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9月に行いました秋田キャラバンの1班が9月10日(月)に伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。


◎藤本光男さん(85)
取材日:平成二十四年九月十日
所属:土浦海軍航空隊~鈴鹿海軍航空隊~第210海軍航空隊(?)
兵科:飛行科(偵察)
戦地;内地(名古屋防空戦ほか)
――――――――――――――

○大正十五年十一月十二日、秋田県生まれ。

・旧制能代中学に入学。五十人のクラスがAとBの二つあった。
・軍国主義の時代だったが、圧倒的に英語の授業が多かった。一週間(土曜日半ドン)のうち、英読本が二時間、英作文が一時間、英文法が一時間、英会話まであった。軍事教練が一週間に二時間。戦争がたけなわになってから他の授業に差し支えないよう土曜日の午後に一時間増えた。
・軍に志願したのは九人だけで一割もいなかった。
・医者になりたい人は医科大学に、先生になりたい人は師範学校に、農業をやりたい人は農林学校に行く。そういう人と同じような感じで、「じゃあ俺は軍に行く。飛行機に乗りたい」、ということで中学校四年の時、誰が勧める訳でもなく予科練に志願することに。特別死とか、高貴な精神を持ちたいというものでもない。他の受験生と同じような感じだった。

○昭和十八年六月一日、土浦海軍航空隊入隊。甲種飛行予科練習生十二期。

・昭和二年の三月までに生まれた人が同期生。
・秋田県全体で同期生が四十七名が入った。その中で六名が特攻死。
・一年間のところを七か月か八か月で切り上げた。
・土浦から鈴鹿航空隊へ。十九年いっぱいかかった
・鍛え方がすごくて、鬼の鈴鹿とか地獄の鈴鹿と呼ばれていた。
・体を鍛えるというのか、精神を鍛えるというのか、毎日殴られ、筆舌に尽くしがたい。精神棒でバーンと殴られる。最初殴られた時は二メートルくらい吹っ飛ぶ。なにかあると連帯責任。
・体操に毎日一万メートル走ったり、授業もある。算数、国語、漢文、英語、中学校の延長戦にあるような授業を受けた。
・飛行機の訓練は一日に一時間か二時間。夜間洋上飛行は二時間くらいかかる。搭乗時間はそんなになかった。
・飛行時間は三百時間くらい。
・搭乗時間が長い者は、爆撃機や輸送機のパイロットになった。
・練習隊にいる時には何回も両親がやってきた。
・父親が日本刀を持って来てくれたが、飛行機の中はせまいし、軍刀を入れると磁石が狂ってしまうので置いて行った。

○昭和二十年二月ごろ、実戦部隊へ。

・愛知県明治基地。
・月光の搭乗員に。
・戦闘機ばかりでなく、偵察機や練習機もあり、広い滑走路で爆撃を何度も受けた。
・敵機を追うために高度を上げたが、空気が薄いために呼吸困難になって墜落する事故が起きたので、酸素マスクをつけるようになった。
・夜中の訓練もあるし、薄暮、黎明時の訓練があるが、昼寝ているかといえばそうでもなかった。

○昭和二十年二月か三月、名古屋防空戦。

・敵機と相対する。B29だったと思う。墜とさなかったが、同僚は墜した。
・敵機を防ぐ線が名古屋の前で決まっていて、名古屋上空は高射砲が打ち出す。
・米軍は絨毯爆撃で、名古屋の何々区に爆弾を落とすと、次の隊は別の区に爆弾を落とす。
・米軍とは数が違う。
・今飛んでいる場所はどこか目測で調べる。目的地に行くために、風速が何度の方向から何メートルくるのか計らなければならなかった。
・洋上では曳光弾を海に落としていた。真っ暗な中でそこだけ明るくなる。それを見ながら進路を修正していた。
・高度計はあるが、自分がどこを飛んでいるのかをそもそもわからなければならない。
・「渥美湾の○十キロ沖、敵機名古屋方向に進撃中」と連絡が来ると飛び立つ。名古屋で撃ち落すと危ないから洋上で迎え撃つ。何度の方向にいかなければならないかは咄嗟に判断するか暗号で来る。今敵機は何機、どこを飛んでいる、方向はどっち、高度○千か、あと何分で敵機と遭遇するかを操縦士に伝える。
・洋上で迎え撃つのが月光の仕事だった。
・レーダーはなかった。丸い計算機や通信機を僅かな光の中で使って割り出す。
・一時間以上飛ぶことはなかった。
・硫黄島が落ちるまでは敵の戦闘機は来なかったんじゃないかと思う。
・月光は背中に二十ミリの機関銃を積んでいて、敵機の腹の下にくぐって撃つ。操縦員が発射する。
・機体が見えて尾翼の大きさに驚いた。
・向こうが旋回して、撃ってくる閃光が見える。後席から照準をつけて、操縦員に「てーッ!」と伝える。なかなか当たらなかった。
・怖さは感じない。

