あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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戦場体験史料館までの道順
沖縄キャラバンが終わってすぐですが、沖縄にも行ったメンバー1名、次のキャラバンに入っています。
今日は広島で聞き取りです。
前日入りして、午前中は少々調査を行う予定です。

2月14日(土)
訪問地:広島県広島市
13:30~ご自宅で聞き取り
体験者の方
◎満州~シベリア抑留
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山陽キャラバンが2011年12月13日、福山で伺った証言の概要です。

◎横橋保孝(よこはしやすゆき)さん

1922(大正11)年12月26日生まれ
当時の本籍地 広島県
陸軍 歩兵(機関銃)

1941(昭和16)年 旅順師範学校に入学
〇祖父が酒飲みで借金を作り父は16歳でハワイに出稼ぎに出かけた。
 そうして作ったお金を自分が中学校(福山誠之館中学)に行くのに使って仕舞ったらしいというのは勘だけれども分かっていた。
 旅順師範学校は授業料が不要で全寮制だった。
〇広島師範学校にも前年大陸科が出来多くの先輩が進学したが、抜け出してうどんを食べに行く話などばかりしている。
 それは間違いじゃ、こういう所へ行くのは嫌だと思った。
〇旅順師範学校の知らない人から檄文が来た。
 「大東亜共栄圏の礎石を作ろう」とありそれは自分の考えにぴったりだった。
〇中学校5年生の時紀元2600年を祝うインターミドル(現インターハイ)があり広島県代表の剣道部の大将となったため、広島師範学校から是非我が校に進学するよう中学に働きかけがあり、中学の先生から「受けるだけでいいから受けてくれ」と頼み込まれたので、仕方なくこちらも受験し合格はしていた。

○学校は理想的。ロシア製の地下室付きの寮
○学生は日本人のみ
 中卒よりは農業高校出身者が多く、長野県出身者が多かった。
○教科書を殆ど使わず岩波の単行本を教科書にする先生が多い。
 良い映画を「見とけよ」と紹介してくれる。
 抜けて出る必要がない明るくて自由な雰囲気。
 戦争や大満州についてと言った深い授業はなかったが、心理学の先生が「一君万民の論理」という自著を説いていた。
○炊事員になり仕入れ係を務めていた。
 先生達が上前をはねているのではないかと先生と寮の代表間で激しい団体交渉があり(実際に事務の汚職は少しあったのだが)、生徒が自分でやるようになったためだった
○旅順には日露戦争の表忠塔が立っておりそこに一人で小指を切って血判を押して帰ってきた。
○夏休みに開拓地で1ヶ月間の教育実習
 生活することが一番なので子供と馬鈴薯やかぼちゃややとうもろこしを作る。
 授業をしたのは覚えていない。鉄棒を作ったりした。
 送られるのは開拓地としては余裕のある所に限られていた。

1942(昭和17)年12月頃 徴兵検査
 12月生まれは前年まで翌年廻しだったがこれが無くなった。
○冬に一度帰国、もう戻れないと覚悟していた。
 親父は病気で寝ており、母は何も言わず涙ばかり流していた。
○付属小学校での3ヶ月の実習
 その時の先生が就職するとき駅まで見送って「死ぬんじゃないぞ」と目の色を変え睨みつけるように言った。
 その頃そんなことを言って送る人はいなかったから、僕は「はあっ?」と「この人は何を言うんだろう」と思っていたけれど、後で感化された。
○就職の際も、僕は「開拓地に入って苦しい目をしながら子供達とやらなければいけない」と思っていたが、彼は「はよから入っちゃダメだ」。「何でですか」と言ったら「今に分かる」と言った。
1943(昭和18)年8月 旅順師範学校卒業
 奉天で就職

1944(昭和19)年3月10日 第2国境守備隊に入隊(現役)
 綏芬河(すいふんが)へ
 部隊の入口に「私的制裁の撲滅」と看板がかかっており実際に守られていた。
○5月、綏芬河の神社のお祭りに剣道の試合に出て優勝した。
 煙草の大きな箱を貰い班長に渡した。
 その時親父が死んだ電報を受け取った。
 帰るんなら何なりしてやるぞと言われたがお別れをしてきたからと帰らなかった。

1944(昭和19)年9月~1945(昭和20)年4月 保定幹部候補生入学 12期生
○幹部候補生を当初志願しなかった。
 班長に呼ばれストーブの側で裸になって肩をもませる。
 「僕は幹部にならんでも一兵卒でも国にようけいご奉公が出来ると思います」 
 「分からんじゃないが中隊長が困るんよ。資格を持っとるもんが受けんと中隊の恥になる」と説得された

