あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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戦場体験史料館までの道順
東東北チーム第1班が8月17日(火)午後に伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎高橋久一さん

1921(大正10)年12月10日生まれ
 郵便局勤務

○1943(昭和18)年1月 現役
 横須賀海兵団入団。
 陸軍は大変と聞いていたので徴兵検査の時海軍を希望した。
 
○同年4月5日 土浦航空隊
 食事の準備を担当。
 このままでは身体が持たないと思い、抜け出すために受験を考えた。

○海軍経理学校入学
 1回の受験で合格出来た。同期は30名ぐらい。
 午前中は授業、軍艦の構成、被服の用意など。
 給料の計算の仕方のソロバン実習などもあったが、郵便局勤務だったので苦手ではなかった。

 軍艦勤務を希望したが「長男だろう、軍艦は駄目だ」と言われた。
 軍艦勤務となったものは殆ど帰っておらず、今思えば感謝している。
 約1年間で卒業、普通科衣糧術。

○1944(昭和19)年5月 郡山航空隊に。 
・同年11月1日 上等主計兵に 班長となる。

○1945(昭和20)4月 郡山空襲
・同年5月 主計兵長に 10数人の部下を持つ。
 2~3百人の被服の管理。
 特に軍靴と靴下はすぐなくなるので苦労した。 

○同年8月15日 敗戦
 米軍が進駐してくるので郡山市内の旅館に移動。
 旅館の窓から米軍が入ってくるのを見る。
 われわれの力ではどうにもならない。
 米軍への物資の引き渡し。
 
10月3日 復員
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東東北チームが8月15日(日)の午前中に伺った証言の概要です。
東東北チームは、この方と一緒に、終戦記念日の正午のサイレンを聞きました。

◆◆◆

◎高橋清光(せいこう)さん

●1925(大正14)年1月21日生まれ

●1942(昭和17)年7月 陸軍軍属
 同級生6名と軍に志願するが色弱で不合格。
 職業安定所にいた叔父に南方は止めろと満州を勧められ軍属に志願。
 兄が入隊しており(昭和20年ルソン島で戦死)両親は反対。
 ハンを盗んで志願した。
 満州への渡航費(自己負担)を親が出してくれなかったので、お寺の住職に理由を言ったら貸してくれた。

○満州第581部隊陸軍被服廠(奉天)。
 防毒マスクのチェック、被服の運搬にあたる。

●1944(昭和19)年 母死去の報に10日間休暇を得て帰国。
 反対を押し切って渡満し、それが最後になったので後悔の念が強い。

●1945(昭和20)年4月15日 現役
 123師団 工兵第123連隊、満州孫呉へ。
 ・肉迫攻撃の訓練。
  みかん箱ぐらいの箱を爆弾に見立て、発火装置のひもを服のボタンにくくりつけ、手を伸ばして戦車の下に飛び込む訓練。
 ・爆薬の量を決める実験。
  戦車の壁の厚さを想定してどれぐらいの爆薬が必要かをみる実験。
 ・陣地構築、防空壕掘りなど

○同年8月9日 ソ連軍参戦。
 ソ連機が飛んでくるのを見る。
 兵舎へ戻れと伝令があり、新品の軍服・戦闘帽・靴が支給される。
 負けても恥ずかしくないようにと兵舎の整理をして出発。
○数日後 ソ連軍の戦車が数十キロに迫まる。
 道路・鉄道・橋など要所の爆破にあたる。
 橋の爆破はまだ友軍が渡れていないから待てという情報と、ソ連軍が近づいているから早くと言う情報が交錯して混乱。
 橋の上に人馬がいるまま爆破してしまい水に落ちる惨状。
○8月13日 特攻命令。
 数キロ先の戦車への肉迫攻撃の命令。
 分隊長と高橋さん、日本人1名、朝鮮人2名の計5名に、天皇の命令として受けてくれと言われる。
 ハンカチとペンを戦友に渡す。
 戦車の50メートルまで近づく。
 夜間で見えないので分隊長の白いハンカチを合図としていたが、一人が急に反対に走り出したので気付かれ機関銃掃射を受ける。
 沼に飛び込んで首だけ出して暫く待つが機関銃はやまず諦める。
 戻った5人に中隊長は「まだまだ機会はあるから」と言ってくれた。
○8月19日 敗戦を知る。
 道の両側には両軍の死体が積まれ臭いがひどい。
○8月20日 武装解除。
 中国人が笑って見ていた。手を叩かれる。
 小石を投げつけるこども達もいて悔しい思いをする。

○9月 アムール州・ブラゴヴェシチェンスクに抑留。
 当初収容所には日本人700名、朝鮮人300名がいたが、朝鮮人が日本軍将校を集めてつるし上げを繰り返した。
 これが3~4日続いて対象が古参兵にも広がってきた。
 そのため1ヶ月ぐらいで朝鮮人だけ別の収容所に移る事になった。
 別れる時、一緒に特攻するはずだった二人の朝鮮人が「国に帰ったら是非遊びに来て」と言いに来てくれたのが嬉しかった。

