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報告が入っていないので状況がわかりませんが、昨日3月1日は静岡ミニキャラバンが行われたはずです。
昨年12月27日ににお話を伺った体験者の方が、年明けに同い年の飲み友達を紹介してくださるという件が、昨日実現の運びとなっていたわけです。

飲み友達の方はお2人。
ずっと野戦重機関銃兵だった男性と、内地勤務の日赤看護婦の女性だと聞いていますが、さて、みなさんそろわれたのでしょうか。
報告が入ればまた様子をお伝えしたいと思います。

とりあえず、沖縄キャラバンから続く話し合いと準備の日々でうっかり忘れそうなので、ここにメモしておきます。
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昨日12月27日(土)の静岡での聞き取りの様子について、事務局からの速報がきました。

体験者の方は独立歩兵第56大隊機関銃中隊所属で中国へ。
途中から幹部候補生となり、内地に戻り、小隊長になって終戦。
野戦の経験は少なめながら、重機関銃での戦闘方法、部隊内の役割分担、馬の手入れの方法等、だいぶ詳しく話をしてくださったそうです。

ご近所に同い年の飲み友達が2名いらっしゃるそうで、年が明けたらご紹介いただくことになるようです。
来年早々からまたよろしくお願いしますという出会いでした。

ゴールデンウイークのキャラバンのキャラバンとしては最終日、5月5日(月・祝)の様子です。
当日のメールのやりとりからの速報です。

今回一番の遠出、静岡県浜松市。
浜松らしい写真をということで、送られてきました。
縁起よさそうです。

聞き取りはというと、元憲兵と聞いていましたが、実は秘密戦にあたる部分を経験されている方だったとのこと。
だいぶ濃厚だったにもかかわらず、まだ奥がありそう、という印象だったようです。

そのうち報告が上がると思いますが、証言概要が上がるまでには、しばらくかかるかもしれません。
大学生1人旅2012秋、10月27日(土)に、静岡県静岡市で伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。

◎近藤軍八郎さん(87)
取材日:平成二十四年十月二十七日
所属:横須賀海兵団~「摩耶」~海軍工機学校~第五十五警備隊加瀬隊【※四十五警備隊】
機関科
戦地:サイパン島
―――――――――――――

○大正十四年一月十日、静岡県生まれ。

・農家も農家で兄弟十二人。
・とにかく自分で身を立てる以外にないと思って選んだのが軍人だった。
・親が一人は軍人にしたいと、東郷平八郎にあやかって軍八郎と名前をつけた。この名前で苦労した。今でも学校でちょっと名前がおかしいといじめるが昔もそう。
・軍隊に入っても名前で絞られた。でも、なにくそなにくそふんばって我慢して来たから現在がある。

○昭和十六年、海軍へ志願。

○昭和十七年、横須賀第一海兵団入団。

・兵籍番号:横志機二五一二七。
・三か月間で卒業。卒業した一個分隊500、600人のうち船へ乗ったのがたったの三人だった。
・海軍の兵隊だとみんな船に乗ると思ったがそうでもない。一人が比叡、一人が砲艦、そして自分が摩耶に乗ることになった。
・このとき「摩耶」はガダルカナルの方にいたので、卒業すると汽車で港まで行って、船でトラック島に行って乗った。

○昭和十七年八月十七日、「摩耶」乗艦。

・第十一分隊。

○昭和十七年十一月十四日、ガダルカナルの砲撃に参加。

・爆撃で船がやられた。二人乗りの飛行機が甲板につっこんで、戦死者がずいぶん出た。
・機関部にいたので外の様子はわからない。

○昭和十八年一月、横須賀へ帰還。

・船を直して、北方勤務についた。

○昭和十八年三月~、アッツ島沖海戦。

○昭和十八年九月一日、海軍上等機関兵拝命。

○昭和十八年九月、掌発電機練習生として海軍工機学校に入学。

・艦ではボイラーだったが、学校では電気をやった。罐よりは電気と思っていた。
・艦からきたので事業服が他の練習生の白ではなくカーキ色で、なおさら目をつけられた

○昭和十九年一月、工機学校卒業。

○昭和十九年二月、アメリカ丸(6000トン)乗船。

○昭和十九年二月二十八日、サイパン島上陸。

・送られたところがサイパン島。ガラパンにいた。
・委任統治領で、日本人がいっぱいいた。全然引き揚げげていない。
・第一番目の引き揚げがはじまり、乗って来たアメリカ丸を使ったが、硫黄島の方でボカチンをくらってしまった。
・配属されたのは第四十五警備隊、加瀬部隊機関科。もともとはパラオへ補充される予定だったが、結局行かずにサイパンに上陸することになった。
・機関科は二十人くらいで発電機と電動機にわかれていた。まだ兵長だったが学校を出たので掌発電機長になった。
・部下には国民兵がいた。召集された親くらいのじいさんで、電気でしびれることも知らないような人達。
・中には自分の名前も書けない人がいた。そんな人たちが大事な電機にきたので弱ったなあと思った。なんとかしなきゃなあと思って、帳面を買ってきて、「お前、字が書けないんだったら絵を描いて覚えろ」といって、丸や三角や四角を書かせたりしていた。
・大きな貝が木にたかっている。デンデン虫。平たくない。びっくりした。後にこのおかげで生きのびることが出来た。
・カエルもどこへいってもいっぱいいる。叩くと白い汁がでるが、お腹を壊してしまうので、つけないようにして食べた。