○昭和二十年四月、静岡県藤枝基地へ移動。

・月光は足が遅くて役に立たないということで、彗星にかわる。
・彗星は空冷。
・斜銃はついていたが敵機とやりあうことはなかった。訓練ばかりで、いわば特攻要員みたいなものだったと思う。
・藤枝基地は全部で三十機くらい。ものすごい整備だった。
・よく燃料がなかったといわれるが、掩体壕のなかに燃料が満タンのドラム缶が何本もあった。
・『夜鴉特攻隊』と、本当の特攻隊ではないが名前がつけられた。
・特別攻撃隊はいろいろ書かれているが、実際の搭乗員は操縦技術が優れていたり、度胸があるなど、選ばれた者。同じように訓練を受けていても、選ばれない者もいる。おそらく司令が選ばれなかった者のために名前をつけたんだと思う。
・そのときはなんだか変な名前だなあと思った。
・技量が優れていないと特攻隊には選ばれない。
・選ばれると訓練は猛訓練。
・士官はベッドで兵隊は畳。
・同じ隊で同じ部屋で寝ていた人が欠けていく。朝いた人がいない。昨日までいた人が今朝起きてみると布団がない。ただそれだけで、「そうか」という感じ。大々的には発表しないで選抜されていく。櫛の歯がかけていくように、一人とか二人とか、どこに行ったかはわからない。しかし、誰もどこに行ったんだろうかお互い語ることはなかった。当然だと思っていた。
・「特別攻撃隊に希望する者は手をあげろ」とか、自分から志願するということはなかった。だから全員そのつもりでいたんじゃないかと思う。
・普通は指揮する場所があるが、建物が空爆で全部やられてしまったので、滑走路のずっとはじっこのほうに板囲いで指揮官室を作っていた。離れたところの兵舎から集まった。
・基地は何回も空襲を受けた。
・訓練の時はベニヤの指揮官室にあつまって、「何番機は」と訓示を受けて、その間に整備員が掩体壕から飛行機を出して来て、飛び立つ。
・常に乗る飛行機は決まっているのでよく磨く。
・訓練は毎日。

○昭和二十年八月十五日、

・毎朝六時か六時半ごろに集まる。そこで今日は訓練がないこと、お昼に重大発表があるからその場で待機しろということを聞かされた。
・昼に集められて、直立不動のまま天皇陛下のお言葉を聞いた。
・前段にその説明がなかったので、なにがなんだかよくわからない感じ。
・その後、十五日に終戦の詔勅をだされた、戦争はここで終わりだということを知った。
・泣きもしないし、ただなんとなく任務が終わったのかなという思い。
・その日かその次の日、厚木航空隊から何機かが飛び立って駿河湾に自爆した。
・隊長が言うには、米軍が来たら一番先にやられるだろうから、とにかく身辺の物を整理して家に帰れということだった。

○昭和二十年八月二十日ごろ、汽車に乗る。

・腹が減ったとは思わなかったが、飲まず食わずで家まで帰った。
・音信不通だったのがひょっこり帰って来たので、両親は腰を抜かさんばかりにびっくりしていた。
・特攻隊の生き残りは一人もいない。特攻隊員は体当たりしたり、途中で撃ち落されて戦死した人だけ。


●終戦時、海軍上等飛行兵曹。
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秋田キャラバン1班が、9月10日(月)に伺った証言の概要です。
秋田市内で立て続けにお話を伺っていました。
メーリングリストより転載します。


◎川井金光さん(91)
取材日:平成二十四年九月十日
所属:36師団歩兵第223連隊(雪3524)第六中隊
兵科:歩兵
戦地:北支(山西省)
―――――――――――――――

○大正十年六月二十六日、秋田県生まれ。

・実家は農家で八人兄弟。
・高等小学校を出てから、鉱山の鉱石を運ぶ馬車引きをしていた。上等兵で除隊した人と一緒に働いていて、「なあ川井、兵隊さいくなら、軍人勅諭は五箇条だけでねえよ。全文暗記していけ」と教えられた。これが大変だった。ほとんど全文暗記する人はいなかった。
・兄が徴兵検査で不合格になってしまった。「あそこの家から誰も兵隊に行っていない」というとになるので、憧れもあり航空兵に志願することに。

