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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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戦場体験史料館までの道順
ひきつづき、東東北チームの取材報告です。
最終日8月19日(木)に伺った、釜石艦砲射撃体験者の方のお話の概要と旅の様子です。
東東北チーム帰還直後に紹介するはずだったのですが、すぐに北海道チームの旅が始まったため、タイミングを逃してしまいました。申し訳ありません。

◆◆◆

東東北キャラバン最終日の昨日は釜石組と一関組に分かれて行動しました。

私は7時20分本八戸発の列車で漁師町を左手に見ながら海沿いをひたすら南下、途中リアス式海岸を見るツアーの観光客がどっと乗ってきて、あっという間にいなくなった後はトンネルが続きます。
やがて釜石の小さな湾と小船がすぐ近くに見えて、ここを米軍艦船が取り巻いた日のことを思いました。
駅に着いたのが12時過ぎ。

今回のキャラバンで私が最後に聞いた証言です。

◆◆◆

◎千田ハルさん  86歳
母は病死したが父と兄一家、空襲で都会から帰ってきた弟、妹たち11人家族でにぎやかに暮らしていた。

◆昭和15年盛岡女学校卒業。
校風は当時としてはリベラル。
東京に就職したが、17年疎開が始り父に帰って来いと言われて帰省。家事手伝いに。

◆25歳以下の未婚女性の徴用令。
○昭和18年 横浜の玉川電気に徴用。
岩手県下で100名、釜石からは40名が参加。
盛岡で壮行会も行われた。一方釜石にも人は集められていたから、何故そんな遠くまで行かなければいけないのかは分からない。ヨレヨレの作業着を着て寮から会社まで歩くのが嫌だった。
2か月ほどで終了。
○今度は釜石製鉄所に徴用。
どうせ徴用を繰り返すなら正式社員になったほうが良いということで、釜鉄に途中採用、総務科のタイピストに。(タイプは東京で覚えた)
若い女性が10人ぐらいの職場だったから戦局は知っていても、どこか呑気で賑やかだった。

○釜石鉄鋼には重要産業として県内から農林水産業の従事者も集められた。
○盛岡師範学校や旧制中学の生徒もいて11寮あった。
○大橋(中国)や釜石(オランダ人技術者)の収容所からきた捕虜、20歳前後の強制連行の朝鮮人(2寮分)もいた。

◆4月。東京大空襲を受けて釜石も危ないということになり、学童疎開が始まる。
4年生~6年生、500名が山を越え遠野に移った。

◆7月14日 1回目の艦砲射撃。
○それまで特に空襲らしい空襲はなかった。
○正午前、急にサイレンが鳴り響き、防空壕に飛び込んだ。
職場ごとに入る防空壕は決まっていたがそこまで行く時間がなく、道路を越えたすぐ前の防空壕に事務所の30人で入った
○ど~ん、ど~んと音がして、地面が揺れる。
結果的には誰も怪我をしなかったが若い女性も多いので、悲鳴が響いていた。 
○艦砲射撃なんて考えたことも無かったので翌日まで大きな爆弾だと思っていた
○軍艦14隻が湾を廻りながら2時間射撃を続けたと言われている。

○2時間ほどで音がしなくなり外に出た。皆まず自分の家の方を見る。
駅前の釜鉄の象徴だった5本の大きな煙突が皆折れたり、倒れたりなくなっていた。町の形がすっかりなくなっていて、防空壕で震えていた時より出たときの方がショックが大きく、力が抜けて座り込んだ。

○家族はちょうど2日前に市の外れの家(持ち主の農家が遠野に疎開)を借りて移っていた。そこに家族が真っ黒い顔をしてぞろぞろ集まった。
○翌日どうしても自分の家がどうなったか見たくて、姉と、がれきの山を乗り越えながら道のないところを行ったが、すっかり何もかも無くなっていた。
○飛行機の機銃掃射に追われる、建物はすべてなくなり身を隠すところがない。黒こげになった丸太にしがみついた。道路ではなく山川を逃げて家に戻った。

○こんなに大きな被害だったのに何故か敗北感がなく、いっそう頑張らねばと賢明に働いた。
壊れた高炉も復旧し、明日第10高炉に火を入れられるところまで来たとき、偶然か知っていたのか2回目の艦砲爆撃が来た。

