あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
TOPフリーエリア
65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
元兵士の連絡所


元兵士から孫世代まで、ご連絡をお待ちしています
※質問、疑問などもお気軽にお問い合わせください
電話 03-3916-2664
※戦場体験史料館開館時間=火・木・土・日・祝日の10時~17時
FAX 03-3916-2676
e-Mail senjyou@notnet.jp
※FAX、Mailは24時間受付
住所 〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
     戦場体験史料館内・元兵士の連絡所

戦場体験史料館までの道順
第2回山陰キャラバンが9月26日(水)に伺った証言の概要です。
だいぶ前のメーリングリストより転載します。

◎品川始さん

取材日:2012年9月26日

生年月日:1923(大正12)年9月19日
当時の本籍地:島根県
陸軍
所属:歩兵第232連隊(藤6865)


◎三人兄弟の長男
 小さいころから絵を描くのが好きで、映画看板の絵師になろうと広島に出て就職。
 1年ぐらい見習をしていたが、そんな仕事は非国民のすることだと両親は猛反対。
 家に戻ることになった。

1943(昭和18)年12月10日 現役兵として浜田連隊に入営
歩兵第232連隊所属に
 10日後には中国へ、南京、武昌を経て当陽に

◎国民党軍はちょろちょろ撃っては逃げていく。
 追いかけると山の中に入り込まされ、地形を利用して上から一斉に攻撃される。
 連隊本部に応援を要請しても増強される事は殆どなく「大和魂で戦え」と言われたが、当時は「よし、大和魂でやるんだ」なんて思っていた。
 向こうの装備は次第に良くなっていき、米軍機や中国の飛行機から機銃掃射を受けることもあった。
◎“難民区”と呼んでいる地域があり(宜昌(ぎしょう)の近郊)、ここでは強盗や火を付けたり強姦など何でもやっていた。
 この地区には立派な家はなく土塀に萱ぶきの屋根で燃えやすく、「金貨を出せ、出さないと火を付けるぞ」と松明を屋根に近づけると中国人は仕方なく土壁の中に隠した金貨を出す。
 金貨を出しても火は付けた。作戦とかではなく面白半分でやる。
 軍旗祭の時は早朝に行って市場へ持っていく魚や酒を奪う。
 こらえてくれと頼むのをタバコの1~2本を渡して取り上げていた。
 宣撫地域ではそんな事はしない。米を安く買い上げるぐらい。
 “難民区”は軍閥の抗争などで住まいを追われた人たちで日本軍が難民にしたわけではなかった。
◎米は後方からはあまり来なかった、日本酒は送られてきていたが。武器弾薬は十分にあった。
 慰問袋は来る途中でキャラメルや金平糖など良いものは抜かれ草履や下駄が残って入っていた。
◎捕虜や集めてきた農民を使ってトーチカ作りを手伝わせた。
 食糧はおかゆに何か青いものを入れたような粗末なものを渡していた。
 働きが悪いとすぐに殴る、日本人は手が荒い、ロシア人の方がそんなことは少なかった。
 捕虜を帰っていいぞと放して少し歩いたところを撃つ、これも面白半分。
 捕虜も知っていて「帰っていいぞ」と言っても喜ばなかった。
◎慰安婦は中隊単位の駐屯地ならどこにでもいた。
 将校は日本人、それ以外は朝鮮人、中国人はあまり見なかった。
 1~2年兵は行けなかったが。
◎私が入隊する前の事だが天宝山の作戦と言うのがあった。
 来たばかりの隊長が戦果をあげようと非常呼集で作戦に出たが、兵たちはいつもの演習の非常呼集だろうと思って弾薬を持たないまま出かけてしまい壊滅的な戦死者を出したと聞いている。

1945(昭和20)年3月 満州に移動することに
 当初は沖縄に行くと言う噂が流れたが行けなかったのではないか。
同年7月終わり 本隊は満州・四平街に、中隊は西安に駐屯。

同年8月
 ソ連の参戦はよく分かっていなかった。
 敗戦は噂が流れた後数日たって部隊で告げられた。
 「どげんなるんだろう。帰れるんだろうか」とは思ったけれど、「これだけ全部は殺さないだろう」と言っていた。
 喜びはあった、私だけではないと思う。
 西安武装解除の時初めてソ連兵を見た、赤白い顔をして青い目で髪が赤かった。

