あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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戦場体験史料館までの道順
今日は、保存の会メンバーが愛知に聞き取りに行っていました。
先月のNHKラジオを聞いてご連絡いただきました。95歳の中国戦線の体験者の方です。
ご家族の方が「早く」とおっしゃるので、平日にも動けるメンバーが急きょお邪魔することになったのでした。
キャラバンというより、遠方への単発の取材です。
取材の様子や証言概要等、また上がってきましたら改めて掲載します。
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2013年5月の和歌山ミニキャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
すでに報告・証言概要が挙がってきていますので、順次掲載していきます。

和歌山ミニキャラバン
訪問都道府県:和歌山県、愛知県
日程:2013年5月4日(土)~5月5日(日)


◆◆5月4日(土)◆◆

訪問地:和歌山県印南町
体験者の方

戦地等:飛行兵(整備士)、中国、戦後共産党軍に徴用

◆◆5月5日(日)◆◆

訪問地:愛知県北名古屋市
体験者の方

戦地等:大型機のパイロット、ビルマ~ラングーン等。沖縄特攻待機中終戦。
和歌山ミニキャラバン、5月5日(日)日程です。
今日は和歌山からの帰路、愛知県にて聞き取りをします。

訪問地:愛知県北名古屋市
体験者の方
◎大型機のパイロット、ビルマ~ラングーン等。沖縄特攻待機中終戦。

よろしくお願いいたいします。
先ほど、保存会メンバー1名、和歌山に出発しました。
新幹線での移動のため、明日和歌山で聞き取りの後、途中まったく別のところでお一人聞き取りという変則日程です。

◆◆5月3日(金)◆◆

夜、和歌山入り、前泊

◆◆5月4日(土)◆◆

訪問地:和歌山県印南町
体験者の方
◎飛行兵(整備士)、中国、戦後共産党軍に徴用

◆◆5月5日(日)◆◆

訪問地:愛知県北名古屋市
体験者の方
◎大型機のパイロット、ビルマ~ラングーン等。沖縄特攻待機中終戦。

そのまま帰京


よろしくお願いいたします。
大学生1人旅2012夏休み、8月24日(金)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎山岸丈吉さん(89)
取材日:平成二十四年八月二十四日
所属:野砲兵第百四連隊(鳳8961)第六中隊
種別:野砲兵
戦地:南支(湘桂作戦)
――――――――――――――――

○大正十二年六月三十日、愛知県生まれ。

・実家は農家。
・軍隊に行くと死ぬかもしれない、満州へ行って農業をしようと満蒙開拓少年義勇軍に応募すると母親にいったら、「何を言っている、いっちゃいかん」と泣いて腕をつかまれた。
・親戚の経営する洋服屋に勤めていた。

○昭和十六年、徴用。豊川海軍工廠へ。

・役場から徴用令が来ていると呼ばれた。
・海軍工廠では二連装の機関銃を作る機銃部と火薬や信管や雷管を作る火工部があった。
・火薬工場の第一製薬班にいた。薬莢につめる黒色火薬、雷管に詰める雷口を作る責任者だった。
・雷口を作るのはアルコールと硝酸と水銀。これが臭い。それに服がボロボロになる。
・二年目には雷口を作る責任者になった。徴用工員から一等工員になる人はほとんどいなかった。
・工廠の中に青年隊というものができた。五十人くらいで五個分隊を編成していた。
・教育の中心になるのは装填工場にいた海軍の技術大尉と、火工部長の三浦大尉。
・相撲部にいたので、大会に備えて倉庫の裏で相撲をしていた。ふんどしには工場のマスクにする木綿を切ってつかっていた。そこに三浦大尉と主任さんが自転車でやってきた。「おいお前ら、そのふんどしどっから持って来た」「はい、工場のを借りまして」「借りたらいかん!またすぐ戻ってマスクにしろ!」。

○昭和十八年、徴兵検査で甲種合格。

・田舎に帰って多いばり。
・体が大きかったので砲兵になった。
・陸軍がいいか海軍がいいか聞かれ、「はい!陸軍です!」といったので野砲兵になった。

○昭和十八年十二月二十五日、中部第八部隊入営。

・まず朝、近所の人が迎えに来て、たすきをかけて、幟に「祝入営 山岸丈吉」と書いて、ぞろぞろついて、お宮に行って、武運長久を祈って、今度は学校に行って、何十人の人の前で「今から○○へ行ってまいります」とうまいことを言って、みんなに万歳をしてもらって、駅までみんなの先頭を歩いていく。
・到着したのは名古屋の野砲兵連隊だった。

