FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
TOPフリーエリア
65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
元兵士の連絡所


元兵士から孫世代まで、ご連絡をお待ちしています
※質問、疑問などもお気軽にお問い合わせください
電話 03-3916-2664
※戦場体験史料館開館時間=火・木・土・日・祝日の10時~17時
FAX 03-3916-2676
e-Mail senjyou@notnet.jp
※FAX、Mailは24時間受付
住所 〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
     戦場体験史料館内・元兵士の連絡所

戦場体験史料館までの道順
長野ミニキャラバン11月3日(日)の日程です。

11月3日(日)
午後
長野県北佐久郡御代田町
体験者の方
◎輸送船で南方方面に兵隊や物資を運ぶ。終戦時は乗っていた「ちくま丸」という船が機雷で沈没。
明日より、長野ミニキャラバンです。

11月3日(日)
午後
長野県北佐久郡御代田町
体験者の方
◎輸送船で南方方面に兵隊や物資を運ぶ。終戦時は乗っていた「ちくま丸」という船が機雷で沈没。

11月4日(月・祝)
午後
長野県松本市
体験者の方
◎元・下伊那郡平岡国民学校・高等科教師。教え子を満蒙開拓義勇軍に送る。

保存の会の中でも、特に長野に行きなれたメンバーがお邪魔します。
よろしくお願いいたします。
大阪キャラバンと前後して、11月上旬3連休の長野ミニキャラバンが決定していました。
3連休のうちの2日間で行います。

11月3日(日)
午後
長野県北佐久郡御代田町
体験者の方
◎輸送船で南方方面に兵隊や物資を運ぶ。終戦時は乗っていた「ちくま丸」という船が機雷で沈没。

11月4日(月・祝)
午後
長野県松本市
体験者の方
◎元・下伊那郡平岡国民学校・高等科教師。教え子を満蒙開拓義勇軍に送る。

連休となったらキャラバン、というかんじで聞き取りを進めています。
長野に限らず、体験者の方は常に探しておりますので、ご一報お願いします。
青春18切符の旅2011夏、8月19日(金)に伺った証言の概要です。
大学生メンバーが安曇野に滞在した折、たまたま近所にお住まいだということがわかってお邪魔したという状況だったようです。
昨年のメーリングリストより転載します。


◎矢口元貞さん(93)
取材日:平成二十三年八月十九日
所属:歩兵第三十連隊~原田部隊【※歩兵第二百十五連隊?】~中支の独立大隊~【百五十二師団?】
兵科:歩兵(重機関銃)
戦地:中支~ビルマ~中支
―――――――――――――

○大正七年十一月二日、長野県生まれ。

・農家出身。
・青年学校で教練を受けた。
・徴兵検査で甲種合格。

○昭和十三年十二月八日、現役兵として高田歩兵第三十連隊に入営。

・この時には雪が降っていた。
・第一機関銃中隊。一中隊は四班まであって、一班に入った。
・雪の中三カ月雪中演習場で訓練した。
・寒さで手が凍傷になってしまった。
・ある日、外地に派遣するということで軍装検査があった。背嚢を背負っていろいろ持って中隊長の検査を待っている間、凍傷で手が震えていた。すると、中隊長が自分の前に来た時に「お前のその手は何だ。ちょっと衛生兵を呼んで来い。この兵隊を見ろ、凍傷をおこしたる」と言い、それから練兵休になった。

