あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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ゴールデンウイークの大分・熊本キャラバンが5月5日(土・祝)に伺った証言の概要です。
この旅の最後の方になります。メーリングリストより転載します。

新道(しんみち)満人さん (旧姓 東)

取材日 2012年5月5日

生年月日 1931(昭和6)年1月
当時の本籍地 大分県佐伯市

1941(昭和16)年11月 佐伯湾で連合艦隊が真珠湾攻撃に備えた演習。
○小学校5年生、朝起きると部落のすぐ目の前まで軍艦が来ていて、狭い湾一杯に艦隊が溢れていた。
海で育った友だち何人かで、櫓を漕いで軍艦を見に行ったら、すぐに縄ばしごを投げ降ろしてくれて船に上がらして貰った。
駆逐艦ではなかったかと思う。
白い手袋をした将官に水兵たちが敬礼をしていてポスターで見たままだった。海軍への憧れが強くなる。

1942(昭和17)年 小学校6年生
○前年太平洋戦争が開戦、占領地からの材料で作ったというゴムマリが全国のこども達に配られた。子供心に戦争に勝っているのを実感した。

1944(昭和19)年秋 海軍特別少年兵に志願・合格
○長兄は徴兵で6師団へ、その後父の勧めか憲兵になっていた。
次男は海軍を志願、3男は予科練を志願。
学校の教室の後ろにはポスターがびっしり貼ってあった。
親戚には教員が多く、長兄は師範学校への進学を勧めたが志願をした。
父は誇りに思っている感じ、母も反対はしなかった。
○本当は左耳が子どもの頃から難聴だったが、対面方式で返事が出来れば良かったので右だけで対応した。

1945(昭和20)年3月10日 尋常高等小学校の卒業式
○卒業式は毎年小学校と高等小学校と併せて3月28日と決まっていた。
担任の先生から校長先生からの手紙が入っていると封筒を貰った。
一人の卒業式をやるとあった。
全校生徒400名弱が集められ、自分だけのための卒業式が行われた。
君が代斉唱、校長挨拶など通常と同じ式次第。
挨拶もしろと言われたが出征兵士を部落で何人も見てきたので、だいたい何を言えば良いかは分かっていた。
感激したし、自分だけ一足先に旅立つのだという気がした。
先生たちは畏敬の念を持って接してくれているようだった。
 
1945(昭和20)年3月20日 防府海軍通信学校(山口)に入隊
○入校式は力強いものを感じていた。
白い手袋の中将が挨拶をして引き締まる思い。
命はいらない、防人になるんだという純粋な気持ち。
自分は靖国神社に行くが家族はそれぞれ幸せにやってくれと、励ましているつもりで手紙を書いていた。
洗脳されていたんでしょうね~。世の中全体が灰色の社会だった。
○防府は空襲もない。
○起床1時間前には厠に行き、服を着けておく。
週番士官がこつこつ靴音をさせて見回るが、毛布を首までしっかり被って隠していた。
起床から服を着、吊り床をたたみ整列まで3分。そうしないととても間に合わない。

1945(昭和20)年5月 津和野(山口)に
○通信がモールス信号から暗号に切り替わると言うことで特訓生に選ばれた。
夜中に津和野に着き朝トラックで山中のお寺に運ばれる。
村の人が面倒を見てくれたが白米や大根が山盛りで困らなかった。
○本土決戦要員だと聞いたが戦況が先を行って仕舞った。

1945(昭和20)年7月 宇佐海軍航空隊(大分)へ
○津和野から小郡を出て佐世保へ、小郡からは列車の窓を全部降ろし外を見えないようにされた。
佐世保に降りると空襲で真っ黒焦げの焼け野原で唖然とした。
佐世保鎮守府で食事の順を待っていると、向こうの方で塩汁にタマネギの量の多い少ないで喧嘩が起きている。
食糧がないことを知った。喧嘩の内容に呆れた。
勝てるわけがないと初めて知った。
佐世保鎮守府で封筒が渡されそこに配属先が書かれており、宇佐海軍航空隊へ。
○宇佐に着いた頃には、飛行場は爆撃されて使いものにならず、飛行機も殆ど残っていなかった。やる事が何もない。
毎日空襲警報がある。
どうなるんだろうと思っていたが言葉には出来なかった。
○上官たちは優しかった。自分では一人前のつもりだたけど、14歳、身体も明らかに小さく、弟のように思ってくれたのではないか。