○昭和十九年六月十一日、爆撃が始まる。

・空がまっ黒くなるくらいの飛行機。
・毎日ずーっと。

○昭和十九年六月十三日、艦砲射撃が始まる。

○昭和十九年六月十五日、米軍上陸。

・まさかこんな早く来るとは思っていなかった。
・それからずーっと戦闘。兵舎を出たっきり、屋根の下で寝ることは出来ない。

○昭和十九年六月十六日、最初の戦闘。ガラパン砲台付近へ夜襲に。

・その帰り、山田と言う召集兵が一番最初に足をやられて負傷した。泣かれて泣かれて偉い苦労した。今でも顔が忘れられない。結局野戦病院まで送って、とうとう帰って来なかった。

・戦闘と言っても日本の武器は三八式歩兵銃。やつらのもっている小銃は自動小銃だから問題にならない。ところがそんな銃でも持っていればいい方。途中でボカチン食らって遭難した兵隊ばっかりで、靴を履いている兵隊が少ないくらい。
・竹やりもない。ただ殺されにいったようなもの。
・とてもじゃないが話になるってものじゃない。
・機関兵なので機関銃をもってけといわれても使い方がわからない。弾の入れ方のと引き金をひいて、あとはとにかく備え付けて、弾倉をありったけ撃ったらそのまま帰って行く。
・中でもすごいのは唐島部隊(落下傘部隊:横須賀第一特別陸戦隊)。第一線でやっていて、やられて帰ってきて、はらわたがぶらさがっている。それで「手榴弾をくれ」という。「もうそれじゃだめだから後へ戻れ」というと、「俺はこれでもって何時間生きられるかわからない。とにかく一人でも殺すんだから、手榴弾をくれよ」といって、それを持ってまた前進していった。戦争ってのはすごいもの。
・民間人も一緒。民間人はいい洞窟など、いろいろなものを知っていたが、いよいよ戦争になると、兵隊達がその洞窟をとって民間人は入ることができない。戦争ってそんなもん。
・本当は民間人を守るのが兵隊の任務。ところが違う。兵隊の偉いものが安全なところへいって、民間人は隠れるところがない。
・決死隊にもでた。最初は破甲爆雷を持って敵戦車にやるだけだったが、そんなもの新しい戦車にはビクともしない。それから威力の強い棒地雷を持って行って体に縛って戦車の下敷きになるという任務に。戦車の近くまで行って穴を掘って隠れていたが、道具がないので穴が掘れない。ゴボウ剣でなんとか掘っても、上半身が出てしまう。そのうち見つかって逃げて、成功しなかった。ほとんどの人が途中でやられちゃって、失敗したから助かった。
・やつらの戦車、新しい戦車はちっとばかりじゃいかない。キャタピラもはずれない。

○昭和十九年七月三・四日、後退した極楽谷で戦闘。

・機関科はここの戦闘でほとんど死んでしまった。
・一番仲がよかった小豆畑兵長も地雷を抱えて戦車に飛び込んで戦死。

○昭和十九年七月七日、玉砕。

・武器もないので自殺に行くようなもの。
・めちゃくちゃ。
・マタンシャ海岸の奴らのほうにむかっていたら、そんな決められたわけではないので、結局弾があたらなくて、逃げて帰って来た。
・そのあとは大掃討。
・子供のころからじっとして何か工作をするのが好きだったので、ジャングルの中にいてもいつもじっとして、あちこち友軍のいたところへ行って薬や衛生材料を拾って、負傷した人に分けてあげたり、そんなことをずーっとやった。
・服はボロボロになってしまったので、アメリカのものを拾って着ていた。
・まず最初に食べ物。ヤギが草を食べているのを見付けると、ヤギがいなくなってからその草を食べてみる。からかったり、にがかったりして、「これはアクがあるから茹でて食えばいいや」。調味料もなんにもない。
・いろんなものを食べた。製糞機械。ただ食って糞に出す。敗残兵同士で「糞を作る機械だ」なんて馬鹿を言いあった。
・手榴弾もいろいろ。手榴弾を持っていて奴らがきたから投げようとして、日本の手榴弾は安全栓を抜いてを信管を叩く。アメリカの手榴弾はバネで発火する。日本の手榴弾を奴らがきたから叩いて、投げてしまえばいいのに、奴らが通り過ぎて、火を消そうする。消えるわけがない。そこでバーンとはぜる。手が木の枝につら下がって、死んでしまった。
・何のためにこんな苦労をしなくちゃならないのかと思って死にたくなる。
・みんな狂っちゃって、きちがいの多いこと。やることがそんなことになっちゃう。
・女の人が子供を殺したから、素っ裸になっちゃって、踊っちゃって歩いている。そんなのいると邪魔になるから、撃って殺しちゃう。
・敗残兵になってから糧秣のとりっこ。自分が行かないでいて、たんともっていると、途中で横取りしてしまうのが結構いた。
・水は雨水。
・小便も飲んだことがある。小便は本当に飲めない。でも、水。だから飲んじゃった。
・水のかわりに酒をのんだり。
・弾がどんどん来るので、小さい子供が泣く。泣くと「その子供を泣かせるな」という。「音波探知機で探知されるとここにいる兵隊がやられてしまうから、その子供を泣かせないようにしろ」。ということはその子供を殺してしまえってこと。それで親がその子供を殺して、気が狂って。子供を殺してしまうと正気でいられない。そういう人がどれだけいたか。だから戦争をしたくない。撃ちあいやるだけが戦争じゃない。そのあとが戦争。同じ同士の殺し合いだよ。最後には敵より味方のが恐い場合がある。人間ってそんなもん。だからいろいろある。サイパン島のことは絶対話したくないって人もいる。だけど俺にはそういう人の気持ちが分からないだよ。自分がそれだけの思いをしているなら、こういうこと
があるから戦争はしちゃいけないってことを語りつないで行かないといけないと思う。自分がおかしなことをやってるとそれがばれると悪いってことで、戦争のことを話したくないって人が結構いるの。自分が何かやったもんで、ねえ。わからんねえその気持ち。自分がやってなければ何でもいえるけど、やったがために言うことができない。取り方ひとつだけどねえ。そういう人もいるだよ。
・知ってる中でも友達を殺したのがいる。一丁の拳銃があって、糧秣のことで喧嘩して、その拳銃を持っていた奴が殺される。また糧秣のことで喧嘩があると、今度は他の奴が、その拳銃で殺される。五人続けてそういうことがあって、その拳銃は捨ててしまえといって捨てさせた。人間ていうか、なんていうか考えられないようなことが、戦争にはいろいろある。とにかく戦争はしてはいけない。
・女の人がマッピの断崖から飛び降りるのをみた。最初は「なんだ?」と思っていたら、「あれは自殺しているんだよ」。飛び降りてねえ。