○昭和十四年四月、高田から新潟まで汽車で行って、新潟で輸送船に乗船。

・どこにいくかわからない。日本海は荒れていた。
・船は揚子江をどんどん遡って行き、武昌に上陸。破れた学校に駐屯した。
・「どこにいくんだあ」と話をしながら、二晩か三晩泊って汽車に乗り、”咸寧”へ到着。
・咸寧には六師団の連隊本部があってそれと交代し、第一機関銃中隊は分散して駐屯・警戒に当たった。
・”咸寧”に行った時はこれが戦地かと思うほど静かな所だった。敵が出始めていたが、戦争にはならなかった。
・約一カ月連隊本部の護衛任務。それから暑い中行軍で咸寧から南の方に十里くらい離れたところに行って、そこで警戒に当たった。
・六師団の歳をとった古兵と交代した。その古兵達はどこでガメたかしらないが豚を背負っていた。
・第一機関銃なので、何かあるとすぐに命令が下された。
・しばらくして三中隊へ配属になって場所は忘れたが移動した。そこには新しい軍服を着た一つ星の兵隊が大勢いたので、支那人の兵隊に「少年義勇軍」と馬鹿にされて毎晩のように夜襲があった。
・小隊長は気合のある人だった。
・ちょっとした丘が監視所になっていて、中隊は民家にいて交代で警戒していた。
・交代になって陣地に着いて、仮眠しろと言われても夜襲を食らうので眠れない。
・敵が手榴弾を投げつける所まで来る。そこに重機をぶっ放すと逃げてしまう。むこうもおっかない。明るくなると敵が逃げて行くのが分かる。そういうことを何回か繰り返した。
・機関銃は九二式。装填手だった。
・九二式重機はむこうもおっかながった。
・機関銃は当たる当たる。けれど戦場に行くとそれほど当たらない。
・射撃場では十発撃って十一発当たるくらい当たった。
・明るくなってくるとわかるけれどもそう当たるものじゃない。
・夜襲にもちゃんと対応したのでちょっとでもとられた陣地はなかった。すると、「少年義勇軍は強い」と中国軍の方で名前が出て、それからは状況がいくらかおとなしくなった。
・このときに写真をとったが、疲れてやつれて顔つきが変わってしまっていた。

・大きな作戦があると武漢三鎮にいって、あちこちに行った。
・鉄砲をもってはじめて戦場に行くとガタガタ震える。
・夜、重機関銃を尾根に据えて休憩している時にパパパーンと音がした。このとき初めて体が震えた。あわてて機関銃に飛びついたが自分一人だけ。後の者はガタガタ震えていた。
・初年兵の頃、ある山を占領しようと、日本軍が日の丸の旗を立てて登る。そこにむけて敵が手榴弾を投げてきた。投げ込む敵に重機関銃で掩護射撃。弾薬手をしていた。小隊長が張り切って「よし!あの山を占領しろ!」と言って、重機関銃を背負って駈け出した。分隊長の後ろについて走る。敵が逃げた後の峰に着いた。四番の銃手が来たので弾を装填したが、目の前に丘があり撃てなかった。
・分隊長が「おいおい、銃を前出せ」。頭上をビュービュー弾が来ている。初年兵の自分がすぐに前に出て重機を設置。同年兵が弾薬箱を持ってきて、蓋を開けて弾を出して重機に装填すると、「やられた!」。その同年兵の横腹に兆弾が当たった。
・すぐに敵の掘った壕に引きずり込んで包帯を出したがやりようがないので、山をひきずっておろして後の人に任せた。その人は今も生きていて元気。
・内地から送られてきた米が主食。朝鮮のものだという米が送られてきて食べた記憶がある。青い小粒なものだった。
・おかずはあったりなかったり。前線へ行くほどおかずがなくなる。
・後方から物資は送られてきていて、足りない物を徴発していたのではないかと思う。
・炊事場で苦力を使っていた。
・戦闘に行く時は苦力を捕まえてきて徴発する。そして弾薬や食糧の運搬をさせていた。戦闘部隊のすぐ後ろで運ぶ。
・ご飯時になると兵隊は飯盒炊爨するが、苦力はどうしていたかわからない。民間の家に入って泥棒していたのか。お金を払っていたのかはわからない。
・纏足の女の人が子どもを連れてよぼよぼ歩いてやってきて、日本軍の残飯をあさっていた。
・戦場に行くと殺伐とした気持ちになる。自分でも疲れてくる。なにくそという気持ちもあるし、望めば誰しも鬼になる。
・捕虜を捕まえたし殺した。

