あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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今年のゴールデンウイークに行った群馬・栃木キャラバンで聞き取りをした方の証言概要です。
4月28日(土)にケアハウスでの聞き取り後、5月6日(金)に再訪しての聞き取りだったようです。


◎山田三七吉さん(92)
大正八年生まれ
取材日:平成二十四年五月六日
所属:騎兵第一旅団騎兵第十三連隊(横田部隊)第三中隊~在青島・北京・天津領事館警察
兵科:騎兵
戦地:蒙古(ハイラル)~北支
―――――――

○大正八年八月十四日、群馬県生まれ。

・実家は農家。
・小学校卒業後、青年学校に。

○昭和十一年、騎兵連隊に志願。

・少年航空兵になろうと思っていたが、親戚の陸軍中尉から騎兵を進められて志願することに。

○昭和十二年二月、騎兵第一旅団騎兵第十三連隊第三中隊へ志願入隊。

・広島から乗船して大連へ行き、鉄道でハイラルへ。ここで教育を受ける。
・横田部隊尾高隊。
・隣には十四連隊が駐屯していた。
・騎兵連隊は四個中隊で二個大隊。
・一中隊が「イ」、二中隊が「ロ」、三中隊が「ハ」で軍服の左腕にマークが縫い付けてあった。
・班ごとに厩があり、それぞれ厩当番が二人いて、朝昼晩と馬の手入れをする。
・「群越」という名前の馬に乗っていた。自分以外の人が乗っても動かなかった。
・馬糧が山のように積んであり、その裏で制裁を受けた。
・四四式騎兵銃を使用。

○昭和十三年六月、北支出動。

・北京まで鉄道で行き、徐州の方へ行った。
・帰徳に連隊が一時駐屯。
・敵がいると言う情報を聞いて駆けつける。強力な敵がいたり、いなかったり
・”たいこう”、”たくじょう”あたりで残敵掃討をしながら帰徳に戻った。
・黄河の堤防が破壊されて洪水になっていた。
・食糧がなくて三日四日食べれなかった。草を食べる馬がうらやましかった。

○昭和十四年二月、内蒙古へ。

・中隊ははじめ”さらち”。それから保塁へ。
・”さらち”の先に包頭があった。
・”しゅうてんびょう”という国境に近いところに交代で警備に行った。
・敵は傅作義軍。正規軍で日本軍と同じような装備。五原にいた。

○昭和十四年五月、第一次ノモンハン事件。

・連隊から人員が抽出されて編成した「東部隊」が出動。班長がこの部隊に配属されてノモンハンに行った。

○昭和十四年十二月~、国民党軍の冬季攻勢。

・日本軍部隊が作戦に出た間に敵が包頭を包囲。その救援に出動する。
・自動車で陰山山脈を越えて向かい、包頭への途中で包囲していた敵に遭遇して三日間の激戦に。
・このときが大変だった。
・城門も占領されていてそこに向かって行く。
・白兵戦で取っ組み合いで戦死している者もいた。
・食事なんかできなかった。
・恐ろしくて、民家の竃の中に入って助かった人もいた。
・飛行機ががんばれと通信筒を落として行った。
・作戦に出ていた日本軍部隊が帰ってきて、国民党軍は引き揚げた。
・戦いが終わると死体がいっぱい。
・友軍の遺体は火葬しする。正常な人間の感覚がもうない。死体を焼くそばでご飯を食べた。何も感じない。
・敵の死体はそのままで、あっちにもこっちにも山になっている。
・新聞には包頭の敵を掃討したと小さく書いてあったが本当は逆。
・当時日本は勝った勝ったと言っていたが本当に勝っているのかと思った。
・分隊で無傷だったのは二人。慰霊祭をやった時には遺骨の方が多かった。


○昭和十五年一月、五原作戦。

・傅作義軍の本拠地を叩くために五原【※現内モンゴル自治区バヤンノール市五原県】へ。
・一部では激しい戦闘があったようだが、包頭のような戦いはなかった。五原の近くの兵舎で何人か捕まえたくらい。

○昭和十五年二月、除隊。

・青島を経由して日本に帰る。
・青島は想い出の町。青島で働きたくなった。
・一カ月二カ月して外務省警察官の試験を受ける。
・夜、街灯の下で勉強していた。
・多くの人が受けていてこれはだめだと思った。
・何百人受けて三百五十人が合格。三百五十人中一番の成績だった。
・渋谷で一カ月間準備教育。
・成績の上から三番目までは特別昇給がでた。

○昭和十五年七月ごろ、青島へ。

・領事館警察は在留民を保護する。当時は日本に治外法権があったから警察の仕事ができた。
・検事事務取扱刑事がいて逮捕してきた容疑者を内地に連れて行って裁判する。
・日本人も中国人も逮捕していた。
・青島では刑事係の巡査だった。
・日本人居留地と競馬場を結ぶバスに張り込み、中国人のスリを捕まえたことがある。
・日本人が殺された事件もあったが犯人は捕まらなかった。中国人がやったのだろうと思う。
・給料は月120万(円?)くらい。
・軍隊にいた人が多かった。軍隊と同じ装備。警部あたりは小隊長、警部補は分隊長くらいにあたる。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・青島にいたアメリカ人やイギリス人を上海まで送った。

○北京大使館警務部へ転勤に。

・教習所の助教になる。
・休憩時間になると教習生に流行歌を教えていた。これが戦時に不謹慎だと問題になった。ずっと緊張してばかりいると何か起きた時に大変なことになると反論して上司と喧嘩に発展。これが原因で天津に飛ばされることになった。