同年10月1日ブラゴエチェンスクを経て、10日タイシェットへ。
 最初は帰るための汽車の石炭が足りないのでそれを半月ほど堀りに行くと聞いていた。
 黒河で対岸にブラゴエチェンスクを見たとき駄目だなと思った。
 それでもソ連は「日露戦争もあったから国民に日本兵を見せてやるんだ。ヨーロッパまで横断して向こうから船に乗せる」と言っていた。

タイシェットの第7地区第4ラーゲリーに収容
◎収容所は監獄を空けて入った。南京虫がすごい。
 8月中ごろには薄い氷が張り出し、毎年誕生日の頃に初雪が降る。
 寒いよりは痛い、夜は白夜で10時ごろまで暗くならず3時ごろには明るくなる。
◎作業は材木の伐採や貨車への積み込み。
 タイシェットから分岐した鉄道を新たに敷設する枕木にするためだった。
 特に積み込みは大変で直径1mぐらいの材木を高く積み上げていく。
 綱も凍って折れる事があり事故が多く常に危険だった。
 一つの貨車が終わるとすぐ次の貨車が来て、8時前に仕事が始まり夜中の12時過ぎまで働くこともあった。
 最後の頃コルホーズで働いたこともある。
◎作業中ロシア人は殴らないがむしろ日本軍の将校が殴る事があった。
 将校は作業はしなくて良いがソ連も監督として利用していて、自分の待遇があがるのかしばしば兵隊を殴った。
 2年目ぐらいまでは将校には当番兵もつけていた。
 自分も10人ぐらいでモミを盗んだのが見つかって帯革で頬を20回ほど殴られた。
 殴られている時はまだ良いが廻ってくるのを待つ時間が恐ろしい。
◎食事は黒パンと塩汁、昼のおかゆは朝一緒に食べてしまう。
 夏になるとオオバコやタンポポ、セリなどを塩ゆでして食べた。
 東北出身の兵隊は食べられる草をよく知っていてシベリアうど、シベリア豆など名付けて食べた。
 野生のにらは元気がつく。
 3年目ぐらいからは魚も釣りに連れて行ってもらえ、馬の尾をテグスにして釣った。
 たとえば豆が出されるとひと月ぐらいは豆ばっかり出る、麦飯は麦ばっかりで米が入っていない。
 食事の量はノルマの達成率で変わる、70%を切ると黒パンはマッチ箱の様な大きさ。
◎病人や年配者から最初の冬が越えられず亡くなった。
 遺体は裸にして埋めるが地面はコンクリ―ようにカチカチで深く掘れない。
 遺体もカチカチでポロッと折れる。遺体を運ぶ時そりでかけていた毛布を埋める時にもかけたいと頼んだがソ連兵に駄目だと言われた。

1947(昭和22)年頃 病気など仕事の出来ない者から帰国が始まった。
◎このころ病気になって帰るグループになった事がある。
 200人が帰ったのに最後になって名前を呼ばれ1人だけ残された。
 誰か技術を持った人と間違えたらしかったが1人部屋に戻ってとても寂しかった。

2年経った頃から民主化運動が始まる。
◎将校の収容所が分けられ兵隊だけが残された。
 これでぐっと精神的に楽になった。
 一方でそれで早く帰れたのかどうかは知らないが、作り話のような密告もあったようだ。
 以前は満州で警官だたとか自慢していた人が言わなくなった。
 中国や満州での行状よりは
◎日本新聞が来るようになり、みな赤旗の歌を覚えた。
◎漫画のコンクールで一番に選ばれたりして収容所の中に絵のうまい人間が4人ほど、京都の柄絵を描く本職が1人いてその人の手伝いをする。
 壁新聞の挿絵を描いたり、メーデーや記念日のプラカード書き。
 壁新聞は3か月に1度程度所内で発行していた。
 クレムリンの絵を描けと言われても見たことがないので困っていたら京都の絵師が見本を描いてくれた。
 写真を渡されてスターリンやレーニンの肖像画も描いた。
 この肖像画は労働成績が良かった者が休暇を与えられて泊まる「いこいの宿」にかけられた。
 ロシア人将校に妹の肖像画を頼まれた。この絵が気に入られたようで、ロシア語もわりと話せたので2~3か月この将校の当番を命じられた。
 この間はソ連兵の兵舎で宿泊出来、外出に同行して食事もさせて貰い大変良かった。

