あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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東東北チームが、8月18日(水)午後、青森県八戸市で行った収録会で伺った証言です。

◆◆◆

◎日当與吉さん

1922(大正11)年2月生 89歳 
本籍地:岩手県(当時)
ブーゲンビル島

1942(昭和17)年12月 徴兵検査 第2補充兵役。
1943(昭和18)年1月 臨時召集のため歩兵第52連隊(弘前)補充隊に応召。同日、
弘前第16部隊に入隊。
1943(昭和18)年2月 宇品港からパラオを経て、ニューブリテン島ラバウルに上陸。
1943(昭和18)年3月 ラバウルを出発し、ブーゲンビル島に上陸。
1943(昭和18)年3月 南海派遣暁2947部隊第2揚陸隊に転属。
1943(昭和18)年6月 セ号作戦(コロンバンガラ島からの撤収作戦)に参加。
1944(昭和19)年1月 タロキナ作戦に参加。
1944(昭和19)年5月 船舶工兵第1連隊に転属。材料廠に編入。
1945(昭和20)年3月 南海第4守備隊に編入。
1945(昭和20)年6月 ムシゲタ作戦に参加。
1945(昭和20)年8月 終戦後、エレベンタ収容所に収容。同月、船舶工兵第2連隊に転属。
1945(昭和20)年10月 フハル島収容所に収容。
1946(昭和21)年2月 浦賀港上陸。復員。

ブーゲンビル島上陸後、配属となった「暁部隊」とは船舶兵のことです。大発に乗船し、その操船が任務でした。
「セ号作戦」とは、ソロモン諸島コロンバンガラ島に集結した日本軍将兵1万2千名を、チョイセル島を経由してブーゲンビル島に撤収させる戦いです。米軍はコロンバンガラ島に上陸せず、前進したので遊兵となっていた将兵を撤収させることが目的でした。
「タロキナ作戦」は、ブーゲンビル島西岸のタロキナ岬に上陸したアメリカ軍を撃破する戦いでした。第1次(S18.11)と第2次(S19.1~3)がありますが、日当さんが従軍したのは第2次のようです。その後、南海守備隊に転属となり、島内でイモを作る農作業班に回されたとのことです。
「ムシゲタ作戦」は詳細が不明で、正式の作戦ではなかったようです。日当さん曰く「食糧難で口減らしに兵隊を死なせようという作戦だった」。これも農作業のため、日当さんは直接参加せずにすんだそうです。
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東東北チームが、8月18日(水)午前に伺った証言です。

◆◆◆

◎大畑(旧姓:久保)政次郎さん
1923(大正12)年11月生 86歳 
本籍地:青森県
中国戦線

1943(昭和18)年7月 徴兵検査 甲種合格。
1943(昭和18)年12月 独立混成第7旅団の旅団通信隊(中国・張店)へ入隊。
1944(昭和19)年3月 大陸打通作戦の京漢作戦(河南作戦)参加のため張店を出動。
1944(昭和19)年4月 黄河を渡り、新鄭、許昌攻略戦に参加。
1944(昭和19)年5月 壌城攻略戦に参加。
1944(昭和19)年6月 魯山、南陽攻略戦などに参加。京漢作戦終了。
1944(昭和19)年7月 独混7旅団を基幹として第115師団が編成される。
1944(昭和19)年8月 一選抜上等兵に選出。初年兵の通信訓練係を命じられる。
1945(昭和20)年7月 老河口作戦に参加。南陽、県と河南省を西進する。
1945(昭和20)年8月 終戦を知った後、完全武装のまま東へ撤退行動を続ける。
1945(昭和20)年10月 京漢線沿いの堰城付近で武装解除。中国軍の捕虜となる。
1947(昭和22)年4月 帰国のため河南省を出発。上海を出発し、鹿児島港着。復員。

大畑さんは、徴兵まで東京の工場に勤務しながら、神奈川県鶴見の無線通信士養成所の夜学部を出ていたので、通信兵を希望していました。その希望がかない、通信隊に入隊したのですが、中国での初年兵訓練では厳しくしごかれたそうです。その経験が、後の初年兵訓練係に役立ったとのことですが、鉄拳制裁の必要性も認めており、その兼ね合いが難しいと回想していました。
初年兵教育が終わる頃、大陸打通作戦(京漢作戦)に参加することになったので、専門の通信兵教育は実戦と同時に行われることになりました。なお、戦史では「京漢作戦」と呼ばれますが、大畑さんは「河南作戦」とおっしゃっていました。作戦の目的が河南省の洛陽、許昌などを制圧して京漢鉄道を確保することにあったので、当時、部隊ではそう呼称されていたのかもしれません。