○昭和十九年十月ごろ

・もう兵隊も設営隊員もなくて、気の合った者同士でグループをつくっていた。
・設営隊員の三橋君と佐藤君といた。ちょっと年上で東京出身の三橋君は、花札の刺青をしたりしていた。佐藤君は同い年くらい。
・戦闘前によく言っていた菓子屋の職人が負傷して、その面倒を見ていた上原初子という女の子と知り合った。あとで、負傷して置いて行かれて、一人ぼっちでかわいそうだったので、弾片を抜いてあげようとした。太ももを怪我していて、嫌がったが、何とかだまして、道具もないので、舌で舐めて、顔は血だらけになったが、歯で抜いてあげた。
・上原さんは一つか二つくらい年下。サイパンに売られたみたい。両親の話は絶対にしてくれなかった。おじいさんと一緒に大阪にいて、小学校六年生の頃にサイパンに行けといわれたが、サイパンは土人種のいる野蛮なところだから嫌がったところ、柿の木につりさげられてせっかんされ、それでも嫌だと言ったら、「お前が行かなかったら妹をやる」といわれたらしい。それで妹をやるのはかわいそうだからと承諾してサイパンに来たらしい。小学校の読み書きの教科書だけを持って、山城丸とかいう船できたとか。

○昭和十九年十一月三日、やられて負傷。

・明治節で、まさか奴らが掃討をやるとは思わなかった。そういう時にはかならず日本の軍隊がなにかしていて、日本軍がくるから、それを迎え撃つために掃討はしないと思っていた。
・ところが朝、やつらの見える山の上で休んでいると、山の前の道路にいっぱいトラックが並んじゃっている。その日に限って、掃討がないと思っていたので、上原さんを一緒に連れて来ていた。
・しばらくたって、前の山にずーっと兵隊が並んじゃって、掃討だってことがわかって、山の上のほうに逃げた。
・まず、急斜面のところに穴を掘って、体をうめて土をかぶった。
・そこに上原さんがとんできて、一緒に恐いもんで、「初子、お前ここにいると一緒にやられちゃうからお前も上へ行け」と言ったら、上へいってしまった。
・上原さんがいなくなったからいいやと思っていたら、今度は三橋君がやってきた。「三橋君、一緒にやられるとだめだから、お前あっちに行けよ」と、三橋君もよそにやった。
・すると今度は、一番最後に残った佐藤君がやってきた。、そのときは奴らも近づいてきていて、佐藤君に「お前そっちいけよ」とはいえなかった。
・そうしているうちに、たちまちのうちに、奴らが周りをとりまいてしまった。
・目を開けると銃口を佐藤君のところにつきつけている。
・そしてやつらがポケットから紙をだして読んでいる。「武器を捨てて、立て、立って、手を上げろ」。
・なにも言えない。その時間の長いこと。
・すると、三橋君の方で我慢できなくなって、ガサガサっと動いてしまった。
・そこでもって三橋君が我慢できなくなって、奴らをバーンと撃ってしまった。
・銃声がしたと思ったら、ガチャガチャっとして、またバーン。二回撃った。
・すると、俺のところにいた銃口が一斉に火を噴いて、ダダダダダダ。
・そのときに三発。負傷した。
・佐藤君は頭をけっとばされて、斜面の下のほうに滑って行く。
・奴らは佐藤君をおいかけて、それっきり奴らはのぼってこなかった。
・何時間かたって、頭から出血してぼやけちゃったが、基本はしっかりしていて、他の奴らがどうなったかみると、蠅がきて、すーごい。真っ黒。
・「初子!初子!」と言ったが、返事がない。ばらくしたら、茂みからガサガサ音がして、はっと思ってみると、上原さんがでてきた。頭の前に長い髪をたらして、おばけみたいで、顔の前にきて、「近藤さん、大丈夫かね」という。
・「俺は大丈夫だけんが、佐藤君がやられてる、三橋君もやられてる。三橋君がどうなったか、見てくんねえかや」といったら、三橋君の方に行って、しばらくたってから「三橋さん、三橋さん」と声がして、まだ三橋君が生きていると思っていたので、動かない体で草につかまって這いずって行くと、座ったような格好で、見ると、左の心臓から血がぽたり、ぽたり。何時間もたっていたが、顔はハチの巣のように撃たれて、血が流れていなかった。
・「佐藤君もやられちゃったし、三橋君もやられちゃったし、俺も一人じゃしょうがない」と思って、上原さんに「初子、三橋君も佐藤君も死んじゃったから、俺もここで自決するから、お前ちょっとよけててくんないかなあ」といったところ、上原さんが手榴弾をとって、「私が生きているのも、近藤さんのおかげだから、近藤さんの面倒を見るから絶対に死なないで」。
・面倒をみてもらうことになって山を下った。
・下る途中、佐藤君の死体を見つけた。あれだけ撃たれたが、手榴弾で自決したと見えて、両腕がなかった。

