あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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2014年10月26日(日)、表郷キャラバンで伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎穂積上(ほづみ・たかし)さん(93)
収録日:平成26年10月26日
所属:朝鮮第4部隊大場大隊吉野中隊~歩兵第76連隊山田隊~19師団歩兵第76連隊(虎8506)第1大隊第1機関銃中隊第3小隊第2分隊
戦地:朝鮮(洪儀・羅南)~ルソン島(北サンフェルナンド~バギオ~タクボ~92K~マンカヤン~トッカン)
――――――――――――――――――

○1921(大正10)年3月4日、福島県生まれ。

・実家は麹製造業兼農業をやっていた。
・白河の第一小学校で徴兵検査を受けた。甲種合格になって、家の隣の神社で同じく甲種合格になった人たちと記念写真を撮ってもらった。

○1941(昭和16)年12月8日、入営のため自宅出発。

・大支那事変の最初の頃は万歳万歳でどんどん送っていたが、この時は防諜上よくないということでこっそり行くことになっていた。がこの日ちょうど米英に宣戦布告して大東亜戦争が勃発したので、今度は青年団、国防婦人会、みんな出迎えに来てくれた。
・本当は郡山集合で新潟に行き、新潟から清津港に上がって羅南に行くのが一番近いが、あの頃もやっぱり魚雷があるというわけで、わざわざ広島まで行って、そして今度は釜山上陸して汽車で羅南まで行った。

○1941(昭和16)年12月12日、朝鮮第4部隊大場大隊吉野中隊(重機)に入営。

・羅南で入隊式。紅白まんじゅうを貰ったことは覚えているが、赤飯を食べた覚えはなく、なかったと思う。
・入隊式から2、3日過ぎたらば、夜に鉄道で“ゆうきゅう”方面に行って 洪儀の駅で降りた。この駅には張鼓峰事件かなにかでやられて弾が当たった跡があった。そこから“ふざん“という山に入って国境警備任務に就く。
・山からウラジオストックの方を眼鏡で見てソ連の動き全部報告していた。ここからここに兵隊何人行ったとか、こっからこっちへトラックで行ってなにか運んだとか。
・“ふざん“で警備していた時大隊長が”大場いさぶろう”という大尉だった。
・寒くて三角の兵舎でランプ、そういうところで警備をしながら教育を受けた。
・野戦隊は毎日朝起きると演習。ソ連に対する演習としてやっていた。
・豆満江は、夏は広くて砂があったりなんかしてなかなか渡れないが、冬は凍って軽い戦車が渡るという話もあった。
・演習の中に”とっくん甲“という訓練がある。これは戦車に肉薄する。”とっくん乙“は、夜間、背中に白い目印をつけて行軍したり密林の中を歩く。”とっくん丙“では、豆満江の浅いところに銃機関銃を持って入った。地下足袋を履いて巻脚絆していたが、いつまでも水の中に入っていると、ズボンの中に水が入って歩けなくなった。