○十八歳の頃、埼玉県所沢の陸軍少年飛行学校に合格。

・学校へ行ってから体育のテストを受けたところ、不合格になって帰されてしまった。
・翌年、秋田の十七連隊に入隊するよう命令された。

○昭和十四年十二月、秋田歩兵十七連隊に入営。

・毎日ビンタで軍隊教育はすごいと思った。

○昭和十五年一月十五日、中国の歩兵第223連隊へ移動。

・塘沽に上陸し、山西省の路安の連隊本部へ。
・その近くの白村という部落で初年兵教育を受ける。
・明日誰が死ぬかもわからないので、内地にいるより教育は楽だった。
・大きな作戦が始まって、古兵がほとんど行ってしまった時に敵襲を受け、対峙して撃ちあいをやった。友軍の山砲が後ろから撃ってくる。それがどういうわけか敵ではなくこちらに落ちてきた。こりゃ大変だ、なんとかせねばとなって、「誰か日の丸持ってねえか!日の丸!」、。鉄兜の中から出征の時にもらった日の丸をだして、銃に結んでやったが、敵の格好の標的になって狙撃された。持っていた銃の木の部分を撃たれて、左手の小指がポロンと落ちた。青森出身の山田班長が「このクソ!来いこの馬鹿!なにやってんだお前!敵の目標になるだけだ」と言って、指を拾ってきてヒモで巻いてくれた。おかげで指が助かった。
・また別の作戦に古兵が行っている時、山の頂上の廟から敵が撃ってくるので、友軍の機関銃の援護を受けながら登った。日本軍はどういうわけか突撃するのが好き。とうとう上に行くと、日本軍にやられた死体がものすごい。ひどいもの。昼だからご飯を食べようとなったが、とても喉を落ちていかなかった。生臭いにおい。
・ある兵隊が実を食べるため、たこつぼを飛び出して桑の木を上り始めた。「降りてこい!今、今弾が当たる!」と言っても下りて来ない。そこに敵の迫撃砲が撃って来た。砲弾は彼のいた穴に落ちて、彼は助かった。この時は笑った。
・なにを聞いても答えない捕虜を、見習士官が自分の軍刀で試し切りをすると言って、水筒の水を軍刀にかけて斬ってしまったことがあった。
・ 初年兵教育が終わってから、盧溝橋の教導学校で下士官教育を受け、伍長に任官。
・汽車で盧溝橋を通った時、墓標が多く建っているのを見た。これだけの激戦があったんだなあと思った。
・任官後、”とんりゅうけん”(※屯留県?)で警備をしながら初年兵教育、下士官候補者の教育、幹部候補生の教育を行った。
・学校での成績が良かったから教育係になったらしい。
・中隊の周りには歩哨を立てる。一時間おきに交代するが、そこにいく途中がまずかった。中国の地形は日本と違い、角ばっている。崖の上から中国兵が手榴弾を投げてきて、怪我をしたり、亡くなったりがちょいちょいあった。
・蒋介石軍と八路軍と日本軍の三つどもえ。
・”とんりゅう”にいるとき、五、六人の住民が衛兵の前にやってきた。土に膝をついて「大人!」と言って、なにかをお願いしている。満州の学校で中国語を習った兵隊が通訳するところでは、「女の人が子供を産めなくて死ぬところだ。何とか助けてもらえないか」ということだった。中隊長は軍医少尉に「おい、せっかくこうして住民が来ているんだから、行ってやれよ」と言った。軍医少尉は外科で産婦人科ではないと断ったが、中隊長は笑って、「うんそうか、だけれども、何か助けになる程度でいいからどうだ」。
・軍医が行けば護衛もいかなければならない。自分の班が選ばれてついていくと女性がウンウン唸っていて人がいっぱいいる。これは手術するよりしょうがないとなって、軍医が帝王切開をして、子供も母親も助けた。三日くらいたって帰ると、中隊長が軍医に「お前今度は産婦人科の医者になったらどうだ」と言っていた。
・住民はお礼に酒と鶏三羽を馬車に積んで持って来た。翌日も持ってくる。それが四、五回も続いたので、反対に米を持たせて返した。
・幹部候補生の教育が終わり、連隊本部から帰ってきて一週間ほどたつと、当番兵がやってきた。「中隊長殿がお呼びです」。中隊長のところへ行くと、「ここ座れ、お前は教育畑ばかり歩いてきて、こんどおもしろい作戦があるからいってみないか」と言われて、「そうですか、ぜひ一つ」ということになった。