○昭和十九年一月二日、名古屋出発。

・汽車はスパイ防止で窓が目隠しされていた。

○昭和十九年一月三日朝、門司港到着。

・寒いところで、吹きさらしの、 雪が舞っている中で、冷たい握り飯を食べているう ちに、船に乗れということで輸送船に乗船。
・輸送船は貨物船。二段の棚にして兵隊をぎっしりつめる。一つの戦争に何百人も入る。
・一緒に五百人くらい入った。外は寒かったが、いっぱい人間がいるので暑い。
・一晩でシラミが湧いた。朝になるともう痒い。

○昭和十九年一月四日、門司港出港。

・気が付いたら船が出ていた。八隻の輸送船団。
・乗っていたのは3500トンの小型の船六甲丸。その他の船は7、8000トンの大きな船。
・大阪から五隻、門司から三隻が海上で合流して、駆逐艦が一隻護衛についていた。
・空襲はなかったが、潜水艦が危ないということで、船の後ろ前横に兵隊が何人か並んで警戒していた。
・対潜警戒隊を交代でやった。他にも飯上げ当番。みん なの飯盒を集めて、飯をつめてもらってきて配る当番。夜は、それぞれの区画ごとに不寝番が立つ。
・鉄砲は持っていない。新しい夏服と剣だけ。
・長靴をくれたので、これは馬に乗る兵隊かなと思ったが、それは私達にくれたのではなく、新しい服と靴を運んで行けということだった。現地で古い服と靴と交換されてしまった。
・行くところは教えてくれないが、夏服だったので南方かなと思った。
・船に乗って初めて連隊の宰領者の荒木軍曹がきた。「俺がお前たちを迎えに来た荒木軍曹だ」。殴ったりしなかったが、恐い人でびびってしまった。
・軍曹は広東の108連隊から新兵を迎えに来ていた。一個中隊あたり五十名ずつで六個中隊三百名。その他に広東の警備にいく兵三百名。
・他の 七隻には弾薬や兵器を積んでいるのか、人間は載っていなかった。
・船酔いがはじまる。飯は食いたくないが、食わんじゃだめだと。
・対潜水艦訓練が行われた。上へあがって浮き袋をつけた。
・沖縄が見え始めて、あったかくなってきた。一月の寒い時に来たのに、沖縄は緑がきれいだった。「へえー、沖縄はいいとこだなあ」と言って見ていた。

○昭和十九年一月十日ごろ、飯を食べていたら、隣の船がいきなりドーンと魚雷でやられた。

・三分間で沈んだ。人は見なかった。
・船団は大騒ぎになった。全速力で逃げ回った。駆逐艦がまわりながら爆雷を落とした。
・いつ飛び込んでもいいように、乾パンが入った雑嚢とチョッキみたいな浮きをつけて待機していた。昔、母親と姉としゃべった ことを思い出ていた。
・それから船団は沖縄の中城湾に逃げ込んだ。船団は五隻になった。
・また船団を組んで、台湾の高雄へ到着。
・・台湾の人が干バナナを竿に着けて売りにきていた。それを買って食べたが、不衛生なもので下痢が始まった。
・伝染病だということになって、港の検疫所に連れて行かれて調べられると、一人か二人に赤痢菌がみつかって、すぐ山の上の方に隔離された。
・七日間毎日毎日検便を受けていると、下痢が止まって、検便はいいということになった。
・一月の末までいた。

○昭和十九年二月、また新しい船に乗船。

・杭州に上陸。
・兵站宿舎にいくとターバンを巻いたインド兵の捕虜が銃を持って警備をしていた。はじめてインド人をみ た。
・それから広東の108連隊に連れて行かれた。
・六個中隊に分かれて、ちょっとはなれた新街にある中隊につれていかれた。