○1942(昭和17)年10月26日、歩兵第76連隊山田隊に転属。

・今度は連隊に復帰を命ぜられ、18年度の初年兵教育の助手になった。
・野戦隊とちがって補充隊はもっぱら教育。四班まであったがだいたい第三教練班だった。教育が終わるとすぐまた初年兵が入って来て、班長は変わったが続けて教育した。
・初年兵教育は教官と助教と助手で行う。
・教練班長の下に助手が二人いる。1人は三年兵でもう1人は二年兵とかで、二年兵ばかりではうまくできないので、やっぱり三年兵がいないと。
・山に行っていた時には初年兵だけでいたが、連隊に来ると二年兵、三年兵と一緒になって内務班になり、厩当番、週番、飯上げ当番とかろいろ勤務があった。
・内務班条例とか、歩兵操典とか、射撃教範などが全部手帳になっていて、全部買わせられる。その勉強する暇はないので、便所に行った時に盗み見ていた。
・教官は一回だけは教えるが、あとは教えない。一度習えば、「出来る者、手あげろ」なんていわれるので、どこで勉強していいかわからない。
・兵隊に行く時、「軍人勅諭が全部できねえと上等兵になれねえんだ」なんて言われて、盆踊りだのいろいろ夜遊びがいろいろあったんだけど、軍人勅諭を夢中になって覚えた。けっこう覚えちゃった。よく覚えたと思う。前文が長い。
・入営してからやっぱり教官が「軍人勅諭できる人」と言った。そうするとみんな手を上げないが、自分だけ手を上げた。そうしたら「よし!」なんてそれで終わりだった。場合によっては「じゃあやれ」で、「我が国の軍隊は・・」と読んでいると、「おい、そこまで。次読め」。
・二回の初年兵教育が終わって下士官候補生教育を受けることになった。重火器なので普通なら千葉の教導学校に行くが、なんだか状況がおかしくなっちゃって、連隊で下士官候補生の集合教育を受けた。
・軍旗祭の時はみんながいろいろ余興をやっていた。女形とか唄が上手な人がいた。
・軍旗祭など儀式の時はみんな背嚢を背負っていく。初年兵ははたけばはたくほどその姿がかっこよくなると言われていたが、昭和18年だか19年から、制裁はあんまりやるなという命令が出た。
・上革でビンタとられると顔が黒あざになる。
・自分の班を出る時、「穂積どこどこ行ってまいります」と一々回れ右して行ってくる。例えば「洗面所行って参ります」とか。班に帰ってくると「ただ今帰りました」。
・班長室などに入った時は、ドアをカンカンと叩いて、ちゃんとやってまわれ右して、「三班の穂積!参りました!」。用が終わると「穂積帰ります!」。そういうふうに内務はちゃんと厳格だった。
・起床も点呼も全部ラッパ。連隊本部でタッタカ鳴る。週番下士官集合という時も、集合ラッパが鳴るとみんなすっとんでいく。
・毎晩8時か7時ごろに点呼がある。各中隊の週番士官がまわって来る。とこんどはみんな扉を開けて、班長が来るのを待っている。週番が来ると「定員○名、ただいま勤務中○名、現在員○名」、「番号!」、「1、2、3、4・・・50、異常ありません」と。
・寝台はかいこ棚のように二段になっていた。
・「花見帰りの女学生に、それにみそれて、欠礼すりゃ、ちょいと三日の重営倉」なんて歌もあるくらいで、上官が来た時、特に直属上官の時は停止して敬礼していた。敬礼にはずいぶんやかましかった。
・機関銃中隊は一機、二機、三機と連隊に三個あって、これの下士官候補生の教育を連隊でやった。その時も「おめえ行け」と命令で行った。命令なのでやっぱり申告しなくちゃならない。中隊長のところへ行って、「申告に参りました。○○兵長は、こんど集合教育で、○○に入ります」。
・進級すると、補充兵でも召集兵でも同じ兵長だったらば、現役がやっぱり申告する。中隊長室に行って、「頭右」や「頭中」をやって、「申告します」、「○○他何名、それぞれ進級いたしました」。
・第三機関銃中隊の同郷の同年兵が幹部候補生に合格して見習士官で帰って来た。たまにその人に「饅頭でも買ってきてくれ」なんて言ったりしていたが、ある日その人が来て、「穂積、俺の親父が死んで休暇もらってこれから行くんだ。なにも別に便りねえか」と言う。「別に便りねえなあ、元気でやってるって言ってくれねえかい。帰りに饅頭でも買って来いや。腹減ってしょうがねえから」と言ったら、一週間ぐらいして帰って来て、「敬礼!」というから「ああ来たなあ」と思ったら、「これ買って来たから、後で食ったら」と饅頭を買って来てくれていた。その時ちょうど隣あたりに二回目の初年兵教育の時に教育した同郷の初年兵がいたので、「軍帽かぶって食え」と言って食べさせた。
・召集兵はみんな新潟県出身。
・精勤章。4つけると馬鹿真面目といわれる。一番いいのは3本まで。兵長までに精勤章2、3本まではいいんだけど、4本もらうとばかばかしい。
