あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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戦場体験史料館までの道順
ゴールデンウイークのほぼ福岡キャラバン写真特集その2です。
小竹町の「兵士・庶民のための戦争資料館」での写真になります。

館長さん親子(福岡・小竹)
現館長さん(創設者の奥様)と息子さん

三八式歩兵銃等(福岡・小竹)
手に取ってみることができる三八式歩兵銃等

手榴弾と銃弾各種(福岡・小竹)
手榴弾と銃弾

いわくつきの日の丸(福岡・小竹)
赤い部分がくりぬかれた日の丸。
ある兵士が、寄せ書きを持ち帰るために、日の丸部分ををくりぬいて服の下に下着のように着て帰ったものだそうです。
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ゴールデンウイークのほぼ福岡キャラバン写真特集です。
まずは戦場体験と関係なく、旅の様子です。福岡らしい写真?を撮ってきてもらいました。

旧福岡県公会堂
旧福岡県公会堂。
重要文化財らしいです。

梅ヶ枝もち
梅ヶ枝もち

豚骨ラーメン
豚骨ラーメン

だいたい午後から聞き取りが入っており、その午前中に歩きまわって観光する気にもならなかったというメンバーの言はごもっとも。
ゆえに、今回は食べたものの写真中心になっております。
2013年4~5月のほぼ福岡キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
ほぼ福岡キャラバンは、皆様メーリングリストの日々の報告にお名前が挙がっていましたので、先に載せさせていただきました。

岐阜キャラバン
訪問都道府県:福岡県、佐賀県
日程:2013年4月28日(日)~5月2日(木)

◆◆4月28日(日)◆◆

午後
訪問地:佐賀県鳥栖市
◎武田義雄さん
戦地等歩兵56連隊 コタバル上陸作戦。シンガポール陥落直前に負傷をされているようです


◆◆4月29日(月・祝)◆◆

午後
訪問地:福岡市西区
◎大櫛戊辰(おおくしつちや)さん
戦地等:葛根廟事件体験者(民間人)
 1945年8月14日、日本人避難民がソ連軍の戦車を中心とする部隊の攻撃を受け、千名以上が殺されたと言われている事件の生還者の方です。


◆◆4月30日(火)◆◆

午前
訪問地:福岡市城南区
◎野砲兵第56連隊、ビルマ北部

午後
訪問地:福岡市中央区
◎東野利夫(とおのとしお)さん
戦地等:九大生体解剖事件目撃者(当時解剖学教室にいた医学部生)


◆◆5月1日(水)◆◆

午後
訪問地:小竹町
「兵士・庶民の戦争資料館」訪問
聞き取り1名

戦地等:レンパン島


◆◆5月2日(木)◆◆

午前
訪問地:福岡市
◎平嶋福美さん
戦地等:海軍看護兵。フィリピン等
ほぼ福岡キャラバン5日目、5月2日(木)の様子、証言概要です。
最終的に日程が確定したのはキャラバンに出発した後でしたが、最終日にお邪魔することができました。
メーリングリストより転載します。
※メーリングリストには5月4日の1:30ごろ投稿されていましたので、文中の「昨晩(日付的には一昨日)」は5月2日です。

◆◆◆

昨晩(日付的には一昨日)帰京しました。
最終日は福岡市内で平嶋さんのお話を伺いました。
特に特攻のお話が印象的で、ご本人も胸を詰まらせながら話して下さっていました。

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平嶋福美さん

生年月日 1920(大正9)年12月7日
当時の本籍地 福岡県

海軍
所属部隊:263海軍航空隊、201海軍航空隊
 ご本人は航空隊の壊滅・再編成を繰り返し部隊名は分からないとの事だが軍歴よりこの部隊か?
兵科:看護兵

1942年9月 佐世保海兵団に入団
 海兵団の教育の後、普通科看護兵としての教育を受ける

1943年10月 松山海軍航空基地に開隊された航空隊へ(263海軍航空隊か)
1944年 ~6月
〇サイパン、テニアンに荷物を輸送、グアムでここに養子に入るから荷物を全部降ろせと言われた。
 グアムで1~2ヶ月して敵の大艦隊がペリリューに来ているからと下がったが、その動きが米軍に察知され米軍も引き上げたので大きな戦闘にはならなかった。
 トラック島まで米艦隊を追ったもののそこで諦めグアムに帰還。
 その後一時的にグアムを出たらグアムの戦闘が始まり戻れなくなった。
〇看護兵だったが、負傷者が出たときに備え輸送や飛行機の受領にも度々同乗した。
 この場合は看護兵も戦闘に参加できるよう後部か下の機銃を担当した。
 自分はあまり行かなかったが負傷兵や遺体の回収に行く任務もあった。
〇よく乗ったのは「天山」(艦上爆撃機)とか。
 乗ってはいけない事になっていたが戦闘機に同乗する事もあり、この場合は戦死しても公式記録には残せないから他で死んだ事になると言われていた。