1945(昭和20)年8月15日 敗戦
○前日からぴたっと敵機が飛ばなかった。
ただ「ポツダム宣言を受諾した」と書いたビラをまきにきた機があった。
○15日全員集合して詔勅を聞く、よく聞き取れなかったが上官たちは泣いており、私たちは唖然としていた。
これからどうなるか不安の一方で、空から爆弾が落ちることはもうないとほっともした。
○尉官たちが毛布や物資を荷車に積み込んで持ち出していた。
貧しい環境になったらいやしくなるんだなと思った。
自分は子どもだったから家に帰るのが嬉しいというぐらい。

1945(昭和20)年9月半ば 復員
○残務整理を終えて復員、汽車はいっぱいだった。
家に帰ると長兄が硫黄島で戦死していた。
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ゴールデンウイークの大分・熊本キャラバンが5月2日(水)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎早道友記さん

取材日 2012年5月2日

生年月日 1920(大正9)年1月15日
当時の本籍地 熊本県

1940(昭和15)年3月3日 現役 野砲第6連隊
※中国時代のお話は伺っておりません

1942(昭和17)年12月20日 上海出航
〇25000名が12隻の輸送船で出航

1943(昭和18)年1月20日 乗船していた明宇丸が沈没。
〇赤道を越えものすごく暑かった。風が入ってこない。
明宇丸はもともとセメントを運ぶような貨物船で、巨大な船倉を3階建てのように分け、立ったら頭が使えるような作り。
夕食を終えあまりに暑いのでたまたま甲板に上がった。
〇併走していたスラバヤ丸が魚雷を受け沈没したので装備を取りに降りようとした時、爆風に飛ばされた。
魚雷が当たり、階段は無くなり、巨大な鉄の桶のようになっている。
板を渡す端の鉄の床のようなところに飛ばされていた。
頭と足から血がどんどん噴き出していたが、ふんどしで止血した。
下をのぞくと地獄、さっきまで一緒に食事をしていた兵隊たちが上がる階段も無くなり泳ぎ回っている。
自分のところも甲板に上がるには少し離れた縄梯子に飛びつくしかない。
普通なら飛びつけない距離だが、ここで失敗すれば下の地獄に落ちるしかない。
いつもは無い力が出て飛びつくことが出来、上に上がった。
先ほど上陸用舟艇の影で寝ていた2人の兵隊がその舟艇の鋭い鉄の先で切られたのであろう、胴体が真っ二つになって転がっていた。
〇10mぐらいあったが飛び込まないと仕方ないのでラッパが鳴ったのを合図と思い飛び込んだ。筏につかまったが少しずつ減っていく。
鮫がいる海域。翌朝救助に来た駆逐艦・朝雲は最初はすぐに救助せず、爆雷を落として廻ったがこれは鮫避けだったらしい。
海軍の兵隊の話では、遭難者は一晩のうちに5キロ四方に広がっていたという。
海面に浮かぶ兵の多くは溺れたのか鮫か死んでおり、海軍は生きている人だけその中で選び出して拾っていった。
当時は遺体は集めないというのは冷たいものだと思ったが、考えたら駆逐艦にはそんなスペースはない。
引き上げられても足が立たず、場所がないから後ろに行ってくれと言われ這って移動。
救出された後に亡くなった兵隊は棺桶が用意してあってそれに入れられ旗を巻いて水葬された。こんなに扱いが違うのは妙だと思った。

1943(昭和18)年1月24日 ブーゲンビル島南端のエレベンタに上陸。
〇明宇丸に載せていた2万5千人分1か月の食糧も武器も沈み、部隊は何もないまま丸裸で上陸した。
そのため当初から部隊では食糧が不足していた。
〇湿地帯のぬかるみの道路工事にあたった。