○昭和十九年二月十日、野砲兵第百四連隊第六中隊到着

・柳州の飛行場を攻略するため、中隊は猛訓練をしていた。そんなところに新兵がはいったので、訓練訓練。
・柳州は山の中なので、山砲に切り替え、大砲を6つに分解して馬に乗せた。
・大砲を据える時になると、馬からおろして人力で運ぶ。そんな訓練ばかりした。
・砲身だけで100kgはある。それを二人でかつぐ。まともに担ぐんでなしに、棒をつっこんで担ぐ。重い方にあたるとどえらい重い。
・軍隊では一度も殴られたことがない。
・兵舎にはアンペラが張ってある。寝る場所のすぐ後ろは班長室だった。「初年兵に気合をいれなければいかん。明日の朝銃剣を調べる」などといっているのが聞こえる。みんなに「明日は銃剣をちゃんとやっとかなければいかん」とみんなに教えてあげて、翌日の朝はちゃんとやっておく。「なにか最近、初年兵の連中、掃除にこないようになったなあ」という声が聞こえると、雑巾をもって「掃除にまいりました!」と行く。班長達も掃除をして靴を磨いて帰って行くので殴れなかった
・班長も可愛がってくれて、連帯責任で気合を入れる時は、「おい山岸、これをな、衛兵所の○○上等兵の所へ持って行って来い」。「はい!」といって行っている間に、みんなを集めて殴っていた。
・一期の検閲がおわって、すぐ作戦準備。
・毎朝起きては馬を連れて行く。一人ずつ馬をもって何キロも歩く。
・馬にも馬に蹴る馬、人に蹴る馬、馬に噛む馬、いろいろいる。
・ある日、何キロも歩いて帰って来る時に雨が降って来た。いそいで帰ろうと馬と一緒に走っていった。ところが突然、前の馬が止まって自分の馬の顎がその尻に触れた。前の馬は馬を蹴る馬だった。「あー!」と思った時には尻が持ち上がって、蹄が向かって来るのが見えた。そのままドーンと胸に当たって気を失った。
・気が付いたら蓑虫状態で運ばれていた。息が出来なくて、もう駄目だと、死ぬのかなあと思った。診てもらうと、単なる打撲圧迫で内臓は無事だった。
・一週間くらい寝ていた。もう動けない。歩けば息が切れる。
・そのうち曹長がきた。「おい山岸、もう間もなく出なきゃいかんけど、お前このままじゃ追いついていけんから入院するか。元気になったら追及すればいいから」。
・ここでがんばってしまって、「死んでもいいから着いていきます」と言っちゃった。それを曹長が中隊長に言ったらしく、「そうか、荷物はえらい時には馬につけてやるから頑張れ」と言われた。
・この一週間後くらいに作戦が始まった。

○昭和十九年六月、湘桂作戦参加。

・出発の朝、どこにも所属していなかったので、どこにいけばいいのかと思っていると、「山岸、お前はな、中隊長の前を歩いて、紙を袋にいれて、分かれ道で右に行くときは右に、左に行くときは左に紙をおいていけ」と命令された。
・紙には部隊の暗号が書いてあった。
・みんな色々な荷物を背負い込んでいるのに、紙を配ればいいというのを一日やらせてもらって、二日目に大きな川を渡った。
・敵はダムを壊してしまって、堤防だけが残っていた。
・大砲は兵隊が担いでいかなければならない。重くない部品を持って渡った。
・6中隊は歩兵第108連隊に配属された。歩兵と一緒に進む
・山道なので馬は使えず、大砲を担いだ。
・田んぼがあったり山があったり、ちょうど6月なので稲が植えてあった。田んぼの中に道がすーっと通っている。そこを進む。
・砲弾を戦友と二人で五発、「えらいなあ、えらいなあ」と言いながら担いでいた。

