あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
TOPフリーエリア
65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
元兵士の連絡所


元兵士から孫世代まで、ご連絡をお待ちしています
※質問、疑問などもお気軽にお問い合わせください
電話 03-3916-2664
※戦場体験史料館開館時間=火・木・土・日・祝日の10時~17時
FAX 03-3916-2676
e-Mail senjyou@notnet.jp
※FAX、Mailは24時間受付
住所 〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
     戦場体験史料館内・元兵士の連絡所

戦場体験史料館までの道順
今年は、平日2日をはさんで今日まではゴールデンウイークでしょうか。
今日も1名、遠方への聞き取りに出かけています。
5月10日(日)のキャラバンの日程です。

訪問地:新潟県柏崎市
体験者の方
◎衛生曹長。インド~ビルマ。

よろしくお願いいたします。
スポンサーサイト
2011年のキャラバンも大詰めを迎えつつあるこのごろですが、2010年のキャラバンの概要がまだときどき出てきます。
2010年9月5日(日)午後、信州北陸チームが最後にお話を伺った方の証言概要です。

◆◆◆

◎鷹雄公任さん
1918(大正7)年3月8日生まれ
本籍地 新潟県

○1937(昭和12)年3月 新潟師範学校卒業
○1937(昭和12)年4月 国民学校教員
 
●1938(昭和13)年 現役
 甲種合格、横須賀海兵団入団
 半年の訓練で除隊(師範短現)

○1939(昭和14)年 長岡女子師範学校教員など
 初等教育の専門家として認められラジオで公開授業を持っていた。
 付属国民学校の生徒を指導して長岡出身の山本五十六元帥に慰問文を送ったところ直筆の礼状(巻物)が届いた。
 
●1943(昭和18)年4月29日 召集令状
●1943(昭和18)年5月5日 舞鶴海兵団入団
●1943(昭和18)年5月11日 三重海軍航空隊
 予科練の普通学教官となる。
 舞鶴海兵団管区の各県から1名ずつ教官要員として召集されていた。
 鷹雄さんはすでに公開授業などで有名になっており、その腕をかわれて選ばれた。
 在籍中海軍予備学生を志願したが、教官をやってもらう方が大事だと、許可にならなかった。
 
●1944(昭和19)年5月 上海海軍陸戦隊に転属
 吉林丸に上船、6月7日上海入港
 第6海防艦、第9海防艦に乗船
●1944(昭和19)年9月10日
 B25、P51の激しい銃爆撃を受け、多くの死者が出る。
 死者は国旗に包んでの水葬が本来だが数が多く、手足を持ってそのまま水中に放り込まれた。 

●1944(昭和19)年10月 舞鶴海兵団に転属命令
  10月17日神戸港入港
○1944(昭和19)年11月1~5日 休暇
 家がお寺なので、この間に京都に宿泊し本山を参り、銃剣をつけた軍装のまま試験を受け僧侶になった。
●1944(昭和19)年11月10日 新潟の海軍人事部に
●1945(昭和20)年8月1日 長岡空襲
●1945(昭和20)年8月15日 敗戦
信州・北陸チームが最終日9月5日(日)午前に伺ったお話の概要です。

◆◆◆

◎川井春雄さん
1930(昭和5)年4月1日生まれ

●1944(昭和19)年7月 海軍を志願し受験。
※海軍特別年少兵を志願したのだと思うのですが、ご本人の認識としては特別な制度を志願したつもりではなく、「海軍を受けた。後でこういう兵だと言われた」という理解でした。
 なおご本人は証言でも手記でも「海軍特別少年練習兵」と書かれています。
○役場から願書が来て書いて出せと言われた。
 お上や国が言うことだから従うのが当たり前という感覚で、志願と言っても強制的な志願。
○十日町まで列車で出て算術などの試験、身体検査、聴力、視力、色覚と検査ごとに人数を減らしていき、最後に残ったのが合格となった。
○口頭試問もあったが、実際には試験と言うより身上調査の内容。
 家は貧しいかとかいなくなると家は困るかとか聞かれた。
○同じ高等小学校から10数名が受験し4名が合格。
 うちまだ高等小学校に在学していた2名は不採用。
 川井さんは4月1日生まれで最年少の早生まれで上の学年に入ったので採用となった。
○海軍に前後して陸軍も志願、受験。
 こちらは少年戦車兵を希望していた。

