると、ボンボン音が聞こえてきた。「こーりゃまずいなあ」と思った。皆で三百メートルくらい走って、山の上の防空壕に入った。
・防空壕から見ていると、黒いブツブツが落ちて行くのが見えた。そのうちにザーッという音がする。雨が降るのと一緒の音がする。それからバーンバンとはぜる。
・土がなくて穴を埋めるのに困った。

○昭和十九年六月、加古川の十三戦隊の戦闘機が十三機きた。

・防空壕を掘れとやかましく言われた。
・敵が爆撃に来ても上がりゃしない。
・隊長になぜ上がらないのか聞くと、「命令系統が違うから」と言われた。
・そのうち飛行機で行ったのか、輸送船がきたのか、どこかに行ってしまった。

○昭和十九年六月末、ビアク島から米軍機がやってくるようになった。

・高い所からエンジンを止めてさーっと来る。

○昭和十九年七月、むかいのヌンホル島に敵上陸。

・マノクワリの部隊がソロンに転進することになった。
・ランシキで通過部隊に食糧を渡していた。一人当たり芋五キロを四千人に渡したと経理が言っていた。
・ニューギニアの海岸にいる原住民はおとなしい。ところが、山に住んでいるマネキヨという原住民はふんどしに弓矢を持っていて獰猛。
・一度満月の夜にマネキヨが米を盗みに襲撃にきた。整備部隊の不寝番が気付いて何発か撃つと逃げてしまった。
・ほとんどが栄養失調で死んだ。爆撃や弾でやられたのは五十人足らず。
・和尚も死んでしまって、死者を埋める時に「一つ、軍人は忠節をつくす」とか、軍人勅諭を読むだけだった。
・ジャングル中はシャツを二枚着ていないと蚊に刺される。
・食事するときは蚊よけに周りに火を焚いてその中で食べていた。

○昭和二十年八月十六か十七日ごろ、敵のコンソリデーデットがビラを撒いていた。

・終戦を知る。
・うれしかった。内地に帰れると思った。
・オーストラリア軍の将校が武装解除を見に来た
・武装解除は兵器をトラックに載せ、海に行って落とすだけ。
・船が来るので大発でマノクワリのアンダイに移動した。
・芋掘りをするだけ。ランシキは農場だったので芋がいくらでもとれたが、マノクワリは
・小高い丘に住んでいたので、海がよく見えた。
・高射砲隊がサメをとっていて、油をよく貰った。
・加藤大介の劇を見た。一ヶ月に一度、題を変えてやっていた。「浅草の日」などを三回みた。サツマイモを持って行った。
・役者の言葉をつかっていて驚いた。女形は浴衣を着て本物に見えた。

○昭和二十年五月はじめごろ、復員船乗船。

・二中隊の中隊長が追われていた。こきつかったので、兵隊が「殺してやる」といって探していた。逃げ隠れしてなんとか帰っていった。

○昭和二十年五月二十七日ごろ、名古屋上陸。

・「生きて帰ったなあ」という感じ。
・埠頭でりんごの歌がはやっていて「懐かしいなあ」と思った。
・最寄駅に着いて電話すると、死んだと思われていて家族に驚かれた。
・ニューギニアに行ってから召集令状が家に届いたと聞いた。

●終戦時、陸軍軍属。判任官(陸軍技手)。
保存の会の大学生メンバーの1人キャラバン、2012年秋の部です。
証言概要がだいぶ上がってきていますので、ここでひとまとめにすることにしました。
「山梨キャラバン」と呼ぶべきだろうかと思われるものも含みます。

◆◆10月27日(土)◆◆

静岡県静岡市
◎近藤軍八郎さん
戦地等:海軍。サイパン。

◆◆10月28日(日)◆◆

静岡県静岡市
◎望月芳郎さん
戦地等:海軍薬剤士官。本土。一時戦艦長門乗船。

◆◆11月3日(土・祝)◆◆

山梨県南アルプス市
◎今津茂さん
戦地等:独立混成第9旅団衛生兵。中国北部。

◆◆11月4日(日)◆◆

山梨県甲州市
午前
◎雨宮秀次さん
戦地等:甲府63歩兵部隊。グアム島。

午後

戦地等:レイテ島リモン峠

◆◆11月5日(月)◆◆

山梨県身延町
◎赤池光夫さん
戦地等:中国~マレー攻略、シンガポール攻略戦等
青春18切符の旅2011夏、9月1日(木)に伺った証言の概要です。
やはり今年の長泉町のイベント「戦争の悲劇伝えたい展」でもお話されています。
去年のメーリングリストより転載します。