1949(昭和19)年8月半ば 帰国する事に
 ある朝突然「今日、全員帰る」と告げられて慌てて荷物をまとめ部屋を片付けた。
 教育は怖いもので復員船の日本人の船員が敵のように思え、なんでもかんでも話してはいけないと感じていた。
同年9月1日 舞鶴に復員
同年9月5日 帰宅
スポンサーサイト
9月下旬の第2回山陰キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
第2回山陰キャラバンは、皆様メーリングリストの日々の報告にお名前が挙がっていましたので、先に載せさせていただきました。

第2回山陰キャラバン
訪問都道府県:鳥取県・島根県
日程:2012年9月22日(土・祝)~9月27日(木)


◆◆9月22日(土・祝)◆◆

午前:鳥取県八頭町(やずちょう)
◎坂口栄さん
戦地等:歩兵63連隊。フィリピン、バレテ。

◆◆9月23日(日)◆◆

午後:島根県松江市
◎難波靖直さん
戦地等:湖北省→満州→シベリア5年→撫順→1956年復員

◆◆9月24日(月)◆◆

午前:鳥取県鳥取市
◎居川伊勢松さん
戦地等:歩兵第212連隊。ハルマヘラ島。
午後:
◎井上平夫さん
シベリア抑留11年。最後の船で帰国。

◆◆9月25日(火)◆◆

午後:島根県松江市
◎難波靖直さん(再訪)
戦地等:湖北省→満州→シベリア5年→撫順→1956年復員

◆◆9月26日(水)◆◆

午前:島根県邑南町(おおなんちょう)
◎品川始さん
戦地等:歩兵第232連隊。中国~満州~シベリア抑留。

◆◆9月27日(木)◆◆

午後:島根県松江市
◎柳楽林市(なぎらりんいち)さん
戦地等:浜田21連隊、ノモンハン
第2回山陰キャラバンが最終日の9月27日(木)に伺った証言の概要です。
1つ前の記事に旅の様子を掲載しています。

◆◆◆

◎柳楽林市(なぎらりんいち)さん (旧姓:井上)

取材日時:2012年9月27日
受領資料:軍隊手帳のコピー

生年月日:1917(大正6)年8月2日
当時の本籍地:島根県

陸軍
所属:歩兵第71連隊
兵科:歩兵


※三人兄弟の末っ子、長兄は亡くなっていた。農業をしていた

1937(昭和12)年5月 徴兵検査に甲種合格
 村では一人だけの甲種合格だったが、「あれっ? 甲種か、変だな」と思った。
 当時158㎝、42キロしかなく、甲種合格になるような体ではなかった。
 7月日中戦争が開始し古兵が一斉に召集、また赤十字の看護婦さんが、結婚して子供がいるような人まで召集された。
 それを見て開戦を見越して自分は甲種になったのかなという気がした。

1938(昭和13)年1月10日 現役兵として浜田21連隊に入営
◎戦局に悲壮感はなかったが、日中戦争が開戦したので生きて戻れないと感じていた。
 駅で幟を立てて見送られた。
◎3か月の初年兵教育のあと、半分は中国へ、残りは新設の歩兵第71連隊に。
 歩兵第71連隊は、浜田21連隊と山口各1000名と広島1200~1300名で編成された。

1938(昭和13)年7月宇品を出発、11月満州・ハイラル(海拉爾)の兵舎に
◎当時満州は平和だと思っていたので中国より良かったと思った。
◎渡満した時まだ兵舎が建築中で、新京などで待機したためあまり訓練を行えなかった。
 実践までに手榴弾を投げたのは1回だけ、銃も5~6回しか撃ったことがなかった。
 23師団は弱いと言われていた。
◎戦後資料を見ると、関東軍参謀辻政信(当時少佐)は小松原師団長(中将)に直接「23師団は弱いですからね~」と言っていたという。師団長には焦りもあったのではないか。
 辻の本にも「小松原師団長はお人柄がよろしい」と書いてあった(※原典未チェック)