○2日目か3日目、前の方からパンパン鉄砲の音がした。

・あっちの道こっちの道 、歩兵がサーッと飛んで 行く。
・急に迫撃砲弾が飛んで来た。ヒュルヒュルヒュルー、ドボーン。花火みたい。田んぼの中に泥が吹き上げる。
・あちこちに落ち始めて恐ろしい。いつ当たるかわからない。田んぼにもはいれない。
・田んぼの先の小川に行くと、兵隊が二人倒れていた。新兵だったので誰だかわからなかったが、革靴で日本の兵隊だとわかった。一人は死んでいて、もう一人は腹を向けて、真青な顔をして「うーっ」と言って転がっている。しかし、かまっていられないので、とにかく川を渡って陰へ入り込んだ。
・この時には一門大砲を組んでいて、中隊長が「照準点○○!距離○○!」と命令して構えていた。すると、「弾を持ってこーい!」と声が聞こえた。
・缶から砲弾を出して、抱えて、大砲の そばに行く。ヒューン、ヒューンと音がする。
・いつ死ぬかわからないから、恐かったけれど、恐いなんて言えない。
・大砲のそばに弾を置いて、すぐ逃げて帰った。
・ドーン、ドーンと十何発撃って、敵の迫撃砲が吹っ飛んで、ようやく敵が退散した。それで終わった。
・歩兵の連隊長が中隊長に「よくやった」と褒めてくれたと、あとで聞いた。
・ここで二人戦死。一人が重傷で、後送されている間に死んでしまった。
・大砲の部品がなくなって、一個小隊が広東に帰ってしまい、中隊の砲が一門になってしまった。
・役に立たなくなったので、連隊の予備中隊になった。
・後は直接戦闘をするわけではないので、歩兵部隊の後ろをついて桂林まで行軍行軍で歩くだけ。
・馬もやられた し、兵隊もだんだん少なってくる。
・その頃は一作戦やると、兵隊が死ぬ馬が死ぬ武器が壊れるということで、あるところでとどまって、警戒しながら兵隊を休ませ、病人を送り、武器弾薬を整え、食糧を確保するのに一カ月かかる。それから次の作戦に行く。
・十二月まで三回くらいとどまって準備をするのを繰り返した。

・ある時、途中の山に敵の大部隊がいるらしいという情報が入った。
・朝になったら撃つということで、夜のうちに大砲を分解して担ぎ上げた。
・中国の雨が降る時期の夜は真っ暗になって一寸先も見えない。何も見えない。だんだん夜が明けて来だが、敵も逃げたのかいなくなっていた。そういういらない苦労をした。

・ある大きな河を渡ることになった。下へ降りて、船で対岸へ渡り、また坂道を上がる。すべったり落ちるので、馬を引くのは命がけ。中隊長が「山岸!馬を引け」と命令した。砲手だから馬は関係ないので「自信がありません!」と言うと、「いいからやれ!」。中隊長の命令だからしかたがない。「はい!」。
・もうちょっとで頂上へつくというところで、馬が前足を上げた。その時、中隊長に鞭で「後ろを向けー!」と頭を叩かれたが、なんとか落ちずに上がった
・行軍中、親戚の戦友(長兄の息子)が倒れて死んでしまった。
・大田と二人で弾を担いでいたら、向こうの道を、志願で入った大田の弟の利七が歩いているのが見えた。「おい!あいつ利七じゃねえか」「そうだ!おーい!利七!」。戦場で行き会うのはめったにない。この一か月後に兄の太田は死んでしまった。
・桂林は岩山がたっている。そこから時おり撃って来る。遠くの山なので攻めていくわけにはいかない。当たって死ぬことは少なかったが、怪我をするとかなわない。それが怖かった。
・敵は国府軍か共産軍。国府軍はわらじをはいて、傘を背負っていた。共産軍は民衆に取り入ってやっている。蔣介石は民衆とはわけられていた。
・食糧は本来は弾列が馬に米や味噌をつんでいたが、それも後ろから来なかった。なのでとにかく兵隊は靴下に米を詰めて背負っていた。後は現地で調達。そこらを探し回って、縁の下の米をとったり、鶏や豚を殺したり、芋を掘ったりして食べていた。住民は逃げてしまっていない。敗けた国はそうやってやられる。
・宿営地に着くと、馬の餌をみつけたり世話をしなければならなかった。
・ある日、探し回って竹の笹を見付けて、部隊に帰ろうとすると、途中に人の背くらいの深さの大きな溜池があった。もう乾いて草が生えていたが、肥やし壷が二つある。歩きながら見ると、壷の下に女の子が倒れていた。「あれ、子供が病気かな」と思ったが、動いている。すぐに、小学校一年生くらいの姪の女の子が頭に浮かんだ。ちょうど日の暮れる時に兵隊がいっぱい来たので、そこに隠れて日の暮れるのを待っていたんだと思う。若い女じゃなくて子供だから心配ないと思ったが、何があるからわからないから、このままにしておくのも悪いなと思った。しかし言葉が通じない。しょうがないなと思ってそこに飛び込んで、近所にあった古い筵をかけて、「お前はお天道様が沈むまでここにおれ」
というつもりで言ったけれど通じたかはわからない。そのまま中隊へ帰った。これは中隊長に報告すべきかどうか悩んだが、結局報告しなかった。二度と戻ることはなかったが、見えないようにしたので、たぶん助かったんだと思う。戦場ではこういうことがある。
・ある部落に米を探しに行くと、腰に手榴弾をぶらさげた中国の兵隊が暗い所に隠れていたのを見つけたことがあった。