◎星屋清さん(89)
取材日:平成二十三年九月一日
所属:独立歩兵第百七大隊~漢口第一陸軍病院~上海第一陸軍病院
兵科:衛生兵
戦地:中支
――――――――――――――

○大正十一年九月二十五日、静岡県生まれ。

・実家は農家。
・青年学校に五年間ちゃんと通った。

○昭和十七年七月、徴兵検査があり、甲種合格。

・八月か九月に兵科の通知が来た。それには衛生兵とあり、「嫌だなあ」と思った。衛生兵は兵隊ではないと思っていて、徴兵検査の時には歩兵を希望していた。恥ずかしかった。
・同じ地区から衛生兵が三名。
・甲種合格が中支、第一乙が満州、第二乙が三島の病院に配属になった。
・長男だったので、父親が「われもなあ、乙種ならよかったけんどなあ」と言っていた。

○昭和十八年二月十一日、福岡県須崎グラウンド集合。

・千名くらい集まった。
・旅館に一週間くらい泊まっていた。
・”きんぱ”旅館。
・夜は一時間交代で不審番を立てていた。
・一週間たった夜中、起こされて編上靴のひもを二周して縛って、西も東も分からないまま暗闇を連れていかれて、着いた所が下関だった。
・行き先はどこか分からないまま輸送船に乗船。
・戦友が「お昼に行こう」というのでついて行くと、食事が大嫌いなライスカレーだった。
・臭いをかいだだけで吐き気がして食べるどころじゃない。いそいで戻って船底で寝ていると、戦友が来て、「二杯食べた」と大喜びだった。

○昭和十八年二月十八日、下関港出発、釜山上陸。

・貨物列車に乗る。

○昭和十八年二月二十日、支那山海関経由。

・蕪湖に到着。ここからまた船に乗る。
・空襲で夜は動かせず昼間に動いた。
・朝になり、「甲板へ出ろ」と言われて出て見ると、渡辺はま子がいて『誰か故郷を想わざる』を教えてくれた。みんなして習った。
・そして着いた所が揚子兵站。

○昭和十八年三月一日、揚子兵站第百七大隊に配属。歩兵教育。

・三カ月の教育。
・教育所は製紙工場の跡。
・軍隊は要領。真面目なところはうんと真面目にやらないと持たない。
・入隊前に経験者に軍隊の要領を教えてもらった。内務班長か班付き上等兵の、編上靴、脚絆、軍刀の手入れを絶対やれといわれた。
・下士官・将校は部屋は別。
・「第一班、星屋二等兵、班長殿の食器を下げに参りましたー!」と小隊長の部屋に聞こえるようにでっかい声で言う。
・煙突の陰で戦友と二人で話をしながら編上靴の手入れをしていた。すると白の作業衣を着た古参兵がやってきて、「お前たちどっからきた」と聞いて来た。しゃべりながらやっていたので、ビンタをとられると思って不動の姿勢で「静岡からまいりました」と言ったら「ああ、俺も東京静岡間のトラックの運転手をやってた」と言うだけで、はたかれもしなかった。手入れが終わると、「明日ここに来い」。昨日の分まではたかれると思って、二人で肝を冷やして行った。すると、飯盒が二つ持ってきてあり、「これを食え」と言う。五合炊きの飯盒を戦友二人で食べた。それから毎日(?)行くと食べ物をくれた。
・汁粉を飯盒一杯飲んでも下痢も何にもしなかった。