1939(昭和14)年5月 第1次ノモンハン事件  主にハイラルでの見聞?
◎当時、日本はハルハ河を満州とモンゴルの国境だと主張していたが、ソ連は長年の内蒙古と外蒙古の境、ハルハ河東20キロぐらいの線を国境だと主張していた。
◎ソ連軍がハルハ河を越境して入ったと言う報告が来ていた。
 上空では航空戦が行われていて最初は見事なほど敵機が落ちていた。
 モンゴルのテント(兵舎)への空爆も行われていた。
 日本の飛行機はブルブルと、ソ連の飛行機はキーンと音がする。
 高射砲はソ連軍は白い煙を、日本軍は黒い煙を上げた。


第2次ノモンハン事件
同年7月3日
◎出発前戦争の事はメモをしてはいけないという命令が出て筆記用具を取り上げられた。  
◎工兵隊がハルハ河にかけた橋を渡って夜西岸に越境した。
 歩兵は横1列に並ばされていたが夜が明けて向こうが見えるようになると戦車がずらっと並んでいた。
 (辻の本には400台と書いてあった)
◎それまでは馬で引いていた速射砲をこの時は初めてトラックに載せて持って行っていた。
 砲は車体が邪魔なので荷台に後ろ向きに固定されており、発射にはトラックを反転させる事が必要
 速射砲は比較的真っ直ぐ飛ぶので歩兵に速射砲の後ろに下がるように命令が出たところ、うちの小隊長は「日本の兵隊は下がらない、お前らが前に出ろ」と言った。
 そこでトラックが歩兵よりさらに前に出て方向転換を図ったところその途中戦車に側面を攻撃され殆どやられてしまった。
 そんな馬鹿な事を言ったのはうちの小隊だけで指揮官がどういう人物かは大切。
◎狙撃兵になれと命じられ伏せて戦車の窓を狙って38式歩兵銃で撃つ。
 幾ら当たっても相手は平気、後でこちらの手に落ちた戦車を見るとガラスは3~4cmも厚さがあった。
 反対に日本軍の砲はソ連軍まで届かない。
 轢き殺されると思ったが撃っていると向こうもこちらに来るのは遠慮してくれた。
 戦車に乗っている兵隊は見た目は蒙古人のように見える者が多かった(所属は不明)

◎自分たちの部隊ではないがサイダー瓶にガソリンを入れて火炎瓶を作って戦車にぶつける。
 戦車が熱くなっているので自動発火する、これで100両ぐらいは動けなくなった。
◎地雷に竹の柄を付けて持って走り、戦車のキャタピラに突っ込むことも行われた。
 死ぬことが多いし、両目を失明した人も何人かいる。
 また砂地なので埋まって不発に終わる事も多かったし、砂地で生き埋めになった人もいる。
◎遺体は何人かは埋め、指を切って遺骨にし、背嚢に入れて運んでいたが、その後(7月27日)の戦闘で全部なくしてしまった。
◎水のない戦場で、気温は日中40度ぐらい。
 砂を掘っても出てくるのは濁り水、湖は塩水で飲めない。
 朝草の露をハンカチで集めて廻って絞って飲んだ。
 戻ったら宍道湖の水を一気に飲みほそうと話しあった。
◎夜のうちに撤退することになるが、撤退は恐ろしい。曳光弾がどんどん撃たれ明るくなってしまう。
 再び橋を渡ったが、この時川に落ちて捕虜になってしまった者も多い。

◎多くの者が死んだが、戦場で不服を言う者は誰もいなかった。
 皆天皇陛下の命令だから死んでいった、当時は親のためや国のためではなく天皇のために戦った。
 4,5年前に初めて当時の越境は関東軍の独断で、天皇陛下がそれに対して「統帥権干犯」と叱責していたことを資料で見て衝撃を受けた。
 皆天皇陛下のご命令だと思うから戦ったのにそれでは犬死ではないか。
 関東軍や23師団師団長の名誉欲のために死んだのじゃないかと思うと腹が立ち恨めしい。
 自衛軍は必要だと思う一方でこの4,5年あの軍隊は間違っていたと思うようになった。