1943(昭和18)年4月18日
山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル上空で撃墜され死亡。
〇新しい道路工事の始点を作る日で、まず防空壕を掘り休憩をしていると飛行機が見えた。防空壕に飛び込んだが何もない。
見ると飛行機がじわっと落ちてくる。敵機と思い喜んでいた。
〇休日に数名で見に行くとエンジンは焼け焦げているが胴体はそのまま。
ジャングルの中にきれいに着陸している。
武器がなかったので後ろの機関銃を外そうとしたが弾が焼けて仕舞って無理。
何か使えるものはないかと思い胴体を50センチほど剥いだ。
鍋が欲しかった、ネズミを切り刻んだものと草の葉を煮て食べた。
ジェラルミン製だから。随分使った。
あれは山本長官を尊敬する誰かが持ち帰ったものだろうと書いた本を見たことがあるけど、そんな事より食う事。私は陸軍だからねえ。
あれを持って帰れば良かった惜しいことをしたと思うけど、皆体力がなくて紙1枚でも重かった、10円札が落ちていても誰も拾わなかった事がある

1943(昭和18)年11月1日 米軍がタロキナ(西岸)に上陸
〇第2次タロキナ作戦に参加。
〇野砲だから最前線には行かず後ろから撃つ。
自分は砲を引っ張る役で砲には触ったこともなかった。
砲を撃つと狙われるので、撃つとジャングルに引っ張っていき隠し、また移動して撃つことを繰り返したが、やがて砲手が死んで砲も使えなくなった。
〇3月末攻撃は中止、5400名が戦死、7000余名が戦病死で戦病死の方が多かった。

1944(昭和19)年4月 退却
〇小銃や機関銃を渡され歩兵となった。
〇食糧補給は皆無なので、農園を作ったり、製塩を行う。
〇5時になると暗くなるので横になる。
食い物の話をする。まず握り飯の話。
食える食えないと食えるはずはないのだが延々議論する、喧嘩になるほど。
それが終わると羊羹の話、何本食えるかと。
食べ物の話ばかり、故郷の話はまったくしなかった。
〇原住民と仲は良かった。人懐こく、軍でも原住民の畑の芋を取ることは厳しく取り締まっていた。
しかしヤシの実は取っていた、あれは自然に生えているものと思っていたがそうではなかったらしい。
一度豚を射殺し荷物に入れて運んでいたら執拗に付いてくる。
荷物の縄に血がついているので慌てて砂でこすって隠したが、蛮刀をチャリンチャリン言わせて威嚇しながら付いてくる。
夜になって漸くこっそりと焼いて食べ始末した。
それ以降は気を付けて殺さないようにした。
〇原住民が噛んでいる実があって、ピンクだが噛んでいると真っ赤になる。
最初は口が真っ赤なので人食い人種だと思った。
麻薬のような高揚感があり元気が出たが中毒になると思い日本兵は摂取を止めた。

1945(昭和20)年1月30日 豪州軍がトコ(南西岸)に上陸。
〇ここからが本当に苦しんだ。豪州軍とジャングル内で会っては銃撃戦。
帰ってきてからも夢を見る。
ジャングル内で敵兵がチラチラする、撃つと応戦してくる。
最初はそれでやっつけたと思いたかをくくっていた。
〇防空壕の奥にいた時、木に当たり炸裂した大砲が壕を突き抜けた。
前の方に居た兵が顔半分が削げた。防空壕も信用ならないと思った。
〇A壕、B壕、C壕と3段に待機していてAは銃撃戦を終えたら一番後ろのCに下がって良いことになっていた。敗戦までこれを延々繰り返した。

〇ある日斥候に行けと命じられ、5人で出かけた。
比較的体力があったので機関銃を持てと言われた、10キロ近くあった。
前日豪州軍の残した乾パンが手に入ったところで皆むさぼり食っていた。
行きたくはなかった、食っていたかった。
食べながら何の構えもなく歩いているとジャングルが切れた。
3名の豪州兵がちらりと見えた。
ベレー帽で迷彩服を来て自動小銃を下げしゃれている。
こちらは乞食のような恰好に裸足(もうずっと裸足だった)、機関銃は下げているだけで撃ったことはなかった。
非常に至近距離、部隊から5分ほど歩いただけのところで、しかもこっちは食べながら、出会い頭で互いにどうしたら良いか分からない。
向こうが伏せたので撃ったが引き金が動かない、初めてで安全装置があることも分かっていなかった。
後ろにいた軍曹が「やられた」と言った、自分がぐずぐずしているので手榴弾を投げようとして腕を挙げたところを撃たれたらしい。
安全弁を外して撃ち一人の豪州兵を殺した、若い青年だった。