◆8月9日 2回目の艦砲爆撃。
○この日は朝から警報が繰り返されたので出勤せず家にいた。
中心部ではなかったのですっかり疎開気分で防空壕もなかった。
○やはり正午前、攻撃が始まった。甥を抱いて押入の布団に飛び込んだが、音を聞くと艦砲射撃と分かった。
居てもたってもいられず山に逃げ、夏草の中に潜りこんだ。
そんなことをしても意味はないのに手で土を掘って、そこに顔をうずめようとした。
その時土の山が降ってきて意識を失った。
○警報解除で気が付くと、家族が皆土をかぶった中からはい出してきた。
家の隣の畑に4畳半も入るほどの穴があいていて、砲弾の破片が家中に突き刺さり、最初に隠れた布団も羽根が出て全部舞っていた。

○2回目の時は製鉄所の社宅も攻撃され、お弁当を分け合って食べていた仲の良い友人も、押入の中で弟を抱いて亡くなっていた。
一緒に横浜に挺身隊で行った友人も亡くなった。
○2回で5300発の砲弾が撃ち込まれたと言われている。
○死傷者の人数や名簿は未だ明らかではない。
市の公式数字は755名だが、郷土史研究家の資料で1035名。千田さんは1000名余と言うようにしている。 

◆8月15日 敗戦
○地下の事務所に集められて上司から敗戦を聞いた。
○負けるはずがないと思って、気合いをかけられ、自分でもそう思ってきたのに、何故負けたんだろう。
友人が死んだばかりだったからその悔しさや、でもほっとしたところもあって、訳も分からず涙が出た。
○何を信じて良いか分からない惨めさでぶらぶらしていたが、何も分からない状態から抜け出したいという気持が湧いてきた。

◆9月、疎開のこども達が帰ってきた。
友人が先生をしていたが、両親を亡くした子供がいて、それを告げるときが生涯で一番辛かったと言っている。
○食糧難は戦時中よりひどかった。
○一方戦争中は歌えなかったローレライや菩提樹など歌った。

◆米軍進駐
○進駐軍は40名で、製鉄所付随の立派な旅館に宿泊した。
○英文タイプが使えるのが千田さん一人だったので、10日間夜昼タイプを打ち続けた。
○米軍は女性の顔に触ったり、銃をもって男性を脅かし、便所のくみ取りをさせたりした。
お寺の敷物を持って行ったりもしたが、クリスマス会を一緒にやったりもした。

◆昭和21年1月 労働組合結成
○結成集会は星くずのように屋根一面に穴があいた工場で行われた。
○次から次への演説はよく分からなかったが、闇米を買うための一時金の要求、男女同権など大賛成だった。
○組合以外でも合唱団、読書会など次々にやった。
朝日新聞が盛岡でやった1週間の勉強会にも分からない乍ら出かけた。

◆昭和21年2月23日 詩人集団「花貌(かぼう)」結成。
○当初は花のように一つずつ違う個性を大事にしたい、美しいものを大切にしたいという心の渇望から詩人集団として始めた。
○朝鮮戦争が始まり「ただ戦争反対と言っても駄目だ」と思うようになった。
反戦を詠った詩を模造紙に書いて塀に貼らせてもらったりした。
「花貌(かぼう)」は艦砲射撃の体験談と詩と両方を載せる形となった。
身の回りに少しずつ声をかけ57年間、133号まで発刊、300数十名の体験を載せた。
○2004年、出来なくなってしまってから止めるのはよそうという事で廃刊とした。

◆◆◆

その後夕暮れのシルエットとなった遠野を抜け新花巻まで2時間、そして新幹線で板橋着23時6分、今日から旭川のSさんに機材をバトンタッチして任務完了。
エコノミー症候群が心配で足を振り回しています。
順番は前後しますが、全国キャラバン「夏の陣」で伺ったお話の概要を随時公開していきます。
東東北チーム8月16日(月)2班の午前中の取材報告です。(保存の会メーリングリストより)

◆◆◆

◎須藤文彦さん
1921年(大正10)生 89歳 岩手県
最終階級 一等整備兵曹

小学校卒業後、海軍水兵に3度志願しますが、いずれも合格不採用。昭和16年(1941)5月、徴兵検査で甲種合格。徴兵として海軍に入隊することになりました。同年11月、両親の希望もあり結婚。19歳の新妻を置いて、昭和17年(1942)1月、横須賀海兵団に海軍整備兵として入団しました。
整備兵の同期生は2638名。須藤さんの所属した分隊は213名。分隊は13班にわかれ新兵教育が始まりました。4月、新兵教育が終わり、成績優秀だった須藤さんは空母「赤城」乗組みを命じられました。