1945(昭和20)年4月 西部2部隊(広島)に転属
○保定の教育係の少尉は「お前は教育係で残ると思ってたがお別れじゃのう」
 「お前ひとりごだったじゃろうが」と言われて、軍隊でもそんなことを考えるんだと思った。
 この教官は「貴様ら死について考えたことがあるか」と言って説明もせず暫く黙った事があったが、その時は「何を言いよるんだ、死ぬのは当たり前じゃないか」と思った。
 立派だったと思うようになったのは後のこと。
○幹部候補生2千名が行き先を知らされず貨車に。
 学校を出てすぐ学校に空襲があったが戻らなかった。
 南方に行くと思っていたら弁当を受取に出た者が、奉天だ、内地に帰るんだと分かった。
○広島の部隊ではガス兵の訓練をしていた。
 師団長が「沖縄では日本の塹壕には何時まで経っても電気が通らないが、米軍の塹壕には作ったその日に電気が通る」と言った。
○広島のキリンビアホールに行くと昼に将校にはビールの券が出る。
 “軍隊ボケ”をしてしまって将校が集まって酒を飲んでいるのは気にならない。

1945(昭和20)年6月 新設の231師団(大国兵団)に転属
1945(昭和20)年7月 人丸神社に移動
○召集兵が殆どで本土防衛を目的とした。
 小郡で軍旗を受け、行軍で山陰の人丸に行軍で移動。
 打ち出の小槌をマークとして軍服に付けた。
○原爆のニュースは全く入っていなかったが、広島出身の経理の見習い士官に山口の町中で会った。
 「わしはいけんな」と言って腫れたような顔をして、髪をなでるといっぱい抜ける。
 糧秣の算段に行って自宅に泊まり被爆をしていた。
 その日の午後人丸の病院に入院したが、5時間後わしが帰ったらもう死んでいた。

1945(昭和20)年8月15日
 当日は部隊の一期検閲の日であった。
 師団長が部隊に来たので師団長と連隊事務所の連絡係になっていた。
 朝、急に情報係もするように言われ下士官を2名付けてくれる。
 「今日は重大情報があると言う民間情報があるからラジオでも聞いておりましょう」と下士官が言うので散髪屋のラジオを聞いて貰い、自分は昼まで師団長に付き添った。
 散髪屋にはようけ集まったけど「戦争が終わった」と言う者と「もっとやれ」と言ったという者が半々。
 軍からの命令があるだろうからと昼間は師団長には言わなかった。
 公用兵が小郡で敗戦の号外を貰って帰ってきた。
 師団長が酒盛りをしている所に持っていったが、「貴様フランスが負けたのを知っとるか、フランスは情報で敗れたんじゃ。民間の情報で戸惑うんじゃない!」と怒られて腹がたった。
 その頃新聞社が勝手に情報を流すような事はなかった。
 師団長はそのまま酒を飲み、真夜中12時過ぎに師団司令部から師団長に帰ってこいと言う連絡が来た。
 併せて命令受領の将校を毎日一人寄越せという命令で、担当になる。
1945(昭和20)年8月16日
 山口の師団司令部に行くと参謀から「師団長はどうしている」と聞かれた。
 「夕べ12時過ぎには乗用車に乗って帰られました」
 参謀は「師団長が帰られないのでわしから命令する」
 その後は誰の命令か分からないまま毎日命令が出た。
 「兵器を隠せ。何処でも良い、山中に穴を掘ってでも良いし、海岸に埋めても良いし井戸の中でも良い。逃亡兵は逃亡兵として扱う」
 1週間もしないうちに「敵の潜水艦が仙崎に上陸兵を降ろすので迎え撃つ。隠した兵器を全部出して応戦する。12時を期して師団司令部から命令を出すので待機せよ」
 厚狭駅まで戻るとプラットフォームに沢山兵隊が居て、打ち出の小槌を付けた大国兵団。
 12時を期してという命令をもっているのを知らせようかと指揮官を捜すが、指揮官はおらず「小隊長から帰ってもよろしい」と言われたという。
 話をした人間が郷里の人間だったので遺書を走り書きことづける。
 12時まで待っても何もない、1時まで待っても何もない。
 翌日師団司令部に行っても何もない、知らん顔をしている。
 その後も師団長や連隊長を見ることは1度も無かった。
 最後の命令受領の折
 「これも命令だ、今まで見習い士官だった者は全部少尉に任官を命ずる」
 初めて一同が反攻をし「今さら馬鹿げているじゃないか」と言うと参謀は「分からんじゃないが将校の数が少ないようではその国の国力に影響する」

海田市(かいだいち・広島県安芸郡)の憲兵連隊に転属。
 糧秣倉庫に入ったがもう空っぽで大豆がこぼれているだけ。
 連隊付きの将校が暇があるので訓練をやれと命令が出たが、兵は蹴って、豆を煎って食べているだけ。
1945(昭和20)年9月17日 枕崎台風
 大野駅と玖波駅間のトンネルが土砂で潰れたのを復旧。
1945(昭和20)年10月10日 復員
 村のお祭りの日で仔牛を献上し皆で食べた。