飛行機を多量に失ったため改編をして台湾を経てフィリピンへ(201海軍航空隊に編入していると思われる)
 マニラ・ニコラス飛行場を拠点とした。
〇台湾沖航空戦(19441年10月12~16日)、小高い丘の上から見ていると、大本営発表で撃沈した事になっている米軍の艦艇が目の前を通って行く。
 大本営発表は嘘ばかり教えているんだなと思っていた

1944年10月下旬より特攻が始まる
〇同年兵だが志願だから年下の飛行兵がいて、「平嶋、平嶋」って年下だけど同年兵だから呼び捨てで、でも弟分の様で可愛らしかった。
 飛行機から降りるとすぐに会いに来てご飯とかもこっち(医務科)で食べる。
 「自分のところで飯を食え、飛行兵の方が食事も良いだろう」と言ったけど、「飯ぐらい食わせろよ」と入り浸っていた。
 しばらく見ないなと思っていたら戦死公報に「石岡」と一人だけ名前が載っていてはっとした。
 第17とか何とか特攻隊の名前が付いていた。
 毎年お盆になると墓参りが気になるけど、どうしてか足が向かなかった。
〇特攻機はもう編隊が作れなくて夕暮れに1機ずつ出て行った。
 夕方薄暗くなって機影が見えなくなる頃出ていく。
 出ていく時、特に見送りなどはなかった。
 1機ずつ特攻隊の番号が付いた。
〇16~17歳のが「平嶋さ~ん」って会いに来る、出たら泣いていて見たら特攻だと分かる。
 「決まったらしゃあないね」「同じ死ぬんなら外すなよ」と言って、「我慢せんでいいから俺が抱いておくから泣け」と言ったら、兄貴のようだったんだろう、胸に抱かれてわんわん泣いて。
 何時まで経っても忘れられん。何人もじゃない、何十人もそうやって見送った。
〇平嶋さんは字が上手だからおふくろに手紙を書いて欲しいとか、髪を包んで持ってたり、墓参りに行こうとその時は思っていて住所も書いて大分長く持っていたけど行かなかった。
 戦争が終わって死んだ人への世の中の気持ちもがらっと変わって、英霊、英霊と言っていたのが馬鹿なことしてとそういう様になったし。

〇米軍が上陸する頃には殆ど飛行機は無くなっていた。
 飛行機受領に行っても降りるときに足が折れて駄目にして仕舞う。
 操縦士が未熟になってきていて17~18歳のあんちゃんが羽根をばたばたさせながら降りてきていた。


1945(昭和20)年1月 クラーク地区防衛隊が編成される
〇米軍が上陸してからは何もない。
 まるで絨毯をひくみたいに海岸から撃ってくると海岸には近寄れないから、海岸線で止めるなんて出来ない。
 山中に入って米軍を迎える事になった。
〇とにかく弾の物量がかなわなかった。
 機銃を一列に同じ高さに揃えて一斉に撃ってくる。
 日本兵もいない所なのにどうしたのだろうと離れた背丈ほどのかやの中から見ていると、かやを刈り取るために撃っている、焼いたら自分たちもすぐには入れないから。
 そうすることで米兵は立って撃ちながら入ってこられる。
〇こっちが「かちゃかちゃぽん」「かちゃかちゃぽん」とやっているうちに向こうは200発連射ぐらいで「だだだだだ」と立ったまま撃って来る。
 一度向こうの銃(短機関銃?)を拾ってあまりの性能の違いにあほらしくなった。
 撃つ役の兵隊は撃つだけで、重ければ移動する時弾を捨てていくが、それを拾って歩く役の別の兵隊がいて行く先々に弾を配って歩いていた。
 「『かちゃかちゃぽん』『かちゃかちゃぽん』じゃ『だだだだだ』に勝てるわけがない」と言っていたら、陸軍中尉に聞かれてしまって殴られた事がある。
〇本当に馬鹿な事をした。まあ馬鹿な事は実際にしないと、なかなか馬鹿な事と分からないんだが・・・。

〇主食は草
 萱みたいな柔らかい草があっておいしいが消化しない。
 これを食べると消化できず狂いまくって死んでしまう。
 何人かが繰り返してこの草は駄目と分かっていった。
 軍医に後学のためだと言われた遺体の解剖をしたが、胃に噛んで食べたままの草の固まりがあった。
〇里芋、サツマイモ、山芋。里芋は内地のものよりおいしかった。
 蛇、蛙。大蛇は1回だけ4mのものを捕った。毒蛇もそのまま食べたが少し精力がつく。
〇食糧の収集・配分は看護部、看護長以下7名で共同していた。
〇病死はあまりなかった、餓死というか食べ物が無い事の衰弱死。
 下痢をし出すと大概死んでしまう。
 下痢がひどくなるだけだから下痢の者には食べ物を渡さない。
 そうすると我慢出来ず変なものを食べて余計死んでしまった。