○天津領事館警察功績調査係に。

・警察官一人一人の功績表を作っていた。
・最初は「とんでもない奴がきた」という風に見られていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・くやしい気持ちでいっぱい。こんな戦争はやるべきじゃなかったと思った。
・負けたとは思っておらず、天津に駐屯している若い将校たちと連絡をとって、米軍の集結地に爆竹を鳴らしに行った。
・引き揚げ者が天津に集まった。芙蓉小学校が集結場所で、そこから塘沽の貨物廠へ車で運ぶ。
・ガソリンがなくなって、八路軍がたくさんいる中を完全武装し、河の近くに集積されたガソリンを運んだ。このことで総領事館の一番偉い人に「よくやった」と褒められて、証書までもらった。
・共産軍がいる中、重慶軍が徐々にやって来た。
・中国人の態度が変わった。露天で買った子供用の粉ミルクが偽物だったので文句を言ったら襲われかけたことがある。

○昭和二十一年五月、塘沽から引き揚げ船に乗船。

・日本に二人を連れて帰った。一人は天津の憲兵隊長。もう一人はおじいちゃんで、汪兆銘の部隊の顧問。日露戦争の時にロシアに潜伏して鉄道爆破を行った沖、横川ら特務機関の関係者。迎えに行った時、「内地に帰っても仕方がない。このままでいいから」という。なんとか連れて帰った。
・佐世保に上陸。アメリカ兵が近づいてきた。戦犯で逮捕されるのかと思ったが、「いいヒゲだな」と褒められた。
・汽車で帰郷。
・帰ってきてから警察に就職。戦犯渉外係になり、戦犯を探すことになった。
・自分が戦犯だと思っていたので、あまりやりたくなかった。
・戦時中、某所で米軍飛行士を殺してその人肉を食べたという事件の重要戦犯だったTの捜査にをあたる。
・Tは遺書を自宅にのこして青森で身を投げたということだったが、長々と書かれた遺書がどうも怪しいと直感。調べると東京にいた。
・部隊長の命令でやっただけだから大丈夫だと説得して連れていった。思った通り罪にはならなかった。

●除隊時、陸軍軍曹。
●終戦時、巡査。
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ゴールデンウイークの群馬・栃木キャラバンが5月5日(土・祝)に伺った証言の概要です。
この旅の最後の聞き取りです。
メーリングリストより転載します。

◎金澤彰三さん(91)
取材日:平成二十四年五月五日
大正九年生まれ
所属:歩兵第八十七連隊(満州第八五三部隊)通信中隊~第一挺身集団第二挺身団(高千穂部隊)司令部(威19040)通信隊無線中隊
兵科:歩兵(通信兵・空挺兵)
戦地:満州(春化)~フィリピン(ルソン島)
――――――――――――――――――

○大正九年十一月十五日、群馬県生まれ。

・実家は農家。
・スポーツ少年で、暗くなるまで鉄棒、テニス、バスケット、なんでもやった。
・サーカス団が町にやって来たことがあって、父親に将来サーカス団に入りたいと話したところ、「サーカス団は金に困った人が子供をあずけるところだから、お前の行くところじゃない」と言われた。その後ブランコに乗って曲芸の真似をしていたら、頭から落ちて脳震盪を起こした。
・おっかなくてもスリルのあることが好きだった。

○小学校卒業後、講談社に就職。

・はじめは商品部、次に婦人倶楽部の編集などいろいろやった。
・住み込みで働いていたので給料はあまり多く貰っていなかったが、普通の社員でも月給五十円くらいで良いとはいえない。東大を出た社員が「大学を出て俺は給料これっきり。三菱に行った友達はもっともらってる」。「じゃあそっち行ったらいいじゃねえか」と言うと、「そうもいかない」。やっぱり講談社には魅力があった。
・学校を出ていなくても偉くなれるようにとこき使われたが、今考えればいい教育だった。辞書を持ち歩いて、隣の人が難しいことを話すとすぐ調べるくらいだった。ここで鍛えられた。

○昭和十五年、徴兵検査。

・第二乙で甲種合格に編入。
・八歳の時、兄が徴兵検査を受けて、「あそこの家の誰々君は甲種合格を言い渡されて、震えて靴ひもが結べなかった」と言っていた。その時はずいぶん感激したんだなあと思っていたが、大きくなってから兵隊に行くのが嫌だったからということが分かった。自分達は甲種合格になるのが名誉なことだったのに感覚が全然違った。

○昭和十六年二月二十日ごろ、高崎連隊へ集合。

・新潟から輸送船に乗船。東満・春化(※現吉林省)へ。

○昭和十六年三月一日、歩兵第八十七連隊(満州第八五三部隊)通信中隊入営。

・春化には部落が何軒かあるだけで何もない。山を登ればウラジオストックが見えた。教育は琿春にある師団司令部の通信講堂で行われた。
・無線通信士として訓練を受ける。モールス信号や無線機の操作、電磁学、電気学、無線学を勉強・学校を出た中尉か少尉の偉い人が教官。
学科ばっかりで、学校に行くのと変わらない。新しいことだから面白かった。
・初年兵だけで古参兵がいないので楽だった。私的制裁もない。
・送受信は出来るようになった。

○昭和十六年六月二十二日、独ソ戦始まる。このため原隊復帰。

○昭和十六年七月、関東軍特殊演習。

・どんどんどんどん弾薬や物資が輸送されてきた。
・壕を掘り、真新しい服と装備を貰って、すぐにも戦争に行けるような体制だったが、いつまでたっても命令が来なかった。
・「防疫給水隊」という聞きなれない部隊がやってきた。飲み水をろ過するのはいいが、その中に「散毒隊」というものがあるという噂を聞いた。条約で毒をまくことは禁止されているのになんでだろうと思っていたが、退却する時に毒を巻いて敵を恐れさせるということだった。これが戦後有名になった石井部隊だと思う。
・ソ連の監視を続けていたが、夜間に物資を輸送していたようで、変化はわからなかった。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・班長が報告してくれた。
・小学生の頃、日本は三大強国だと教えられて本当かと疑っていたが、半年もたたないうちにどんどん進撃するので、日本は強い国なんだなあと思うようになった。
・ミッドウェーで負けたの話を聞いたが、入営前に海軍の人からアメリカには空母が七隻、日本には十隻あると聞いていて、それならまあ大丈夫かと思っていた。