・慰安婦の内容的な解釈はわからないがあったことはあった。人事係には「現役はなるべく行くな。遊んでみたこともねえんだから」と言われていた。召集兵には「我慢出来ねえ人はいったらどうか」って。同じ内務班にいた召集兵もやっぱり行っていたらしい。「おめえのはよかったか」、「俺のがよかった」なんてそんな話をしていた。だけども慰安婦にも、進んで金が欲したくてなった人もいると思うんだ。そして現地の人が募集するんだっけども、金になる仕事だからって嘘こいて、そうやったものかなあと思う。そこらはわかんないけども、だから一概にそのどうこうっちゅうことは言えない。
・(朝鮮人日本兵)は班には2人以上おかない。必ず2人。一つの部隊にしたらなにをやるかわからないので分散していた。
・中には年をとった人も若い人もいた。その人たちは特別訓練所というところで三カ月訓練して、それから志願してくると聞いた。奥さんを持って年をとった人もいた。若くてパリパリとした人もいた。
・なかなか朝鮮の人は要領がよくて、上官が来ると一生懸命やるが、行ってしまうとだめだった。
・朝鮮兵の名前はみんな日本の名前で、知っているのは林、それから栗原、遠藤という名前の人もいた。あと“うえだ”。しかしみんなやっぱり動作はよかった。三カ月の訓練をやってきているから。頭も悪くなかった。
・秋季演習があった。羅南は10月ごろなったら寒いので、民間の家に泊まった。そうするとシラミがたかった。
・畑だの田んぼ見ても、寒さは早く来るし、春も遅く来たから、朝鮮は一口でいえば貧しかったかもしれない。
・教育する時は一番先にやっぱり行進、あと気を付け、不動の姿勢。で休め。それから小銃。だいたい床尾板は右足の靴の先。あと、着剣。これを基本的に最初みんな教える。小銃隊でもなに隊でもそれだけはやる。補充隊だったからみっちりやらされた。
・動作だけは間違いなかったので、中隊に入っても模範にやらされた。そこは良かったんだけど、秋季演習の時、指揮班に入れられて伝令にだされて、一生懸命歩いていたら、大きな川があった。大したことないと思ってたら、腰まで入ったっちゃった。それがあとから来た部隊の班長に見つかっちゃって、「なにやってんだ!」と怒られた。それが中隊長の精神訓話の時に言われちゃって。優秀な上等兵が伝令に出てそれからがったん下っちゃった。それまでは誰かと一、二を争っていたけども、それからだいたい四番目ぐらいになっちゃった。軍隊じゃ一回失敗すると駄目だね。
・軍隊では頭も大切だけども、なんていうか要領いいとか、そういうのを嫌っている。ほんとに正直にやる人を評価しているみたいだった。やっぱり班長と教官が評議会をやると言っていた。こんど上等兵何名にするという時にはやっぱり序列があって、自分の班から出したいから班長はがんばっていだけどもダメだった。
・行軍の時は馬が二頭いた。重機関銃は銃が三十キロ、脚が二十八キロで、それを一頭の馬に載せ、もう一頭は弾薬をつけて歩く。戦闘になれば、その機関銃を降ろして使っていた。小銃みたいに持って歩く者がないから、行軍の時は楽だった。
・重機関銃には一番、二番、三番、四番、五番、六番、七番、八番手といる。一番手は分隊長と小隊長の連絡。二番手は装填、四番手は銃手で射手、三番は予備の射手。残りは弾薬手。あと馭兵2人、馬二頭。そして分隊長と小隊長となっている。
・四番銃手は一番大変。
・九二式重機関銃を使っていた。
・撃つと砂塵があがるから、いくぶんか多少は当たるかどうかわかる。いや、あんまりわかんねえかな。だけどもやっぱり小隊長が「どこどこ、どこどこ、何百、撃て」となって「じゃあよーし」となっから「よーし」となって、今度は「撃てっ」となるから、ダダダと撃つ。照門の時はわからないけども、眼鏡の場合は十字の刻みがあるので、これは完全にそこに弾が行く。だから最初は5、6発ババッと撃つ。するとその落ちたところを小隊長がやっぱり双眼鏡で見ている。そして「高低、いくつ回せ」と修正して、二回目は必ず目標へ当たる。これは敵もおんなじだから、こっちもババッと撃って暴露した時は、少し移動しないとあぶない。ババーンと撃って、いつまでもいい気になっていられない。二人で重
機をダダーッとさげて移動しなくちゃならない。いつまでもダダダダ撃ってられない。
・兵隊がうんといるときは、こっちからダダダダダダこう撃つこともできる。これは薙射という。
・一回に弾が30発。30発出ると二番手が来て、バタンと弾をいれてそっちへいく。
・一期検閲に三カ月かかる。その間に射撃練習、銃剣術もやる。兵隊の教育っちゅうのは三カ月でだいたい終わる。教育係になると三カ月だけかかる。
・一個中隊に最大四小隊まである。一個分隊だけ速射砲という戦車を撃つ砲が配備されていた。
・自動砲といって戦車を撃つ変なでっかい砲が機関銃中隊に一分隊だけ配属になっていた。