○昭和十八年七月、A型パラチフスとマラリアを併発して伝染病棟に一カ月くらい入院。

○昭和十八年八月十二日、漢口第一陸軍病院分院にて衛生兵教育。

・四カ月。
・漢口第一陸軍病院には看護婦が300名、衛生兵が230名。
・隊長の少佐の当番兵になる。上等兵以外はつかなかった。
・家庭で言う奥さんをやった。ふんどしこそ洗わなかったけれど他は全部やった。
・衛生教育中、足のつま先から頭のてっぺんまでの包帯の巻き方を習う。
・夏の衛生教育で、越中褌一枚で鼠蹊部をやられたと場合の実習をやった。
・教育中は注射の練習で、初年兵同士で向き合って射ち合う。
・実際の現場では知らない人に射つので恐かった。
・ある日、本院の現役の下士官候補をした伍長から「星屋、お前が歩兵教育を受けた大屋軍曹が曹長になって内地に初年兵受領に行ったらばお前の弟を連れてきたから、将校食をごちそうして待ってる」と電話がきた。「まさか舎弟が、兵科も違うし来っかねえや」と言ったら「嘘を言うもんか」と言う。
・普通は甘味品を変えなかったが、少佐に頼んで一筆書いてもらって買いに行った。
・あくる日、武昌の通過部隊宿舎に面会に行ったところ、輸送指揮官の大屋曹長殿がいて、酒を2本持って行ってあげたら大喜び。未教育の者は普通は外出させてくれないが特別に許可してくれた。それから弟を連れて写真屋に行って写真を撮った。この後は連絡を取ることはなかった

・本院に見習いに行く。外科、内科などをを見に行く。この時、病理試験部はだけは嫌だなあと思っていた。そこにいくと死体解剖の助手をやらなければならない。

○昭和十八年、漢口第一陸軍病院の衛生兵として病理試験室勤務。

・病理試験部に選ばれてがっかりした。
・解剖助手を四人で交代交代でやる。
・亡くなる前に病名が決定していない人は、軍医が解剖所見で病名を決めていた。
・軍医さんが解剖しながら「星屋、この肺の真っ黒いのはマラリアの高熱で亡くなったのがこの色だ」とか言う。「煙草は百の害があっても一つの益もない」と教わった。
・病理試験部の軍医は戦争中ずーっと解剖をしていて、戦後東京都の衛生局長になった。
・解剖をすると、はじめはご飯が食べれるもんじゃない。けれども慣れれば菜っぱ葉っぱを切るようなもの。
・夜、病理試験部の衛生兵が歩哨をやらなければならない。死体解剖室の裏を回る。初めて衛兵に立った時は生きた気がしなかった。
・死体解剖室には毎日死体が五、六体ずつはあった。
・死体をネズミにかじられたら歩哨の責任。だからときどき見回る。

・外科に移った時、足をやられた患者が前線から毎日来た。傷口にはウジが湧いていた。
・病院に来た者は全部伝染病の検査をやる。
・検査の時は患者を肛門を出させて並ばせる。肛門にガラスの棒を突っ込んでそれを滅菌シャーレにとって見る。初年兵の時それをやっていたら、「星屋!穴間違えんな!」と言われた。「肛門は一つなのに、何を言ってんのかなあ」と思ったが先輩なのでごちゃごちゃいえない。で、患者を良く見たら中国の女の兵隊だった。びっくりした。初めて見た。
・中国軍の兵隊が前線から病院に送られてきていた。患者なら日本も中国も一緒。

○昭和十九年二月十一日、命陸軍衛生上等兵

○昭和十九年十二月一日、武昌江夏部隊分遣。

・歩兵部隊で隊長は山本大佐。
・転属になってから漢口第一陸軍病院は空襲を受け、病院の同年兵や古参兵は死んだり負傷した。
・軍隊は運隊、生死が紙一重。
・単独で武昌にいくと拉致されて殺されるか重慶に送られてしまう。
・公用で外出する時も、裏道は絶対通らなかった。
・東湖では日本の看護婦が拉致されたらしい。
・将校が麻雀が好きで人数が足りなくなるとよく誘われたが、祖父からやるなといわれていたのでいつも断っていた。
・食糧は現地自活。
・冬瓜なんか随分食べた。
・衛生兵も自衛しろということで終戦になるまで三八式歩兵銃を持っていた。

○昭和二十年八月十二日、命陸軍衛生兵長。

・なんだか弟の夢を見る。変な夢ばかり。ある日、将校の予防接種が行われて、初年兵をつれていったところ、同年兵の伍長が手招きして弟が死んだことを教えてくれた。昭和二十年八月七日、漢口にて戦病死。
・生水を飲んだら絶対に伝染病になる。だけれども何もないので飲みたくなる。
・同年兵がクリークの水を飲んで、伝染病になって死んだ。
・煮沸して飲めばなにもない。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・すぐに知った。
・武昌で武装解除。

