あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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ゴールデンウイークの全国キャラバン四国チームが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
ゴールデンウイークのキャラバンについては、昨年夏と同じように、当面、証言概要をブログに転載する都度、お名前を掲載し、リンクをしていく形にします。

四国チーム
訪問都道府県:香川県、愛媛県、徳島県、高知県
日程:2011年4月28日(木)~5月5日(木)

◆◆4月28日(木)◆◆

午前:愛媛県松山市
◎堀本邦雄さん
戦地等:満州軍官学校、シベリア抑留

午後:愛媛県松山市

戦地等:ボナベ島

◆◆4月29日(金・祝)◆◆

午前:愛媛県西条市
◎矢野正美さん
戦地等:フィリピン・ルソン島。

午後:愛媛県新居浜市

戦地等:西部ニューギニア

◆◆4月30日(土)◆◆

愛媛県宇和島市

戦地等:海軍特殊潜航艇

◆◆5月1日(日)◆◆

高知県東洋町
◎坂本弘勝さん
戦地等:中国、ビルマ。

◆◆5月2日(月)◆◆

午前:徳島県徳島市

戦地等:ビルマ

午後:徳島県徳島市
◎木村義次さん
戦地等:燃料廠
協力:校舎のない学校

◆◆5月3日(火・祝)◆◆

●1班
午前:徳島県徳島市
◎勝浦守さん
戦地等:ビルマ

午後:徳島パゴダ見学

●2班

香川県高松市
◎城武夫さん
戦地等:真珠湾攻撃

◆◆5月4日(水・祝)◆◆

徳島県阿波市

午前:市場図書館収録会

午後:
●1班
◎大塚唯士さん
戦地等:青年学校2年時、市場飛行場建設に動員。

●2班
◎後藤田茂明さん
戦地等:海軍。重巡洋艦「妙高」乗員。ブーゲンビル沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦。

◆◆5月5日(木・祝)◆◆

午前:徳島県阿波市

●1班
◎吉川格郎さん
戦地等:勤労動員。市場飛行場接収経験。

●2班
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全国キャラバン四国チームが、4月29日(金・祝)午前中に伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎矢野正美さん

1920(大正9)年生まれ

1941(昭和16)年3月10日 現役 西部37部隊入営
1週間後 渡満 工兵第11連隊
1942(昭和)17年 戦車第2師団が新設となりここに転属

〇尋常高等小学校を卒業するとすぐに船乗りとして働いた。
 自分の性格が人に使われるのに向いていないことは分かっており、軍隊は檻の中だが、逃げられない義務だから何とか3年こなそうと思ってた。
〇下士官になると帰れなくなると思い込んでいたので、とにかく出世しないよう心掛けた。
〇張り切っている将校がいたので、一番最初の不寝番に入れてもらい、申し送りに将校室のペチカ故障中につき使用出来ませんとした。
 翌朝寝台には山のような防寒具が積み重なり、将校は防寒頭巾をかぶってまゆげがつららになっていた。
 そんな風に上官に悪戯や意地悪を繰り返したが、自分はすでに世慣れており、何か面白い話(女性の話など)をしろなどと呼ばれて上官には結構可愛がられた。

〇“ぼろ”(出世しない古い兵隊)で通したが、一等兵のまま2回の初年兵教育係。
 上等兵になると下士官候補生の教育にあたった。
 制裁は“へこたらしい”教育をやっていると教育上やらざるを得ない状況に追い込まれた時にほぼ限っていた。
〇予定通り復員まで上等兵より出世はしなかったが炊事係となり、さらに自由な立場に。
 見習士官から「ミスター4中隊」と呼ばれていた。

 1944(昭和19)年8月 フィリピンに出発することに。
〇最初の船はバシー海峡で沈められ、ここで部隊は戦車をかなり失った。
 その他の武器も沈めてしまい、当初99式小銃の装備だったのに、フィリピンに着いたら38式歩兵銃となっていた。