・馬がだめになってしまって苦力を捕まえなければならなかった。そこらから集めて来た者を囲って、兵隊が警備して、食べさせて、次の作戦に連れて行くように人数を集めるようにしていた。
・ある朝、起きてみると、十人ぐらいの者が下に穴を開けて逃げてしまった。子供が一人残っていて、「どうした」と聞くと「おじさん、みんな逃げたよ」。警衛司令の伍長は、「中隊長にはだまってろ。十時になったらここへ鉄砲を持って集まれ」。十時になって集まると、「いまからあそこの部落に行って、員数を集めて来るからとにかくついてこい」。
・警衛の十人くらいで部落へ行くと、みんな逃げてしまった。足の弱そうな者を追いかけて捕まえようとしたが逃げて行っていしまう。後で「おい!お前の後ろをな、ピストル持った奴がついて行ったぞ。お前は運が良かった、撃たれるところだった」と言われた。
・しばらくして村長さんが出て来て、「兵隊さん、そういうことはやめてくれ。晩の○時までに人数を集めておくから、その時に来てくれ」。伍長は「話をつけて、晩の○時にあつめてくれるから、今から帰るぞ」と話をして、帰ることになった。
・帰ってくるのと入れ違いに、集めに行ったことを聞いた乙幹の軍曹が、兵隊二人を連れて部落へ向かった。クリークの近くで軍曹が中国の民間の鉄砲をもった自治会みたいな人に話をしようと近づくと撃たれて倒れてしまった。ついて行った兵隊は自分も撃たれると思って逃げて帰って中隊長に報告した。
・兵舎で寝ている時に非常呼集がかかって、中隊でクリークへ行ったが死体がなかった。サトウキビ畑を百人くらいで探すと、その中にふんどし一つでカチカチになって死んでいた。そのうち部落からも鉄砲を持った人たちがやって来て、「これは話が違う」と大騒ぎになった。その後中隊長と村長が話し合って、人数は出してもらった。
・こういう経験があるから負けたら何されるかわからないという考えがあった。

・ある日、少し離れた部落に水を汲みに行った。ここには人が住んでいた。持って帰ろうとすると、母親よりちょっと若いかわからないが、おばさんがいたので、「水をいただきました」と帽子をとって頭を下げて挨拶をした。するとどう思ったのか、じーっとしていた。言葉が通じないのは本当にもどかしい。

○昭和十九年十二月始め。とうとう柳州の飛行場へ到着。

・もう歩兵が攻め込んでいて、飛行機が燃えて煙が上がっていた。
・そのうちに中国大陸に米軍が上陸してくる恐れがあるので、海岸の方に戻れという命令があって、反転作戦が始まった。
・後ろから撃って来るので恐かった。急行軍で休む暇がない。
・帰りに川を渡ることがあった。狭い板の橋が渡してある。馬は狭い所が苦手。鉄の足だから滑る。砲手なので砲身を積んだ馬の近くにいた。「山岸!行け」と言われ「はい!」といって馬を引いていくと、案の定足を滑らせて落ちた。
一メートルか二メートル下に落ちて、砲身を落としたまま馬が出て来てしまった。寒かったが、責任上真っ先に川へ飛び込んで、大砲を探し当てて運び出し、そのままずぶ濡れで行軍した。しょうがない。
・元来た道でなくて別の道だったと思うが、半月以上かけて通った。後ろから横から狙い撃ちされながらとにかく逃げ帰った。何人か病気で死んだし、疲れ果てて死んだ人もいる。

○昭和十九年十二月暮、元の兵舎に近い所に帰った。

・やれやれ。
・来年からここで海から来る敵にそなえて陣地を作らなければならないということになった。

○昭和二十年正月、曹長に「山岸一等兵!事務室にこい」と呼ばれた。

・行ってみると、「お前な、明日師団司令部に○時までに行け」と言われて、翌朝司令部へ行った。
・司令部にはあちこちから兵隊が来ていた。下士官候補者の候補者を集めて試験をやるということだった。簡単だったか難しかったか覚えていないが、試験をやった。
・帰ったらまた曹長に呼ばれて、「山岸お前な、○月○日、○○に新しい服をもらって行け」と言われた。行って見ると、歩兵から砲兵から、三十人くらいの兵隊が各部隊から集まってきていた。
・南京の下士官候補生と幹部候補生を教育する部隊“きんりょう部隊”に行くことになった。
・冬服と新しい靴を貰って、広東から貨物船に乗る。制空権がないので夜しか走れない。港を継いで十日くらいかかった。