○1944(昭和19)年11月26日、動員下令により第一機関銃中隊浜田隊に編入。

・三年兵だから家に帰る仕度をしていた。服も調達して。したら命令がきちゃって帰れなくなってしまった。そして今度は編成されて、三小隊の第二分隊に編入された。

○1944(昭和19)年12月7日、釜山出港。

・帝海丸に乗船。
・船の中はやっぱり棚を吊ったり、よくわからないが広かった。三個中隊、機関銃隊、通信隊、連隊本部も乗ったので、2000人ぐらい入っていたのではあるまいか。
・船の中で亡くなった人もいた。遺体は箱にいれてバシャンと海に流す。で中隊長が「かしら~右」でそれで水葬終わり。
・台湾まで船で来た。その時は軍艦だの飛行機の護衛があった。
・台湾でバナナだの黒砂糖だのいろいろ物資を積み出発したが、台湾から先に行ったら、護衛が何にもいなかった。いやさみしいわい。普通は護衛する。
・支那海岸のほうによって、ずーっと下って今度は一直線に北サンフェルナンドに向った。その晩が大した嵐でそれがよかった。
・2大隊は台湾の沖でそっくりボカン。1人もいなくなった。全部沈んじゃった。【要確認】
・三大隊は台湾の沖から出てすぐにやられて、半分くらい台湾に泳ぎついたという。生き残った人は「いやあ泳ぐの三日もかかった」なんて話していた。
・夏服で防寒外套を着ていたので台湾に行った時には外套は捨てた。
・夏服だったので南方に行くことはわかっていた。連隊長の訓辞では、「大東亜戦争の決戦場に行く」ということを言っていたので、レイテあたりに行くかと思っていた。しかし船に乗っているうちにレイテが玉砕したという話が出た。