○昭和十九年十一月四日、

・菊池さんの洞窟をみつけて、許可をとって、一斗缶を二本洞窟の中にいれて、六十キロの爆弾箱のふたをのせて寝台にした。爆弾箱のふたは小さくて、負傷して体を丸めているからのっかるようなもの。
・頭にぶつかるといけないので、上からたれてくる鍾乳石を、上原さんがおっことしてくれた。
・この上に三か月間寝かされた。
・最初のころはつらくて、何のためにこんなつらい思いをしなければならないのか、死んでしまえば楽だと思って、夕方、皆が外に食糧を探しに行っている間を見計らって、死ぬつもりで手榴弾を持って洞窟の入り口でやろうと思って出た。しかし、せっかく一晩でも世話になった洞窟にいる人に申し訳ないと思って、なるべく離れたところへ行って自決しようとすると、途中で足を踏み外してひっくり返って気絶してしまった。気を失っているところに上原さんが帰ってきて、探して見つけてくれた。「私はね、あなたのために命をかけてやるんだから、そんなことでどうするの。あんたは海軍の兵隊でしょ」と怒られた。この時は本当に申し訳ないと思った。
・水を汲んできて熱湯を沸かして、それを布きれにつけて傷口をふいてくれた。

○昭和二十年、すこしずつあるけるようになった。

・昔の船乗りの菊池さんの洞窟にいた。
・菊池さんは暦のような人で、月や星を見れば、何時だとか、今日は何月何日だとわかる人だった。

○昭和二十年二月四日ごろ、

・菊池さんが「ちょうど今日は節分だ。豆まきだ」と言う。その時ちょうど豆を隠したのを思い出し、「おい菊池さん、俺豆を拾って隠してあるよ。あれを炒って豆まきやるか」「ああいい」。皆喜んじゃって、みんなで炒り始めた。
・ジャングルではできないので、晩に洞窟の中で菊池さんが豆を撒いた。「友軍はうちー」「ヤンキーはそとー」。
・朝になると、それが聞こえたわけではないだろうが、米兵に洞窟が見つかって、銃でパパーンとやられてしまった。
・どうせ死ぬなら洞窟の中で死のうとなった。

○昭和二十年二月七日朝、米兵が大勢やって来た。

・まずガス弾を投げて来た。苦しいが、水筒の水で濡らした布を口にあてて、なんとか我慢した。朦朧としてくる。
・米兵が洞窟の中に入ってきたので、一番奥の方へ逃げた。
・安全だなと思った所に、宮島軍曹、上原さん、高橋上等飛行兵曹がやってきた。ところが高橋兵曹の体が半分陰から出ていて、米軍の照らすライトに映ってしまった。高橋兵曹が小銃を撃ったが、カチンと音がするだけ。弾が出ない。いそいでガチャガチャとまたやったが、カチン。弾はでなかったが、米兵は驚いてライトを消し、ガス弾を投げて洞窟から飛び出てしまった。
・ガス弾は苦しいだなんてもんじゃない。鼻先にきたので、そのまま気を失ってしまった。
・この時、上原さんが湿らせた布きれを口にあてて抱いてくれた。
・何時間かたったかわからないが、ようやく息ができるようになって、「大丈夫だから離してくれ」と言ったが、離してくれなかった。仕方がないので自分で上原さんの手を外してみると、手が冷たい。上原さんは弾に当たって、死んで抱いていた。

・アメリカ兵が負傷していた日本の兵士の足を八番線で牛二頭にしばりつけて、尻をひっぱたく。すると人間の体が裂けちゃう。アメリカの兵隊は紳士的だなんだか言うが、アメリカの兵隊も日本の兵隊もない。
・サイパン島の大掃討があって、マンガンの沢というところで大掃討があって、そこへ逃げたのは女子供が多かった。女を全部殺してしまって、全部裸にして、逆さにおったって、局部に木の板とかを穴に詰めて、五十人くらい。そういうことがある。誰も言う人がいない。見たから言う。その中に知り合いの三日月のトミちゃんという女の子がいたからなおさら忘れられない。
・奴らの掃討の跡の穴の中へ行ってみると、女の下半身が血だらっこになって強姦されていた。
・日本兵の中にも大陸でそういうことをやってきたって、古い兵隊が自慢げに話す。そういう人がいた。
・そんなわけで奴らを一層憎くなって、奴らがくると殺したくなるわけ。いろいろ殺したのがある。
・殺したら兵隊じゃないらしくて、設営隊かなにかだった。飯盒を持っていて、その中に日本人からの金歯が半分くらい入っていた。金歯を集めている。金儲けにする。
・日本人でも、召集兵のじいさんたちは田舎じゃ貧乏していたのか、それが死んだ人の自分たちの戦友とか上官のポケットを探して、銭があると自分のものにしてしまう。サイパンのあんなところで銭を集めったって何にもなりゃしないのに。中にはそういう人がいる。
・日本人のことは言いたくないが、戦争は人間を人間でなくしてしまう。