通信隊だったため、部隊の最後尾にあってて司令部と行動を共にすることが多く、最前線で工兵や歩兵が戦闘を始めると休憩になったので、行軍中は早く戦闘が始まればいいのにと思っていたそうです。また、戦闘中は隊員たちと一緒に戦闘の様子を見物したこともあったそうです。
最前線で白兵戦こそなかったものの、敵軍から銃砲弾を浴びることは度々あり、初めて戦闘を体験した時は、その場に伏せったまま身動きも出来なかったとのこと。いわゆる「腰が抜けた」状態だったそうです。

成績優秀だったため上等兵に選抜され、初年兵への通信教育を担当することになりました。第115師団は昭和20年3月に老河口作戦に参加しますが、大畑さんは引続き初年兵教育を担当するため残留組に回されていました。しかし、7月、残留組にも出動命令が出て、河南省・内郷の西で通信隊本隊と合流しました。
隊の性質上、広島・長崎の原爆投下、ソ連の満州侵攻などを早くに知っていましたが、8月15日の日本降伏は知らなかったそうで、17日に降伏の噂が広がり、18日に部隊長から報告があったそうです。
終戦時、大畑さんがいたのは河南省・湖北省・陜西省の省境のあたりで、市販されている中国地図に南陽、内郷の記載がありますので、関心のある方は地図で確認してください。
その辺りは、広大な中国戦線の中でも西の最前線であり、終戦を知った大畑さんたちは生きて日本に帰ることは出来ないと諦めたそうです。しかし、部隊長の訓示もあり、完全武装のまま東進。京漢線まで戻り、そこで中国軍の捕虜となりました。

1年半ほどの収容所生活の後、帰国することになったのですが、上海まで列車で移動する際、警護の中国兵や中国人乗務員が度々列車を止めては金品を要求するので大変だったとのことです。中国人は極貧で、そうする生活の必要があったのだろうとおっしゃっていました。
復員後、昭和23年に養子となり、旧姓の久保から大畑となりました。
部隊の呼称についてですが、独立混成第7旅団の呼称が「北方29部隊」、通信隊が「79部隊」。従って、独立混成第7旅団通信隊は「北方2979部隊」となり、これは第115師団に編成された後も変わらなかったそうです。
全国キャラバン「夏の陣」東東北チーム番外編で聞き取りを行った方の一覧表です。
このときは、戦友会に呼んでいただいて、座談会形式で聞き取りをしました。
会場に向かう途中に予定していた岩手の方の当日キャンセルもあり、証言としては、この座談会1本となりました。

東東北チーム番外編
訪問都道府県:青森県
日程:9月6日(月)~9月8日(水)
※9月6日(月)は、深夜出発のみ


◆◆9月7日(火)◆◆
青森県青森市(浅虫温泉)
47師団131連隊第1大隊第3中隊戦友会に参加


◆◆9月8日(水)◆◆
座談会形式での収録会
7名の体験者の方
戦地等:中国戦線。湘西作戦。
全国キャラバン「夏の陣」東東北チームが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

お名前の公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せています。今後もレポートが上がれば、その都度当ブログで公表し、こちらにリンクしていきます。

東東北チーム
訪問都道府県:青森県・岩手県・宮城県
日程:8月14日(土)~8月19日(木)

◆◆8月14日(土)◆◆

午後:
岩手県一関市
◎佐々木公男さん
戦地等:陸軍。ミンダナオ島

◆◆8月15日(日)◆◆

岩手県盛岡市

午前:
◎高橋清光さん
戦地等:満州~シベリア抑留

午後:
◎○○さん(匿名)
戦地等:満州~パラオ付近の小島

◆◆8月16日(月)◆◆

●1班
岩手県盛岡市

午前:
◎谷津田一郎さん
戦地等:中国~特攻隊要員(韓国)

午後:

●2班

午前:
岩手県一関市
◎須藤文彦さん
戦地等:海軍。ミッドウェー海戦。空母「赤城」乗員~空母「翔鶴」~特攻機整備

午後:
宮城県気仙沼市
◎畠山文男さん
戦地等:陸軍。ニューギニア

◆◆8月17日(火)◆◆

●1班

午前:
岩手県花巻市

午後:
岩手県盛岡市
◎高橋久一さん
戦地等:海軍。主計兵。

●2班

午前:
岩手県盛岡市
◎鎌田俊吉さん
戦地等:中国戦線~満州~シベリア抑留

午後:
取材キャンセル

◆◆8月18日(水)◆◆

青森県八戸市
午前:
◎大畑政次郎さん
戦地等:陸軍。通信兵。中国戦線。

午後:八戸図書館収録会
◎日当與吉さん
戦地等:ブーゲンビル島

◆◆8月19日(木)◆◆

●1班
午後:
岩手県釜石市
◎千田ハルさん
戦地等:釜石艦砲射撃

●2班
岩手県一関市
◎小岩京さん
戦地等:中国戦線~フィリピン~ガダルカナル~フィリピン
全国キャラバン隊東東北チーム番外編、9月8日(水)の午前中を使って、戦友会にいらっしゃった体験者の方のお話を伺っています。
実際に参加したメンバーから報告が上がりましたので、公開します。

◆◆◆

東東北キャラバンの準備の過程で知り合った47師団131連隊第1大隊第3中隊の戦友会にご招待頂き、一昨日・昨日と遠路・青森県の浅虫温泉まで、Sさんとお邪魔をしてきました。

この部隊は後述の通り湘西作戦(別名しこう作戦)という日本が初めて中国に大きく負けた戦闘に参加した部隊で、中隊から46名の戦死者を出しています。
そのためもあるのでしょうが、一人一人が何処で亡くなられたか、きちっと年表や地図にして残しておられ、それが今でも戦友会を続ける原動力になっていると感じました。

聞き取りに応じてくださることには当初温度差もあったのだと思いますが、事務局のご厚意や、初日の懇親会でじっくりお知り合いになれた事もあり、昨日午前中の3時間近くを使って残っておられた7名全員の座談会形式でお話しをして頂きました。

座談会形式の聞き取りはお互いに話しにくいことも出てくるので滅多にやることはないのですが、今回は耳の遠い方の口数が少なくなってしまった傾向はあるものの、それぞれの立場で見たことが違うのが上手く噛み合って良かったかなと思っています。
以下取材報告ですが、皆が知っていること、口々に語られたことには名前を入れず、その人だけの経験には個人名を記しました。
(かなり長文で申し訳ありません)

********************

1944(昭和19)年6月29日 47師団(弾)が弘前にて編成。
 91連隊(山形)、105連隊(秋田)、131連隊(弘前)から同年7月18日 訓練のため初年兵以外は弘前から八戸へ移駐。
○当初南方に行くと言うことで夜間の逆上陸の訓練、浜辺での匍匐前進、たこつぼ掘りなど繰り返した。最初砂浜の天幕だったが梅雨時で常にじっとりしている。病人も出たので国民学校が夏休みになると同時に国民学校に兵舎を移した。
●相内(2度目の兵役)「浜辺はうつうつとして大変だった。兵舎がうつって本当にほっとした」

同年11月 教育を終えた初年兵が合流。
○師団長が南方の経験者から中国の経験者に変わった。
南方に行くときは新品の羅紗服が配られが、配られたのは古い長袖で、中国かもしれないとシュンとしていた兵隊達が元気になった。本当はビルマに行くはずだったが輸送船が足りず中国になったと聞いた。兵隊の運命なんて分からない。
○同月19日 鮫駅を秘密列車(窓を降ろして外が見えない)で出発。
下関から船で釜山、鉄路、山海関を経由して北京、漢口、岳州へ南下。岳州からは徒歩での行軍に。 

1945(昭和20)年4月7日~ 湘西作戦に参加。
○当時は永豊(えいほう)にいた。重慶にむけて進軍すると聞いていた。
○4月9日最初の戦死者。
そこまでは何もなくのんびりと移動、小さなこぶのような小高い丘の上で、分隊長で先頭を歩いていた身体の大きな若山兵長が標的になった。
急な狙撃で一言もなく戦死した。
●相内「彼は火葬になった幸運な兵隊。火葬されるのは数百人に一人。あたりの落ち葉を集めてその上に遺体をおき蒸し焼きにした。骨は自分が背嚢に入れて持っていたがある時戦闘で銃をとり背嚢は諦めた。ご遺族に骨は持って帰れず申し訳ないことをしたと思っている。ごめん。」
○火葬されたのはおそらく中隊で彼だけ。その後は火葬する余裕などなくなる。指や手を切ってそれだけ持って歩き残りは道端に埋めた。
●佐々木(初年兵)「自分は手首から切って炊事の鍋の下に入れて焼いた。」
戦後中国の人は自分の田畑を耕そうとしたら何体も遺体が出てくる事があったのではないか。
○班長は骨を幾つも背嚢に入れて歩いていた。