○1944(昭和19)年12月末、北サンフェルナンドに上陸。

・まず人間が上陸して、それから兵器、それから馬を上げた。いよいよ食糧に明日からかかるっていう時、夕方、たかーく飛行機が監視にきた。そしたらその翌日バーンとやられちゃった。だからこれからあげる糧秣、みんな沈められてしまった。だから食い物なんにもない。
・非常食が背嚢に入っていた。それは小隊長以上の命令がなければ食べれないが、命令どころじゃない。食べちゃった。
・寒いとこからあったかいところへ来たので暑くて汗がぐだぐだ。船から山にはいった時、駆け足してので汗でぐちゃぐちゃになった。それから今度上着をとって襦袢だけ着るようになった。
・まだ敵が上陸しない時、海岸ばたのほうにさつまいもを切って干したものを溜めていた農家があった。「徴発すっぺ」と思って行ってみた。するとおぎゃーおぎゃーっと泣き声が聞える。「なんだや、赤ん坊じゃねえか」、「どこだどこだ」。床の下をパタンと外したら、お産した場所だった。かわいそうだっぺ。そして今度は俺ら、「なんだお産だ」、「殺しちまえ」って言っていたら、「かまうな、かまうな」。そのうちに父親が来た。かわいそうだったねあれ、逃げらんねえから親父がやっぱりついたんだね。だけどおかしくなったから、すぐ来たわけだ。ああいう人もいた。まったくお産には困るけども、だけどかわいそうで殺さなかった。そんなことがあった。
・朝鮮から船に乗って来て、あの椰子の木を見た時、あったかいところへ来てなんとも気持ちよかった。しかしそんなの三日も続かなかった。
・ちょうど正月ごろ、リンガエン湾に百隻くらいの船が現れた。そして艦砲射撃が始まった。パパーンパパーン。気持ち悪かったねえ、パパーンというと、シュシュシュシューといってそっちいって、ウワウワーンとする。「おっかねえな」なんて言っていた。そして、それを2、3回やったらば、夕方になって日本の飛行機がやって来た。たった一機、低空で飛んで行く。ところが火炎放射器というのか、それに挟まれてどうなったんだかわからない。次の朝見たら、船は2、3隻しかいない。全然いなくなった。
・上陸してから敵がこないから正月ゆっくりできると言っていた。ところが艦砲射撃でダメだなあと思った。
・海軍が陸に上がっていた。缶詰などいろいろ持っていて、食べ物が豊富で元気だったけれども、海軍の人達は「陸に上がるとおっかなくてしょうがねえ」と言っていた。「なんで?」と聞いたら「敵がどっからくるかわかんねえから。海軍は海なら敵が来るのわかる」。海軍の人達はみんな太っていたけど。
・毎日制空権をとられてしまう。朝8時半か9時なったら、わあ~っと艦載機が来た。最初は機関銃も高射用の脚を使って撃っていた。一機ぐらい落としたかもしれない。ところがその明日来てやられちゃったから、今度はかなわねえと思った。で腹が減ってできなくなった。
・敵の飛行機の機銃の弾のケースはこんな太くて長い。弾はぼっくりしたやつで、10発に3発ぐらい曳光弾といって火を吐いていく。夜見るとわかる。パッパッパッ撃っていると、そうだなあ5発に1発か、3発に1発ずつ、火を吐いてく弾がある。それに当たれば、自動車だのは燃えてしまう。人の肩に当たると穴が開いてしまう。
・飛行機は最初銃撃する。動くとそこに爆弾を落とされる。最初は抵抗したんだけど、昼間はだまーって山の中に隠れてるしかない。年中青山だったから助かった。
・飛行機は朝は8時半か9時ごろかに来て、だいたい夕方4時半かそこらになると船に帰っていく。
・敵の地上部隊は日本軍のいる近くまでトラックに乗ってきて、それから攻めてくる。その連中も午後4時ごろになると帰ってしまう。その帰ったあとに俺らは今度食糧さがし。
・山の中腹に現地人が住んでいる。水が山からトロトロ流れているし、陽気がいいからさつまいもなんか植えていた。そして豚なんかも飼っている。豚は日本人を見るとキャーッと逃げてしまう。先にみんな殺されてるから。にわとりもおんなじ。
・前に上陸した兵隊がみんな荒らしちゃっていたので、豚でもにわとりでも日本の兵隊を見るとなんでもみんな逃げてしまう。やっぱりみんな利口だった。水牛だってなんだって日本の軍服を見るとみんな逃げてしまう。にわとりなんて、カッカカーと木から木に飛んで歩いていた。「ここさ卵あった」なんて探して、最初は分けて食べていたが、しまいには分けなくなった。いや、なんでも食った。
・結局一番食ったのはさつまいもの茎と葉っぱ。あれをむしって飯盒にいれてぐつぐつ煮て塩をからめて食べた。うさぎとおんなじだ。
・米軍の将校連中はバリケードをこう張ってその中に寝台だのを置いて住んでいたらしい。兵隊の中には、そこを夜に地下足袋履いて、匍匐前進して、手榴弾をガチンとやって1、2、3でバーンと投げこんで襲撃した人もいた。そうするとバーンとやって米軍は逃げてしまう。で食糧がいっぱいあって、ごっそりもってきて、それが収穫。みんな喜んで中隊長も喜んだとか。その後、米軍は軍犬を置いて監視するようになって、犬が「ワン」と言えば、弾どこかからいきなり飛んで来るようになって、斬り込みはだめになっちゃったという。
・豚はおもしろい、豚はぐーっと行くとちょっとこっちを向く。その時1、2、3でドンと小銃を撃って、うまく殺せば豚肉ばっかり。それから水牛も一回殺したことがある。でみんなして食べた。
・豚を見っけると豚肉ばっかり、バナナ見つけるとバナナばっかり。みんなして分けて食べた。
・さつまいも畑はどういうもんだか、どこへ行っても家の脇にあった。現地人の家は縁の下が高くなっていて、床は竹を割ってうまくできていた。涼しくてそういう家に住んでいた。家の下には必ず豚いた。黒い豚。
・田んぼの稲を刈ると、にばんぶき【?】と言っていた穂がある。それを見つけて、みんなでひっこ抜いて、がむしゃらに食べた。
・しまいには塩もなくなった。
・南方では米が二回とれるときいていたが、どの山で水田があった。イゴロットとかなんとかっていう人種が住んいて、山を崩して畑だの田んぼをいくつも作っていた。
・普通の家。やっぱり家の中をなにかあっかと思って探すから。だから、さつまいもの干したもの、米が2、3升あるところもあった。だけど南方の人は年中夏だから蓄えることはあんまりしない。米が二回獲れるし。だからやっぱり食べ物はあんまりなかったね。
・食わないので骨と皮。
・夜も移動するので背嚢を背負ったままどっこらしょでみんなで丸くなって寝てしまう。翌朝目ざめると誰か死んでいた。その時は、衣類だって靴だってどうしようもあるまいと、その人が自分よりいいものをもっていれば、「頼むから」と交換していた。どうしようもない。