○昭和二十年八月半ば、終戦を知る。

・自決した人が結構いる。
・負傷も何か所かしていたし、とにかく明るいところで一回のんびりと寝たいくらいに思っていて、出ることにした。
・アメリカが博愛域というところを作っていて、そこへいくと迎えに来てくれた。
・ここでみんな着ていたものを焼いたが、自分だけ持って帰って来た。
・収容所に一年いて帰ってきた。
・健康であれば仕事をして一日八十セントもらえる。帰るときに、赤十字社が募金をしてくれというのでほとんど募金しちゃった。惜しいこと。あのころは一ドル三百六十円だった。
・食堂でも兵器庫でもどんなところでも仕事をする。
・兵器庫に行くと、拳銃をバラして持って帰ってきて、幕舎の中に隠していた。いざという時は武装できるくらい捕虜が武器を持っていた。
・収容所で指輪をつくったりして米兵に十ドルくらいで売っていた。ほかにも絵を描いたり。
・アメリカ兵の中には面倒をみてくれて、帰り際涙を流して別れたものもあった。

○昭和二十一年十二月二十八日、復員。

・せっかく助けてくれた上原さんに申し訳が立たないので、後ろ指をさされるような死に方はしないつもりで生きて来た。
・今考えて見ると、殺したアメリカの兵隊にも、家へ帰れば家族がいただろうなあと思う。もしいい家族だったらかわいそうだなあと思う。取り返しがつかない。
大学生1人旅2012秋、10月28日(日)に静岡県静岡市で伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。

◎望月芳郎さん(91)
取材日:平成二十四年十月二十八日
所属:海軍砲術学校~戦艦「長門」~横須賀海軍病院薬剤部~戸塚海軍衛生学校
薬剤科
戦地:本土
――――――――――――――

○大正十年二月十一日、静岡県生まれ。

・小さいころは安倍川のそばの沼でよく釣りをしていた。
・小学校五、六年生のころは野球の選手でよく他校と試合をしていた。
・昔は家伝薬というものがあって、薬剤師になって家伝薬を売ろうと考えた。
・小学校卒業後、静岡中学に入学。
・部活に入らないでもっぱら勉強。
・五年になった時に千葉医科大学付属薬学専門学校(現在は千葉大学薬学部)の試験を受けて合格。私立はお金がかかるので千葉薬専しか受けなかった
・千葉薬専は国立だったので、三年いると国家試験を受けることなく薬剤師の免状がもらえた。明治薬学専門学校や東京薬学専門学校などの私立の場合は国家試験を受ける必要があった。

○昭和十五年秋、海軍二年現役薬剤科士官採用試験を受け合格。

・これに受かると最初から少尉で採用される。(大学では中尉)。
・陸軍にいくと新兵でひっぱたかれて教育を受けて、三ヶ月の内に幹部候補生の試験を受けて、それからまた薬剤科士官の試験を受けなければならないので、ほとんどみんな海軍の二年現役薬剤下士官の試験を受けた。
・受かるか受からないかは自分でもわからなかったが、試験の検査官が「中学校の時は何番だったか」と聞くので、優等賞状と五年間の皆勤賞をもらった話をして、これがよかったのか、薬専の成績が上位だったためか、採用された。

○昭和十六年三月、千葉薬専卒業。

○昭和十六年四~八月、建設中の日本軽金属清水工場研究所に勤務。

・軽金属に入った時に、「海軍の薬剤科士官の試験を受かっているんだけれども、どうしたらいいでしょう」と相談したところ、「とにかく海軍へいくまで勤めてほしい」ということだった。
・オーストラリアから運んできたボーキサイトを岸壁に積み上げ、苛性ソーダで分解、いくつかの行程を経て、アルミナという白い粉を作り、これを蒲原工場に持っていき、電気分解をしてアルミニウムを作っていた。
・ボーキサイトからアルミナを作る過程の分析方法を作っていた。
・給料は65円で、5円をこずかいにしてのこりの60円を家に入れていた。

○昭和十六年九月、海軍省へ出頭。

・薬剤官は10人で、軍医官は134人だった。全員が軍服を着て、指導教官に連れられ、横須賀砲術学校へ。
・砲術学校で一か月間、敬礼の仕方やいろいろな訓練を受け、最後は辻堂から北鎌倉まで、鉄兜をかぶって三八式歩兵銃を持って砂浜を駆け足で行軍する演習をおこなった。
・この時は前の年に日射病で亡くなった軍医がいたので、後ろにトラックがついていって落伍した者を収容するようになっていた。
・これが終わると東京築地の海軍軍医学校の普通科学生として教育を受けた。
・薬剤科の色は軍医と同じで赤。

○昭和十六年十一月十五日、軍医科だけ繰り上げ卒業に。

・卒業した軍医は全員実戦部隊に配属されたので、「これは戦争がはじまる!」と騒然となった。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・薬剤官はとにかく卒業までいるということだった。