・それからは連隊から離れた山の中にある通信連絡所にずっといた。
・「ゆうべ、河でバシャバシャ音がしたが、あれは日本の特務機関が変装してソ連に渡ったようだ」という話を聞いたことがある。

○昭和十八年四月、満期除隊が延期に。

・満期服も作っていたのに。
・毎日毎日同じような生活。弾の下をくぐってみたいけれど、こんな平和じゃなあと思っていた。
・初年兵の最初のうちは優秀だと言われていたが、だんだんといい加減なことをするようになっていき、人事係からあまりよく思われていなかった。

○昭和十八年夏、人事係に「落下傘部隊に入らないか」と言われた。

・落下傘部隊は志願制なので、おかしいことを言うなあと思ったが、落下傘部隊は勇ましいし、運動もできるので行くことを決めた。人事係も人選に苦しんでいたようで喜ばれた。
・「よかったなあ。死に場所を見つけたなあ」と思っていた。残った同年兵には「決死隊だから可哀そうだ」と言われたが、「お前たちの方が先に死ぬんだ。俺は死なねえぞ」という気持ちだった。
・隊から十人が選ばれる。もともと通信兵は人数が少なく、空挺部隊に志願させて集めるのが大変だったようで、半分強制だった。盛大に送別会が開かれた。
・琿春から軍用列車に乗った。列車には砲兵も乗っていた。「砲兵も落下傘部隊になるのかなあ」と思っていた。九州に着いた時、日豊線に乗ると砲兵はいなくなっていた。
・宮崎県の河南駅に到着。駅前に農家が二、三軒あるだけの田舎でがっかりした。
・駅から十分くらい歩くと衛門があって、広い降下場があった。

○昭和十八年九月三十日、第二挺身団司令部通信隊無線中隊に転属。

・部隊は新設で兵舎は作られたばかり。
・通信隊は有線250人、無線250人の計500人。
・司令部には若い女の人が十人もいた。軍隊の兵舎は女人禁制じゃないかと思って聞くと落下傘修理の事務員だった。
・降下場は元軍馬の牧場。衛門のある南側以外は柵もない。
・戦車隊もいた。まさか戦車を落下傘で落とすとは思わずびっくりしたが、グライダーに載せると聞いて納得した。軍用列車で一緒だった砲兵もグライダーで、茨木県で訓練を受けたらしい。しかし、グライダーはもうなかった。
・満州では天皇陛下のためだとしょっちゅう言われていたが、ここでは自分のためと言われた。戦地で最後に残るのは自分の体だけだから、体を鍛え上げろということだった。
・体操ばかりやっていた。落下傘部隊はもう教官がいらないと言われていた。
・「降下は男度胸の降下である。その反面恐怖の降下である」。「挺身殉国の精神」。
・単独降下→連続降下→集団降下→武装降下→戦闘降下と訓練が進む。
・はじめは何も付けないで体操着で降下し、段々と兵器を持って降下する。
・着地する時が一番難しい。骨折が多い。必ず足をまっすぐ閉じていなければならなかった。
・降下訓練の時、地上教官が下からみている。「足そろえろ―」と言っていた。
・訓練中怪我をした兵士は転属させられた。
・無線機はあらかじめ投下して拾いに行った。
・四機編隊の先頭機に指揮官が乗って、一番最初に飛び降りる。次に後続の機の一番偉い人が飛び降りる。これは考えたなあと思った。偉い人が率先して飛び込むのはいいことだし、一番危険も少ない。
・輸送機部隊は新田原にいた。輸送機はMC。武装兵十四、五名が乗れる。
・基本的には兵隊と同じ服。その上に落下傘のヒモがひっかからないように雨外被を着ていた。
・小銃は真中で二つに折れるもの。それと拳銃を持つ。通信隊にはなかったが自動小銃も使われていた。
・無線機も小型で新しい地四号。普通のものは手で回して発電するが、ガソリンで発電するので電波が遠くまで飛んだ。
・週二回代用食が出た。落下傘部隊の食事は恵まれていた。
・髪の毛をのばした十五人くらいの将校がやってきたことがあった。「なんだありゃ」と思っていたが、中野学校の生徒だと後で聞いた。
・倉庫に学生服がたくさんあった。様々な大学の学帽もある。ただ、慶應の上着に早稲田のボタンが縫い付けてあったりでちぐはぐ。これは落下傘部隊が出来た当初、読売遊園地の落下傘降下塔で民間人に変装して訓練していた際に使っていたものだった。本物の学生に絡まれて乱闘になり、警察につれていかれて殴られても部隊名は絶対に言わなかった兵士の話が、部隊で語り継がれていた。
・落下傘部隊は最初モサクレが多かったらしい。自分達のころはおとなしい人達になっていた。

○昭和十九年四月、昼間に父親が危篤との電報が届いた。

・急遽帰郷することになったが、時間表を見ると夜十時発の電車しかなかった。弁当を二食分もらったが代用食だった。これだけじゃ足りないと言ってあんパンを十個もらった。
・列車に乗ると、となりに農家の人が座った。どこに行くかいろいろ話して、食べ物がないと言うと、翌朝「一緒に食べましょう」と当時絶対食べれなかった太巻き寿司をくれた。お礼にあんパンを挙げると喜んでいた。
・門司に到着。ここからは急行列車に乗って二十四時間かかる。
・弁当の中身がボロボロになってきて、捨てるのはもったいないし、どうしようかと考えていると、向かいの席に紳士がのってきた。こんなものをあげるのは失礼かと思ったが、どうですかと差し出してみると、大喜びだった。それから二日間は何も食べなかった。
・自宅に着くと父親は亡くなっていて、葬式も終わった後だった。線香をあげるよりも空腹だったのでご飯を食べていた。「お前は何を考えているんだ」と怒られたが、「親父は七十まで長生きして幸せなんだ。俺は二十五で死ぬんだから」と思いながら手を合わせていた。
・それから親戚中を、「落下傘部隊だから。もう命はないから」と最後のあいさつをしてまわった。
・母親は涙を流していた。国のために死ぬのに親がなんで涙を流すのかと思った。
・本当は落下傘部隊だと言ってはいけないけれど、最期だから話した。