・最初は遺体の小指を指切って、飛行機の来ない時、火をちょっと燃して焼いちゃって、箱を作って、それに入れて名前を書いて自分の飯盒に入れて歩いていた。ところがそれどころじゃなくなって、穴を掘って全部入れて、で、「勘弁してぐれえ」の話しだ。それで終わり。だってわがもどうしようもねえだもの、ねえ。
・小指を切って骨だけ、何で作ったのか箱を作って、それに名前を書いて飯盒に入れて、大事に背負って歩いたんだけど、誰の骨を持っていたんだかさっぱりわからない。最初はそうしたんだ。あとは切って焼く力もない、そのまま、死んだまま。
・死ぬとギンバエはすぐに来る。目と口に来る。穴が開いちゃうの。死ぬと臭いがするのかほんとにすぐ来る。
・弾が当たれば、ふー、バタッ、それで終わり。弾が当たって死んだ人は、んーって、これで終わりだった。
・亡くなった人の銃と弾をもらった。機関銃は駄目。分解したって30キロぐらいあるから持てない。
・米軍が攻めて来て奥に移動した。米軍が帰ってから食糧探し。
・食わないで死んでしまうのは若い人。召集兵は大丈夫。やっぱり体が出来ているからか。初年兵が一番先に参っちゃった。かわいそうにねえ。
・マラリアのなんとかっていう薬をもらったんだけどもなくなっちゃった。
・作戦で移動するときにマラリアにかかった。寒気がして、ぶるぶるぶるぶる震えちまう、それぐらい寒気すんだ。そうするとそれから今度熱が出てくる。熱が出ると眠ってしまう。1時間か30分ぐらい寝る。最初は寝る時にみんないたんだけど、慣れると「そんなのかまわねえ。助けねえ」ということになって、眼が覚めると山道にある兵隊の足跡を追及していくことになった。
・マラリア蚊が媒介する。蚊よけの網をつけていたけどやっぱりダメだった。
・食糧さえあればねえ、よかったんだけど、どうもなあ、食糧がねえ。そこへもってきてしらみはたかる。しらみをつぶす時は、襦袢を脱いで木にぶつける。でっかいしらみはふっとんじゃう。
・やっぱり住民は勝つほうに向く。最初は日本に向いたんだけど、こんどはアメリカとひっついてしまった。それでどうしようもなかった。
・兵器でも食糧でもアメリカは豊富で、そして現地人を使っていた。現地人は利口だから、最初は日本についたけども、今度はだめだ、ああなっちゃってからは。あっちについちゃった。
・米軍はゲリラに飛行機で、弾薬だの兵器をみんな下ろしていた。だから兵器は連発の小銃だのをみんな持っていた。
・はじめて敵と遭遇した時、道路を歩いていたら、彼等は道路を狙って陣どっていて、日本がよくよく近くに来るまで撃たなかった。彼らがバラバラバラって撃つと、いやたまげて今度は俺らも散開する。その時は体中ブルブルふるえちゃった。なんだかわかんねえけどふるえちゃった。ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶる。べったりして伏せていたが、それを何回もやっているうちに、やっぱりこうやってれば死なねないということを憶えた。
・とにかくまず最初に弾が来た時は、体全体が震えた。うわーっと来たからブルブルブルブル震えちゃった。いやいやいやいや。とてもだめ。ですぐに散開して、ぴったりくっついた。それからそういうことを2、3回くったり、それから飛行機の銃撃などもあって、少し慣れて来た。今度は弾が来ると必ず頭のところに木の根っこでも石でも据えて伏せるようになった。そうすれば絶対助かる。曲射砲はうまく命中すればダメだけども、弾が来るには絶対伏せしていれば助かる。シューンと音がする時は弾が後ろに行く。ポスッポスッという時は近くに来ているので危ない。距離があってる。
・小隊長は同年兵の幹部候補生。だから意気投合したが、小隊長は度胸がなかった。それから分隊長は乙幹で、自分が教育した初年兵だった。だからよかった。あと上にいたのが召集兵二人。これは年上で新潟県出身だった。だから小隊長も分隊長も、「穂積、どうしたらいいですか」いうような話。もっとも最初は弾が来れば、誰だって同じでぶるぶるぶるぶる震えてしまう。そしてこんどは慣れてくると、「また始まったなあ」と思って、必ず伏せてればいい。
・機関銃にばちっと弾をいれたら、30発、ダダダダと撃つ。
・重機関銃に眼鏡を使用していたが、終いにはおっかなくて、「小隊長あっちいってっからわかんねえばい」、と狙いを付けず撃っていたこともあった。
・弾が来た時に必ず頭に石でも木でもつっかえてそして伏せしてれば絶対当たらない。だけどもやっぱり士官学校出の隊長になるとみんな双眼鏡で見て、そうしてこんどは命令下すのでみんな死んじゃった。一中隊の士官学校出の将校は張り切っていたが、狙われてしまう。
・やっぱりああいうことになると中には気が狂ってしまう人もいた。ああいうドカンドカンいってると、なんだか気が狂っちゃって、敵のほうに走って行ったという話がある。召集兵の人で優しい人だったんだけど
・なるべく敵だって殺さねえほうがいいんだほんとはね。だけど、殺さないと、自分も殺されるんだから。やっぱり、機先を制して殺せば安全だもん
・小隊長は山形県の浜田少尉。この人は「なるべく死ぬなよ」、「死なねえで長く長く忠義をつくすのが本当の忠義だ」、「死んで駄目だ」と言っていた。やっぱり部下が死ぬとかわいそうなんだね。自分もさびしいんだ。
・一回、一中隊に配属になった。重機関銃は必ず小銃隊に配属になる。「今度の作戦では、三小隊で行け」とかなんとかって。やっぱり一小隊、二小隊はだいたい呼ばない。どっちかっていえば四小隊と三小隊は他にやらされる。それで一中隊に配属になって、「機関銃なにやってんだ!!」なんて怒られて、怒られたってどうしようもねえやって。
・終いには普通の道を歩くと駄目だから、山を歩くようになった。平坦地には椰子の木だのバナナの木があったが松の木は一本もなかった。ところが92キロ地点に行ったら濃い松があった。松は寒いところじゃなきゃ生育しないのか。そしてそこで松根油を採った跡があった。
・一回ある部落を、ほんとうは違反なんだけど襲撃した。やっぱり襲撃して食糧さがし。住民が5、6人、それから女1人。いろいろ荒らしたから悪いと思って、それを殺すわけだった。ところが見習士官あたりが軍刀でやってみろなんて言われてやったけど斬れない。そうしたら女の人が一人逃げた。「ほら逃げたー」ってダダダダって逃げちゃった。で米軍にしゃべったので、終戦後に戦犯なんてことになった
・逃亡するわけじゃないけれど、中隊から離れてしまう人もある。ふらふらしちゃってそのままじゃどうしようもない。ところがこんどは終戦になって、その人たちが原隊に戻ったら、連隊副官の某大尉は「お前は逃亡した」と言って、裸にして松山で2、3人殺したという話がある。