〇ジャングル内に戦車道が出来ていた。
そこを立ったまま歩いてくる豪州兵がいて撃ち殺された。
他の者が撃ってきたら撃ちかえすように機関銃を渡して死体に歩いて行った。
靴が欲しかった。手はぬるぬるしていて脱がすのは難しかった。
靴を脱がすと毛の良い靴下を履いていた。
それも脱がして1か月ぐらい履いて過ごした。

1945(昭和20)年7月 負傷してマイカの野戦病院へ。
〇位置を変えようと立った時に前腕を撃ち抜かれた。
機関銃が地面に落ちたのでやられたと気付いた。
痛くも何ともない、機関銃の方が気になる。
当時の感覚として“かたわ”になるぐらいなら死んだ方が良いという気持ちがあった。
衛生軍曹が木の枝でゆわえて止血もしてくれた。
〇夜になると耐え難い痛さ。
止血すると痛くなり、外すと血が通い痛みもなくなるが、血が噴き出してくる。
止血をしたりはずしたり一晩中繰り返した。
〇担送に2人の兵隊が送られてきたが栄養失調で自分よりよろよろしている。
こんな者に運ばれて川にでも落とされたらと思い荷物だけ持ってもらい、2日間ジャングルを歩いて野戦病院に着いた。
〇野戦病院の軍医は反対に肩から切りましょうと言う。
前腕だけなのにと言ったが細菌感染が広がらないようにするには肩からだと。
何となく感覚はあるような気もするし無い気もするし、切られたくないので病院には寄り付かないようにして自分でウジを取っては包帯を巻いて過ごした。

1945(昭和20)年8月15日ごろ
〇静かになったなとは思っていた。
翼の下に「日本軍降伏」と書いた偵察機が飛んできたがおびき出すためだ、騙されるなと言っていた。
〇2日ぐらいして部隊命令として敗戦が伝わった。

〇同じ中隊の鹿児島出身のM軍曹が食糧を探しに行って帰ってくるのが遅かったかなにかで敵前逃亡だと言われて戦後殺された。
敗戦の時はすでに隊に帰ってきて道路工事の使役にも出ていたのにその工事現場から連れ戻された。
私は腕を負傷していたため使役には出ておらず兵舎にいて目撃した。
御馳走やお菓子を食べさせ良いタバコを渡すので何でかなと思っていると自分にも一緒に来てくれと言う。
爆弾で空いた大きな穴のあとに半分ぐらい水がたまって池のようになっている所に彼を連れて行きその淵に座らせろと言って後ろから拳銃で撃って殺した。
遺体は水の中に落としてそのまま、埋めたりもしなかった。
軍法会議はよくわからないがやっていないのではないかと思う。
本当に立派なしっかりした人でそんな逃亡とかするような人ではない。
食糧を探しに行くのは当然のことで、そんなのは敵前逃亡でも何でもない。
本当に可哀相。

南端のファウロ島に収容される

1946(昭和21)年3月 浦賀に復員

とにかく戦う事より生きる事だった。戦いたくはなかった。

最終階級 伍長

大分・熊本キャラバンが5月1日(火)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎原岡勇さん

取材日 2012年5月1日

生年月日 1921(大正10)年4月15日
当時の本籍地 佐賀県

1941(昭和16)年12月1日 20師団野砲兵第26連隊(朝鮮京城)に入営 現役
〇甲種合格
〇門司港近くの老松公園周囲の民家に分宿を命じられていた。
1週間ぐらいして真夜中に老松公園に集まり門司港に移動。
〇民家の人から聞いたのかおふくろと父が見送りに来ていて、母は「勇、勇」と自分を探し風呂敷を手渡された。
母は車酔いが酷く列車に5分といられない人でどうやって来たのだろうと思う。
船に乗ってから開けると羊羹が6本入っていて涙が出た。
殆ど寒天だったが当時容易に手に入るものではなく、仲の良かった饅頭屋のおばさんに頼んで作ってもらったのだろう。
食べきれる量ではないので皆に分けたら大喜びだった。