○昭和十七年一月十五日、軍医学校卒業。連合艦隊司令部附きとして戦艦「長門」に乗艦。

・薬剤官は病院船しか乗らないが、慣例として艦隊実習があり、東大出の景山薬剤中尉と二人で乗る。
・長門は当時連合艦隊の旗艦で、岩国の沖の方に停泊していた。呉の軍港から水雷艇に乗って、柱島の近辺の長門に乗艦。
・長門は規律も厳しかった。
・薬剤官の仕事は特別に決まっていたわけではないので、環境衛生の空気の検査をしたり、炭酸ガスの検査をしたりするのが仕事だった。これが終わると特にやることもなく、今度は通信長に呼ばれて、通信室で暗号の解読をやるように言われ、今までやったこともなかったが、一応暗号の解読のいろいろな勉強をして着手した。
・当時、海軍兵学校を出た士官が戦闘配置につくと、暗号の解読をやる士官がいなくなる。解読は十人の下士官だけでやっていた。
・暗号は数字がずーっと送信されてきて、その数字がある程度まとまると、暗号の解読書
(機密文書)を見て解いていく。
・ところが時々、暗号の数字が間違って送られてくる。その間違えた数字を暗号書で見て解くことが非常に大変だった。勘がよかったのか、それを早く解くことができたので、司令長官宛の暗号の解読をやっていた。それで戦況を誰よりも早く知ることができた。
・食事になると士官室の食事をする。それまでは薬剤官は軽く見られていたが、解読の仕事をやりだすと、海兵出の士官の連中が「望月少尉、今日はどういうことがあった」と言ってみんなやってきた。それで結構重く見られるようになった。
・暗号が変更されたことがあり、長門の暗号を扱う士官を代表して、大和に勉強に行った。
・大和はすばらしい船だと思った。暗号長は見るからに頭が切れそうな海軍大尉。
・船が大きいので迷ってしまった。
・一日だけ講習を受けて長門に戻った。
・暗号を全部覚えてしまったので、船を降りる時、「暗号のことをうっかりしゃべってしまったら大変なことになる」と自分でも心配した。
・本来薬剤官は暗号はしないが、他にも巡洋艦に乗って暗号をやっていた薬剤官がいる。
・長門にいる時から日本の戦争に勝ち目がないかもしれないと感じていた。スラバヤ沖の海戦の報告によると、敵の砲弾が真っ暗闇でも飛んでくるということだった。つまり、レーダーが非常に発達しているので、日本の方は勝ち目がないと思っていた。

○昭和十七年五月二十日、横須賀海軍病院薬剤部調剤科に転勤。

・呉の軍港に降りた時、たまたま静岡中学から海軍兵学校に行った三人のうちの二人に会い、いろいろ話をして、これから横須賀海軍病院に行くから、横須賀の軍港に来たら海軍病院に来てくれと話をした。二人とも同じクラスで仲が良かった。戦で三人とも戦死してしまった。
・普通の病院の薬局と同じだが、病院の患者は1100人くらい収容していて、外来患者は多くなかったので、注射薬を作ったり、薬の調剤をしていた。

○昭和十七年六月、ミッドウェー海戦。

・長門にいる時は、「六月にミッドウェー海戦がある。けれどもこれは絶対秘密だ」といっていたが、横須賀海軍病院に来たらは誰もみんな六月にミッドウェー海戦があることを知っていた。
・「情報が漏れているのに、果たしてミッドウェーまで機動部隊が行くのかしら」と思っていた。
・情報が漏れていたとおり、六月にミッドウェー海戦が始まった。向こうの方に待ち構えられていたんだと思う。
・後で長門に乗って作戦に参加した石田軍医中尉に負傷兵やら火傷の患者を九百人くらい収容したと聞いた。
・夏は半袖の軍服を着ていたが、ミッドウェーであまりにも火傷患者が多くでたので、長袖の軍服を着るようになった。
・このころはすごく忙しくて、注射薬を作る調剤をやる、衛生課には衛生兵や下士官が十人くらい、看護婦さんが十人くらいいて連日忙しかった。