○1945(昭和20)年6月、戦闘。

・6月ごろ、山へ入っていた夜、歩哨はわかんなかったんだなあ、敵の手榴弾がえらい飛んでくる。バンバンバンバン。だから逃げるよりしかたない。その時に小隊長は震えちゃってガタガタして、「どうする」と言うけど、どうするもくそもない、逃げるより仕方ない、前に手榴弾が落ちんだもん。「小隊長どうすんだ」と聞いたら、「どうしようもあんめえ」。「じゃあ俺は逃げるぞ」と言って逃げた。そしたら小隊長も逃げてきた。そうして攻撃がおさまったから行ってみたら、機関銃を敵にもっていかれちゃった。そうしたら中隊復帰命令がきた。そして今度、師団なんかに行って、小隊長が中隊長に「ただいま帰りました」と言ったら「なにこの野郎!」、デーン!ビンタ。「なんで機関銃持って来ない!
」。機関銃を持って来ないのは小隊長の責任。自分はいくら四番銃手といっても格が下なのでだまーっていた。すると今度は指揮班長が、「穂積、いったいどうだったんだ」と言うので、「いやどうしようもなかったから俺は逃げたんだ」、「そうか。じゃあお前は小銃一丁やっから、指揮班さ来い」。
・指揮班さ来いってことは作戦に出ない。6月、マンカヤンの手前だと思うんだけども、指揮班長が「お前伝令」ということで、「どこまで」と聞いたら「連隊本部だ」。いやあこれは重要だなあと思って、伝令は必ず二人つくからもう1人初年兵と一緒に行った。
・この道をどこまでも行けばいいからと言われて、山を越え谷を越えた。そのうちに今度は崖になっているところに出て、崖の下で休んでいたら眠っちゃった。夜が明けて、気が張っていたから目醒めて、初年兵を起こしたら、その陰が連隊本部だった。いやあ少し早く来るべきだった。
・それから今度連隊長に会った。銃を持っていたから「連隊長に敬礼、ささげー銃」、そして「直れ!」。で、「第一機関銃から伝令に参りました」と言ったら、「どれ、だいぶ時間かかったなあ」。そして「うん、お前ら、朝飯食ったのか」、「いや、食べました」。連隊長が今食べているのはおかゆだった。牛乳に飯粒を散らしただけのおかゆ。それが連隊長の食べ物。かわいそうだった。
・伝令が終わって、出発したところに帰ったら「誰だ!」なんていう人がいた。「はい!今伝令に行ってたんですが」といったら大隊副官だった。副官は足をやられちゃって動けず、当番兵がついていた。だけど動けないからどうしようもない。一中隊の士官学校出の中隊長も足をやられちゃって当番兵がついていた。おそらくあれは自決していると思う。
・「みんなどこいったんですか」と聞いたら、「みんな下へ下ったから行ってみろ」。みんなの足跡があったので追いかけて行った。すると同年兵の戦友が倒れていた。おそらく中隊はそこで全滅してしまっていた。これやられたなあと思って、またそこで運がよくなっちってしまった。
・結局今度は行くところがなくなってしまったので、みんなの跡をくっついて歩くよりしかたがない。

○1945(昭和20)年6月末ごろ、マンカヤンに。

・マンカヤンの洞窟の中へ二晩くらい泊った。
・マンカヤンには食糧に困ってふらついた人間がいっぱいいた。シラミがたかって。俺もそうだった。戦闘帽までシラミたかっていた。
・二晩して泊ったら、「敵が攻撃したらみんなこれ捕虜になっちまうから」と強制的に追い出された。それで92キロ地点のほうに逃げた。その時に一塊に置いておいたダイナマイトが爆発したらしい。とにかく爆発してしまったので、洞窟の中にいた連隊長や副官など偉い人はどうしようもなかったようだ。
【※昭和20年7月17日マンカヤンの鉱山が爆発。連隊長古見政八郎大佐以下本部要員全員戦死】

・千人針はお袋が作ってくれた。
・なるべく体が軽いほうがいいと思って、千人針とお守りをみんな捨てた。捨ててから五時間も過ぎないうちに、誰かが昼間に干したふんどしかなにかが見つかったのか、飛行機が来てあたりを爆撃した。爆撃で砂をかぶって、「逃げっぺ」と思ったらば、左足がびしゃびしゃする。飛行機が行ってから脱いでみたら、やっぱり左足に、ちゃっちゃっと、カミソリで切ったような傷が二つあった。びしゃびしゃになっているから、軍服の白いところを裂いてしばった。それを二つ作って、膿にまみれたら片方を飯盒の熱湯で消毒して、それを繰り返して終戦になった。
・やられたから、捨てた千人針とお守りを拾ってきて、「すまなかった」。それから復員して我が家に帰るまで持って来た。召集兵の人が「そのうちに神風が吹くから」なんてよく言っていて、「神風ってあんのかなあ。そんなことあんめえなあ」と思ったりしたが、気のせいかなんだか、おれはあるような気がすんだ。

○1945(昭和20)年8月、終戦。

・最初は敵が飛行機でビラを巻いた。だが本気にしなかった。「スパイだっぺ」。だけどもあれほど毎日飛行機が来たのがぴたっと止まった。そのうちに「戦争に負けたわけじゃなくて、戦争が終わったんだ」ということになった。「そうかやあ」なんて言っていると、今度は拡声器で通訳が来て、それで本気になってきた。日本軍の通訳に本当か聞いたら「大丈夫だ。みんな着替えて、そして収容所に入れて、日に三回おかゆかパンをくれっから大丈夫だ」と言われて、それで本気にした。だけどもそれまで生きてて、山を下る力もない人はかわいそうだった。途中で死んじゃった。
・そうしたら米軍のトラックが何台かいて、持っていた銃を「トラックにみんな投げろ」と言われて投げたら、今度「被服くれるから裸になれ」というから裸になった。するとこんどは「ふんどし一本になれ」という。そしたら今度「ふんどしもとれ」という。ここにきてなめられたなあと思った。
・素っ裸になった時、「これ、殺されちまうんだ」と心配しちゃった。通訳が来て、「シラミがたかって不潔だから、いまちゃんと猿股と服くれるから大丈夫だから」って、じゃあよかっぺだ。なるほど、戦闘帽までシラミたかってたんだからどうしようもなかった。
・山を降りて来る時2、3人分の骨が何か所かあった。かわいそうだねえ、どうしようもねえし、自分もどうしようもねえから。うん。バカな戦争をしたもんだ。