9月27日 北サンフェルナンド着
〇給与係に(本来下士官の仕事)
 公用外出の腕章を乱用、お金もたっぷり持っているのでいっそう自由に。
 親しいフィリピン女性が出来て足しげく通ったが夜遅く戻っても衛兵司令も顔見知りの後輩で「おお帰ったぞ」ですんでいた。
〇相変わらず張り切っている上官には飯の盛りを多くしないよう指示。
 准尉が「こげ飯をくれないか」と言ってくるありさまだった。

1945(昭和20)年1月9日 米軍上陸
〇上陸前にハエの子も住めないほど艦砲射撃が撃ち込まれた。
 戦車第2師団は米軍をリンガエン湾で迎え撃ったが、この射撃で出足が鈍り、また米軍のM4戦車は1000mから砲が届くのに日本の戦車は300mに近づかなければならない。
 戦闘が持続できたのは2週間程度。
〇矢野さんは前線から15キロほど離れた第2線にいたので、そのまま山に入って守備するようにとの命令で歩兵と同じ状況になった。

〇これ以降は戦闘の中心は夜の切り込み隊に。
 最初は成功したが、すぐにピアノ線が張り巡らされ、光を煌々とたいて待たれるようになる。
 死にに行くだけとなったが繰り返された。
〇そもそも行く先々の情報がすぐに米軍に伝わる。
 住民協力は必須なのにそれまでの日本軍の統治はそういう事を考えていなかった。
 戦っているのは米軍でフィリピンではないはずなのに、全てが米軍の味方となっていた。
〇もともとフィリピン人の事は“どんこう”“どじん”“どみん”と呼んでいた。
 行った先にフィリピン人が残っていたら、なんでもない農民も皆“スパイ”だとなり処刑された。
 気に入らなかったり、都合の悪い事は全部“スパイ”だで通してしまう。
〇一度は二人のフィリピン人に自分で穴を掘らせそこに入らせて上から銃剣で突くのを見た。
 肝が据わって堂々としていたので、彼らは本当にスパイだったかもしれない。

〇日本軍が敗走に傾き、完全に山奥に入ってしまうまでのこの時期、強姦が横行した。
 自分もやった。
 どうせ死ぬんだから何をやってもよいという様な気持ち、最後にもう一度良い思いをしたいという様な気持ちだった。
 女性経験のある年長の兵隊が中心で、若い兵隊はあまりやらなかったと思う。

1945(昭和20)年3月31日 サクラサク峠で総攻撃が計画された。
 まず3人×3組+分隊長が各組火炎放射器を2台背負い先陣を切る。(矢野さんはこの一人)
 火砲の援護や歩兵も続く段取りにはなっていたが、敵陣の前には草原が広がっている。
 突然背中を丸太で強打されたような感覚があり、塹壕に落ちた。
 お腹が煮えたぎるように熱く、吐いても吐いても腹がぐらぐらする。
 敵陣の真ん前なのに「殺せ、殺せ」と叫んだ。
 一思いに死んだほうがましだと思って弾に当たろうと塹壕の外に出ようとするが、背丈近くある塹壕で這い上がれない。
 軍刀で自殺しようとしたが気づいた部下に止められた。
 彼がひとり無傷で部隊に報告に戻らせたので、夜になって戦況が落ち着くと部隊から救出に来てくれた。
 6つの破片が入っており、一つは腰の骨をかすって浮き出てくるまで時間がかかったが、これが出てきてその後はめきめき快復した。

同年5月31日~ 山中を敗走
〇山中でうまそうな匂いを出して肉を食っている者がいる。
 何を食っているんだと聞くとカラバオ(水牛)と言うが、山中に水牛がいる訳はない。
 「食わせろ」というと「くせになるから駄目だ」と言う。
 腹が減ってたまらず良いから食わせろと奪うようにして食べた。
 食べると「代わりの分を取って来い」と言われた。
 取って来いと言われてもと思ったが場所を教えられ行くと片ももを削がれた日本兵の遺体に布がかけてある。
 反対のももを削いで渡したが、何とも嫌なものだった。
 皆自分で取ったものは食べにくいのだと思う。
 今なら極限状態でも同じことはしないように思うが、戦争だから出来たのだと思う。