○昭和二十年二月、南京到着。

・中支、北支、南支から候補者が集まっていた。
・ちょっと遅れて着いたので、もうすでに教育は始まっていた。
・第二中隊という教育隊に入れられた。ここでは山砲、野砲、重砲それぞれに分かれて下士官を養成する。六か月かかると言われていた。
・ここで新しい生活が始まった。風呂場もあるし、戦争とは比べ物にならない。
・区隊長が気に入ってくれて、いろいろ褒めてくれた。
・区隊長は小池万之丞大尉。
・候補者が本を読んで談笑する場所の当番にえらばれた。そこには焼いたせんべいがいっぱいある。それを食べていたら、腹を下して、どんどんどんどん下痢をするようになってしまった。
・下痢が始まってから「明日区隊長のお供をしろ」と命令された。準備をして区隊長の後ろを馬に乗ってついてゆく。ちょっといくと具合が悪くなった。「区隊長殿!ちょっと腹があれです!」「しょうがないな、どっかいってやってこい!」。草むらで用を足してから戻って、「終わりました!」。また馬で進むとすぐに具合が悪くなって「区隊長殿!」とやったので、区隊長も「こいつはあかん」となった。
・中隊長が見に来て。いろいろ講評しているときに「山岸」と呼んだ。「指揮の要訣をしっとるか!」と言われた。ちょうど砲兵操典を見て知っていたので、「指揮の要訣は軍隊を掌握し適時適切に命令指示を出して行動を律するにあり」と答えると「よろしい!」と言われた。
・区隊長が時々、「日本で今にマッチ箱くらいの爆弾で富士山を吹っ飛ばすくらいのものができるぞ。アメリカとどっちが先に作るか今競争中だ」と話をしていた。「へー」と思っていたが、戦後原爆だと知った。

○昭和二十年八月十五日、卒業式。

・式がすんで会食をしていると、「今から重大な放送があるから全員集まれ」。集合して皇陛下の放送を聞いた。
・ガガガガ何を言っているか分からなかった。その時は「なんだかなあ」と解散したが、そのうちに本部の方が騒ぎだして、隣の区隊長が日本刀を振り回して怒っている。聞いてみると「日本が敗けた。これから武装解除される」。
・うれしかった。これで帰れると思った。
・日本に帰ると去勢されるといううわさが飛んで、「鉄砲大砲、弾を担いで山へ登って、最後の弾を撃つまで頑張って死のうや」とワイワイ言っていたが、そのうち蔣介石軍から連絡がきて取りやめになった。
・近くの部隊の者は帰ることになったが、南支からきた者四十人は、上海の十三軍司令部附中隊へ衛兵要員として転属になった。
・カンカン照りの暑い時に、南京から上海まで汽車で行った。途中で行っては停まり、行っては停まり。停まると中国の人が卵や水を持ってなんやかんや言って集まって来る。たばこをいっぱいもらってきていたので、たばこ一つで水筒に水一杯とか、たばこ三つに卵三つと交渉していた。
・腹を壊していたので、停まるたびに降りて下痢をしていたが、しまいには血が出だて、「あ、これはもう俺死ぬんだ」と思った。最後に卵を食べてから死のうと思ったので、持っていたたばこと石鹸をたくさんの卵と交換して食べた。卵を食べて食べて全部食べて、腹がポンポンになった。それから汽車に乗って上海について、兵站に行って、風呂に入らせてもらったが、下痢がピタッと止まっていた。
・それから一年間、ボロボロになって引き揚げて来る兵隊に、新しい服を着せて船に乗せる復員業務を行った。
・入隊前に洋服を作っていたので、貨物廠で大きな袋をつくって、それに荷物を詰めた。
・食糧がたくさんあったのでどんどん太った。南京の区隊長とたまたま会った時、「なんだ山岸お前、豚みたいな顔して!」と言われた。

○昭和二十一年六月、九州へ上陸。

・汽車で帰った。
・太っていたので、自宅に帰ると母親が「腫れとる」と言って喜んでいた。

●終戦時、陸軍砲兵伍長。