○昭和十八年、十八夏太行作戦参加。

・兵隊を二個班三十名くらいを連れて、ほかにも各中隊から集まってきていた。
・青森、山形、秋田の連隊が参加。
・山西省を治める中国の将軍を捕まえに行く作戦。万里の長城のふもとの町に中国軍の司令部があって将軍がいるということだった。
・捕まえるのが目的なので、戦争はしない。
・路安を出発。昼は小高い所で眠って、夜だけ歩く。
・敵に見つからないように布の靴を履いて、月の光が反射しないように、銃剣には袋をかぶせた。
・ある夜(夕方頃)、中国軍の本部のある一キロほど手前の所で、小高い丘に立っている敵の歩哨に誰何された。ハッと思ってみんな伏せた。その歩哨がおもしろいことに、あちこちをぐるぐるまわって「誰!誰!誰!誰!」と早口で連呼する。これは最近生活に困って入隊した兵隊で、まったく訓練されていないなと思って、「よし!こいつを捕まえよう」となった。
・歩哨のそばへ近寄って、「誰!」と言って飛び出した。すると歩哨は叫びながら夢中で走って行った。追いかけたが、背嚢を背負っていたので中々追いつけなかった。
・「これは仕方がない。小哨があるから深追いしちゃいけないな。背中を銃剣で突いても死なないし、場所が聞ければいいから転べばこっちのもんだ」と思いながら、鉄砲を掴もうとすると、バーンと飛ばされてしまった。ハッとすると右足が痺れていて、間接のところから血が噴き出していた。
・敵の分哨からチェコの軽機関銃三挺が一斉に撃ちだしていて、その一発があたってしまったらしい。
・手榴弾を持っていたので、これを使えばあの軽機をとれるんじゃないかなと迷っていたら、中国兵が突然叫び声を上げ、後ろに走っていなくなってしまった。なんだろうなと思って見ると、五十メートルくらい先に山形の部隊が大量に散開して進んできていた。
・伏せていると、「あ!敵だ敵だ」「敵じゃねえおれだよ」「どこやられた」「足やられちゃった」。みんながやってきて、持ってくれて、下の低い場所まで運んでくれた。
・朝七時頃担架に乗せられて、十三時頃野戦病院に着いた。その間上空を飛行機が護衛してくれ、一個班が代わる代わる担架を担いでくれた。
・野戦病院に着くと、手術台の上に乗せられた、軍医大尉だったと思うが「いや~、ご苦労であったねえ。ここへきたら心配ないよ。大丈夫だからな。随分と難儀したねえ。よし、あれ持ってこい」。「あれ」ってなんだろうと思っていると、衛生兵がコップにチャンチュウを入れてもって来た。「ご苦労であった。まずこれ一杯飲めよ」とごちそうになった。
・ごちそうになったはいいが、酔っぱらってきた。「軍医殿、酔っぱらってきて、歌っこ歌いたくなってきました」「ああ、良い良い、秋田音頭でも歌えや」。みんな笑っていた。
・この時、太い注射器で肉と骨とを離すために空気を注射された。
・一週間ほどして路安の陸軍病院に送られることになった。トラックに高粱殻を敷いて、その上に担架を載せ、悪路を吹っ飛ばしていく。「なんとかならねえか」、「いやあ我慢して下さい。近くに敵が来てるって情報が入ったから」。あんな痛い思いをしたことはなかった。
・路安の陸軍病院で本格的な治療を受け、それから太原の陸軍病院、北京の陸軍病院へ送られた。北京郊外の元蔣介石の別荘が陸軍の保養所になっていて、ここに一年近くいてから、大阪の陸軍病院、金沢の陸軍病院へと送られた。
・金沢の陸軍病院で「院長がお呼びですよ」と呼ばれて行ってみると、「いやあ、川井、お前も知っている通りいよいよ本土決戦だ。お前のように敵の前で経験豊かな兵隊が、ぜひもう一度指揮してやってくれ」と言われた。それから、垢だらけの軍服を貰って秋田の十七連隊へ帰った。
・十七連隊に着くと、連隊長に「よかあ帰って来たなあ。せっかく来ただから、家へ行って少し静養して、親戚達もいるだろうしゆっくり一週間も遊んでこいよ」と言われた。
・期限のない外泊証明書をもらって、家へ帰ってどぶろくを飲んだり毎日集まっていた。ところが三日目、朝起きてくると父親に「なあお前、こんなことしたって駄目だよ。いつ軍隊さ帰るんだ」と言われた。これじゃあまずいとなって、駅から十七連隊に電話をかけると、
「お前の留守隊は秘密だとよ。そうか、わかったじゃあ来るか」ということになって部隊に行った。