○昭和二十年十月二十日、米軍レイテ島上陸。第二挺身団に動員下令。

○昭和十九年十一月七日、比島へ出発。

・無線隊は64名。
・九州から輸送機に乗り、台湾屏東飛行場に着陸。。
・なかなか輸送機が飛ばない。航空隊に聞いてみたら、「今フィリピンは空襲だよ。あの空襲が終わってから出るんだ」。状況を全然知らなかった。

○昭和十九年十一月七日、南サンフェルナンド到着。

○ 昭和十九年十二月三日、アンヘレス到着。

・三十九機の飛行機が集まってすごい数だった。
・米軍機の空襲で、輸送機部隊が退避した。その後敵機が急降下でバリバリ来た。空から音が聞こえて、薬莢が落ちてくる。操縦士が見えた。防空壕の作り方も知らないので、あっちににげたりこっちに逃げたり。「俺は命を捨ててきたのに、なんでこんなに恐怖にかられるんだろう。内地の人に見られたら恥ずかしい」と思っていたが、他の人はそのようなことを全く考えていなかった。この後防空壕を作るようになった。
・段々空襲にも慣れてきて恐くなくなった。
・このころは日本軍が多かったためか、ゲリラはなかなか出て来なかった。

○昭和十九年十二月六日、第一次降下。【※ブラウエン飛行場等へ】
○昭和十九年十二月八日~十四日、第二次降下。【バレンシア地区へ】

・西海岸の三十五軍の司令部が危ないと言うので急遽バレンシアへ変更になった。
・通信隊からは二個分隊降りただけ。第一回目に東海岸に降りた一個分隊とは通じなかった。
・東海岸に降りた部隊とは無線が通じなかった。アメリカの無線機も使って傍受しても通じない。操縦士によれば火を吹いて落ちた一機が通信じゃないかということだった。
・三十五軍のところに掩護降下に降りた部隊とは無線が通じた。
・毎日嫌な報告がばかり入って来る。「何々中隊長戦死」、「何々中隊長負傷」。でも戦果はあったようだ。
・不開傘で九人が戦死。ショックだった。弾薬の重みでワイヤーが切れてしまったのが原因らしい。
・第二回の時、重かったためか輸送機が飛び立たった後、浮き上がらずに突っ込んでしまったけれども、みんな助かったらしい。

○昭和十九年十二月二十四日、マニラの飛行場に移動命令が出た。

・アメリカの落下傘部隊がクリスマスのプレゼントにマニラの飛行場に降りるということで、防御することになったが、結局降りてこなかった。

○昭和二十年一月頭、マニラの市街地に移動。

・なんとかホテルの前で塹壕堀。

○昭和二十年一月九日ごろ、北部ルソンへ移動命令が出た。

・四百キロくらい歩いた。グライダー部隊はクラークに送られた。
・サンホセ手前の部落で、部隊の一部がゲリラ討伐に駆り出された。教範を見るように見事に突撃し、こちらは五名戦死したが、ゲリラにも九十名以上の損害を与えて、通過部隊から「高千穂部隊は大したもんだ」と言われるようになった。
・途中で敵の戦車に遭遇して無線機が破壊された。

○昭和二十年二月七日、ゴルドン(※Cordon?)に到着。

・一カ月休養。
・第四航空軍の富永中将が台湾に逃亡したことを聞いた。「東条大将の腹心の者だから、そんな重い罰はないだろう」と噂されていた。その通りになった。

○三月十日ごろ、第一線へ出陣命令。

・バレテ峠の東側を守備することになった。
・降りなかった隊員で十個中隊が編成される。通信からも十名出ていって第一線で戦ったが、全滅してしまった。
・部隊にくっついていて、戦闘には参加しなかった。

○二十年五月なかば、切り込みを命じられる。

・米軍は高射砲で地上を撃つ。それを爆破しろと言われて三人で夜に出ていった。
・陣地を見つけたが高射砲は見つからなかったが、すぐそばにアメリカ兵が歩いて、いよいよこれで終わりかと思った。命を捨てた人間がなぜこんなにも恐怖するのか自問自答していた。短気な北海道出身の兵士が「拳銃でやっちまおう」と言ったが、「よせよせ、それは任務じゃない」と言ってやめさせた。陣地を爆破してから戻った。

○昭和二十年五月末、バレテ峠が米軍に突破される。

○昭和二十年六月二十日ごろ、転進命令が下る。

・一番元気で歩けたので、先行して後から部隊が来るのを待つことを繰り返した。
・食うや食わず。
・山の中にはイゴロット族がいて、これは首狩り族で人を殺して食べると言われていた。部落を見つけると食べ物を探しに行ったが、住民も食糧もなかった。家の中には日本と同じようにいろりがあって、灰の中から芋の皮をさがして食べた。
・歩いていると戦友が倒れていた。「キニーネはあるか」。こんなの効くもんかと思って飲まずにとっておいたので、それを渡してびっくり。その戦友の手は雨に打たれて真白にふやけていた。その後、その戦友に会うことはなかった。後から行くと言う人はすぐ死んだ。
・ある日、丘の上で裸になって服のシラミをとっていた。近くに誰かがやってきて草むらで小便をした。そこにはミツバチの巣があって、ミツバチの大襲撃を受けた。飛行機のようですごかった。知っている人がいて、「動くと刺されるぞ」と言う。気持ち悪かったが、裸でじっとしていて刺されなかった。刺された人は夜に熱がでていた。蜂蜜はなかった。
・七色のキノコがだーっと生えている。黄色、黒、いろいろある。毒があると言われていたがそんなことは耳に入らない。一応裂けるものだけ選んで食べたが、食べた後に心配になった。結局何ともなかった。