 仕事は製粉工場での作業。
 門で身体検査があったが、小さな袋に小麦を詰め、靴や帽子の中に入れて持ち出した。手に握って出ると灯台元暗しで気付かれなかった。
 農場の仕事もありこちらも作物を持ち出した。
 ドイツ兵がいたが話そうとすると銃を上に向けて撃ち脅された。
 
 シラミがたかり、2~3日ごとに新しい卵が孵る。
 煮沸消毒が徹底するまでチフスで3割ぐらいが亡くなった。

 民主化運動が始まり階級がなくなる。
 とにかく帰りたいので赤旗の歌も歌った。
 復員の船で共産党の指導について怒鳴り合いが起きたが暴力事件はなかったと思う。

●1948(昭和23)年6月19日 復員
8月19日(木)、東東北チーム第2班が伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎小岩 京(こいわ たかし)さん
(旧姓:千葉)

1919(大正8)年3月生 91歳
本籍地:青森県
中国戦線~フィリピン~ガダルカナル~フィリピン

1940(昭和15)年2月 現役兵として歩兵第31連隊(弘前)留守隊に入隊。
1940(昭和15)年2月 満州・牡丹江に移動し、歩兵第31連隊歩兵砲隊に編入。
1940(昭和15)年5月 弘前に戻り、留守隊歩兵砲中隊に編入。
1940(昭和15)年8月 歩兵第52連隊(弘前)歩兵砲中隊に編入。
1941(昭和16)年3月 迫撃砲第3大隊第3中隊に転属。同月、中国に移動。
1941(昭和16)年5月 下士官候補生に命じられる。
1941(昭和16)年8月 第6師団(熊本)に配属となり、長沙作戦に参加。
1941(昭和16)年11月 武昌付近の警備任務。
1942(昭和17)年3月 第25軍隷下となり、上海からフィリピン・リンガエン湾に上
陸。
1942(昭和17)年3月 第16師団(京都)に転属。
1942(昭和17)年4月 第2次バターン作戦攻撃に参加。
1942(昭和17)年5月 コレヒドール要塞敵前上陸作戦に参加。戦後、マニラ付近の警備任務につく。
1942(昭和17)年9月 第17軍隷下配属となり、マニラ港出発。
1942(昭和17)年10月 ガダルカナル島・タサファロング岬に上陸。以後のガ島戦に従事。
1943(昭和18)年2月 ガダルカナル島を撤退、ブーゲンビル島ムンダ地区に上陸。
1943(昭和18)年5月 ブーゲンビルからマニラ、台湾の陸軍病院に転院。
1943(昭和18)年8月 台湾から広島、盛岡、秋田の陸軍病院に転院。
1943(昭和18)年11月 治癒、退院。
1944(昭和19)年6月 第105連隊(弘前)第3大隊第3機関銃中隊に転属。
1944(昭和19)年6月 宇品着。独立歩兵第379大隊(盟兵団 秋田部隊)付。
1944(昭和19)年7月 宇品からフィリピン・マニラに上陸。リンガエン湾水際陣地構築に係わる。
1945(昭和20)年1月 米軍、リンガエン湾に上陸。
1945(昭和20)年8月? 米軍の捕虜になる。
1947(昭和22)年1月 マニラ港出港、名古屋港上陸。復員。

太平洋戦争緒戦のコレヒドール作戦、そしてガダルカナル島作戦、さらに、戦争末期のリンガエン湾戦およびルソン島の戦いに参加されています。正直言って、生きのびたのが不思議なくらいの戦歴です。
まさに「生きている戦争の証人にふさわしいのですが、残念なことに、岩手弁の方言が強く、入れ歯のかみ合わせも良くないようで、私にはその証言の大半が聞き取れませんでした。ビデオテープには収録しましたが、聞き返してどれだけわかることか・・
軍や師団を転々としているので、部隊で戦跡を追っていくことが困難です。ガ島戦では上陸したのが、第17軍司令部と同じなので、軍司令部の直轄だったのでしょうか。
戦史叢書などでチェックしたいと思います。