○昭和十九年、秘密の部隊に。

・部隊に着くと連隊長に、秋田なまりのズ―ズー弁で「良く来たねえ」と笑われた。
・秋田から静岡の浜名湖へ移動した。
・浜名湖にはよく日本の飛行機が米軍機に撃ち落とされてくる。それをはしけを使ってロープで引き揚げて中の遺体を収容するということをやっていた。
・しばらくして、九州に敵が上陸するということで宮崎県の延岡へ移動した。
・近くに飛行場がある町。飛行機はなかったが、毎日米軍機が爆撃に来る。朝、暗いうちちから板で飛行機を作った。塗料を塗って並べておく。するとまた爆撃をされる。爆弾を消耗させるためだった。、
・初年兵教育で射撃訓練をやっていると、敵機の編隊が来て機銃掃射した。芋畑で蔓をかぶっていたが、初年兵は動く。「たすけてくれー!」と叫んでバタッと倒れる。機銃掃射はひどいもので、内臓が吹っ飛んでしまっていた。
・そばにあった爆弾庫もやられてしまった。こういう情報まで敵に筒抜けだった。

○昭和二十年八月、終戦を口づてで聞いた。

・あ~よかったなあと思った。
・秋田へ帰る汽車は人がいっぱいで乗れない。窓にロープを通してぶら下がっていた。トンネルか電線にぶつかって死ぬ人もいた。
・戦後、戦友の遺骨収集にニューギニアへ行った時はすごかった。遺族のお母さん方が夢遊病みたいに歩いて、椰子の木にぶつかって額から血を流したり、遺児の人が「おとー!どこにいたか!どうしたかー!」と叫びながら、あちこちを素手で夢中で掘っていた。

●終戦時、陸軍歩兵曹長。
今年9月に行いました秋田キャラバン1日目9月8日(土)に、1班が伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎山田實さん(92)
取材日:平成二十四年九月八日
所属:歩兵第十七連隊第一中隊~独立混成第十一連隊第二大隊本部
兵科:歩兵
戦地:満州~東カロリン諸島エンダービー島
――――――――――――

○大正九年十月十四日、秋田県秋田市生まれ。

・旧制中学校後、南満州鉄道へ就職。
・撫順炭鉱で機械設計や見積もり計算をするエンジニアをしていた。

○昭和十六年二月十日、歩兵第十七連隊第一中隊へ入営。

・入営する時は非常に光栄でありがたいと思っていた。
・まもなく新潟を出発して、羅津港に上陸。朝鮮国境を通過し、関東軍司令官の配下に入った。
・部隊は牡丹江省綏陽県に駐屯。ここで初年兵教育を受ける。
・何か質問がないかと聞かれ、戸山学校の体操はドイツ式で硬直的なので、リズムのあるデンマーク体操の方が人間の筋肉に合っていないかと言ったところ、「お前、生意気なこと言うな!」とぶん殴られた。それ以来、何か質問するときに困った奴だと狙われるようになった。

○昭和十六年七月、乙種幹部候補生を命じられる。

・連隊本部で情報をやれといわれて情報をやるようになった。
・ソ連との国境近くで、ソ連のトーチカ、警備状態を調査して歩いた。
・開拓団や軍隊に所属する日本人や、満人の情報を集めて、師団に報告していた。

○昭和十九年三月、第三派遣隊が編成され、南方へ向かう。

・門司、横浜を経由。
・「しんせい丸」という2600トンの輸送船に乗った。

○昭和十九年三月十九日、サイパン港寄港。

・サイパンの警備が当初の目的だといわれていたが、ここで命令が変わって、もっと南のエンダービー島の警備に当たることになった。
・船の中で軍医が、三千人の兵に対し、「お前たち、ここにいる女性にかまうな。生きて帰っても梅毒、フランペッシャーに罹って大変なことになる。それを我慢しないと帰れないぞ」、「ここにはここの神々がいる。だから土足で、神の祀ってあるところを侮蔑するようなことは、絶対にやってはいけない。迷信だとか言わないで敬意を表しなさい」、「現地民の食糧を盗るな」、この三つのことを守るように忠告した。