※戦後もアメリカの物量に負けたと思っていた。
 パチンコが流行りだしたとき第3次世界大戦への準備で鉄を確保しているんだと思ったぐらい。
 戦争への考え方が変わったのは戦後30年以上経ち中国に旅行をしてから。
 軍国主義は今でも身体のどこかにくっついている。
2011年冬の山陽キャラバンで聞き取りを行った方の一覧です。

お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
今回は、途中の旅の報告で体験者の方のお名前が出ていますので、ほぼ最初から記載しています。

山陽キャラバン
訪問都道府県:岡山県、広島県、山口県
日程:2011年12月10日(土)~12月15日(木)
※12月9日(金)前泊。

◆◆12月10日(土)◆◆

岡山市十一クラブ戦史研究会アレンジ

午前
岡山県岡山市

◎小林忠治さん
戦地等:海軍。駆逐艦「雪風」機関。ガダルカナル沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄特攻。

午後
広島県福山市
◎川相宗助さん
戦地等:陸軍。歩兵41連隊。中国。


◆◆12月11日(日)◆◆

午前
岡山県岡山市
岡山15年戦争資料センターの方と情報交換

岡山県倉敷市
◎小野一臣さん
戦地等:歩兵第10連隊、ルソン島


◆◆12月12日(月)◆◆

岡山県高梁市

◎石川操さん
◎武村博さん

戦地等:ニューブリテン島
※同年兵のお2人です。


◆◆12月13日(火)◆◆

広島県福山市
退職職員9条の会アレンジ
◎横橋保孝さん
戦地等:陸軍。満州~内地。


◆◆12月14日(水)◆◆

山口県美祢市
現地で体験集を発行されている方のアレンジ。
◎中島速雄さん
戦地等:陸軍。ビルマ。


◆◆12月15日(木)◆◆

山口県山口市

◎三好正之さん
戦地等:軍医。ニューギニア。

山陽キャラバンは、12月15日(木)の夜、東京に戻っていました。
帰りの飛行機はとてもすいていてびっくりした、ということです。

最前線からメーリングリストに投稿される時間と、ブログ係が更新できる時間とに差があるため、リアルタイム性に欠けるところがありますが、ご容赦ください。
帰還の報告と順番が逆になりますが、最終日の報告も、後ほど紹介することになると思います。

今回2人で始まった山陽キャラバンですが、ブログ係は2日目の昼ごろで離脱。
リーダーが一人で一足も二足も延ばす長丁場でした。お疲れさまでした。
体験者の方の急な入院等で直前キャンセルもありましたが、最終的に岡山・広島・山口3県で2名以上の方のお話を伺うことができたことになります。

現地の皆様、ありがとうございました。
山陽キャラバンの12月13日(火)の様子です。メーリングリストより転載します。


日付が変わりましたが、4日目は午後から福山教職員組合の事務所をお借りして、横橋保孝先生(88歳)のお話を伺いました。
手配をしてくださった組合OBの方たち3名もご一緒して下さいましたが、皆さん戦争は知っておられる世代。
今年8月に証言集を出された地方紙の記事を都立中央図書館の検索で見てご連絡をとったのですが、冊子の編集の間にここでも元兵士3名中お2人はお話が難しい状況になって仕舞われたとのことでした。

横橋さんはソ満国境の部隊を昭和20年4月に離れ広島市に帰国、更に6月に山口の新設部隊に移られたという方で
、「そういう運なんじゃねえ」と一同連発。
旅順の師範学校や満州開拓団での教育実習のお話などがとても興味深く、更に他では聞いたこともない敗戦時の師団長雲隠れ!
そして、先生はやはりお話がお上手です。

親しい皆様たちも満州時代のお話は知らなかったようで、広島時代食堂で将校にビール券が出ていたというお話には、「私たちはおかゆをすすっとったんよ!」という突っ込みも賑やかに入りつつ三者三様に大満足の収録となりました。

福山駅まで車で送って頂き、そこからローカル線で3駅の福山市かんなべ図書館に。
実は初日の川相さんが厚い体験記を書かれているのですが、初日はそのお話をする間もなくタイムアップ。
100刷だけだったとの事で検索をしても東京の図書館では入手出来そうになく、地元でも一番近いこの図書館にだけ2冊あるのです。
当然著作権から本のコピーは半分まで。職員の方がコピーしてくれる形態で、400数十ページの本から1回目の召集の中国に着いてから復員までがちょうど半分。
人手が豊富な訳ではないのでいきなりこの量のコピーを頼むと職員さんの目が白黒。
「お急ぎですか? 閉館に間に合うかな」と時計を見られるのを、
「東京からなので今日しかこの本には会えないのです」とカウンターで熱く訴えると、
「とにかくやってみましょう」と側から助け舟が。
この間他の業務を止めて仕舞ったような気もしなくはないのですが、予想以上に短時間で出来上がりとても温かく見送られました。

福山に引き返し、久しぶりの“こだま”で宿泊地・新山口へ。
明朝はここから美祢に向かいます。