〇ネグリート族という背の低い腰巻だけで過ごしている原住民が居た。
 彼らだけなら山の中で好きな所を畑にして思うようなものを作る平和な生活。
 彼らと谷を一つ隔てて生活を始めたが、その畑を荒らして作物をかっぱらうので、入ってくる人を毒矢で射殺す、何人もそれで殺された。
 そのうちこちらも追い出されたくはないので敵対しないように気を付けていたら、次第に付き合いが出来てきて、逃げ腰で手招きして大きな山芋を持って来てくれたりした。
〇部族は何種類もあり、米軍と共闘している部族もある、米軍もまたお金を出していた。
 ゲリラとはそりゃ戦争だからどちらも殺し合い。
 女性だからと思って安心していたら抱いている赤ん坊のお尻の下から撃ってくる事もあった。
 日本人は侵略者、土地を荒らすからとにかく嫌われていた。


1945(昭和20)年8月15日 敗戦
〇玉音放送の1時間後にはもう米軍から敗戦を告げるビラが撒かれた、表は日本語、裏は英語。
 日本軍としての連絡はなかったけれど敗戦を疑う者はなく皆さっさと山を下りはじめた。
 先に捕虜になった者が皆生きている事は分かっていたので、米軍に殺される事はないと皆分かっていた。
 捕虜からは以前から「早く捕虜になれ」「体重が何キロ増えた」というようなビラが来ていたから。
〇文句を言う者は無かった。
 扇動に乗るなという陸軍尉官がいたけれど「お前たちだけで行けよ」と言ったら3~4人で山に入って行ったが1週間ぐらいでふらふらになって出てきた。
 「どうだった」と聞いたら「そう言ってくれるな」と言われた。
〇下りていく道々には米軍のレーションが梱包して落とされ次はどこに落とすと書いてある。
 一日三食分落としてくれる。
 最初は飢えていたのでおいしかったが段々贅沢になって米が食べたいと言ったら米が落ちてくる。
 梅干しが食べたいと言ったら樽で梅干しが落ちてきて他所の部隊からも兵隊が群がってあっと言う間に無くなった。会話を現地人がどこかで聞いていて伝えているらしかった。

〇武器は米軍に渡したくなかったので下りる前に暴れ川の淵三か所ぐらいに分けて捨てた。
 最初の所に三分の二ぐらい捨てたら水面から見えてきたので原住民に見つかってはと思いあと2か所に分けた。暴れ川は水路もすぐに変えるもので、銃を底の土砂に巻き込んでくれる。
 後で米軍に武器はどうしたと聞かれた。3か所を捜索させ1丁ずつ出てきたのを確認したらそれ以上は調べなかったらしい

クラークの収容所へ
〇米軍のとても美人の女性将校たちが片言の日本語を話して兵士の整理に当たっていた。
 200人ぐらいずつ収容所へ収納していったが日本兵も彼女たちの部下の様に4列縦隊とかの命令に従っていた。
 後で彼女たちは日本語の専門教育を受けており日本語はもっと堪能で情報収集をしていたのだと知った。
〇日本人将校は何度も日本兵を集めては「喧嘩だけはするな、内地に帰れるまでは我慢をしろ」と繰り返していて、そんなに何度も何度もせんでも良かろうがと思っていた。

カリラヤ収容所(マニラ郊外)へ
〇日本人孤児が集められた収容所が隣接しており先の女性兵士たちが面倒をみていた。
〇あれだけの米兵が皆日本人びいきな訳はないが苛められたり嫌な事をされる事はなかった。
 アメちゃんは本当にほがらか。 

1945(昭和20)年11月 復員
〇一番恥ずかしかったのは、自分は5人兄弟で全員怪我もせずに戻った。
 裏の家は2人兄弟で、うちの兄と弟とそれぞれ同級生だったが、2人とも戦死した。
 前の家も2人兄弟で、下の方はうちの弟と同級生だったが、これも2人とも戦死した。
 恥ずかしくて暫く家を出られなかった。
 これは(奥様、同じ部落の出身)そんなこと仕方ないと言ってくれるけど。