衛生兵に転科
〇旧制中学を出ていたが、配属将校が嫌いだったので軍事教練は何かと理由をつけさぼっていた。そのため教練の出席が1/3に満たず幹部候補生の資格がないと連絡が来ていた。
教練の出席が満たないとは何事だと呼び出されてビンタされた。
なぜこの人に殴られるのかと思ったが、「幹部候補生になれないならヨーチンになれ」と言う。
「ヨーチンは衛生兵のことで、楽な兵科だ」と言われたので「楽だったらなります」と言ったらまた蹴飛ばされた。
簡単な試験を受けた後、陸軍病院で半年の教育を受ける。
〇20師団は朝鮮出身の兵隊が多い部隊だったが、その中にクレゾールを飲んで自殺を図る者が多く出てクレゾールを隠していた。

1944(昭和19)年5月27日 輜重兵第49連隊に転属
1944(昭和19)年7月21日 「だあばん丸」で釜山出帆
1944(昭和19)年8月21日9時40分 魚雷が命中
〇前日マニラ湾に停泊、サイゴンを目指したがカムラン湾上で魚雷攻撃を受け5発中2発が命中した。
〇退船命令で海に飛び込んだが、当日は台風で風速が16mもあった。
筏はバラバラになってその1本につかまった。
波が高く、目は開けていられない、口に入ると塩ばかり。
〇輸送船はそもそもトイレに立ったら戻る場所がないほどすし詰めで、すでに兵隊たちは栄養失調気味で体力がなかった。
数秒眠くなると海面に顔をつけて息が出来なくなり死んでしまう。
〇衛生下士官は軍医と一緒に1等航海士の部屋を一つ使わせてもらっていたため、もともと他の兵隊より体力に余裕があった。
夜南十字星を見ていると「勇、勇」と母と思えるような女性の声がして、眠りに落ちるのを助けてくれた。
〇8時間ぐらい泳いで海軍の救助艇に助けられる。
「だあばん丸」乗船3600名中1633名が海没。
カムラン海軍病院へ。
〇海水が耳に入り急性中耳炎に、発熱。
アスピリンで解熱すると耳はそのままで退院。
兵員の補充は難しい状況で、片腕や片目の者も原隊を追及させられていた。
〇1944(昭和19)年12月1日 ビルマに入る
ペグーから徒歩でトングーに移動。
更にメイクテーラで英軍と決戦をするという事でメイクテーラを目指した。

1945(昭和20)年4月3日頃
pyawbweという部落まで来たとき、英軍の飛行機が1台低空を飛んできて1周して帰って行った。

初めてだったので「竹とんぼ」かとなめていたが、すぐに3機が飛来。
爆弾と機銃掃射で壕がつぶれ、軍医、副官など3名が圧死した。
自分は10mほど先のぶどう畑の棚の下におり破片が尻に当たったが助かった。

この日を境に敗残兵となる、メイクテーラに行くどころではなくなった。
〇英軍はM4戦車で攻めてくる。
布団爆雷を作りそれを持ってキャタピラの下に飛び込む自爆隊が次々に送り出された。
本科の兵が少なくなり、3日目は衛生兵の自分も行くことになっていたらしいが、ちょうど隣の部落に治療で呼ばれ部隊にいなかった。
そのうち戦車部隊は自分たちを通り過ぎて南下、自爆を免れた。
〇昼間は動けない。
兵がいると偵察機が上空を1周する。そうするとどこからか戦車が現れて轢き殺す。
〇武器もないし、あっても鉄砲を持つ体力もない。
〇米は現地補給の方針、ビルマ人のモミを見つけ出しそれをひいて米を取る。
次第にビルマ人もモミを持って山に逃げるようになり手に入らなくなった。
〇小乗仏教の国なので野犬やカラスが多い、ビルマ人は蚊も殺さない。
この野犬は随分食べた。野草も詳しい人がいて食べた。

ペグー山系に逃げ込む。
〇600mぐらいまでの大して高い山ではないが、文字通り白骨街道となり、どちらに日本軍が通ったか分かるほど、遺体からウジが湧いている。
〇機銃掃射が激しいので歩くのは夜。
ふんどしを切って背中に付け、その白い布を目印にして暗い中を歩く。
しかし眠りそうになりながら歩いていると少し間が空いてふっと道を間違える人が出る。