○敵兵は中国の蒋介石軍でその中では米式の教育を受けた精鋭だった。
武器も米国のものが入っていた。また制空権が米国にあった。
○戦闘は両軍がぶつかり合うというより行軍を続けながらの戦闘。
隊列は谷間に長く伸びており、そこを高いところから散発的に狙撃される形でどんどん負傷者を出した。
顔や頭をたこつぼや物影から出したときに狙撃される者が多かった。
●上見(2度目の兵役、擲弾筒)「行軍中屋根を突き破って砲弾が落ちてきた。足にささって歩けなくなったが自分では何が起こったかよく分からなかった」
●田沢(2度目の兵役)「自分は上見さんの砲弾持ちだったので側にいた。あっと思ったが砲弾持ちは射手から離れてはいけない。彼が歩けなくなったので担いで50~100mを走った」
●上見「1~2キロ運んで貰ったと思える長さだった。三角巾でしばり止血したがこれぐらいでは救護班にはいかない。そのうち治った」

●佐々木「当初は担当が違ったがどんどん死傷者が出て人手がなくなり、救護班の担架(担架を運ぶ役)に行くことになった」
●一同「彼は体格が良いから。私たちでは担架はとても運べない」
●佐々木「田んぼのあぜ道を運んでいて狙撃が始まると、田んぼに伏せて撃ち返さなければいけない。負傷兵をあぜ道に寝かせたままになるので『(田んぼの低いところに)降ろしてくれ、降ろしてくれ』と言われたが、降ろすと担架が田んぼの水を吸って重くなりとても運べなくなるのであぜ道に起きっぱなしにした。今考えれば悪いことをしたと思う。もし帰ったら家族にこれを伝えてと遺言を頼まれることがとても多く、それが何より辛かった。」

○5月14日~ 石渣牌(せきさはい)で作戦中最も激しい戦闘。
●鴨澤「15日負傷した。軽機の弾運びをやっていた。急に右肩が上がらなくなったが次の弾、はい次と言われる。待ってくださいと言っても次と言われるので左で渡していた。
前方に負傷兵が出て衛生兵が呼ばれた。後ろから衛生兵が這ってきて『どうした鴨澤』というから、『何言ってんだ呼んでるのは前だぞ』と言ったら、『でもお前の背中から血が出ている』と言われた。
驚いて左手で触ってみたらべっとり血が付いた。それを見るなり急に痛くなって“ふっ”となり動けなくなった。
止血後後方に送られる。銃弾が貫通していたが、貫通している方が化膿しにくい」
●鴨澤「野戦病院に行ってもふだんは軍医はいない。『痛い、目が見えない、軍医殿、衛生兵は』と呼んでいる人がいた。軍医が廻ってきて彼の両手の包帯をとったら指先にびっしりウジがいた。軍医はそれを1匹ずつ丁寧にとった。さらに目の廻りの包帯をとったらそこにもウジがびっしりいるのが遠目にも分かった。
そんなになるまで誰も見ずに放っておかれたのだ。軍医がこれも1匹ずつ取ったら、少し明るくなりましたと拝んでいた。焼夷弾の攻撃に防空壕に逃げたが間に合わず、入り口に背中から入ったところを焼夷弾を受け、手先と顔を火傷したと聞いている。」
かれは復員したが失明、手先が器用で生計はたてたようだ。戦友会には誘っても来ず昨年亡くなられた。

○空からは通常の爆弾の他、焼夷弾が落とされた。
資料にはドラム缶に火を付けて落としたとあるが、これは誰も見たことはない。
●佐々木「落下傘爆弾も見た。撃って空中で爆発したのでことなきを得た事がある。あと袋みたいなものに液体が入ったもの(ガソリンか?)が落ちてきて、沢山木に引っかかっていた」