北海道チームと競うように、東東北チームの証言概要がどんどん上がってきています。
8月17日(火)午前に東東北チーム第2班の取材レポートです。

◆◆◆

◎鎌田俊吉さん
1920(大正9)年12月生 89歳 
本籍地:宮城県(当時)
中国戦線~満州~シベリア抑留

1941(昭和16)年12月 徴兵検査 第1補充兵役に編入。
1942(昭和17)年9月 教育召集により歩兵第130連隊(仙台)に応召。
1942(昭和17)年11月 教育終了、引続き臨時召集。
1942(昭和17)年11月 歩兵第157連隊(佐倉)に転属後、第51兵站部隊(中国・漢口)に編入。
1942(昭和17)年12月 下関~朝鮮~満州を経て中国・漢口に赴任。
1943(昭和18)年10月 甲種幹部候補生を命じられる。
1944(昭和19)年1月 久留米予備士官学校に入学。
1944(昭和19)年8月 久留米予備士官学校を卒業。見習士官として原隊復帰。
1945(昭和20)年1月 少尉。第51兵站警備隊付。
1945(昭和20)年5月 第3独立警備隊に転属。
1945(昭和20)年6月 独立歩兵第25大隊に転属。
1945(昭和20)年7月 歩兵第373連隊に転属。500名を指揮する中隊長となる。
1945(昭和20)年8月 満州・奉天で終戦を迎え、ソ連軍に降伏。
1945(昭和20)年10月 シベリア抑留のため満ソ国境通過。ウズベキスタンの収容所に入れられる。
1948(昭和23)年7月 内地帰還のためナホトカ港出発。舞鶴港上陸。復員。

鎌田さんの所属していた第51兵站警備隊(呂6907部隊)は、軍需物資の保管・警備のほか、漢口と武漢の治安も担当していました。要するに「スパイ狩り」です。鎌田さんは、諜報部隊の連絡を受け、スパイを逮捕する分隊にいました。当初は兵隊として、予備士官学校卒業後は指揮官としてスパイ狩りに従事しました。自らの手でスパイを処刑したこともあったそうです。

久留米予備士官学校では、夜間でも活動できるよう夜目が利くよう訓練されたそうです。今でいうとレンジャー訓練に近いものでしょうか。ただ、特別な教育を受けたわけではなく、全員、そういう訓練をさせられたという話です。
同期にルバング島の小野田寛郎氏がいたとのことですが、直接面識があったわけではないそうです。

警備隊勤務時代は、物資を管理する側だったので物に不自由することはなかったとのこと。末期の昭和20年6月、歩兵部隊の指揮官として満州・奉天への赴任を命じられます。本渓湖で歩兵第373連隊の中隊長となり、500名の部下を預かる身となりますが、それまで警備隊勤務だったため、部下を持ったのはこれが初めてだったそうです。
ソ連軍へ降伏した後、シベリア抑留となり、ウズベキスタンに送られましたが、同地は乾燥地帯であり、シベリア抑留の一般的なイメージである「寒さ」はまったく経験しなかったとのことです。収容所の仕事は、レンガ作りが主だったのですが、予備士官を出ていた鎌田さんはその学識を買われ、化学実験室勤務となったため勤務も楽だったそうです。部下となったのは戦争未亡人となったロシア女性たちでした。
全国キャラバン「夏の陣」東東北チームが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

お名前の公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せています。今後もレポートが上がれば、その都度当ブログで公表し、こちらにリンクしていきます。

東東北チーム
訪問都道府県:青森県・岩手県・宮城県
日程:8月14日(土)~8月19日(木)

◆◆8月14日(土)◆◆

午後:
岩手県一関市
◎佐々木公男さん
戦地等:陸軍。ミンダナオ島

◆◆8月15日(日)◆◆

岩手県盛岡市

午前:
◎高橋清光さん
戦地等:満州~シベリア抑留

午後:
◎○○さん(匿名)
戦地等:満州~パラオ付近の小島

◆◆8月16日(月)◆◆

●1班
岩手県盛岡市

午前:
◎谷津田一郎さん
戦地等:中国~特攻隊要員(韓国)

午後:

●2班

午前:
岩手県一関市
◎須藤文彦さん
戦地等:海軍。ミッドウェー海戦。空母「赤城」乗員~空母「翔鶴」~特攻機整備

午後:
宮城県気仙沼市
◎畠山文男さん
戦地等:陸軍。ニューギニア

◆◆8月17日(火)◆◆

●1班

午前:
岩手県花巻市

午後:
岩手県盛岡市
◎高橋久一さん
戦地等:海軍。主計兵。

●2班

午前:
岩手県盛岡市
◎鎌田俊吉さん
戦地等:中国戦線~満州~シベリア抑留

午後:
取材キャンセル

◆◆8月18日(水)◆◆

青森県八戸市
午前:
◎大畑政次郎さん
戦地等:陸軍。通信兵。中国戦線。

午後:八戸図書館収録会
◎日当與吉さん
戦地等:ブーゲンビル島

◆◆8月19日(木)◆◆

●1班
午後:
岩手県釜石市
◎千田ハルさん
戦地等:釜石艦砲射撃

●2班
岩手県一関市
◎小岩京さん
戦地等:中国戦線~フィリピン~ガダルカナル~フィリピン