あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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2013年11月の大長野キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。

長野ミニキャラバン
訪問都道府県:長野県
日程:2013年11月3日(日)~11月4日(月・祝)

◆◆11月3日(日)◆◆
午後
長野県北佐久郡御代田町

戦地等:輸送船で南方方面に兵隊や物資を運ぶ。終戦時は乗っていた「ちくま丸」という船が機雷で沈没。

◆◆11月4日(月・祝)◆◆
午後
長野県松本市

戦地等:元・下伊那郡平岡国民学校・高等科教師。教え子を満蒙開拓義勇軍に送る。第9師団、沖縄~台湾。
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長野ミニキャラバン2日目、11月4日(月・祝)の様子です。
保存の会事務局から届いた報告メールから転載しつつ、まとめた内容となります。

前半は、国民学校高等科教員として、満蒙開拓義勇軍に生徒を送り出したお話。
当初は「海外まで子供を送るのはどうも」と廻りの先生とも話していて消極的な気持ちだったのですが、校長先生が変わり、その校長先生が県での義勇軍を盛り上げるグループ(公職かどうかは私には不明)だった人で学校として学校割のノルマを果たすことが必須になりました。
また先生たちも義勇軍に1週間ほど体験入隊して加藤かんじの講演を聞いたりして本当に気持ちが変わったそうです。
当時はロシアの参戦は全く予想が無く、外国と言っても北海道に開拓にいくぐらいの気持ちで、また次男三男の子供には自分の土地を持てるかもしれない唯一の機会だったことも事実でした。
結果ご自分の送り込んだ子供の中で一人が亡くなってしまった(それも内心彼はむかないかなと思っていた子供)。

後半は、ご自身の従軍体験。
沖縄戦前に沖縄から台湾に移転した武部隊(第9師団)だったそうです。
部隊の中で、身体の悪い人達が一部沖縄に残されたという話もありましたが、ご本人は部隊とともに台湾へ。
台湾では現地召集兵(つまり台湾人)の教育係。
日本語が分からない人も多かったので、日本語の初等教育というとっても適材適所の軍務(だから選ばれたんでしょうが)だったようです。

戦後も熱血先生だったとのこと。お話中の様子からもそれが感じられたようです。
娘さんが同席して、メモを出したりフォローしてくださったのですが、体力的な面を考えても、記録を残す形でのお話は今回が最後ではないかとおっしゃっていたとのこと。

貴重なお話、ありがとうございました。




三連休のうち2日間で行われた長野ミニキャラバン、昨夜わりと早い時間に帰ってきたようです。
浅間山を望む信州の秋とお土産の写真が送られてきました。
昨日の様子もメールで届いていましたが、土産話的な伝聞で、そのまま転載はできそうにないので、後程まとめて掲載します。

長野の皆様、ありがとうございました。
長野ミニキャラバン、11月4日(月・祝)の日程です。

11月4日(月・祝)
午後
長野県松本市
体験者の方
◎元・下伊那郡平岡国民学校・高等科教師。教え子を満蒙開拓義勇軍に送る。
長野ミニキャラバン1日目、11月3日(日)の様子です。
本日伺ったお話の概要です。保存の会事務局を通して前線からのメールが回ってきましたので、転載します。

◆◆◆

日本郵船の船員さんで、1943年より徴用船に乗船するも、3回載っていた船が沈没。
1回目はパラオに兵隊を運び、邦人を乗せて帰る帰り道。この時は貨客船で良い船だったので、沈むのもゆっくりで(2日とか)護衛艦に普通に移動できています。

2回目は台湾沖、この時は戦時標準船、戦時標準船は速攻沈むのが常識で、船員は皆甲板に寝る事にしていたそうです。皆魚雷は太平洋側から来るので大陸側の甲板で寝ようと言う気持ちは分かるけど本当かどうか不明の習慣があり、毛布をもって甲板を右往左往。魚雷が当たった時はやはり速攻沈み、目が覚めた時は体が空中にあって海に落ちていく最中。船が沈む渦に巻き込まれかけましたが、海が浅かったため船がわりとすぐに沈みきってしまい身体が浮いたとか。

3回目は1945年7月門司港内で機雷に触れてしまい沈没。門司港は水深がないので完全に見えなくはならないので、これを巌流島にひっぱっていく作業などもしたとか。ここで沈んでいなければ長崎に入る予定だったので、結果的に良かったというお話でした。