○食糧は米も含めて上からは何も来なかった。全部現地での徴発。
湖南省は米の良く取れる豊かな土地で徴発には困らなかった。津軽の兵隊はどぶろくを探しているものもいた。
●鴨澤(初年兵)「いつも良いものをとってこれないと怒られていたので、ブタを持って帰りたいと思ったが銃で殺す自信がない。銃剣では短かすぎて向かってこられても困る。棒で殴り殺そうとしたが、棒が屋根につかえて振り回せず、逃げ回られて殺せなかった」
●相内「自分は牛を撃ち殺した。重いから足の肉だけ取った。育てた牛を殺され足だけ持って行かれるのだから、農家の人はどれほど悔しかっただろう」
●鴨澤「自分はブタも殺せなかった。やはり召集兵(2度目の古兵のこと)は違う。
ある時教会だったのか、建物があって何かあるかとばっと扉を開けたら、両側の席に老人や女性ばかりずらっと座っていた。逃げられなかったのか、残されたのか分からない。どうしたらよいか分からなくてばっとドアを閉めてそのまま退散した。」

○銃弾も補給がなく足りなかった。
●佐々木「銃弾もきれてきて、お前は救護班だから弾はいらないだろう、くれと言われた。半分だけ渡した。山砲も弾が2発になったことがあると聞いた。一度だけ日本の飛行機を見たがこれが食料ではなく弾を落とした。」
中国兵、戦死した日本兵の銃器を回収して使用した。

○5月9日 湘西作戦の中止命令。
中止は9日に決まっていたらしいが師団レベルでこの情報は2週間ぐらい押さえられ、兵には伝えられなかった。退却となれば全滅してしまうという判断だったようで、闘いながら下がっていくためにこうしたらしい。
兵隊は毎日行軍して戦闘しているので、重慶に近づいているつもりだった。
戦後地図を見て1周して元に戻っていることに驚いた。

○5月28日
●相内「28日に手榴弾の破片が太ももにささり負傷した。
夜間、鼻をつままれても分からないような真っ暗闇での戦闘。急に歩けなくなった。すぐ前にクリークがあったのでそこまではいずって移動し、泳ぎには子供の頃から自信があったのでクリークに飛び込んだ。少し離れたところに泳ぎ着き、そこにあがって暗闇の中寝ていた。3時間後ぐらいに他中隊が通りかかったので声を出して呼んだ。同じ日に1名が戦死、1名が拉致されそのままとなった。」

○6月11日、米軍の上陸を想定して、青島への移動命令が出る

○8月15日 長沙付近で敗戦を知る。
武装解除のないまま青島に向け北上を続ける。

○12月 山東省安城の警備を命ぜられる。
安城と、隣り合う禹城は、共産党軍が夜になると襲撃を繰り返し、朝になると引いていく。
武器を渡せばそのまま日本に帰れるという放送が繰り返された。
安城を死守することが中隊には命ぜられていたが、年末に激しい攻撃が2日続き、状況視察に来ていた大隊副官から、このままでは全滅するから引き揚げよと言われた。
正式な命令ではないので中隊長は当初断ったが、副官が「全責任を取るから」と言い2晩目の攻撃が終わった
明け方南の済南(ここは治安が安定していた)へと脱出した。
30キロの荷物をしょって走りに走る。あんなに苦しい行軍は経験したことが無い。もう大丈夫というところまで来て皆道に横になり30分ほど大の字になって寝たまま動けなかった。

○その夜の攻撃で残った禹城は陥落し、一時脱出できた大隊も丸ごと捕虜になった。
○その日の日中、加藤さん(佐々木さんや鴨澤さんと同年兵だが甲種幹部候補生の教育を受けていたため敗戦時までは別行動。敗戦で原隊復帰、この時見習い士官の少尉で本部付き)は禹城に食糧や弾を届けた。
●加藤「喜ばれて今晩は酒を飲んで行けと言われたが遠くで散発的に銃撃の音がする。本部のあった済南とは様子が違う。おっかなくて次の用があると言って帰ることにした。
俺たちの酒が飲めないかと気を悪くされたがあのままいたら運命が違った。
成り立てでも少尉だったので自分の命令で特別列車を走らせる事が出来た。それが禹城からの最後の列車で、本部に戻り只今帰りましたと報告すると、幽霊を見るような顔をされた。どうやって帰った?禹城は落ちたぞと聞かされびっくり仰天した」
●相内「その日禹城の病院に偶々行っていた。特別列車が走ると言うことでそれに乗って済南に戻った」
(※加藤さんが走らせた特別列車に相内さんが乗っておられて命拾いしたことはお二人とも収録中に偶々分かりました)
○梶浦さん(2度目の召集)、佐々木さんは翌日その戦場整理に当たった。
●梶浦「日本軍の遺体は60名程か?全てふんどし一つを残し丸裸にされていた。残っているのは血が大量に付いた使い物にならない軍服だけ。野犬にも喰われ顔も分からず荷物もないので、誰が誰か
識別出来なかった。遺体は埋めることは出来ずまわりの葉を集めて少し上にかけただけ」