○昭和十六年のある日、九江から輸送船に乗り、揚子江を下ることになった。

・輸送船は貨物船を改造したもの。一番底には馬、その上にはいろいろな道具、その上に兵隊が乗り込んだ。
・南京には「大東亜戦争勃発」と書かれたアドバルーンが上がっていた。「おいおい、こりゃ南方へ行くのかな」
・南方は光線が強いということを聞いて色眼鏡を買った。
・台湾の澎湖島で日本の輸送船が集結して南方へ。
・えらい船団。輸送船が数えきれない大船団。
・船はタイに着いて、河をどんどん進んだ。そして名前は忘れたがタイのどこかで下船した。
・降りてから薪を焚く列車に乗った。乗っていると火ぼこりが舞って来た。
・二晩か三晩北上した夜、どこかに着いた。夜だというのに大歓迎で、現地人が椰子の木に登って椰子の実をとってきて飲ませてくれた。
・ここから橋を渡ってビルマに入って順に山に登った。一週間くらい山を通ってビルマに入り込んだ。山を下ると平原へ出た。平らな道があって、そこには大きな川が二筋も三筋もあって、小さな船で渡るところもあった。
・ビルマに入り込んでいったが、いよいよ戦争がはじまるというところになって、下痢を起こしてしまった。これでは第一線にはいけないので、中隊と分かれて荷物監視に残ることになった。
・そのうち「いろんなことがあるから上等兵を出せ」という命令が来て、それに選ばれてしまい、前線へ出されずに分隊と別れてせつなかった。その後、分隊長は戦死して初年兵も二人戦死した。
・それからは野戦倉庫の管理や警備。
・倉庫には籾を山ほど積んであった。それを精米にして玄米にして送ったことがある。
・ビルマは平凡なところ。
・娼婦が公然と自分から兵隊に体を売りに来ることがあった。
・食べ物は日本からくる。まれに日本酒もきた。
・そのうち、現役四年は気の毒だからということで、除隊になった。ビルマから高田へ帰って召集解除。
・除隊してからは農業に従事。

○一年三ヶ月後、再び召集。

・南京のちょっと上にいったところにあった独立大隊へ。第一線に出る部隊ではなかった。
・揚子江に背嚢を背負った日本の兵隊が流れてきて、「おい、こりゃえれえところにきたなあ。こりゃえれえことだ。こんなことはねえと思っていたが」と友達と話した。
・長沙のすぐ前まで歩いた。【※湘桂作戦か?】
・道路が切断されていて、それを直したりする役目をやった。
・長沙の手前までいった時に下痢を起こしてしまい、バラックみたいなところに入院することになった。
・下痢を起こした患者が二十人いた。
・自分で飯盒炊爨して薬を飲むが、いい薬はなかった。
・しばらくして病人を後送することになったが、衰弱して一人で歩けなかった。軍医に「お前、しっかりしなけりゃ参っちまうぞ。なにしろお前が一番指揮していかなければならんのだから」と言われた。
・担架にのったり歩いたりして、長沙にいった。
・長沙にいってみたら瓦礫っきり。人なんか一人もいない。
・中に入るとおばあさんと子どもが何を食べているのか知らないが自炊していた。そういうみじめなざまだった。
・船が出されて、やっとやっと乗って同庭湖に出て武昌に退がった。
・腹が膨れてしまっていて、軍医に「でっかい腹してるな~」と言われた。
・伝染病棟に看護婦二人に運んでもらった。
・病棟に着いて看護婦に「俺は何て病気なんだ」ときいたら「班長さん、気を付けなければいけない、心臓脚気だよ」「心臓脚気はこんなもんかい。死ぬかい?」「班長さんは元気がいいねえ。持つかな。」と言われた。
・伝染病棟の穴あきベットで寝ろと言われた。どうしても嫌だったので「俺は俺でもってやるよ」と言って通した。「いい心臓だねえ」と言われた。
・心臓脚気は大根おろしとか野菜の新しい物を食べればいいと言われて、やっとのことで伝染病棟の婦長さんに頼んで、大根おろしを食べた。体力がないから薬が効かなかった。
・夜中に自分の病状があぶないと誰かが申し入れて、衛生兵が探しに来た。「ここだ、まだ死なねえ」と言ったら「おいしっかりしろよ。お前は元気がいい」と言われた。
・一週間くらいしてから小便が出るようになった。
・芸術家が踊りや歌などの慰問をしてくれた。
・約二ヶ月くらい入院して、武昌の病院から南京の病院に後退した。それから戦況が悪化したので、患者は内地に送られるようになった。
・南京に一週間、奉天に四日五日、担送で送られて九州に上陸。金沢の病院で退院。
・退院して松本五十連隊に復帰。ここで”ごたく”部隊が編成されて編入。千葉県へ。【※百五十二師団か】
・千葉で穴掘りをして、さんざん土方をやった。
・分隊長になっていて、部下に六、七人いた。
・分隊ごとに農家に泊まって、農家の離れで生活していた。
・土地の人と仲良くなった。泊まっていた宿舎の爺さんが面白い爺さんで、「どうだ班長、隣の鍛冶屋は刀を打つのが上手だ。班長も一本打ってもらったらどうだ」と言われて刀を作ってもらったことがあった。
・東京の大空襲を利根川からみた。曳光弾が見えた。