〇次第に食糧目当てに日本軍同士、日本兵同士で襲いあうようになった。
 こういう事は、一度自分たちもそういう目に合うとやる事を覚える。
 また疑心暗鬼で全部信用出来なくなり、どうせやられるなら先にやってしまえとなる。
 互いに武器を持っているからエスカレートしていく。

同年8月19日 敗戦を知る。
 それまでも降伏するようにというビラは撒かれていたが、この時は“天皇陛下の命によって”無条件降伏したと書かれていたこと、米軍は攻撃を中止したと書かれていてそういえばと思い当たったので信じる気になった。
〇(敗戦は)嬉しかった(何とも言えない表情)。
 生きて帰ることは考えられなかったが、現役で出征してから5年、とにかく一度で良いから日本に帰りたいと思っていた。
 そのあと死んでも良いから一度は帰りたいというのが願いだったから。

同年12月 復員

◆◆◆

矢野さんは「ルソン島敗残記」という本を出版しておられます。
世の中に手記はたくさんありますが、この本は具体性、赤裸々なことでは群を抜いています。
日記形式の非常に詳細なもので、戦後1年かけて自分のための個人的な記録として書いたものを、知人が知らない間に出版社に持ち込み、気づいた時には段取りがすっかり出来上がっていて、そこまで進んでいるなら・・・と出版したという経過がこの本の性格を作っているようです。
今回伺った加害や戦闘の個別の体験についてはそちらの方がより具体的なので、新たに記録を撮る事の意味を考えない訳ではありませんでしたが、長年会を支援していただいており、何よりお目にかかりたい気持ちが強かったので今回訪ねました。
結果当時それをどう感じていたか(今からの解釈ではなく)という部分を随分お話頂くことが出来ました。

ご自宅のお庭に、不戦と書かれ故郷を指さしている様な日本兵の彫刻がありました。
戦友の像かと尋ねましたら、ご自身の像で自身への戒めとしていると答えられました。
「最初は観音像を考えていたがあの日の自分を忘れないようにしたいと思った。だからわざと敗残兵の像にした、片方の軍靴が脱げているでしょう」と。

講演の機会も多い矢野さんですが、日頃は話す機会が少ないであろう満州時代のやんちゃぶりがとても面白くて、この人が満州時代のままその後の経験をせずにすむのだったらどんなに良かったろうと胸が熱くなりました。
四国チームが4月28日(木)に伺った証言の概要です。
メーリングリストに流れた旅の様子と共に紹介します。

◆◆◆

曇天の東京を飛び立ち1時間半、海からではなく川側から着陸する松山空港は青天で、空港一面に「坂の上の雲」のポスターがこれでもかと貼られていることに苦笑。
バス停の電光掲示板が電飾にぎやかなCMを流し続けていることと、貼られた「水不足、心まで乾かさないぞ」という標語に(愛媛は今年はこれが深刻らしい)、東京を離れたことを実感します。

今回愛媛での体験者探しに尽力してくださった澤田先生(高校教諭&写真家)が空港まで迎えてくださり、一日先生の車で松山市内を回っていただきました。

以下午前中に伺った堀本先生(澤田先生の以前おられた学校の教頭先生)の証言です。


◎堀本邦雄さん

1928(昭和3)年9月26日生まれ

1944(昭和19)年12月28日 満州国陸軍軍官学校入学(第7期生)

〇旧制松山中学4年生の時、陸軍士官学校を受験。
筆記試験合格後口頭試問・身体測定などがあり、第1次の採用発表がありここでは採用されなかった。その後軍官学校の受験をしないか問い合わせがあり、再試験があって入学が決まった。
当時勤労奉仕で住友鉱山の分析所の研究室に行っていたが、男性の研究員が召集されていないため、まったく知識もないのに研究課題(ビルマスパイスという鉱石からコバルトとニッケルを効率よく分離する方法)が与えられ困っていたので、満州に渡るほうが良いと思った。
陸士61期と同等という意識もあった。