●1944(昭和19)年12月28日 採用通知が届く。

●1945(昭和20)年5月25日 平海兵団に入団(志願)
 海軍特別年少兵 4期生。
 雪の多い年で未だ苗代も作っていない中出征した。
 「昭和の白虎隊」と呼ばれ将来の中堅幹部を養成するのだという触れ込みだった。
 教班長は皆師範学校出身。
 数学、歴史、化学、英語などの教科と防毒、旗振り、銃剣術などの訓練。
 青年学校で習った知識は陸軍式なので、海軍では戸惑う事が多かった。

●1945(昭和20)年8月16日
 15日の翌日集められて無条件降伏したと伝えられたが、よく意味が分からなかった。
 数日して帰れるらしいという噂が広がった。

●1945(昭和20)年9月4日 復員
信州・北陸チームが、9月4日(土)の午後に伺った証言の概要です。

◆◆◆


◎清田三吉さん
取材日:2010年9月4日
1925(大正14)年6月11日生まれ

●1941(昭和16)年 渡満。
 長嶺の山中で、農業指導など今の農協的な役割を果たす機関に就職。
 大陸に骨を埋めようと思っていた。

●1944(昭和19)年11月 現役。
 108師団歩兵240連隊第1大隊に入隊 (興隆)。

○この部隊は第9独立守備隊歩兵第13大隊が連隊編成に改編されたもので、そのため周囲の満州の部隊に比べ戦闘慣れしていた。
 通常の初年兵教育がなく、守備の任務をしながら教育が行われた。
○同年兵は満州の現地入隊が1/3、青森の30代の補充兵1/3、朝鮮人1/3。
 朝鮮人は人によって様々で、日本人以上に率先して班長や古参兵の身の回りをする者もいればそうでない者もいた。
 一方満州で生活していた人は中国人と仲間意識が強く、内地から来た人とは感覚が違った。
 混成部隊で班長はやりにくかったと思う。

○八路軍との闘いは押せば引く、引けば押してくる戦法。
 深追いして山中に誘い込まれてしまうとやられる。
○現地人の密偵が各部隊には何人もいたが、密偵の情報で行っても居なかったり人数が違ったりした。
 両方の密偵になっている者、密偵を密偵する者もいた。
○村は日本軍と共産軍の双方に協力しなければならないため、昼の日本軍向きの村長と、夜の八路軍向きの村長と二人用意しているところもあった。
○初年兵は村を囲み、古参兵が村に入って掃討をやる。
 住民はすでに山に逃げているが、村から逃げ出て来た者は囲んだ兵が狙撃した。
○清田さんは満州の田舎暮らしの経験があったので、他の人より中国語を使いこなせた。
 (現地召集でも都会の人は買い物ぐらいの言葉しか出来ない)
 そのため部隊より前に出て偵察を行う先兵を命ぜられる事が多かった。

○清田さんの部隊では私的制裁の絶無と壁に張り出され、実際に理由のない制裁は殆どなかった。
 戦地であったため狙われるのは敵からだけではないよという雰囲気があったためもある。
 班長も先生だった人で優しかった。
 隣の第2班の班長は試験に落ちて乙幹になったばかりの人で、夜しきりに殴る音がしていた。
○一度訓練で銃剣を抜いて飛び出すときに横着をして銃剣の鞘の上に乗ってしまい、鞘が曲がって剣を戻せなくなった。
 武器の損傷なので重営巣も覚悟したが、班長が取りなしてくれ、班長当番1週間で良いことになった。
○営巣に出たり入ったりを繰り返す5年目の上等兵がいて、上官は扱いかねていたが初年兵には優しい人だった。
 戦後手記を集めたとき、避難民で、身重で子供を3人連れて逃げる時、この人に助けられたことを書いた人がいた。

●1945(昭和20)年6月 大隊本部付きに。
○8月に経理の下士官候補生の学校に行く予定になっていた。
 戦争は好きではないので経理を希望したところ、あれは兵隊ではないと1週間ぐらい説得を受けた。

●1945(昭和20)年8月15日
 この日も八路軍との交戦があり、敗戦は知らなかった。
 空襲が無くなったことを何故かと思ってはいた。
 無線は入ったが2~3日兵には伏せようと言う事だったらしい。
●1945(昭和20)年8月18日
 珍しい軍歌演習があり、その後敗戦が伝えられた。
 同日連隊本部のあった承徳(実際には兵はおらず居留民しかなかった)がソ蒙軍によって侵攻を受けた。
 居留民300名弱を兵舎に収容した。
 下士官の中には山にこもっての徹底抗戦を言う者もいた。