○昭和二十年八月はじめごろ、軍曹に進級。

○昭和二十年八月十五日、終戦の時はトンネルを掘っていた。

・終戦になると弱兵はすぐに家に帰した。分隊からも一人帰した。煙草がない時で煙草の葉っぱを見つけて持たしてやった。
・若い将校は「俺の荷物を山に持って行け」と力んだが、力んだだけで助かった。
・終戦から十日ぐらい残っていろいろ手伝いをした後、もらえる物をリュックにつめて帰った。

○昭和二十年八月、復員。


●終戦時、陸軍軍曹。
青春18切符の旅2011夏、8月13日(土)に伺った証言の概要です。
ひきつづき安曇野市の方です。


◎小林操さん(98)
取材日:平成二十三年八月十三日
所属:歩兵第五十連隊~仙台陸軍教導学校~五十連隊~十四師団司令部
兵科:歩兵
戦地:満州、二・二六事件、パラオ諸島
―――――――――――――――

○大正二年十二月二日、長野県生まれ。

・農家出身。
・兵隊に行く前はほとんど軍隊の事なんてわからない。周りの大人も戦争や軍隊なんかまったく知らない無知識な人ばかりだった。
・一つ年下の弟がいて、兵隊にとられたら家に男がいなくなるから先に行けと父親に言われたので志願することにした。二年で帰って来るつもりだった。

○ 昭和八年(?)、松本五十連隊七中隊に入営。

・二十歳の時。
・すぐ満州へ行かされた。
・中隊長は陸大へ行く人で頭のいい人。何故か水泳が好きな人でよく連れてってくれた。
・一回中隊長に「家に帰してくれないか」とお願いしたところ、えらく叱られた。
・下士官にしたいからといわれて仙台陸軍教導学校へ行かされて、一年半ばかり勉強させられてから五十連隊に帰った。

○昭和十一年二月二十六日、二・二六事件。

・鎮圧部隊として東京に出動。冬で寒かった。
・反乱軍と向き合っていた。反乱軍に教導学校の同期生がいて、顔を見て「おーい」なんて手を振ったりしていた。
・機関銃を使っていたが撃たないでよかった。
・急いでいて松本から弾薬を持っていかなかったので、十条の弾薬庫まで弾を取りに行った覚えがある。結局使わなかったので返しに行った。

・一年ばかり東京にいた。
・東京は嫌なところ。
・兵隊を連れて街の中を通って射撃場に行く時に、汗臭くて嫌なのでみんな鼻をつまむ。それでも一年ばかり我慢していた。
・からっぽになった兵舎を借りて世話になっていた。
・ひろい練兵場があった。
・東京から松本に帰ってきて、部隊は満州に行ったが自分と中隊長は残った。中隊長は陸大にいくためらしく、自分は転属になった。