○昭和十九年三月二十日、エンダービー島に上陸。

・同島の警備に当たる。
・先に駐屯していた海軍の設営隊が300人くらいいた。

○独立混成第十一連隊第二大隊本部へ。

・エンダービー島には、青森、岩手、秋田の東北三県の各連隊から一個大隊が配置になった。
・エンダービー島は海抜五メートルから三メートル。一周二キロくらいで島の周りはサンゴ礁。周囲は二キロくらいで一時間でぐるっと回れる。
・海軍の設営隊が作った飛行場がアール島にあったが、跡があるだけで一度も離着陸することがなかった。
・腐植土はサンゴ礁の上に三十センチから五十センチ。カボチャを植えてもサツマイモを植えても栄養がたりないので、せっかく種を持って行っても水っぽくて育たなかった。
・水は地下水。沼から湧いているものを汲んでいた。不衛生なものだった
・気候風土は年間平均気温が28℃。暑い時でも32℃の海洋性気候。春夏秋冬の季節がない。
・上陸した時は350人の島民が住んでいた。民俗学でいうとカナカ族で、文字をもっていなかった。大正12年から日本に統治されていたので、十四、五人日本語が話せる島民がいたが、それでも日本語が話せない者が多かった。
・現地島民にはわらじを履いている人が一人もいない。島民に「早くこい!」といっても、走る習慣がないので歩いていた。
・島民はタロイモや野生のバナナをとって生活していた。そんな島に3000人が上陸したので、後で住民はシック島に移動させた。
・大隊本部はアール島にあり、本部との連絡によく船で行った。
・船は普通は大型発動艇。島民の船を使うこともあった。【※大きな船の模型がご自宅にあります】
・本部で本を借りたり、お土産をもらったりした。



・米軍はエンダービー島やヤップ島、メレヨン島を飛び越えて北にあるサイパン、グアム島を占領した。時折り思い出したように爆撃にやってくる。飛び石作戦で結局兵糧攻め。

・時々、サイパン島などから飛行機がやって来て空襲される。本土空襲のことも、トラック島がどうなっているかの情報も、入って来なかった。
・B25二機のうち一機を落としたくらいで、あとは米軍との戦闘はなかった。
・空襲の隙間に、輸送船がわずかの食糧を補給に来た。



・パンとか味噌とか乾燥した醤油だとか、持って来た食糧には限度がある。たまにトラック島から食糧が運ばれてきた。
・食糧はえらい人の順番に配給される。
・ある変わった少尉がいた。兵隊が休んだ後に、こっそり将校用の乾パンや食料を食べて、尺八を吹いたり悠々自適。しかし命令は非常に厳しかった。これに激怒した下士官が、少尉の宿舎の縁の下に隠れて、三八式歩兵銃でちょうど少尉のいる真上を撃って殺人した。ダーン!という音がしたのでおかしいなと思ったら、撃った兵長が椰子の木のところに背中を向けて、口の中に銃口を入れて、足の親指で引き金を引っ張って自殺した。カメラもないので、何年何月どこでなぜやったのかを絵に書いて司令部に送った。
・やはりありうることで、これは階級制度のわがままだと思った。
・聞いた話だが、隣の島にいたY大佐が変わった命令をだしていた。ある特定の将校をいじめたり、みこしのようなものを作らせて、自分が乗って島を回ったりする。どんな命令をだすか分からないということで、将校集団が相談して、夜蚊帳のヒモを切って、動けないようにしてから日本刀で殺してしまった。後で殺したという将校に聞いてみたが、無言だった。肯定もしないし、否定もしない。表面上は脳溢血ということで報告されている。
・初年兵のころ、逃亡して死んだ場合は、赤い紐で骨箱を縛られて家族のもとへ届けられて、軍隊に刃向かったということで、家族の名誉を傷つけられると驚かされた。
・戦争に負けるとは思わなかったが、北海道出身のおもしろい下士官がいた。「山田、お前日本は絶対に負けないというけれど、負けることもあるもんだ。そういうことを考えたことがあるか」と諭されたことがある。こういう人もやっぱりいた。一歩退いて物を考える発想。
・食糧がないのは青森と岩手の部隊はトラック島へ移動し、秋田の部隊だけで、600人くらいが島に残った。