○昭和二十年八月十日ごろ、休んでいると知らない兵隊がやって来た。「食べませんか」「なんだ?」「ノロの肉だ」。感謝しながら貰って食べた。南の方にもノロ鹿がいるんだなあと思っていた。

○昭和二十年八月二十二日ごろ、最後に通過した部落で熱が出た。

・持っていた体温計で計ると三十九度で動けない。尻に違和感がある。これは痔にでも出なったかと思い戦友に見てもらうと、大きなできものができていると言うのでカミソリで切ってもらった。すると熱が下がって楽になったが、三十メートルも歩けなくなった。残ることは死ぬことだと思ったが、残ることにして隊長に報告した。「わしも足を怪我してそんなに歩けないから一緒についてこい」。それで一緒に行くことにした。戦友に叩かれ叩かれ歩いた。
・坂を下っていくとだんだんと平地になって、川もゆるやかになった。そこで、いかだで下ることになった。
・三十数名いた通信隊で、この時に残ったのは十四名。五名、五名、四名でいかだを作って下った。一番前は隊長と元気な兵隊。衰弱していたので一番後ろの船に乗った。
・下っていると大きな石にぶつかっていかだが転覆。河に投げだされた。衰弱しているので十メートルも泳げない。なんとか上がってみると褌だけになっていた。
・先頭のいかだも転覆。松浦隊長たちは見つからなかった。
・兵隊が通った道を、休んでは進みを繰り返して進んだ。しばらく行くとサクランボに似る実がたくさん生えていた。ほとんどの実の中には二ミリくらいの小さい虫がいて、最初は取っていたがだんだん気にしないで食べた。
・兵士がゴロゴロ死んでいる。白骨になって目にはハエがたかっている。死体の近くに置かれた服や靴や銃をひろった。死体がつけているものはもうダメになっていた。
・どの死体の枕元にも大体家族や奥さんの写真が落ちている。まったく女々しいなと思っていたが、後で考えてみればかわいそうなものだと思う。
・死体の中には「あの尻の肉はずいぶん不自然だな」と思うものがあった。おそらく日本兵が切っていたんだろう。

○昭和二十年八月三十日ごろ、ピナパガン到着。

・各部隊が集結していた。
・とうもろこしがたくさん生えていた。二、三人の兵隊が火を焚いて煮ていて、一本くれた。生のままばりばり食べた。
・長い棒を担いでいる人がいたので、なぜ持ってるのか聞いてみると、海に流れるように、岸に流れ着いた死体を河に流しているということだった。

○昭和二十年九月十二日ごろ、日本の無条件降伏を知る。

○昭和二十年九月十七日、ヨネス(※Jones?)で米軍に投降。

・隊長の命令で宮城に向かって捧げ銃をした。なおれと言ってもだれも銃をおろさない。皆涙ぐんでいた。喜びの涙でも悲しみの涙でもなかった。こんな苦労した軍隊でも、なにか敗けたというのはさびしい。なんとも言えない気分だった。
・米軍が持って来た大きな空気のボートに五住人くらい乗って河を下った。
・着いたところには多くの部隊が集まっていた。小さいテントに日本の将校や偉い人が十人集められていて、我々の方を眺めていた。みんな刀を持っておらず、哀れなものだった。
・すぐそばに米軍の診療所があって、倒れた戦友を運び入れてベッドに寝かせた。その時、戦友の持っていたレーションを食べようかどうか本当に迷った。自問自答の末に食べないで枕元に置いて来たが、戦友はその後死んでしまって、やっぱり食べればよかったかなあと思った。
・米軍が指示した道路に着いた。米軍はわざわざ日本軍の捕虜を収容するために道路を作っていて、砂利を運んだ大きなダンプを見てびっくりした。
・待機していると、八両編成くらいの汽車みたいなトレーラがやって来た。それに乗るが、衰弱しているので誰も自分の力で乗りこめない。すると、アメリカ兵がニコニコしながら皆をを押し上げていた。「アメリカ兵はどうも我々が思っているものとちがうなあ」と思った。シラミだらけで汚い体なのに、親切で嫌味っ気が全然なかった。
・バタンガスの収容所移動。何万もの日本兵がテントで生活していた。
・支給されたテントには製造日が書いてあって、新しいものは作りが粗雑だった。
・毎日八時間労働。道路工事なんかをしていた。
・一度夜間作業で防毒マスクの解体をやらされたことがあった。夜食がでないので腹が減る。作業場の隣が糧秣廠で、ベーコンやらバターやら入りきらない食糧が山と積まれていた。それを交代でとりに行った。周りは鉄条網で囲まれていたが、側溝だけは空いていて、もぐってとった。
・収容所はオイチョカブをしたりのんびりしていて、アメリカ兵とも友達みたいだった。
・アメリカ兵は十七か十八歳くらい。日本のことを知りたがるので、よく話をした。「親切だから黒人が好きだ」と話をしたら、「黒人は国に帰ったら靴磨きだ」と馬鹿にしていた。本当かどうかわからないが、黒人の将校が「平等にしてくれるから日本が勝てばよかった」と言っていたという噂を聞いたことがある。
・ある日仕事が終わってからマンゴーの木の下で寝ていると、アメリカ兵のガードに見つかった。「歯が痛い」と言うと、ジープを呼んで歯医者に連れて行って、痛くもないのに治療してくれた。
・何もないけれど戦犯になることが心配だった。悪いことをしていたのは現役ではなく召集の人が多かった。
・中々日本に帰れない。収容所の偉い人に、捕虜の代表が「帰す約束なのになんで帰さないんだ」とかけあったことがあった。迎えに来る船がないから待っていろということだった。
・日本の上陸用舟艇に乗船。
・赤いご飯が出て、赤飯がでたと喜んでいたが高粱飯だった。
・アメリカの物をもっているとえらいことになると言われて、コーヒーやらタバコやらみんな捨てたが持って帰ってくればよかった。
・中国では勝ってもヨタヨタで帰って来る。ところがフィリピンでは負けたのに、頭の毛にポマードをつけて太って帰って来る。こんなのでは石をぶつけられると噂されて、みんな頭の毛を刈った。結局何もなかった。