○この時捕虜になった大隊は共産党軍と交渉が行われ、身代金を払って帰して貰った。
●加藤「その時の計算を担当した。一人あたり70元か700元で人数をかけて昔の計算機を使って支払の計算をした。交渉は赤十字が窓口となっていた」
この部隊が帰ってきたとき兵隊を迎えて、連隊長が大隊長をいきなりビンタした。良く帰ってきたなとでも言えば良いものを、連隊長がしかも人前で大隊長を殴るなんて普通じゃない。
●加藤「その時の兵隊達は、軍帽の星は取られ、帯革ははずされ、乞食の集団のような何ともみすぼらしい格好だった」

○この連隊長はいきなり馬上から兵隊(下士官でないの意)を殴るような人物だった。

●梶浦(当時配置換えで連隊長付きになっていた)
「この連隊長はとにかく神経質なところがあって苦労した。この時は6人のお付きの兵の一人だったが、輜重兵のメガネの蔓が間に合わせだったのが気に入らなかったのか何かいきなり馬上から殴った。文章など上手な人だったが、この時こいつは馬鹿じゃないかと思った」
連隊長と兵の格差は天と地、連隊長が普通の兵隊にビンタをとるなんて、兵を相手にすることがおかしい。
●鴨澤「私は連隊長なんて見たこともない。」
第3中隊の中隊長はこの連隊長とそりが合わず、危ないところにまわされる傾向があった。

1946(昭和21)年1月 済南で武装解除。
○青島へ移動。
列車は八路軍によって寸断されているので徒歩移動が多くなる。
●加藤「列車にはいろいろ関所が設けられ、それぞれ通るための交渉にあたった。毛布を300枚くれれば通してやると言われたら毛布を皆から集めるという具合。自分の持ち物も時計や何やとどんどん渡して何もなくなっていった」
●鴨沢「引き揚げの日本人が、自分たちだけでは帰れないので行軍していると着いてくる。最初兵が前を歩いていたが、兵隊の歩くペースについて来られないし、現地の人が廻りを囲んでどんどん持ち物を強奪する。町の門ごとに黒山になって待ちかまえており、鎌のようなもので勝手に荷物を切りつける。兵隊も武器がないので守れない。
途中からは4列で歩き両外側を兵隊が歩いて中に民間人を挟むようにした。女性は皆男性のような格好にしていた。」

同年4月初頭頃 佐世保に復員。
○大阪までは復員列車でそこで解散になった。
東海道本線で帰った組と奥羽本線で帰った組の二つに分かれた。日本海側を通った組が半日ほど早く着き太平洋側は翌朝早朝になった。
●佐々木「日本海側を帰った。家族が駅まで迎えに来ていた。
入隊から1ヶ月で子供が生まれていたが会った事はなかった。農家は人手がいるから召集が分かると急いで子供を作ってから出て行く。男の子で良かったと思っていたが面会は出来なかった。会ったことのない子供が2歳になっていたが父親とすぐに分かったようで、いっぱいの人の中からまっすぐにこちらに来て迎えてくれた」
●加藤「弾部隊は全滅という噂が流れていたので、太平洋側で帰った者の家族は駅に迎えに出たが戻ってこないから戦死公報はこなくても死んだのだとがっかり、大騒ぎになっていた。自分は太平洋側だったので家族に迷惑をかけた。」

********************
外伝ですが、担架だった佐々木さんは津軽民謡の名手で、懇親会の折、驚くほど素晴らしい「おはらぶし」を聞かせて頂きました。
連隊の民謡大会でも優勝してちゃんちゅう5升が賞品だったそうですが、ご本人は今も昔も全く飲まれないので中隊のものとなったそうです。

この戦友会は今年で最後だったはずなのですが、長老組の来年まで元気で頑張るからという声に押されて来年もやることになってしまったような気がします。
その時はまた呼んでいただけるようなので、今度はお一人ずつの収録も出来ればと思っています。