それに数人着いて行ってしまう。
しばらくすると前が枝道に入ったのに気付いて本道に戻す人間が出る。
数人枝道に入って仕舞った人間は反日的な部落に行けば“だ”という太刀で切られてしまう。
親日的な部落に行きつけばかくまわれてそのままビルマ人として生きた人も多いと思う。

そんなことで誰が何処で亡くなったか分からないのが本当のところ。
親しかった戦友も気づいたらいなかった。
〇ビルマ人は最初は「ジャパン マスター」と呼んで同じ民族のような親しみで接したが、日本が敗退を始めると反日的な部落が出てきた。
英印軍も部落に入り込んでおり、そうしなければビルマ人もやっていけない。
〇ペグー山系には筍が多かったがそればかり食べていると身体が浮腫してくる。
蛇や野ねずみは御馳走だった。

〇補聴器などないのだから1対1で大きな声で話しかけられないと何も聞こえないのと同じだった。
気配も分からない。ある時大休止して横になった後、気づいたら1人きり残されていて誰もいない。
疲れ切っていて、心細く、寂しく、その静けさは何とも言えない。
その時高森曹長がいないのに気付いて探し廻って戻ってきてくれた。
呼びながら帰ってきてくれたが聞こえないのでぼた~っつと立っていたら目の前に来た。

そのとたん足がかたかたして全ての力が抜けて立っていられないぐらいになったが、曹長が引きずって連れ帰ってくれた。
彼も一人で部隊を離れて戻ってきてくれている、その麗しさは神の様だと思った。
5~6歳年上だったが、中隊が1度ほぼ全滅して2人ほどだけ生き残った体験の持ち主だった。

あの時彼が戻ってきてくれなかったら自分は日本に戻れなかったろう。
〇日頃は耳が聞こえなくても何とかなったのは衛生下士官だったから。
軍医とだけ意思疎通できれば何とかやっていけた。
〇また何時死ぬか分からない戦場ではかえって平時より差別はなかった。
戦地では“めくら”とか“つんぼ”とか“かたわ”とかそんな風に誰も馬鹿にはしなかった


〇“ともしゃん”は長崎出身の漁師で弟達5人を養っていた。30近い兵隊。
アメーバ赤痢でやせ細っていたが薬はない。
高森曹長に言われて炭を飲ませる事になった。わら灰を作るのだが、ビルマの稲作は当時種をまくだけで整然と植えつける事はなくわらも短い。
火をつけると爆撃機が来るので燃やしたり隠れたりしながら苦労して作った。
本人の気力も強かったのかもちなおし、自分は言われて炭を渡しただけなのにとても感謝された。
「七・三水害」(1965年)の時働いていた病院は1階が全部水に浸かった。
その時“ともしゃん”が自分もちょうど手術をして2日目だったのに、寸断されている道を辿ってお見舞いにきてくれた。
大金を渡され感激したが受け取らなかったら、翌日トラックいっぱいにジュースやお菓子を詰めて届けてくれ、職員・患者さんで分けた。

シッタン河の渡河
〇表面は穏やかに見えるが、水深の深いところは渦を巻いている。
筏で渡ったが、1割ぐらいが筏ごと渦に巻き込まれ亡くなった。
英国の爆撃機には女性の顔が見えることがあり、スカーフを振って日本人を馬鹿にしていた。
ビルマ独立軍も河の向こうから撃ってくる。

敗戦の1か月ぐらい前にタトンに。
タトンは湿地帯で英軍の戦車が沈んで入り込めないので集結地に選ばれた。

1945(昭和20)年8月16日~17日ごろ 敗戦を知る。
〇「やれやれ」「命が助かった」と思った。
そうではない者も多かったろうが、自分たちのような横着者は「勝つ事はない」と思っていた。
全部が矛盾していた。
〇かんかん照りの中、インド兵の鞭の下で爆弾で穴の開いた飛行場の整地にあたる。
インド兵が数を一人ずつ数えるので、病人は列の前の方に並ばせ、後ろを数えているうちに隊列を崩して病人を抜くようにしていた。
〇英軍は乾燥ポテトを18l缶に詰めたものと、米を少し与え、ジャガイモ入りのおじやにして岩塩で味をつけて食べた。
戦後5年ほどはジャガイモは敵のように思って食べなかった。
〇土を盛った上にアンペラだけを敷いて寝ていた。
1947(昭和22)年9月 シンガポール・ジュロンキャンプに移動。