○昭和十七年十一月一日、海軍薬剤中尉に進級。

・療品科に配属となり、艦船部隊や病院船に薬を供給する主任を命じられた。
・薬は多種ある。例えば五百人の部隊だったらこのくらいの薬を送る、百人の部隊だったらこのくらいというように大体の枠があった。
・現地のほうから海軍病院に要請があって、それから在庫を見て送る。そして最前線のニューギニアやニューブリテン島の部隊は、ラバウルのなど戦地の海軍病院にもらいにいく。
・横須賀の海軍病院が担当しているのはラバウルの海軍病院とトラックの海軍病院。それから小さい霞ヶ浦海軍病院などにも送った。他にも川奈ホテルや、熱海、湯河原の旅館を海軍病院の分院にした所には軍医と衛生兵と日赤の看護婦しかいなかったので、そうした所にも送っていた。
・呉の海軍病院はスラバヤなどインドネシア方面と担当が決まっていた。
・マラリアの薬としては塩酸キニーネとか、アテブリンとか大体三種類くらいある。そうした薬を行く先々で考えなければならない。
・外地ではマラリア等の病気が流行っていたので、それを撲滅する防疫班がつくられるようになった。それに軍医大尉と薬剤中尉と衛生兵が配置されたが、その病気にかかって亡くなる人もいた。
・ラバウルでは、硫酸が無くなって通信機の蓄電池が使えなくなってしまったことがあった。この時、熱帯衛生研究班にいた岡山薬剤大尉が、ラバウルの火山から亜硫酸ガスをとって硫酸を合成し、内地との通信に成功した。参謀本部もすごく喜んだらしい。こうしたことも薬剤官がやった。
・ヒロポンも海軍の航空技術廠にいった薬剤官が作ったという話がある。
・他にも火薬廠にいった薬剤官もいる。薬剤官のやることの範囲はすごい広い。薬を作るだけじゃない。
・横須賀海軍病院は一部が内科で、二部が外科、それから薬剤部と三部あり、薬剤部の中には療品科、調剤科、試験科、製剤所の四つの部門がある。製剤所は海軍で使われる薬を作っていた。
・薬剤官はだいたい十人くらい。
・艦船部隊に薬品を供給していると、静岡県の焼津から150トンの漁船が監視艇という名前に変えられて、薬をもらいにやって来た。艇長は兵曹長で、乗組員は八人くらい。その中に衛生兵が一人いた。その衛生兵といろいろ話をして、150トンの監視艇がどういうふうな仕事をするのか聞くと、「太平洋の最前線へ出て、敵の機動部隊を見張ってるんです」「それじゃ機動部隊が見つかったらそれを無線で知らせるんだろうけれども、知らせると同時に君たちはすぐに射撃されて沈没しちゃうじゃないか」「そうなんです」。本当に気の毒に思った。事実、戦争が終わってから焼津の漁船はほとんど徴用されて無くなっていた。
・陸軍だと丸坊主だが、ずーっと長髪だった。ほとんどみんな伸ばしていた。
・療品科には三十人くらい良家の娘さん達が理事生として勤めていた。製材所にも娘さんたちがいっぱい来ていた。こういう娘さんと一緒になった薬剤官もいる。

○昭和十九年三月、海軍薬剤大尉に進級。

・薬剤部長に呼ばれて、「今度サイパンに海軍病院を作ることになったけれども、望月お前行く気はあるか」と聞かれた。
・横須賀海軍病院では大尉になると大体どこかに転勤する。順番だから「行きます」と返事をしたが、その後一向に発令されない。
・そのうち横浜市の戸塚に戸塚海軍衛生学校ができ、そこに練習生が大勢入っているけれども、薬剤科の教官が一人しかいなくて困っていたので、教官兼分隊長になって赴任することになった。
・年下の薬剤官がサイパンとグアムの海軍病院に転出。それぞれ七月と八月に玉砕した。

○昭和十九年五月一日、戸塚海軍衛生学校教官兼分隊長に転出。

・着いてみると、まだ赤土だらけのところへ校舎が建設中のような状態。それで衛生兵が入っている。
・練習生は水で体を拭いている状態だったので、設営主任の特務衛生大尉に聞くと「ボイラーがないので風呂が沸かせない」という。すると今度は副官の軍医中佐に「海軍省へ行ってボイラーを貰う交渉をしてくれ」と言われた。
・鉄兜を背負い、海軍省へ行ってみると、そのことは資材が乏しいためか、機関中佐に「衛生学校なんかにやるボイラーはない!帰れ!」と言われた。しかし、みんな泥まみれになって訓練を受けているので、どうしても風呂へ入れたいと粘ったが、中佐は「時間だから出て行く」といって、そのまま扉を開けて出て行ってしまった。それから帰って来ない。
・大尉だし、副官も中佐だし、水道の水で体を拭いている皆にも、「ボイラーを貰えませんでした」なんてことは言えない。機関参謀が中佐が帰って来るまでずーっと待っていた。すると機関参謀が帰ってきて、「なんだお前まだいるのか」と言うので、「私はこういうわけでとても帰れません」と言ったら、「それじゃあ特別に切符をきってやる」。
・切符をもらって帰って、それを現物のボイラーと交換する。それから風呂に入れるようになってみんなすごく喜んでくれた。
・このあと副官に「私の娘を貰ってくれ」と言われたが、「私は戦争が終わるまでは結婚はしません」と断った。
・衛生学校の練習生は150か160人くらいで、分隊長の下に衛生兵曹長が分隊士で、一等衛生兵曹や二等衛生兵曹の下士官が六人くらいで教員と衛生兵の班長をやって、いろいろ面倒を見ていた。
・行ったときには第二期生で、第五、六、七分隊と分かれていて、第七分隊長をやっていた。
・よその隊では練習生を教員がひっぱたいたり、精神棒で叩いていたが、「言葉で怒るのはいいけれどそういう制裁は加えるな」と、そういうことはさせなかった。
・六分隊の中には脱走兵が出て、郷里の静岡に逃げ帰ったが、途中で捕まってまた戻されたことがあった。これが軍法会議にまわされると大変なことになるので、静岡市出身ということもあって、なんとか軍法会議にまわさないように頼んで無事おさめた。しかし、終戦後に自殺してしまった。やっぱり気が弱いところがあったんだと思う。
・補充兵の分隊があって、そこには会社の課長だの部長だの年をとったよぼよぼの人達が練習生。会社にいれば指揮する立場の人々が、練習生の補充兵になって訓練を受けるので、気の毒だと思った。
・衛生学校では薬剤科の教官として薬のことを練習生に教えていた。
・日本は敗けるとおもっていたので、卒業した練習生はできるだけ郷里に近い部隊にできる限り廻していた。
・戦争が進むと資材がなくなって、カーキ色の三種軍装になった。
・衛生学校の隣に軍医学校が出来た。そこに中学校の同級生で、慶応の医学部を出て軍医中尉になった人がいた。ところがこのころは三種軍装しか支給されなかったので、「写真をとって家に送りたいから、紺色の軍服を貸してくれないか」とやってきた。大尉だったけれども、軍服を貸してあげた。
・横浜の高台に高射砲隊があって、よくB29を墜としていた。夜、B29が火に包まれてプカプカしながら落ちて来るのを見ていた。
・グラマンの機銃掃射もよくあった。道路を歩いている時に飛行機の爆音がするのでふと見るとグラマンで、「こりゃいけない」と思って道路の横にあった空堀の溝にすぐ転がり落ちた。上を見ると、パイロットが見える。それで機銃掃射をして、頭の上をサーッといってしまい、「助かった」とその時思った。
・グラマンが道路の上に墜落した見に行ったこともある。