○昭和二十年八月、終戦後武昌東湖収容所に収容される。

・将校以下、道路の清掃などの使役に。

○昭和二十年十二月、原隊復帰、江漢兵舎医務室勤務

・午前中診察。午後は何もない。
・他の兵科は中国の使役。
・ドラム缶で風呂入っていた。そのうち東湖のそばのアメリカの別荘からバス風呂を持って来た。足が伸ばせて、家で百姓やるよりよっぽどよかった。
・地元民が「頭が痛い」「腹が痛い」と医務室にやって来る。薬があるので治療してあげた。あとでニワトリなどを持ってお礼にやって来た。
・当時は体重が74キロあった。

・コレラが流行って、毎日七~十体死んだ。歩ける独歩患者を使役に使って防空壕に埋めた。
・戦争中死んだ人は腕の中関節を切って、これを内地に送った。
・終戦後は、左手の薬指を切っていた。
・看護婦や女性は何をされるかわからないということで先に帰されてしまった。
・「衛生兵殿、ぜひ助けて下さい」と邦人二人に土下座されたことがあった。彼等は皮下の水分が脱水して死んでしまう病気に罹っていた。リンゲル注射を二本打ってあげたら助かって、復員してから家にちゃんとお礼の手紙が来た。

○昭和二十一年四月十六日、漢口第一陸軍病院より上海第一陸軍病院勤務。

・白の作業服を着ていた古参兵が患者で入院していた。昔のお礼をした。
・上海・飯田桟橋から出港。

○昭和二十一年六月十九日、上海より佐世保に上陸。復員。

・佐世保に着くまで七人だかが亡くなって水葬にした。
・着いてから、「お前は佐世保の海軍病院に入れ」「お前は自宅に帰れ」と二ルートにわけられた。

○昭和二十一年七月二日、自宅帰郷。

・御殿場線に乗って自宅の最寄り駅についたと思って降りて見たら、あるはずの陸橋がない。おかしいなあと思ってそばにいた人に聞いてみたら、手前に新しくできた駅だった。列車は出発しかけていたが、御殿場の戦友達にひっぱってもらって列車にいれてもらった。
・「俺も軍隊ボケしたなあ」と思った。御殿場線が単線になったことも知らなかった。
青春18切符の旅2011夏、様子9月4日(日)に伺った証言の概要です。
今年2012年の長泉町のイベント「戦争の悲劇伝えたい展」でもお話をされた方です。
去年のメーリングリストより転載します。


◎浄住昇さん(90)
取材日:平成二十三年九月四日
所属:横須賀第二海兵団~横須賀海軍病院~第五〇二海軍航空隊~横須賀海軍病院~戸塚海軍病院
兵科:海軍衛生兵
戦地:内地
――――――――――――

○大正十年(?)、静岡県生まれ。

・東京で印刷の仕事をしていた。
・御殿場で徴兵検査を受ける。甲種合格。

○昭和十七年一月十日、横須賀第二海兵団入団。四等看護兵。

・兵籍番号:横徴看一九五五。
・三カ月ばかり兵科を問わずに新兵教育。
・教練とか行軍ばかり。

○昭和十七年四月十日、第五十九期普通科看護術練習生として横須賀海軍病院へ。三等看護兵。

・看護術の教育。厳しかった。

○昭和十七年九月十日、第五十九期普通科看護術練習生教程を卒業。横須賀海軍病院附病的検査科勤務(不健康業務)。

・患者の病原菌を調べていた。
・最初はいろいろ技術的なことを教わった。
・検査は二十人くらいでやっていた。さらに民間の人も雇っていた。
・徴兵検査時の検便の検査をやったこともあった。
・性病、血液、検便、大腸菌、ジフテリアなどの検査。
・伝染病を恐れていた。
・検査ばかりで治療はやらなかった。
・海外から引き揚げてくる人が大勢いて、港まで病院船の患者を収容しに行ったことがあった。
・外地から来た人は人間の顔の色をしていなかった。まるで土の色をしていて死人のようだった。がっかりした。こりゃひでえなあと思った。
・南方からきた患者と会話は出来なかった。

○昭和十七年十一月一日、海軍一等衛生兵。
○昭和十八年五月一日、海軍上等衛生兵。
○昭和十八年九月一日、海軍衛生兵長。
○昭和十九年一月十七日、第五○二海軍航空隊附。第十二航空艦隊第五十一航空線隊に編入。