○1945年9月ごろ、捕虜になる。

・山を下ってきて、縦列にならべーつって並んで、ワンツースリーって感じで、ここからこれはそちらの幕舎、ここからこっちはこっちの幕舎と分けられた。中隊はここだと言ったって全然だめ。ごっちゃにやられちゃった。
・その時に同郷の元気な人と分かれた。「帰ったらば生きてるって言ってくれや」と言った。復員して家に帰ってきてみたらば、その人はまだ帰って来てないという。「自分より丈夫でいたんだから帰ってくっぱい」といったら、「問い合わせても決してわかんねえ。お前嘘こいてんだっぺ」なんて怒られたが、「じゃあ米軍さ登録したから、米軍のほうさ来て見たら」といって、米軍に聞いたらやっぱり亡くなっていた。結局同郷で帰った人は自分一人になっちゃった。だから申し訳ねえなあと思ったけれど、しょうがない。
・毎日戦場の整理、タンクだの兵器だのあちこちぶんなげられているものを、米軍がブルドーザーでならしていく。
・終戦になっても傷が痛いから入院したが、「このぐれえなら強制退院だ」と言われて、強制退院させられちゃった。
・捕虜になった時、朝鮮出身者は一つの幕舎にまとめられた。その中には日本人の教官に殴られたり蹴られたりした人もいて、どこかの隊の軍曹はみんないじめられていた。
・幕舎にいた時、配給をいろいろもらったりなんかしていたが、食物は貴重なので泥棒しちゃだめだが、わりあいと元刑事とか巡査とか、警察官だった人が物を盗ったりするという話もあった。
・1年3か月。いやあとてもひどかった。でも日に三回はおかゆをもらったりパンをもらったからいいけれど。

○1946(昭和21)年12月18日、マニラ出港。
○1946(昭和21)年12月24日、名古屋港上陸。
○1946(昭和21)年12月25日、復員。

・一年半で帰って来て、父親が喜んで「帰ってきたからみんなを呼ぶんだ。んでおめえ挨拶しろ」なんて言っていた。何を言っていいかわからなかった。
・男6人の11人兄弟で、すぐ下の弟もシベリアに抑留されて帰ってきた。男6人もいるとこは戦死すればいいのに、隣の家では跡取りがこれみんな亡くなってんだねえ。俺みたいのは死ねばよかった。
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2014年12月に行った聞き取りを、2014年末キャラバンとしてまとめます。

◆◆12月7日(日)◆◆
東京都葛飾区
体験者の方
◎パラオの女学生。空襲、野戦病院での手伝い等。

◆◆12月12日(金)◆◆
福島県伊達市
体験者の方
◎ビルマ

◆◆12月13日(土)◆◆
山形県東根市
体験者の方
◎占守島の少年戦車兵

◆◆12月27日(土)◆◆
福島県白河市
体験者の方
◎ミンダナオ島

静岡県
体験者の方
◎中国

◆◆12月29日(月)◆◆
埼玉県さいたま市
体験者の方
◎障害者としての戦中体験
2014年10月の表郷キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

今回はすでにリアルタイムの報告でお二人とも名前が出ていますので、最初からお名前を載せています。

表郷キャラバン
訪問都道府県:福島県(白河市・表郷)
日程:2014年10月26日(日)

◆◆10月26日(日)◆◆

午前:
体験者の方
◎穂積上さん">◎穂積上さん
戦地等:フィリピン(ルソン島)

午後:
体験者の方
◎鈴木陽司さん
戦地等:中国、満期除隊後地元の兵事係

当日レポート
10月26日(日)
写真特集
その1
その2
12月12日(金)~13日(土)にかけて、福島県、山形県へ聞き取りに行っていたメンバーは、途中の郡山で一泊し、今朝帰ってきたようです。
1日目、「雪が降ってきました」というメールが、保存の会事務局に入っていたということですが、聞き取りはしっかりできたとのこと。
ただ、2日目の方がとても詳細に記憶されているので、1日ではすべて聞き終わらなかったそうで、無事ですが「終了」にはなっていません。年明けに2回目を行う見込みとなりました。

証言の内容等については、またメーリングリストに上がってくるはずですので、そのときには掲載したいと思います。
明日と明後日、メンバー1名が東北方面で聞き取りを行います。
2件あるので、キャラバン認定していいだろうかと思っています。
東北地方は週末は雪のようですが、中止の連絡は来ていません。気を付けて行ってきてほしいものです。

12月12日(金)
福島県伊達市
体験者の方
◎ビルマ

12月13日(土)
山形県東根市
体験者の方
◎占守島の少年戦車兵