○昭和十二年か十三年、十四師団留守司令部附きに。

・参謀の後付き。
・四人ばかり参謀がいた。
・下士官がくっついているのは作戦主任参謀。
・参謀長は満州へ兵隊を送る時、港へ送り出しに行った。それについて行った。
・船のデッキはすべるので縄を付けた。

○昭和十五年(?)、満州へ。

・満州で子どもも生まれて家族健康でいた。
・関東軍の司令官が銃剣術の訓練をやらせたことがあって、その時に優勝した事があった。
・満州ではろくに銃剣術の練習をしない。
・その時の対象も急所を突いてやったら、死ぬまで治らない(なにかになった)
・お人好しで兵隊を全然殴らなかった。
・兵隊を殴らなければならないのは上官のしつけが悪い。
・やっぱり人間。
・いじめがあんまりひどいと、銃剣術の時に顎を狙って突く。死にはしないが大変なことになる。
・兵隊をいじめる中尉がいて、その人が朝しょっちゅう銃剣術をやろうと誘ってくる。その時に顎に一本くれてやったら、それからどうも大人しくなったらしい。
・中尉は兵隊を寝かせないで夜に銃剣術をやらせたりする人だった。
・兵隊に長靴の中にショウガ(?)を入れたのに怒って中隊の兵隊に朝飯を食わせなかった。そういう馬鹿なことをやるので、よその中隊の人が「小林さん、ありゃやっちまったほうがいいぞ」と心配してくれた。

○昭和十八年、パラオへ。

・島の真中に師団司令部があった。
・参謀たちは元気だったが、話す事はほとんどなかった。
・島には日本の学校があった。
・部落にいったら日本の小学校があって日本の子供がいた。そういうところには行ってはいけないことになっていた。
・なにがあるかわからないし、なにをするかわからないので島民との接触はしないように命令が出ていた。
・部下が四十人か五十人いた。
・部下は栃木の人が多かった。
・アンガウル島に陣地構築の手伝いに行ったことがあった。そこの隊長は松本出身だった。(※後藤少佐?)「おまえ残ってくれんかなあ。残ったら一緒に死ねる」と隊長に言われたが、「帰らなきゃ。部下が待ってるから。」と言って断った。
・ペリリュー島もアンガウル島も、やられるところが望遠鏡でよく見えた。映画みたい。赤子の手をひねるように簡単にやられてしまった。

・主にサツマイモを作っていた。
・たまにボカンボカンと攻撃がある。
・兵隊に行く前にサツマイモ作りを本職でやっていたし、部下も百姓上りの人がほとんで、サツマイモ作りなんてお得意だった。
・サツマイモ畑を二町歩開墾した。
・米軍はその畑に爆弾を落とすので、イモが死んでしまった。
・島には本土から持って来た米があったが、それも爆弾でやられて焼けて食えなかった。
・食う物がない、サツマイモも爆撃されて駄目。かといって、島民の食べ物に手を出してもいけなかった。
・夜に魚釣りが出来た。
・魚は食べられて結構釣れた。
・馬なんかも若干いたが、食べられてしまった。
・一日おきに一人ずつ、二人ずつ、三人ずつ爆弾で殺されていく。
・爆撃に艦砲射撃。
・飛行機もちょいちょい来た。何十機で編隊で爆弾を落としてくる。
・たまに二、三機で回って来た。低空飛行でニコニコ笑っているのが見えた。
・戦死した人は指を切って缶からで焼いて、家族に骨だけでも送り返したいということでやっていた。
・隣の中隊のラッパ手だったか気の短い者がいて、「生きてて何の価値があるだろうか」と言って自殺してしまった。
・この島で一番せつなかったのは、「もう戦争に勝つことなんてどうせできねえ。ここにいても食べる物もろくにないし、もう一緒にみんな死んじまったほうがいいんじゃねえか。死にたいと思っている」と、部下に言われたこと。「そうだ」と思ったが、そんなことは言えない。「戦争に勝つためには生きてなきゃ駄目だ」と言ったら、兵隊達は気が違ったとでも思ったみたいだが、なんとか連れて帰ることができた。頭にきたし、悲しかった。
・通常の人の常識だったら生きていくことは無理。
・それでも部下は十九名生き残った。
・帰ることなんて考えられなかった。
・生きてることがつらくて毒のある木の葉を食べて死んだのが何人かいた。
・部下がいたおかげで死ぬ気が起きなかった。