〇第7期生は日本人は371名、朝鮮人4名、中国人600名。
〇満州軍官学校は満州・新京で予科2年の教育後、本科2年は内地の陸軍士官学校で行われた
〇日本人と中国人は連(中隊にあたる)が分けられお互いの接触はほとんど無かった。
 内地で本科が行われるのは原則日本人のみ。
 朝鮮人・中国人で本科を内地に行くのは特に成績優秀な者だけだった。
〇教科・教科書は日本の予備士官学校・士官学校と同じものが使われ教官も全員日本人。
 入学する中国人は皆日本語が堪能だった。
 中国語の授業はあったが特に満州軍としての内容は無かった。
〇情報は学内には全く入らず新聞も見ることはなかった。
 沖縄戦のことも知らなかった。

1945(昭和20)年8月15日 敗戦 軍官学校の解散が告げられた。
〇最初日本軍の飛行機がどんどん頭上を南下していく、町中に青天旭日旗が出され敗戦らしいとなった。
〇日本人生徒で満州に家や行く場所がある者はそこへ向かったが、たいていは行く場所がないので残留し関東軍と行動を共にしようとなった。
〇中国人生徒はすぐにいなくなった、もともと反感が強かったと思う。
 そのまま国民党軍の将校として迎えられた者が多かった、僅かだが共産党軍の将校となる者もいた。
〇朝鮮人生徒も国民党軍や韓国軍の将校に迎えられた。

新京の防衛隊の任務となる。
〇学校の中隊長が満州中央銀行へ銃を持った生徒達を連れて乗り込み金を渡すよう求めたらしい。
 銀行は断ったが銃を持っていたので、どれぐらい脅したかはしらないがこれに応じる。
 翌日ソ連軍が侵攻し銀行のお金をおさえたためこのことはチャラになった。
 このお金は生徒一人一人に配布され、堀本さんも分配を受ける。
 日本紙幣と中国紙幣と半々で生涯見たこともないような大金だった。
 敗戦にも関わらず日本紙幣が一番市場価値を維持しており次いで中国紙幣、ソ連の軍票は嫌われていた。
 このお金で軍を離れ豆腐を買い付け、邦人の子供たちに売らせて商売をした者もいる。
〇弾薬倉庫を警備していたところ満州軍の反乱軍に取り囲まれるが、倉庫を放棄してよいという命令が出たこと、反乱軍にも知り合いが多かった事が幸いし、無血で建国大学の寮に移ることになる。

同年10月末ごろまで 自炊を続けながらソ連軍の使役にあたる。
〇ソ連はあらゆるものを持って帰ろうとしており、それらの貨車への積み込みにあたる。
 トラックでの移動時、食料や衣糧を荷台から道端の在留邦人に投げ渡す事が出来た。

同年10月初め
 体の丈夫な者を中心に230名が先発組としてシベリアに出発。
 この組はブカチャーチャに抑留され石炭採掘に従事、57名が死亡した。
同年10月末
 堀本さんたち86名も出発、ナホトカから帰国すると思っていた。
〇ハルピンあたりで沢山の列車が停滞し進まなくなるが、先の満州銀行のお金で売りに来るものを自由にものが買えたので贅沢ができた。
同年12月 ブラゴエチェンスクに
 荷物の一部をおろし凍ったアムール河の上を倉庫に運ぶ使役があった。
 地元の子供たちがどんどん物品を盗みに来るが凍った川の上を自由に動けず盗られ放題。
 ツンドラ地帯を走るが西に向かっている事には気づかず、バイカル湖を日本海だと思った。