●1945(昭和20)年8月31日~9月10日
 兵約700人が居留民300人弱を連れて逃避行に。
 8月31日出発、9月10日通州着。
○当初は承徳を目指す考えだったが上記ソ連の侵攻を聞き、兵舎に収容していた居留民を連れて北京へ向かう事になった。
 当時関東軍には通化へ集結・撤退するよう指示が出ており、このため避難民を置き去りにすることとなったが、清田さんの部隊は戦闘慣れをしていたこともあり、通化に向かう事にしなかった。
 居留民を連れて逃げた稀なケースとなった。
○八路軍から軍使が来て居留民は無事届けるから兵は投降して武装解除するように言われたが、「こちらから攻撃する事はしないが、北京には向かう」と返答した。
○兵隊だけなら3~4日で移動できる距離だったが、居留民は子供や留守家族の女性たちで移動は困難を極めた。
○一方八路軍からはあまり攻撃を受けなかった。
 他の軍だけで動いていた部隊の話を聞くともっと攻撃はあったようなので、共産党軍なりの人道措置があったのかもしれない。
○北京の領事館で避難民を受け渡したが、その後はしかが流行、更に死者が出たという。
○北京に着いたのは居留民267名、兵士732名。
 朝鮮人の兵隊は北京への移動中バラバラといなくなり、この732名には入っていない。
信州・北陸チームが9月4日(土)の午前に伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎渡部一郎さん
取材日:2010年9月4日
1918(大正7)年8月7日生まれ
当時の本籍地 新潟県

○1936(昭和11)年3月1日 旧制中学卒業
○1937(昭和12)年3月30日 長岡高等工業・機械技術養成科修業
○1937(昭和12)年4月10日 海軍航空廠発動機部 勤務

●1939(昭和18)年1月10日 現役
 第2航空教育隊(機械) 朝鮮・平壌
●1939(昭和18)年7月15日 独立第88飛行場中隊 広東。
 同部隊に仏印への転出の話が出、内地に帰りたかったため操縦を志願する。

●1940(昭和15)年8月1日 熊谷陸軍飛行学校入学。 
 重爆の操縦を訓練。
●1941(昭和16)年6月4日 飛行第61戦隊に転属 満州・チチハル。
 実戦部隊での訓練。

●1942(昭和17)年3月14日 挺進飛行隊に転属 宮崎県新田原。
 落下傘部隊の輸送、降下にあたる操縦。
 重爆は大型機に乗れるので転換が容易だったため抜擢された。
 夜間訓練のため事故が多かった。
 当初は操縦2名、機関(ガソリンコックの切り替えなど)1名、無線1名に機関銃射手も乗っていたが落下傘兵の人数を増やすため後に機関銃は降ろすようになった

●1943(昭和18)年6月30日 比島・マニラへ

●1943(昭和18)年11月30日 スマトラ島・メダンへ
●1944(昭和19)年4月 インド洋上哨戒
 輸送機に爆弾を積み、スマトラ島最西端のサバン島からインドまで、インド洋上を高度300~500mで航行、潜水艦を見つけたら爆弾を投下する任務。
 インドが見えたら戻って良いと言われていた。
 潜水艦との遭遇は無かったが、70機編隊の艦載機攻撃を受け隊は大きな被害を受けた。 

●1944(昭和19)年7月5日 宮崎県新田原へ。
●1944(昭和19)年9月
 新田原~台湾~比島~上海の物資輸送。
 1日10hrの同コースを5回飛行。
 同期にも未帰還機が出た。

●1944(昭和19)年11月14日 台湾・嘉儀

●1944(昭和19)年12月1日 ルソン島・アンヘレスへ
●1944(昭和19)年12月 レイテ島へ空挺部隊の輸送
○12月6日、7日 ブラウエンに2回の降下。
 全体では39機、渡部さんは9機編成の第2編隊2番機。
 レイテは米軍上陸からすでに2ヶ月、ルソン島・アンヘレスを発ちレイテ島南端で折り返すと、どかんと花火があがってそれが合図になっていたと思う。
 地上からの砲弾、中に混じった曳航弾が花火のよう。
 空挺部隊を降下させるためには高度を350m、時速を300kmぐらいに落とさなければいけない。
 その中で第2編隊の1番機が離脱、続いて第1編隊の2番機と3番機も離脱。渡部さんの飛行機は長機のすぐ後ろにつける形になってしまった。
 2日目は10発近くの砲弾が機にあたるのを感じる。
 空気が機を通るのがピュッと耳に入る。
 目には曳航弾の花火がふわっふわっと映る。
 とにかく全員を降下させるまで機がもつか。
 隊長が合図をして扉を開き降下が始まると、見なくても1人飛び降りるごとに操縦桿にびっと響きが伝わる。
 その衝撃を1人、2人、・・・・・終わりっ! と声を上げて数えた。
 全員降ろすと、弾があそこに当たったら、ここに当たったらと急に怖くなった。
 一体自分は今どんな顔をしているのだろうと鏡を見る。
 一目散で弾幕の外に出る、良かったなあと他の人の事は考えない。
 機は単操っだたので操縦士は渡部さん1人、あとは機関の1人だけ。
 機関がパラシュートを引っかけるのに使ったロープを機内に取り込みドアを閉めるため後ろに行こうとするが、1人だと怖くて、しばらくは真っ直ぐ飛ぶだけなので「待て、待て、ここにいろ」と言った。