◎ノモンハン事件で日本人の捕虜がものすごく出たのは軍にとっては衝撃だったのではないか。
 当時は戦陣訓は無かったが捕虜になるなんて考えられないことだと皆思っていた。
 だからソ連の捕虜に対しても日本軍は随分ひどい接し方をした。
 積極的に殺すのは見たことは無いが、負傷したり病気の捕虜をそのまま歩かせて途中で倒れたらそのまま放置した。

夜襲に3回出かける
◎中隊ほぼ全体で行った。真っ暗なので背嚢に白い布をつけ、それを頼りに前に進む。
 黙って突っ込むとソ連軍も殆ど逃げてしまう。
 一度トキの声を上げて突っ込むと周囲から一斉に撃たれ、やはりこういうのはいけないとなった。
 昼の攻撃では取れない小高い陣地をこうして少しずつ取っていった。
 突っ込むときは背の高いものが前に出る、背が低くて良かったと思った。
◎食料は主に乾パン、米は少しずつは補給されたが夜は炊けない。
 水が無いので砂地に穴を掘って濁り水をハンカチで濾して炊く。
 泥水を飲むので下痢をする者が多かったが、自分は大丈夫だった。
 ハルハ河に水を汲みに行くと対岸にソ連兵が水を汲みに来ていて互いに飛んで逃げたことがある。

同年7月27日 中隊に総攻撃の命令
◎小高い敵陣地に向かってかなりの距離を走って上がっていく。
 弾(主にマキシム機関銃)がどんどん飛んできて戦友がどんどん倒れていくが不思議と自分には当たらない。
 手榴弾を投げたが投げ慣れておらず20mぐらいしか飛ばない、斜面なのでころころ落ちて来て慌てたが幸い誰にも当たらなかった。
 168人の中隊で上の陣地まで突入できたのは20~30人。
◎ソ連軍の将校と目があいピストルで撃たれたが当たらない。
 こちらも38式歩兵銃で応戦したが弾が5発できれるので蛸壺に入って装填しようとした。
 この時必ず前を見ながら装填しなければいけないと教わっていたが出来なかった。
 手榴弾の破片が着弾して右手鎖骨下に負傷、そのまま気を失った。
◎夜になると「お~い、お~い」という声がして気が付いた。
 8中隊と連絡がつかなくなったので本部から様子を見に来た、返事をしたのは自分一人だと言う。
 右手はまったく使えず壕から這い上がる力もないので置いて行ってくれと言ったが、一人では帰る道が分からないと言う。どうにか引きずりだして貰って、自分は日中通信兵が有線をはっていたのを見ていたのでそれを伝って戻った。


野戦病院に送られる
◎病院の天幕には入りきらず、草っ原に並べて寝かされていた。
 名前を呼んで行き返事をすると輸送機に載せてくれた。
 返事の出来ない者はほったらかし。
◎民間機でハイラルに運ばれる、さらに民間機で大連に。
 輸送機には10数人乗ることが出来、次々に飛行機は来ていた。

同年8月22日大連を民間船で出発、8月24日小倉に上陸
同年9月9日 久留米陸軍病院佐賀臨時分院に入院
 その病院では一番重い患者で看護婦さんが1人付きっ切りで看病してくれた。
同年12月15日 東京第1陸軍病院に転院、手術
◎その後のノモンハンの経緯については「負けたげな」と風評に聞いただけ。
 新聞記事などで見ることはなかった。
 ただ国境線がソ連の行った通りになっていたので負けたのだろうと思っていた。
 中隊でどれぐらい生き残ったかはよく分からない。
◎自分の経験は遠慮して話さなかった。特に誰かに止められたことはない。
 ただ悪い事は話さない、そういう時代だった。

1941(昭和16)年1月11日 兵役免除、1月18日 退院して帰京
最終階級 上等兵

◎農家だったが右手が使えなくなったので続ける事は出来ない。
 先生を目指して、実業学校の農林学校3年生に編入。
 同級生たちは傷痍軍人を敬い応援してくれた。
◎宇都宮高等農林に進学、卒業後母校の農林学校の教師に招かれる。
1945(昭和20)年3月 結婚
 もうすぐ誰もが戦死すると思っていたが、その前に結婚はしてみようと思った。
同年8月15日 敗戦
 玉音放送は聞き取れなかった。
 川本は田舎で敗戦を聞いても深刻な感じが無かった、「あ~あ、負けたか」という感じ。
 山の中で空襲は無く、砂糖や酒は配給だったが食糧は困ったことが無かった。
第2回山陰キャラバン6日目の9月27日(木)の様子です。
本当は旅先から東京に戻ってすぐの報告でした。メーリングリストより転載します。