○昭和二十一年十月三十日、名古屋上陸。

・切符とアメリカから十五ドルくらいの小切手をもらった。港にアメリカの銀行が出張してきていて日本円に換えてもらった。
・日本に着いてもうれしいというより、「これからどうするかなあ」という感じだった。
・帰って来たのは体が丈夫だったから。やっぱり運が良かった。
・あの時食べた肉は本当にノロの肉だったのか。今ではもうわからない。
ゴールデンウイークの群馬・栃木キャラバン2班が4月29日(日・祝)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎北村辰五郎さん(90)
取材日:平成二十四年四月二十九日
所属:歩兵第十五連隊(東部46)第一機関銃中隊~独立歩兵第三百二十八大隊本部
兵科:歩兵(重機関銃)
戦地:満州(チチハル)~ヤップ島
――――――――――――

○大正十一年四月二十一日、群馬県生まれ。

・実家は農家だった。
・小学校を卒業しないうちに中島飛行機から職員の募集がきていたので応募。

○昭和十二年ごろ、15歳の時に中島飛行機太田製作所に就職。

・日給40銭。
・家から自転車で通った。
・胴体の組み立て作業にあたる。
・扱かったのは主に民間機のAT。ダグラスの次に大きかった。(※中島AT-2高速旅客機)
・飛行機は鉄でなくジュラルミンなので溶接はできずリベットの鋲打ちだった。
・組み立てられた飛行機は人通りが少ない夜のうちに工場から尾島の飛行場に運んだ。
・運ぶのは業者と年配の従業員。人力で押して運んでいた。
・後に工場のすぐそばに飛行場が出来て楽になった。

○昭和十六年十二月八日、会社で開戦を聞く。

・今から考えてみると馬鹿だったと思うが、当時は軍艦マーチを聞いてわくわくした。
・戦争がはじまると工場でもだんだんと爆撃機を作るようになった。
・キ21(九七重爆撃機)、キ49(百式重爆撃機)の組み立てをした。
・軍用機は実用性重視なので旅客機より作るのは簡単。

○昭和十七か八年、徴兵検査。

・結果は第一乙。

○昭和十八年二月十日、東部46部隊に歩兵第十五連隊要員として入営。

・国のため、男として当然という気持ち。
・同じ地域から二人が一緒に入営した。自分は高崎連隊だったが二人は水戸連隊で、駅から二人と別方向の汽車に乗った。その後、水戸連隊は玉砕して二人も帰らなかった。
・高崎で基礎訓練。
・さんざん殴られた。ひどかった。
・はじめて殴られた時はトイレで皆が泣いていた。
・殴られて鼻血が出た時は、教官も驚いていた。

○昭和十八年四月ごろ、満州の原隊から下士官と将校が迎えに来てチチハルへ。

・汽車で九州まで行き、そこから船に乗って釜山上陸。また汽車に乗った。
・今の北朝鮮に入ると鎧戸がしめられて外が見れなかった。南はそんなことはなかったので不思議に思った。
・チチハルに到着すると第一機関銃中隊に配属された。
・ここでの訓練は夜間演習ばかりで参った。寝る間がなかった。
・機関銃をわっしょいかついで忠霊塔まで行軍した。
・スイカが道にたくさん積んであって、内地にはなかったのでたまげた。
・行軍している時に現地人の葬式を見た。楽隊や泣き女がいて日本よりにぎやかだった。
・満州国軍は日本軍より上等な服を着ていた。日本軍はボロを着ていたので、よく馬鹿にされた。ただ兵器は日本軍の方がいいものだった。
・酒保品にスイカがあったので食べたら、夕方になって皆が腹痛を訴えた。駐屯地の隣に病院部隊がいたので診てもらうと、腸チフスに罹患していて、そのまま入院させられた。年配の補充兵はバタバタ死んでいった。
・ソ連のスパイかなにかが毒を入れたスイカを部隊に納入したのではないかと噂された。
・病院では重湯と肉の入ったスープを二食分ずつくれてすぐ回復した。

○昭和十八年十二月暮れ、病院下番。

・部隊はニューギニアに行くということになっていた。
・チチハルからどうやって行ったのか覚えていないが、九州の佐伯港に行った。

○昭和十九年一月九日、「でんまーく丸」(白洋汽船、5869トン)乗船。佐伯港出帆。

・各部隊から3400人が集まって乗った。
・六隻の船団。
・九州と四国の間を通る時、一隻が敵潜水艦に撃沈されて佐伯港に引き返した。

○昭和十九年一月十三日、再び出帆。

・輸送船はどんどん沈められて、でんまーく丸ともう一隻だけになった。
・もう一隻は何も積んでいないのか喫水線が見えた。そのために敵も狙わなかったのかもしれない。
・船倉は五層くらいになっていて、二層目くらいにいた。、甲板に出れるように一本だけ非常用の縄梯子があった。
・船に戦友が二、三人しかいなかったのでいつも縄梯子のそばでタバコを吸っていた。