○8~14日 オルモックに6回の降下。
 米軍艦から編隊に大砲が撃たれた。
 弾の振動を操縦桿で感じるが、エンジンの音で弾の音は聞こえないのが助け。
 12日、別中隊の応援に出ると空中に火薬の臭いが漂っているのを感じる。
 先に行った部隊(渡部さんが本来いた部隊)が敵機にやられている。
 発見されたら強行着陸しかないと思い海面すれすれを飛び帰還。
 途中海上に漂流者が泳いでいるのを見かけるが助けられない。
 先発部隊は4機とも未帰還(のち1機歩いて帰還)。
 14日帰路、若い操縦士に操縦を任せ居眠りをしていると、マニラ近くで敵機がわんさわんさと空襲、飛行場に戻れないのでリンガエ湾に着陸、3機を分散して置いたが銃撃を受け2機が炎上。
 燃えなかったのも穴だらけになったが飛ぶことは出来たので夜になってからその1機で皆戻った。
○17、18日 ネグロス島・シライ 2回の輸送。
 この時は落下傘でなく着陸しての兵隊の輸送。
 17日は3機で出かけたが、ネグロス島に着いたのは2機、帰ったのは1機のみ。
 18日も3機で行き、帰ったのは1機のみ。

●1945(昭和20)年1月 台湾・嘉儀。
 レイテで死んだ人の慰霊祭を行った。
●1945(昭和20)年2月
 比島ツゲガラオに部隊の地上勤務者(整備兵など)の救出作戦。
 空中勤務者の約3倍はいる地上勤務者が載せきれず置き去りになっていたので、比島内をアンヘレスからツゲガラオに移動して貰い、夜間飛行で迎えに行った。
 しかし滑走路に明かりが置かれて無く着陸できない。
 場所を間違えたかなと南下し、いやさっきの場所だと戻ると、道案内に少し前に出たもう1機が撃たれ目の前で火の玉となって炎上。
 山陰に隠れて何とか離陸の機会を伺ったが最短の飛行場までの燃料を計算し時間切れとなって救出は出来なかった。

●1945(昭和20)年3月5日 新田原。
 台湾・嘉儀に着いたとき40機いたのが帰路についたのは3機。
 うち1機は台湾上空で撃墜され、空中勤務者ばかり載せた機だったが全員戦死した
 
●1945(昭和20)年4月25日 朝鮮・連浦へ。
 使える飛行機を集めて新たに部隊を作り。
 新田原の飛行場も使えなくなっていて不発弾があちらこちらで爆発する中、朝鮮に向かう。

●1945(昭和20)年8月15日 宮崎唐セ原。
 エンジン交換で1機だけ日本に戻った。
 なぜ朝鮮では駄目だったのか良く分からない。
 何か試作的な特別な目的があったのではないかと思うが分からない。
 民家のおあばちゃんから「兵隊さん、日本負けたぞ、どうぞね?」と聞かれたが「われわれは聞いてませんよ」と答えた。
 米軍の哨戒機が飛んでいた。

●1945(昭和20)年8月17日 朝鮮・新義州。
 敗戦は半信半疑のままとにかく本隊に追いつかねばと朝鮮に戻る。
 操縦士は沖縄に連れて行かれ米軍の配下に入るという噂があった。
●1945(昭和20)年8月20日 朝鮮・大邸。
 工業学校を宿舎にする。
 汽車での移動時、航空隊の臭いのするものは全て捨てろという噂が廻ったが、近郷の人が集まって来て皆持って行ってしまった。
 デマに引っかかったと思っている。
●1945(昭和20)年12月12日 博多に復員。

※任務は激務で心身ともに疲れ、こんな事なら体当たりでもする方が楽ではないかと思うこともあったが、全体としては待っている兵隊がいっぱいいるのだから一人でも多く運びたい、へこたれてはいられないぞ、と思う気持の方が強かった。

※日の丸の写真。
遭難時目印になりやすいように通常より赤い部分が大きい。
周囲にコルクが入って浮くようになっている。
救命胴衣と一緒に釣り竿、この日の丸が入っていた。