◆◆◆

羽田に戻りました。
夕焼けの出雲空港を飛び立つとき、羽根の下に宍道湖が見えましたが、今日お話しいただいた柳楽さんがノモンハンでとにかく水が無かったとき、「帰ったら宍道湖の水を飲みほそうと皆で話した」と言われたのを思い浮かべました。

柳楽林市(なぎらりんいち)さん(95歳)は取材を申し込んだ折、「私の最も喜ぶお電話をくださいまして胸高鳴る思いがいたします」とお手紙を頂き、今日はネクタイに背広姿で迎えてくださいました。

歩兵第71連隊でノモンハン事件に参加。
95歳とは思えない鮮明な記憶でお話をしてくださいましたが、ソ連軍の砲兵陣地に向かってかなりの距離の山腹を一斉に駆け上がるという何とも前近代的な感のする戦闘で右腕を大きく負傷し除隊しておられます。

それでも90歳頃までは天皇のために戦った自分たちの純粋さを曇りなく思っていましたが、5~6年前に初めて当時の越境が関東軍の暴走であり、天皇から「統帥権干犯」と言われていた資料を目にして衝撃を受けられたそうで、それからはあの軍隊を間違っていたと強く感じるようになったそうです。
90歳を過ぎて価値観が変わることがあるのだという事も含め興味深く伺いました。
追って詳しく報告します。
第2回山陰キャラバン5日目の9月26日(水)の様子です。
北陸キャラバンの報告が入り、少々間が開きました。
本当は旅先からの報告でした。メーリングリストより転載します。

◆◆◆

昨日今日は出雲市泊、今朝は6時40分の列車で邑南(おおなん)町を目指しました。
普段は特急代をケチっているのですが5時台出発はさすがにつらいので本日は特急列車を採用。
大きなガラス窓いっぱいに朝の光が溢れてその向こうに青い海と空が広がっています。

邑南町は島根県中南部、広島県との県境に近い町で、
日本海側から入るには直線距離では江津(ごうつ)あたりが近いのですが、ずっと手前の大田市(おおだし)から1日2本の広島行の縦断バスが良いと教えてもらいました。

という事で今度は1時間半のバスの旅。
途中の世界遺産の石見銀山には目もくれず(半ば寝ている間に)バスはずんずん山奥に入っていくのですが、時折驚くほど人家が開けるところがあって、又山の中、いろいろな暮らしがあるのだなと思います。
バスも一息を付く邑南町の道の駅で下車、地元の農産物や名産品がずらっと並んで開店時間早々でしたが地元の人たちでなかなか賑わっていました。

そこから近くのケアハウスで暮らす品川始さん(89歳)は、映画の看板画家を夢見て弟子入りをしていましたが、そんな非国民のような仕事をとご両親は大反対、家に戻されたところで現役入隊。

実は品川さんのおられた連隊は昨日の難波さんと同じで(異なる中隊)、だからそういう中国でのお話も多少伺ったわけですが、その経験からその後のシベリア抑留を「捕虜になったらどの国もあんなもの。日本はもっとひどかった」ととらえておられるのは珍しい例でした。
その一方で撫順の戦犯は主に将官の出来事と感じておられるようです(ちなみに難波さんは兵長)。

タイシェットでの抑留は伐採が主な仕事でしたが、合い間に絵の腕をかわれ壁新聞を書いたり、メーデーのプラカード描きをしたり、レーニンやスターリンの肖像画も描いたそうです。
通常の収録のあと車(!)で近くのアトリエに連れて行って頂きちょうちん行列など村の様子やシベリア抑留の体験を描いた油絵やアクリル画20点以上を説明していただき、こちらも記録しました。
地元や舞鶴の「引き上げ記念館」で展覧会もなさっているそうです。

明日(9月27日)はどうにか最終日、95歳のノモンハンが控えておられます。