○昭和十九年一月十六日午後六時ごろ、いきなり「中に入れ!」という号令が飛んだ。

・そのあと水がバーッと入ってきた。
・「あれ?」と思っていると、船がゴゴーンと動揺した。すぐに縄梯子を登って甲板に出た。
・非常時には海に飛び込む合図のラッパが鳴らされるはずだったが鳴らなかった。飛び込まないでいると、船尾の方から水が流れてきて、そのまま気絶してしまった。
・気が付いたら息が出来ない。海の中だった。ガブガブ海水を飲んでしまった。死ぬのはこんなに苦しいものなのかと思った。
・苦しいなと思っていたら海面に上がった。目の前にいかだが浮いていて、それにしがみついた。
・いかだは波でゆらゆら揺れる。みんなで軍歌を歌った。
・死ぬとは思わなかった。

【※昭和十九年一月十六日、米潜水艦「ホエール」(USS Whale/SS-239)は「丁秣(でんまーく)丸」を撃沈】

○昭和十九年一月十七日午前八時頃、駆潜艇に救助される。

・力が出なくて自分で上がれなかった。海軍の兵隊が輪っかにしたロープで引き揚げてくれた。
・甲板はエンジンの排気が流れていて暖かい。良い気持ちで眠くなる。眠りそうになると海軍がはったおす。
・眠った戦友は死んでしまって水葬にされた。一人じゃなくて三人も四人も。もっといたらしい。
・駆潜艇は千人くらい救助して、全速力で沖縄に向かった。

○昭和十九年一月十七日夕方、沖縄に上陸。

・小学校に入った。
・着の身着のままでなにもない。
・大きな砂糖の塊を二つ貰った。
・将校は大きな羊羹を食べていた。兵隊はもらえなかった。ひどかった。
・将校はボートで逃げたんだと思う。付けていた腕時計が動いていたから、海水につからなかったんだろう。

○三、四日して生き残った輸送船に乗船。

・甲板でシートを巻いて寝ていると、小隊長の横山少尉がやって来た。チフスがまた再発したらしょうがないから、基隆についたら下船して病院へ入れと言われた。
・それから覚えていないが、気が付いたら基隆病院のベッドで寝ていた。
・町に出ると飴などが売っていたが、どうせ死ぬと思って俸給は全部家に送金していたので変えなかった。
・台湾はタバコが安くて七銭くらいだった。
・二カ月くらいして原隊に戻るため、パラオ行きの船便に乗った。

○昭和十九年三月二十八日、パラオ上陸。

・港には戦艦武蔵がいた。やっぱりでかい。
・基部隊(51師団衛生隊?)に居候することになった。年寄りの補充兵の部隊で、現役の自分は馬鹿にされて酷い目にあった。

○昭和十九年三月三十日、パラオに米艦載機の大空襲があった。

・山から見ていたが、船が全部やられた。

○昭和十九年四月はじめごろ、アンガウル島へ行けと命令される。

・三百人くらいで守備にあたった。
・二十日くらいいたら、パラオに十四師団がやってきた。
・アンガウル島にも五十九連隊の一個大隊千二百人くらいが来て、交代してパラオに戻った。
・パラオに戻るとヤップ島に一個大隊が足らないから行けと言われた。

○昭和十九年五月ごろ、独立歩兵第三百二十八大隊本部に転属。

・空襲を逃れたキャッチャーボート(捕鯨船)でヤップ島へ。
・ヤップ島には久留米の旅団がいた。群馬の連隊と気性が似ていた。
・大隊長は小桜八太郎少佐。あんないい人はいない。「北村、北村」とかわいがってもらった。
・現役なので伝令用員になった。
・各所に原住民の集会所があって、そこが本部に使われていた。
・大隊本部から旅団本部まで歩いて二時間かかる。ある朝、旅団本部に伝令に出かけると上空をフロートの着いた飛行機が飛んで艦砲射撃を誘導していた。おっかなくて動けなくず。結局着いたのが夕方になってしまった。
・ヤップ島では普段褌一丁で靴もはかない。旅団に行く時と戦争になった時だけ着る。
・寝床は大隊本部。ビンロウの葉を敷いて寝ていた。
・食べ物は全然ない。さつまいもの茎と葉っぱを食べていた。戦争なんかできっこない。
・野生のマンゴーとって飢えをしのいだ。
・魚をとって食べても下痢してしまう。
・エイのでかいの(マンタ?)を豆腐大に切って、てんぷらにして食べたら、夜みんな下痢になった。味は良いのにだめだった。
・ヘビやネズミはいなかったが、一メートルくらいあるでかいトカゲがいた。追いかけると木にのぼるが、石を投げると降りてくる。そこを捕まえた。えらいごちそうだった。ずいぶん食べた。
・タバコも全然ない。どうしても吸いたくなるとバナナの葉っぱに火をつけて吸っていた。
・フランペッシャー(?)という皮膚病が流行った。一回罹ればもう罹らないが、皮膚が腐る。薬がないので衛生兵が切り取るが、これが痛い。五つか六つ切ってもらった。
・原住民は頭がいい。戦争前にやってきた沖縄とか朝鮮の人が馬鹿にされていた。
・原住民は「ヘイタイサン、ヘイタイサン」で親日的。白髪がなく、犬ではなくて豚を連れいていた。腰みのと石貨が印象的だった。
・艦砲射撃も空襲も毎日ある。
・ヤップ島からウルシー島が肉眼で見えたが、敵の船でいっぱい。
・日本の爆撃機が三十機くらいウルシー島を攻撃にやって来たことがあった。夕方、変な音の飛行機が来て、あらおかしいと思ったら日本の飛行機が三機着陸した。
・そのうち二機がだめになって、機関銃やらなにやらを全部おろして、一機に二十人くらい乗っかって飛び立っていった。あとで日本に着いたと聞いた。