○昭和二十年二月、B29の爆撃を受ける。

・六十人くらい死傷者が出た。
・このときは第十五分隊長を勤めていて、練習生を全員防空壕に入れた。
・衛生学校の上空で、厚木航空隊からきた零戦二機とB29が空中戦をはじめて、防空壕の入口でそれをみていると、シュシュッと音が聞こえて、「これは爆弾が落ちてくる音だ」と思ったが、防空壕へ入る暇がないので地面に伏せた。
・頭が飛んだり腕が飛んだりめちゃめちゃ。死屍累々。死体が血だらけになって分裂してしまう。
・爆弾が十二発、病舎を中心に落ち、十五日前によそから転勤して来た病舎主任の軍医大尉が爆死。
・ほかにラバウルの方で激戦をやって帰って来た、監視哨のやぐらの上で見張っていた人も破片を受けて亡くなった。
・隣が戸塚海軍病院だったので、すぐ負傷兵をそこへ収容して手当てしたが、大変な出来事だった。

○昭和二十年八月十五日、

・非常に暑い日だった。練習生は練兵場に全員並んで、練習生隊長からいろいろ訓示を受けた。
・とにかくラジオはよくきこえなくて、戦争が終わったということがわかった。
・一応みんな涙を流したけれど、兵隊などは「これで家へ帰れる」と喜んでいた。
・横山薬剤少佐に「望月、お前は家が戦争で焼けたんだから、早く帰ってもいいよ」と言われたが、いろいろな整理をしてから帰ることにした。

○昭和二十年九月、復員。

・静岡に帰ってみると、静岡は焼け野原で、駅前の松坂屋のビルが一つ焼け残っているだけだった。あとは全部海の方まで家がなかった。
・とにかく歩いて自宅に着いてみると、丸焼けで防空壕が二つあるだけ。近所の人の話によると、父親が安倍奥に疎開しているということだったので、安倍奥にむかうトラックを停めて、運転手さんにお願いして近くまで乗せて行ってもらった。
・疎開先を訪ねて行くと、農家の納屋に藁を敷いて住んでいた。
・この田舎にいてもこれから先どうしていいか分からないし、陸軍にいった弟もいつ帰って来るかしらないから、焼けトタンをあつめて材木屋で丸太を買って、焼け跡に八畳一間のバラックを建てた。庭はさつまいも畑になっていて、焼夷弾の殻がごろごろ転がっていて、防空壕にも五本くらいくすぶっていたが、とにかくここで寝泊まりすることになった。

○海軍省から電報が来て、海軍省に出頭せよと命令が届く。

・東京の赤レンガの海軍省へ行くと、横須賀海軍病院へ戻って復員船に医薬品を供給する主任をやってくれということだった。
・衛生学校にいる時に陸戦の主任だった海軍兵学校での大尉が、復員船の艦長になって将兵を収容しに行くから薬はないかとやって来たので薬や何かを供給した。
・衛生学校の先任教官の一色軍医少佐は、二万トン位の生き残った空母の軍医長になって衛生兵を二十五人くらいつれて、一番最初にニューギニアに行き、五千人くらい患者を収容して帰って来た。後で「マラリアで痩せ衰えて船のタラップを登れないから、復員船の兵隊が助けてかえってきた」、「大島あたりにくると富士山が見えるぞということでみんな喜んでいたが、船の中でどんどん死んでいく、出港すると同時に死んでいく人がいた、本当に気の毒だった」という話を聞いた。

○伊豆下田郊外の湊海軍病院の薬剤課長を命じられる。

・温泉病院なので、はじめてのんびりした生活をした。
・湊海軍病院には薬剤官が二人と、軍医と看護師さんたち。

○昭和二十年十二月ごろ、陸軍中尉の弟がルソン島から自宅に復員。

・おじさんが警察電話を借りて連絡してくれた。
・三千人の連隊で生き残りが百何十人という状態でほとんど全滅。
・がい骨に皮がついているだけで、頭の毛もなくなって、やっと家までたどりついたけれども、マラリアの熱が出て、四十度で唸っているということで、すぐに家に帰って弟を連れて病院に戻った。
・そのころは伊豆急がなく、伊東からバスで行かなればならなかった。混雑していたがバスの所長が気を使ってくれて座らせてくれた。

●終戦時、海軍薬剤大尉。