5月、横須賀港で空母赤城に乗艦。飛行機は九州の基地にあって一機もなく、乗員の数もまだ少なかったそうです。
須藤さんたち新兵は、艦内乗員教育を受けましたが、いたるところにビール瓶や缶詰が散らばっており、いれずみをした先輩もいて、薄気味悪い物々しさを感じたとのことです。
5月下旬、横須賀港を出発して、呉の柱島沖に停泊。ここで飛行機搭乗員が全員帰艦し、須藤さんは赤城8分隊飛行班に配属となり、零戦の飛行作業に従事することになりました。

5月27日、赤城は柱島を出発し、2日後に「ミッドウェー沖に進出して、作戦に従事」する旨が上司から伝えられましたが、出発前からミッドウェー島に上陸作戦を行うという噂が兵隊たちにも知れ渡っていたそうです。
須藤さんは術科学校に行っていない最下級の兵隊(当時、三等整備兵曹)だったので、飛行甲板上での車輪(チョーク)止め係でした。作業は単純ですが、ものすごい風圧の中を動かなければならないので、危険度は一番高い持ち場でした。

6月5日、早朝に友永大尉率いる第1次攻撃隊を送り出した後、敵機の空襲を受け、迎撃に出た零戦の着艦、給油、発艦の繰り返しで多忙を極めたそうです。中には被弾した燃料タンクから、油がもれたままで発艦するものもあるほどでした。
敵機来襲で多忙中、兵装転換(陸用爆弾→艦船用爆弾、魚雷)を知らされて何が何だかわからないような状況になりました。もっとも、須藤さんが直接、命令を受けたわけでなく、兵隊同士のやりとりで知ったとのことなので、時間的関係や詳細は不明です。
須藤さんが見た記憶では、赤城の左方にいた飛龍に、次々と敵機の垂直爆撃が行われ、水柱で飛龍が見えなくなったほどだったということです。急に黒煙が上がり、飛龍がやられたと思いましたが、黒煙をはきながら全速力で敵攻撃を回避しながら、赤城の前方を横切っていったとのこと。もしかしたら、飛龍の煙突から出ていた排煙だったのかもしれません。

赤城に対しては敵機が機銃掃射しながら襲い掛かり、爆音と対空砲火の轟音で何も聞こえない状況の中、物凄い爆音がしました。須藤さんの話では、赤城の艦橋近くのエレベータ附近に被弾し、中部エレベータが前方に吹き飛んできたとのことです。
艦内は大火災となり、消火活動が始まりましたが、それと並行して、不時着したパイロットの救出作業を命じられました。「とにかく味方のパイロットを助けろ!」ということで、爆風で吹き飛ばされた水兵も助けを求めていましたが、それは無視してパイロット救助のみに専念したそうです。
中には敵機、アメリカのパイロットが漂流していたのも見ましたが、それも無視したとのこと。

その後、須藤さんは艦内の酒保にある可燃物を処分せよという命令を受けて、真っ暗闇の艦内に入り、酒保に入りましたが、突然の爆発で命からがら前甲板まで避難しました。7名の兵隊と一緒に酒保に行きましたが、その後、その7名は行方不明だそうです。
しばらくすると、前部錨甲板に集合せよという命令があり、そこに移動すると、艦長訓示がありました。左腕を包帯で吊り下げた青木艦長が退艦命令と短い訓示を行い、タバコをゆっくり吸った姿が忘れられないとおっしゃっていました。
いよいよ退艦ということなのですが、退艦も階級順に上位の者から行うということで、夕闇が迫ると階級なんか無視して、我先にと飛び込む者が続出しました。
須藤さんは命令を守ろうと思っていましたが、まだまだ三等兵も大勢いるし、「あとは来ないよ」という声もするし、ぼやぼやしていたら取り残されると思い、内火艇に飛び降りたそうです。須藤さんの後からも飛び降りる人がいて、定員になった内火艇は赤城を離れ、駆逐艦目指して走っていきました。途中、何人か海に落ちましたが、そんなのかまっている余裕などなかったということです。