【※昭和二十年三月十一日の梓特別攻撃隊】

○昭和二十年八月十五日、ラジオで終戦を知る。

・みんながっかりしていたが、自分はそうは思わなかった。アメリカの方が進んでいることが分かっていた。
・すぐに米軍がやってきて、降伏調印式に行く大隊長についていった。大隊長は波止場から大発で米軍の船まで行って、タバコと6ポンドのコンビーフの缶詰を持って帰ってきた。皆大喜びだった。
・武装解除の検査の時、ふんどしまではずされた。
・そのころ赤痢が流行り始めていて、元気だった自分が炊事係になった。
・米軍からココアをもらった。口当たりがよくてうまい。だが夜眠れなくなって困った。
・アメリカはほとんど食糧をくれなかった。乾燥したニンジンの缶詰くらいで主食はくれない。

○昭和二十年十二月、コロニヤの波止場から駆逐艦の「ちょうかい」(?)に乗船。

・最新の駆逐艦で、早くてきれい。
・船に弱いので乗ったら寝たきりだった。
・浦賀に近づくと「女の人が歩いてる」と大騒ぎになって、甲板が人でいっぱいになった。

○昭和二十年十二月十五日、浦賀上陸。

・浦賀に二、三日くらいいて解散になった。
・大隊長が「わしはなあ、村に帰って村長でもやるよ。それじゃあなあ」と言って別れた。後にその村は町になって、大隊長は町長になったらしい。
・金平糖の入った乾パンを三食ほど貰って雑嚢に入れていた。列車に乗ると誰もいなかったのでトイレのそばにかけていた。
・午後三時ごろ、地元の駅に着いて降りると、乾パンだけ盗まれていたことに気付いた。食糧事情が悪いとは聞いていたが、こんなもんかなあと思った。
・夏服で駅から家まで歩いて帰るのが恥ずかしかったので、駅前の知り合いの床屋で暗くなるまで待った。
・家に着くと、うどん粉で作ったカレーを食べた。やっぱりうれしかった。


●終戦時、陸軍上等兵。
群馬・栃木キャラバンが4月28日(土)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎石丸 勇三さん
本籍地:新潟県
大正4年9月5日生

18歳のときに東京のおじさんを頼って新潟から上京していた。
それまでは、納豆工場に勤めていた。
上京して、鋳物職人の親方を渡り修行を積んでいた。最初の仕事場である「日本鋳造」では、半年働いた。小さな型しか作らせてくれなかったのでつまらなくなった。やめたいがやめさせてくれない。なので、「兄が死にました。お暇をください」と嘘を言って仕事を辞めた。

何社か渡り歩いて、23歳のときに軍需工場の「関東製鋼」(現在の大桐製鉄)に現地徴用されてて勤務。
大砲の弾の鋳造を作っていた。腕のいい職人は重宝され、稼ぎもよかった。月に1万2千円(!?)をもらったこともある。
人夫で50銭で稼ぐ時代だったとのこと。
⇒この金額に関してですが、何度聞きなおしてもこの金額でした。
 当時の貨幣価値からすると想像を超える金額ですが。。。
 ちなみに、米10kg: 6円(s20年)、はがき:3銭(s19年)、
 豆腐1丁:10銭(s19年)、入浴料:大人:8銭(s18年)、
 週刊誌:20銭(s19年)。。。

カメラを買ったり、旅行に使ったりと好きなことができた。
実家に帰って両親に10円を渡すと「泥棒をしているんじゃないか。大丈夫か」と却って心配された。

工場は夜9時まで残業をすると、おにぎりが2個出てくる。これは終戦間際でもそうだった。
(鋳物職人がいかに優遇されていたかが分かります)
700人くらいが工場で働いていた。
戦争末期には学徒動員の女学生20人の責任者になった。が、鋳物の仕事を任せることもできず、正直足手まといだった。
工場の空襲もあり、防空壕に避難誘導したこともある。だが、怖がって女学生が防空壕から逃げ出そうとするのを引き戻すのに苦労した。工場では3人空襲で女学生がなくなった。

あれだけ儲けたが、終戦になると軍需はなくなり、週三日勤務になり、家計は一気に苦しくなる。副業として今川焼きを作ってヤミ市で売り生計を立てていた。

「関東製鋼」は戦後まもなく大同製鋼に買収。戦後の混沌とした環境で労働組合の副委員長になり、組合活動に熱中。その結果昭和25年に解雇されてしまった。再就職は非常に困難だった。
⇒ちなみに、就職できないなら起業をということで会社を興して、浄化槽の工事会社をして、非常に儲かったそうです。

国に尽くしたのは軍人だけではなく、空襲の中寝る間も惜しんで働いた人もいて、犠牲になった人がいることを知って欲しいとのことでした。
ゴールデンウイークの群馬・栃木キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
すでに一部報告・証言概要が挙がってきていますので、順次掲載していきます。

群馬・栃木キャラバン
訪問都道府県:群馬県・栃木県
日程:2012年4月28日(土)~5月5日(土・祝)
   日帰りで断続的に実施。

◆◆4月28日(土)◆◆

群馬県前橋市
協力:ケアハウス悠々くらぶ

◎山田三七吉さん
戦地等:在天津日本総領事館警察署
◎石丸勇三さん
戦地等:軍需工場の責任者
◎番正俊さん
戦地等:野戦重砲八連隊
◎浅沼良吉さん
戦地等:国策により北海道で農業

◆◆4月29日(日・祝)◆◆

●1班:栃木県小山市
◎川津敬介さん
戦地等:登戸研究所で偽札製造

●2班:群馬県太田市
◎北村辰五郎さん
戦地等:輸送船乗船。満州~ヤップ島等

◆◆5月3日(火・祝)◆◆

栃木県那須烏山市
協力:「石の蔵」スタジオ
◎土谷長寿さん
戦地等:横須賀海軍徴用の後、陸軍にて内地防衛。
◎小口剛正さん
戦地等:航空母艦「信濃」信号係。

◆◆5月4日(水・祝)◆◆

栃木県那須市
◎今村真さん
戦地等:憲兵。満州~シベリア抑留。

◆◆5月5日(木・祝)◆◆

群馬県藤岡市
◎金澤彰三さん
戦地等:ルソン島