・千葉の茂原へ。
・航空隊の中の医療事務をやっていた。その他の事はぜんぜんわからない。

○昭和十九年三月三十一日、第四十七期高等科看護術練習生として横須賀海軍病院に。

・普通科練習生の一歩上の専門的な教育。
・病原菌の検査やらを仕込まれた。

○昭和十九年七月三十一日、第四十七期高等科看護術練習生教程卒業。戸塚海軍病院附。

・自分たちが入ったおかげで転勤になった前任者が、転勤先で空襲に遭い爆弾が直撃して亡くなった。
・病原菌の検査。
・勤務は楽だった。・外に出るときは軍服。普段は作業服。
・戸塚には十名くらいいた。
・空襲もほとんどなかった。

○昭和十九年十一月一日、任海軍二等衛生兵曹。

○昭和二十年八月十五日、病院で一同集会があって終戦の話を聞いた。

・いよいよ帰れるかと思った。

○昭和二十年九月一日、任海軍一等衛生兵曹。

・終戦後もいつもと同じように作業。その後に復員。
青春18切符の旅2011夏、9月2日(金)に伺った証言の概要です。
静岡県長泉町の方々が続きます。
昨年のメーリングリストより転載します。


◎土屋貞雄さん(95)
取材日:平成二十三年九月二日
所属:野戦重砲兵第三連隊~?
兵科:野戦重砲兵
戦地:南支~千葉
――――――――――――――

○大正五年一月十三日、静岡県生まれ。

○昭和十三年四月、静岡銀行入社。

○昭和十三年五月ごろ、徴用で沼津兵器へ。

・機関砲を作る会社。

○昭和十三年六月ごろ、召集。

・三島の野戦重砲兵第三連隊へ入隊。
・徴兵検査の結果は第二乙だった。
・厩に藁を敷いて生活して教育を受けていた。
・十五センチ榴弾の二番砲手。
・当時は食糧が少なかったので、近隣の畑を借りて各班から三四名くらい出て耕していた。
・戦地に行く前に炊事をやっていた古い兵隊が「送別会をやれ」と言って米とニワトリをくれた。

○昭和十三年暮れ、三島出発。

・広島に泊まって、ここから輸送船に乗船。
・飛行機がついてきて護衛してくれた。

○昭和十四年正月、南支広東到着。

・一月二月は何もなかった。
・歩兵は時速四キロ行軍、重砲は馬でひいて時速六キロ行軍。

○昭和十四年二月末、敵が広東を奪回するために集まっているという話が出て、それを攻撃に行く作戦に参加。

・敵を重砲で撃つために二日間昼夜ぶっ通しで歩いて、山の陰に砲列を敷き、命令を待っていた。
・砲列の横にアンベラを敷いて寝泊まりしていた。
・ここに着いた時に、目が霞んでよく見えなくなって、さらに足もむくんで歩けなくなってしまった。そこで野戦病院に行って診断を受けた所、肺浸潤と脚気だと言われて即日入院することに。
・診察を受けた野戦病院に一カ月、さらに別の野戦病院に一カ月入院して、それから内地還送になった。
・内地までは台湾を経由。台南に一カ月、台中に三カ月ばかり、台北に五日ばかりいた。
・病院生活は街に見学に出るとか買い物に出るとかそういうことは一切できない。囚人のようなもの。それでノイローゼになって頭が変になってしまうのか、台中の病院で二人首を吊って自殺した。二人とも三十を過ぎた女房子供がある人で、写真を胸に置いていた。
・台中の病院にいる時に現地の学校の子どもがよく来た。その子供と手紙のやりとりをしたりしていたら、いつの間にか妹が代わって手紙のやりとりをするようになっていた。
・台湾から船で広島に帰って、名古屋の陸軍病院に三カ月入院。

○昭和一五年一月、三島の陸軍病院に入院。

・そのうち歩ける者は吉奈の療養所へ移動に。
・療養所に二月いてから原隊の三島の陸軍病院に戻る。

○昭和一五年五月半ば、召集解除。

・傷痍軍人の証明書を貰った。これがあればもう召集はないということだったので内面で喜んだが、病気が治った者は再び兵隊にいくことになった。
・一度除隊してからは農業をしていた。

○昭和十九年十月、再召集。

・再び重砲隊。
・千葉の海岸に上陸してきた敵を零距離で撃つために、大砲を隠す穴を掘った。
・海岸で蛸壺を掘って、敵の戦車が来たら破甲爆雷を抱えて戦車に飛び込む訓練ばっかりしていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・三島の連隊に帰ったところ、三島付近の出身者は残務整理に残れということで色々な残務整理をさせられた。

○昭和二十年十月、復員。