駆逐艦「潮」に移乗した後、疲労のため寝ていたら、夜明け頃に起こされ、何事かと思ったら、「潮」の近くで「赤城」が真っ赤に燃え続けているのを見てびっくりしたそうです。てっきり全速力で内地に向かっているとばかり思っていたからでした。
「魚雷を発射して沈没させてから帰るので、赤城乗員は沈没するとき敬礼するよう」と言われ、赤城に魚雷が命中し、沈没していく様子を敬礼して見送りました。
その後、「潮」から戦艦「陸奥」、軽巡「長良」と便乗して内地に帰艦。九州の鹿屋飛行場の一角に移ったのですが、1ヶ月以上、隔離生活が続いたので閉口したとのことです。

昭和17年8月下旬、空母「翔鶴」に乗組み、ソロモン方面の作戦に従事。同年10月、普通科整備術練習生として内地帰還。昭和18年(1943)6月、鹿島航空隊配属、同年11月頃、高等科整備術練習生、卒業後、筑波航空隊、松島航空隊などに配属となりました。
昭和20年に入ると、特攻機の整備を担当することになり、予備学生出身の若い少尉などを見送ったそうです。

玉音放送は農家のラジオで聞いたそうですが、見送った特攻機のことが思い起こされて、「今頃何だ」「こんなにならないうちに言えばよいではないか。それを知らずに今日死んで行った友に、何と言い訳できるだろう」「軍部も上部も信用できない」と思い、今まで厳しい軍規で守られていたものが、一気に崩れ落ちいくのが、はっきりわかったとおっしゃっていました。
全国キャラバン隊東東北チーム番外編、9月7日(火)の様子です。

9月6日(月)の夜、夜行バスで旅立った一行。
青森県八戸市でバスを降り、少し戻って、岩手県二戸市へ。
8月の全国キャラバン本陣では日程が合わなかった方の聞き取りに向かいました。
・・・が。なんと、ご本人が病院にお出かけになってお留守。ご家族の方によると、戻りは午後になるとのことで。
浅虫温泉まで行かねばならないため、取材は断念することになりました。
予期せぬ出来事に衝撃を受け、今後に不安を覚えつつ、再び青森県へ。当初の目的地、浅虫温泉へと向かうのでした。
全国キャラバン隊「夏の陣」本隊が戻ってきてすぐ、東東北チーム番外編がスタートしています。
浅虫温泉で、最後の戦友会にご招待いただきました。その途中、東東北チームの旅と日程が合わなかった方のお宅にもお邪魔します。
信州・北陸チームが帰りついた当日の夜から、保存の会メンバー2名が夜行バスにて青森へと旅立ちました。

◆◆日程◆◆

9月6日(月)
夜~東京より夜行バスにて出発

9月7日(火)
午前、八戸着→岩手県二戸市
取材場所:岩手県二戸市
体験者の方のお宅での個別取材
体験者の方
◎ルソン島。88歳。

午後、浅虫温泉へ
15:00ごろ~青森県浅虫観光ホテルにて、47師団(弾)131連隊第3中隊の最後の戦友会に合流。
体験者の方9名が参加されます。
会合時に、保存の会の説明時間をいただいた後、会食。

9月8日(水)
午前、ご招待くださった方他、取材に応じていただける方の聞き取り予定。
昼食後、解散。
保存の会メンバーは東京へ。
東東北チームの乗車券


8月19日(木)、20:00を回ったところで、東東北チームから、帰途についたとのメールが入りました。
八戸市を出発して、三陸のリアス式海岸沿いにローカル線で(!)釜石市へ。釜石で、釜石艦砲射撃のお話を伺いました。
その最後の聞き取りも無事終了し、新幹線に乗ったところでの報告でした。
新幹線の車両独り占め状態だったということです。

そして、深夜23:00を回ったころ、出発地点の戦場体験史料館に到着。
翌日から出発する北海道チームに、カメラその他の引き継ぎをして、東東北チームの旅は終了しました。
写真は、6日間お世話になった乗車券です。
フリー切符であまりにぐるぐると移動したため、何度も駅員に止められたとのこと。不審人物ではありません!それだけ長距離移動の連続だったということですね。

東東北チームは、9月に番外編として青森県浅虫温泉の戦友会にお邪魔することになっています。
が、ともかく、6日間の夏の旅は終わりです。おかえりなさい。
長旅お疲れさまでした。