・デング熱で十日間くらい病室でお世話になった。
・病室で、夕方になって居なくなって、探しに行くと、浜辺に匍匐しながら、浜辺の渚のところに座り込んで、夕陽の落ちるのをみながら祈っている兵隊がいたので、「早く病室に帰れ」と連れて来ると、次の日の朝、目を閉じていた。
・誰かが自分の死を悟って、渚で夕陽の沈むのを拝みながら亡くなることを「夕陽参り」と言った。
・一番親しかった斉藤という兵士も、風土病(デング熱)に罹って、運悪く、運悪く命を落としていった。

○昭和十九年七月二十五日、隣に寝ていた泉伍長が病死。

・泉伍長が入院したのは二週間前。分隊長をしていて、さっぱりとしたいい男で同年兵だった。
・すでに精神状態は尋常でなかった。デング熱の高熱で日夜うなされいた。
・ある日、大変機嫌がよかった。私の方を向いて「八月だよ!八月だよ!あと若干だ!ええニュース入ってねえか。入ってねえか。ああ除隊だなあ!そうなればいいなあ。まだかなあ」と寝言を言った。
・またある時、いきなりムクっと起きて「コンソリだ!コンソリだ!撃て!機関銃を貸せ!」と興奮しながら一点を凝視していた。しかし、すぐおさまって座り込んだ。
・コンソリは米軍の最新戦闘機で、エンダービー島をしばしば襲い
、特に泉伍長の守備していた地点が狙われていたので、彼はこんな妄想に駆られていたのかもしれない。
・またある時、「おお!船がきた!俺も行くから待ってくれ!みんな早いとこ集まれ!いいなあ!八十五円の背広だよ!いいなあ!」と言って、付添いの兵隊に接吻することもあった。
・時々糞を垂らして、その異臭に飯を食べれなかった。これが戦場の、ある一時だった。

○昭和十九年十二月二十八日、エンダービー諸島駐留部隊の食糧を確保する為に、シック島へ二隻の大発で出発。

・米山中尉以下二十三人。選抜された丈夫な兵隊と海軍設営隊員。
・空は晴れ海は凪ぎ、十三夜の月は明るく、今夜は美しい月の日だった。

○昭和十九年十二月二十九日、身動きのできないくらいの嵐に遭遇し、漂流。

・羅針盤は借りてきたもので狂っていた。
・流されるままにどこに漂流したのかわからない。
・北へいけば日本につくのではないかということで、ボーイスカウトで習った時計の針に鉛筆を立てて、太陽の影で、だいたい北の方向を推定した。夜はほとんど晴れており、北斗七星が北極星を中心として円周運動をすること知っていたので、星の動きで方向を決めて、できるだけ北の方に向かった。
・漂流十三日間。

○昭和二十年一月九日、やっと着いたところが餓死の島メレヨン島だった。

・師団司令部まで案内されていく途中、異様な雰囲気、危機迫るものがあった。
・「友の作りしこのカボチャ、密かに食うか、天罰にする」という看板が、畑の真ん中にデンと建てられていた。話によるとメレヨン島は食糧に欠乏し、エンダービー島の比ではなかった。盗人として捕えられた兵は罰として食を絶たれ銃殺されるという例が何例もある。
・師団長室に戦陣訓のビラが壁いっぱいに張られていた。楠正成の遺訓、七生報国、滅私報国。エンダービー島にはなかった。

○昭和二十年一月十二日、海軍倉庫に陸軍の某小隊長ら十一人が鉄線ばさみで鉄柵を破り、三ヶ月分の食糧を盗んだことがわかった。

・海軍警備隊はものすごく怒って、それから警備兵は実弾を込めるようになった。
・ひどいところで一週間くらいいた。
・しばらくして潜水艦がやって来た
・メレヨン島にも重傷患者(おそらく偉い人)がいて、ついでに部隊が違うからエンダービー島の二十二名も一緒に潜水艦に乗せてトラック島に引き揚げろと言うことで乗艦。
・四日か五日くらいかけ、トラック島へ。
・夜浮上して、亡くなった人を毛布にくるんで海に捨てた。
・メレヨン島にいたら飢え死にしていた。
・トラック島で少しばかり栄養をつけた。

○昭和二十年三月五日ごろ、エンダービー島へ到着。

・部隊で遭難者の告別式をやるところだったが、一月十日に遭難者がメレヨン島に着いたという吉報が届いたのでどっと中隊が湧いたという。
・みんなに心配をかけて今でもすまなく思う。
・こっそり隠していた缶詰がみんな食べられてしまっていた。