○昭和二十年八月、終戦。

・終戦は師団司令部にいたのですぐ分かった。
・参謀たちと時々行きあうので大体見当がついていた。別に驚きもしなかった。
・米軍もやってきた。
・島の住民に恨まれるとまずいからあと片づけをしなければならなくなった。
・穴を埋めるためのモッコを部下が作り始めた。
・モッコを持って行って作業に行こうとしたら、アメリカの将校が「それでなにするんだ?」と聞いて来たので、「土を運んで穴を埋めるんだ」と言ったら、「それを置け」と言われた。
・ブルドーザーなんかはいくらでも送ってくれた。
・米兵と仲良く片づけて、島に残る爆弾の穴を埋めてきれいにした。
・爆弾の穴は大きくて、小学校が入りそうな池が出来ていた。それを埋めるのは容易ではない。
・アメリカの兵隊はふざけてブルドーザーに乗ったまま池に入って、また新しいブルドーザーを送ってもらっていた。
・島の住民も喜んだ。・島民はだいたい裸足で履物を履かない。それを見たアメリカの兵隊が「裸足はいけない」と靴を渡していたが、島民は靴をはくと歩けなかった。それでも靴を持ってないとアメリカの兵隊に怒られるので、普段から靴を持って歩いて米兵が来たときだけ履いていた。
・サツマイモ畑にいってみたら大きなサツマイモがたくさんできていた。洗って食べた。
・米軍の中尉が「アメリカだって大変だったんだよ」と言っていたが、そう言われてみるとおかしな船がいっぱいあった。戦争でほうぼうに行くのでアメリカでもいい船がなくなってしまったらしい。

○昭和二十?年、復員船に乗船。

・おそまつな船に乗った。商船で汚い船で、話を聞くとそこらの港にほったらかしてあったのをひっぱりだしてきたものらしい。
・復員船はいろんな島で兵隊を拾って載せていくのでいっぱい。
・腹がへって今にも死にそうなのもいたし、元気がいいのもいたし、本当に大変だった。
・兵隊をいじめた将校さんなんかが船の中でやられる。うちの連隊だったか、何かをぶっかけられて頭の毛がなくなってた人を見た。
・良く死ななかったなあと思うくらいみんなにやられた人もいた。その人は無理に兵隊をいじめていた。みんなにやられて恐ろしい格好をしていた。
・人をいじめとくと危ない。船の中ではもう部下上官ではない。

・本土に着くと、天皇陛下が出迎えに来てくれた。
・陛下が「食糧事情はどうだったか」と聞かれて、後ろの方にいた者が「馬鹿なこと聞くもんだなあ。食うものがあるはずねえじゃねえか」なんて言っていた。
・船から降りてから百姓の畑を借りていろいろしていた。
・部下が「隊長の思い出の何でもいいから貰いたい」と言って帽子の記章も、襟章も、肩章もとってしまった。「まあいいようにしろ」と言っていたが、「隊長は何が欲しい?」「何もねえじゃねえか」
・誰だか物好きな者が戦地から一人用の蚊帳を持って帰ってきていて、それをくれた。
・そこで朝飯だか昼飯を買って食べてから別れた。
・部下はいいもの。死ぬ思いをしてるから。「松本まで送って行くか」と言われた。

●終戦時、陸軍少尉