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まとめてみると結構色々なお話を伺っているのですが、実感としては、フィリピンに行くまでと、山中のお話はまだまだ積み残してしまった感じでした。
平嶋さんは記憶を手繰り手繰りお話下さっていたうえ、当時の写真やネグリート族の弓矢などを探し出したり写させて頂いたりしていたため結構長くお邪魔する事になり、さすがに時間切れかなあと腰を上げました。
「私の体験が遺るならありがたい」と言って下さる言葉に甘えて出来れば遠からず再訪したいとお願いしてきた次第です。
ほぼ福岡キャラバン4日目、5月1日(水)の様子です。
小竹町の「兵士・市民のための戦争資料館」表敬訪問の報告となっています。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

小竹町は博多の西方、北九州との中間ぐらいに位置しますが、列車で行くには一度南下して笹川で折り返し北上する事になります。

「兵士・庶民のための戦争資料館」は以前から是非一度訪れなければと思っていたところです。
建築物的にはきっとわれらの史料館と似たりよったりの規模だろうという予感はありましたが、キャラバンの準備などをしていると度々ひっかかる新聞記事の企画展の内容が、「レイテ島遺品展」だとか「軍事はがき展」だとか「慰問文集展」だとかとにかく普通ではありません。
しかもそれを創立者で従軍経験者の武富登巳男さんが2002年に亡くなられた後、80代の奥様が館長を引き継ぎ切り盛りしておられる様子で、一体どんなところだろう、どれだけ収集をしているのだろうと興味の湧くことしきり、 そもそも館名からして保存会と同じにおいがします。

昨年GWの時には熊本の聞き取り帰りに廻る時間を取り損ねたのですが、更に昨夏の「大本営最後の指令」のイベントの折、会場に詰めておられた渡辺教官が持ってこられていた参考資料「久留米師団召集徴発雇用書類」という本の編者が武富登巳男さんになっているのを見た時、これは絶対行くしかないと確信を持ちました。
そういう訳で今回は一日日程をとり、でもどうせ行くならどなたか体験者はいらっしゃいませんかとお願いをした次第です。
(その荒井さんの証言は更に後便で)

小竹町からタクシーで資料館をお願いするとと、時々お客さんを送ることはあるらしく運転手さんはすぐに分かってくれました。
近くにはちゃんと矢印付きの手作り看板も幾つか立っていて、車は館長さんの家の縁側前に乗り付けます。
大きな原っぱがあってふきなども芽を出していましたが、そこにご自宅と並んで可愛らしい資料館が立っています。
靴を脱いで中に入ると中は別世界。
同じ名前なんて奇遇ねと言って下さった武富智子(ともこ)さんと、息子さんが案内をして下さいました。

創設者の武富登巳男さんは久留米48連隊に昭和13年入隊、4年の兵役のあとお前たちは復員させず他所に行くことになると言われてそれならと転科を希望し百式司令部偵察機の偵察員となりました。
敵地の航空写真を収集する仕事で戦死する仲間も多く、とは言っても帰ってこないという形でしか戦死は分からないので、年を取られてからもたびたび雪山から若い頃のままの戦友の遺体が発見され自分は年を取っているという夢を見られたと言います。

また飯沼正明操縦士(朝日の社機で東京ロンドン飛行の記録を樹立した著名なパイロット)が目の前で事故死をしたのに英雄の戦死として報道されたのを見て、自分の死は死んでしまったら分からないものになり書き換えられるんだろうと強く思ったそうで、飛行兵と言う立場を使い(例えば大刀洗に行く戦友に手紙の投函を頼んでいる)検閲をかいくぐる形で戦争中自分の写真や日記などをどんどん実家に届けています。
また登巳男さんのお父さんもそれをせっせと保管し、空襲が近づいたら疎開もさせて、つまり敗戦時には資料館の基礎となる資料がすでに揃っていた事になります。

その後さらに仕事で地域を廻りながら捨てられかけている物品を集めて廻られ、更に「遺品が遺品を呼んだ」という形で資料館は大きくなってきました。
ちなみに先の「久留米師団召集徴発雇用書類」は登巳男さんが網をはっていた古物商のところに落ちてきた遺品の山から発掘された書類で、2年をかけて真偽も含めて調査整理をし書籍となったものだそうです。

この資料館は是非物品にさわって感じて下さいというのも特徴で、軍装も着せて貰えますし(着ていませんが・・・)38式歩兵銃も持たせてもらえます。

写真も撮れます。民間だから出来る事と胸を張っておられました。

実質奥様と息子さんの二人で運営しておられると思うのですが、年に4~6回の企画展と6月の慰霊祭を開催、
それを全部プレスリリースしているのもさすがで(確かにそうでなければあれだけ記事を目にすることはありませんが)5月は遠藤三郎展(戦後は憲法擁護国民連合などで反戦運動に身を投じた中将)と言うタイムリーな企画に今日はマスコミ各社の取材が入っているようでした。

ちなみに本来水木は休館日で、私は却って来客のない日が良いでしょうと取材をさせて頂きましたので、行かれる方は気を付けて下さい。