1947(昭和22)年10月5日 佐世保に復員

最終階級 軍曹
ゴールデンウイークの大分・熊本キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
大分・熊本キャラバンは、皆様メーリングリストの日々の報告にお名前が挙がっていましたので、先に載せさせていただきました。

大分・熊本キャラバン
訪問都道府県:大分県・熊本県
日程:2012年4月28日(土)~5月5日(土・祝)
   4月27日前泊

◆◆4月28日(土)◆◆

大分県日出町
午後
◎倉兼一二さん
戦地等:東部ニューギニア

◆◆4月29日(日・祝)◆◆

大分市にて護国神社等訪問

◆◆4月30日(月・祝)◆◆

大分県佐伯市
協力:長陽会
◎狩生潜さん
戦地等:海軍。駆逐艦「初霜」の主計兵。
◎宮本久人さん
戦地等:戦車第1連隊。その後軍需工場勤務。
◎御手洗環さん
戦地等:北千島・パラムシル島(幌筵島)の守備隊~チタ抑留
◎佐藤百合子さん
戦地等:女学校在籍中小倉の郵便局に勤務
◎藤原タマさん
戦地等:女子挺身隊

◆◆5月1日(月)◆◆

午後:熊本県人吉市
◎原岡勇さん
戦地等:ビルマ等

◆◆5月2日(月)◆◆

熊本県熊本市
協力:新老人の会・熊本支部
午前:
◎早道友記さん
戦地等:陸軍。ブーゲンビル。
午後:
◎吉田牧子さん
戦地等:熊本女子商業学校教員

◆◆5月3日(火・祝)◆◆

熊本県熊本市
協力:新老人の会・熊本支部
午前:
◎竹口阿佐子さん
戦地等:従軍看護婦。中国。
午後:
◎嶋田敬士さん
戦地等:海軍航空隊整備員、アジア各地 

◆◆5月4日(水・祝)◆◆

熊本県熊本市
協力:新老人の会・熊本支部
午前:
◎中原金蔵さん
戦地等:陸軍鉄道9連隊。泰面鉄道建設。
午後:
◎青木キミ子さん
戦地等:開拓団。旅順。1953年まで中国で生活。

◆◆5月5日(木・祝)◆◆

熊本県熊本市
協力:新老人の会・熊本支部
午前:
◎新道満人さん
戦地等:海軍特別年少兵
順番が前後しましたが、大分・熊本キャラバンの5月4日(金・祝)の様子をメーリングリストより転載します。

◆◆◆

結局、毎日安藤さんと、息子さんの運転のお世話になっています。

本日午前中は、中原金蔵さん(92歳)
鉄道9連隊で泰面鉄道の建設に関わったお話で、太平洋戦争開戦時の逆上陸やシンガポール侵攻のお話に始まって、
「戦場にかける橋」のモデルとなった橋の橋脚建設や、象を使っての測量、捕虜や労務者の話、やがてその鉄道に乗ってビルマから送り返されてくる兵士たち、戦犯についてと一通り伺うことが出来ました。
ご自身でも橋脚建設と測量と機関車の運転を全部やったことがあるのは世界で自分ぐらいしかいないのでは・・・とにんまり。

午後は青木キミさん(87歳)、旅順の師範学校から開拓地の女塾(学校というより満州の生活に慣れさせるための共同生活の場のようなお話でした)。逃避行のあと捕まり中国の公安局や軍などで働くことに。帰国出来たのは1953年でした。
お話のあとで、向こうで覚えられたという手作りの“まんとう”も御馳走になりました!

熊本滞在もいよいよ後1日、少しヘロヘロしていますが最後まで良い時間を過ごしたいと思います。

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そして、大分・熊本キャラバンは翌5日に帰還したわけですが、最後までよい時間を過ごしてくることができたようでした。
ありがとうございました。