○昭和二十年十月、戦争に敗けたことを初めて知った。

・トラック島の兵団本部にはすでに情報が入っていたかもしれない。しかしエンダービー島には入っていなかった。
・「あ~、やっと終わったなあ。これで家へ帰れるなあ」。この歓喜、喜び、解放感。本能的にうれしかった。思わず「ラ・スパニョーラ」の歌を歌うと、大隊長に「ちょっと遠慮したほうがよくないか。戦死した人もいるんだ。ありがたいけれどさ」と諭された。

○昭和二十年十月十六日、エンダービー諸島出発。

・日本の海防艦に乗った。

○昭和二十年十月二十四日、浦賀港到着。召集解除。

○昭和二十年十月二十七日、復員。

・敗残の兵、何も語る必要はないと思っていた。恥しかったので、秋田駅の一つ手前の四ツ小屋駅で降りて、夜こっそり家へ帰ろうと思っていたが、山形と秋田の境にくると、懐かしい秋田弁が列車の中でしきりに聞こえて気が緩み、秋田駅に来てしまった。
・一日早く帰っていた戦友が、わざわざ家に訪ねてきて、母親に「お宅の實さんは、明日夕方帰る予定ですよ」と伝えてくれていたので、妹が駅まで迎えに来ていた。
・自分だけのこのこ内地に帰って、母親に今帰って来たと報告した。母親は小さな声で、「よかったな」のたった一言。すぐにおかゆをつくって、やわらかいものを三日間食べさせてくれた。ありがたかった。
・兄も戦地で負傷したが、兄弟二人、帰ってきた。ところが、同じ町内の近くの家では、二人行って二人死んでしまっていた。五十メートルも離れていない。おばさんに「なあ、おめえよかったなあ」と言われるのがつらかった。
・一番親しかった斉藤という兵士のお母さんに、亡くなった時の状況を話すと、「息子一人でな。種残さねえで逝ってしまった。誰もいなくなった」と涙をポロポロ流された。こういうことがあると戦争は終わっていないという感じになる。
・昭和五十年ごろ、エンダービー島へ残留日本兵の捜索に行った。結局空振りで終わったが、エンダービー島へ向かう途中に立ち寄ったトラック島で、住民から話を聞いた。それによると、エンダ―ビーから病気で移動してきた兵隊が、海軍の病院で大変な虐待を受け、かますのなかに入れられて、生きたまま穴に埋められたという。命乞いをしているのに、芋一つ、水一杯飲ませなかった。生き埋めにされたのは、一人二人ではなく、それをみたという住民も、校長先生と女性の三人がいた。
・どういうセンスで生きている人間をかますにいれて殺すのか。戦場心理は分からない。

●復員時、陸軍曹長。
2012年9月に秋田キャラバンが聞き取りを行った方の一覧です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。

秋田キャラバン
訪問都道府県:秋田県
日程:2012年9月8日(土)~9月10日(月)
   9月7日(金)前泊

◆◆9月7日(金)◆◆

夜、2名前泊。秋田市内。

◆◆9月8日(土)◆◆

●1班
午前:秋田市。
午後:秋田市。
◎山田實さん
戦地等:カロリン諸島の小島

●2班
午前:男鹿市
◎沢木勝雄さん
戦地等:連合艦隊の特設給油艦・雄鳳丸の乗員
午後:男鹿市。
◎加藤与治兵衛さん
戦地等:中国

◆◆9月9日(日)◆◆

●1班
午後:横手市。体験者の方1名。

●2班
午後:大仙市。
◎佐々木宏助さん
戦地等:満州~カザフスタンに抑留。

◆◆9月10日(月)◆◆

●1班
秋田市
◎川井金光さん
戦地等:陸軍。第36師団歩兵第223連隊。中国北部。
◎藤本光男さん
戦地等:海軍航空隊。内地防衛(名古屋等)。


●2班
午前:仙北市。
◎藤原剛さん
戦地等:海軍。アッツ島で補給活動。
先日行われました秋田キャラバンで、旅先から写メールが送られてきていましたので、掲載します。
メインの聞き取り中ではなく、旅先の風景です。

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男鹿駅の鬼たち
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赤鬼のみズーム
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秋田駅前の城跡の蓮
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帰りの車内で買った復興弁当


※本日、ネットの調子が非常に悪く、パソコンからブログが開けません。写真の向きや説明等は、後日編集します。すみません。

※編集しました。画像の質が悪くなった気がしますが・・・