同年12月末 イルクーツク地区のオルハ村に抑留。
 森林伐採、鉄道の敷設に従事する。
〇鉄道は24時間3交代で100キロほどを敷設した。これが今はシベリア鉄道の本線として使われている。
 枕木を先に敷くのではなく、まずレールを並べジャッキで持ち上げて土を周囲から下に盛り込んでいく。
 凍土なのですぐかたまりこの方法で敷設できた。
〇食事は一日黒パン1切れと雑穀の粥、スープは均等になるよう具と汁を分けて分配した。
 顔はむくみ脚は細くなる、シラミと南京虫がはびこる。
 人参に似たものがあり食べると元気になる、しかしたくさん食べるとわけのわからない事を言い出した。
 キノコはどれが毒かなど考えず色のついたものも全部食べたが何ともなかった。
 ジャガイモやキャベツの収穫の時期にはコルホーズでの作業があったのでジャガイモの種芋を食べた。
〇電気は日本人の技術者によりしばらくすると引かれた。
 水は小川のものがそのまま飲めた(人がいないところなので水もきれい)。
〇こちらの86名で死んだのは1名のみ。

1947(昭和22)年1月 凍傷に。
 引き上げのグループに選ばれ移動したところで左足の親指先端が凍傷になり入院。
 指は水ぶくれを起こして赤黒くなる。
 入院しても治療はいっさいなくすることもなく放置。
 2か月して初めてソ連軍の軍医が来たが、同室の患者の膝の手術をその場で始めた。
 麻酔もなく血が飛び散り、のみと金槌を使っている、仰天して卒倒しそうになったので退散。
 このままでは治療もなく帰国グループからも置いて行かれると焦る。
 自分で膿をとっては治った治ったと毎日申請し、間に合ってもとに戻ることができた。

同年3月 ナホトカへ。
 ここまでは共産党教育はほとんどなかったが、ナホトカでは共産党の教育があり、それによって第1収容所から第3収容所へと順に移動した。
 5月1日はメーデーの行進に出かけさせられた。
同年5月 復員

軍官学校は特別な集団だったため今でも結びつきが強い。
中国人生徒も今でも付き合いのある人たちもいて(彼らは文化大革命のときは大変だったが)そういう意味ではシベリア抑留も含め良い経験だったと思っている。
後悔はしていない。

見つかれば逆戻りだが持ち出したという「日本新聞」を会に譲っていただきました!!
シベリア抑留のお話にはよく出てくる「日本新聞」ですが実物を見るのは初めてです。
それから一六タルトもいただきました(笑)
4月30日(土)の四国チームの動きです。

取材場所:愛媛県宇和島市
体験者の方のご自宅にお邪魔しての取材。
体験者の方
◎海軍特殊潜航艇

その後徳島市までの四国横断大移動があるため、本日の聞き取りはお一人です。
一日の3分の1は移動時間・・・道中お気をつけて。
戦場体験放映保存の会メーリングリストに流れた、四国チームの旅の様子です。
昨日4月29日(金・祝)のことと、他今後の予定まで。
転載します。

◆◆◆

初日から今日までは松山を起点に動いています。
松山は、視界に高い建物がない街並みで周囲の穏やかな丸い山々を見渡せ
駅舎も古いままなのが旅情には心落ち着きます。
ホテルの眼下に松山城のお堀が見えて市電の音が聞こえてきます。
早朝は散歩をしたいような光景ですが報告が仕上がらず諦めました。
(本当は1日一人は報告をあげないと後で(自分が)大変な事になるのですが)

昨日は松山から西に1時間強、西余市と新居浜市のお二人を訪問しました。
ルソンと西部ニューギニアとまったく違う戦場なのに
現地の人との関係、友軍を襲いあう心境などデジャブのように同じ言葉が繰り返されました。

午後の田中さんは80代を過ぎてから俳句を詠みながらの草へんろ(本当に歩き野宿をする遍路)
で地元では有名な方ですが、証言と遍路の話がご本人の中では一体のもので
そのため聞き取りが大変長くなりました。
列車の便の悪さもあり列車を待つ間に次の話が始まるという按配でホテルに戻ったのは11時。

本日は今から今度は東に2時間、宇和島を目指します。
体験者の方が車で駅まで迎えに来てくださるとのこと。

そのあと徳島への列車6時間の大移動が待っています。
明日の調整中だった徳島と高知の県境への聞き取りも正式に決まり
フリー切符も2倍ぐらいもとをとっている感じです。
これも遍路と似たり寄ったりでしょうか。
まあ移動中に報告書は仕上がることでしょう。