あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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戦場体験史料館までの道順
山陽キャラバンが2011年12月12日(月)に、高梁で伺った証言の概要です。
同じ連隊の違う大隊だったお2人からお話を伺っています。


◎石川操さん 1922(大正11)年10月5日生まれ
当時の本籍地 岡山県
陸軍 歩兵(軽機関銃)
17師団歩兵第54連隊第1大隊2中隊

◎武村博さん 1922(大正11)年11月11日生まれ
当時の本籍地 岡山県
陸軍 歩兵(軽機関銃)
17師団歩兵第54連隊第3大隊12中隊
下士官候補生になり最終階級軍曹

***
1942(昭和17)年12月25日 現役
 二人とも地区60名中9名の甲種合格だった
 歩兵第37連隊(大阪)に同年兵鮮明で入隊
1943(昭和18)年1月10日 大阪を出発
 下関、釜山、山海関、徐州を経て海州(江蘇州)へ、歩兵第54連隊に転属

武村さん じつ陽の警備
〇初年兵教育中に大隊討伐へ参加。
 敵地区で住民は逃げ、若い男が八路軍に裸で縛られ殺されていた。
 周囲のあちらこちらの集落が火をつけ合図をしているのが見える。
 一時間交代で初の歩哨に立ったが、クリークでガッガッガッガッ鳴いていたカエルが 一斉に静かになったので「来たっ」と銃を握りしめ身構えたが、何もなく終わった。
〇新四軍の本拠地では壁に大きく「死ぬな、母が泣く」と書かれていた。
〇1期検閲後下士官候補生に。
 好きだったわけではないが、軍隊が割に自分には合っていた。
〇1943(昭和18)年8月 コーリャン畑で八路軍が激しく撃ってくる。
 中国人による保安隊を最前線に出していたが大勢が死んで退却を始めた。
 准尉が軍刀を抜き止まれと言うが、死人の足をひこずって帰ってくる。
 中隊長は突撃せいと言ったが、准尉が「目標もないのに突撃したら皆死ぬ」と中隊長を何とか説得し、交互に下がった。砲弾が土にプスップスッ突き刺さる。
 前進はそうでもないが退却は怖い、しかし誰も負傷しなかった。

石川さん 泗陽の警備

***
1943(昭和18)年 上海集結 ニューブリテン島へ向かう。
武村さん 第1梯団 9月24日出発、10月5日ニューブリテン島・ラバウルに入港。
 駆逐艦で島南部のガスマタへ移動。
石川さん 第3梯団 10月20日出発、トラック島を出て間もなく爆撃を受け、両舷に落ちた。
 海軍の兵隊は水葬したが、陸軍の死者はラバウルに持っていき火葬した。
 ココボに徒歩で移動、そこから海をガブへ。

武村さん ガスマタ守備
 ラバウルは物資があったが運搬手段がなかったため食糧補給が出来ない。
 蛇やカエルを食べる。穴を掘っておくと朝になるとたくさんのカエルが落ちている。
 曹長が小さなカンガルーを銃で撃ち皆で食べたことがある。
石川さん ガブ守備 トカゲも食べた。

1943(昭和18)年12月15日 米軍上陸
武村さん
〇ガスマタに艦砲射撃があり、凄い音。照明弾も飛行機から落としゆっくりゆっくり落下傘で降りてきて昼間のように明るくする。米軍上陸があるものと武装して壕の中で銃を構えていたが、 米軍は西方のマーカス岬に上陸した。
〇敵の諜報機関がガスマタとマーカス岬の間に上陸しているという情報があり斥候に出ることに。
 僕の小隊長は横浜工専出身で英語がペラペラ、現地民のカナカ族は英語が通じたので、彼と7人ぐらいが行くことになり僕もついていくことになった。
 連隊長から恩賜のタバコを1本づつ貰い、悲壮な覚悟で出かけたが、敵に遭遇せず戻ってきた。
 カナカ族は当時割と好意的。
 上半身は裸で男性はラップラップという布を、女性は胸を出し腰蓑だけ巻いている。
 家に泊めてくれ、タロイモを食べさせてくれたり、こちらがタバコや缶詰を出したりした。
 オオコウモリを銃で落としたら喜んで食べていたが、臭いので僕は食べなかった。
 カヌーを漕がせ飛行機が来たら海に飛び込むしかないと思っていたが何もなかった。
 ジャングルには夜になると光る小枝が落ちていた、2~3本も集めると夜でも磁石が見えた。
石川さん
 1944(昭和19)年1月5日 ナカナイ山脈に諜報機関があるという情報があり、現地民2名に案内をさせた。
 今夜乗り込もうという時に2名を殺すことになって1名をジャングルに連れて入ったら悲鳴をあげた。そりゃあ何をするかはわかる。それを聞いてもう一人が逃げた。ロープで後ろ手にしていても向こうは命がけだから。
 小銃を撃ったが慌てているから当たらない。
 逃げた1人がすぐに伝えたので、行ったらそこはもぬけの殻で、食糧、無線機、発電機、暗号表が置きっぱなし、床下には銃器もたくさんあった。
 後で分かったのは、そこを必ず通らなければいけない所に銃口を向けて待っていて、いたら絶対やられていたが、現地民が逃げて言ってくれたから命拾いした。
 命は紙一重。

1944(昭和19)年2月25日 第1大隊以外の全部隊にラバウルへの撤退命令。
 トラック島の大空襲があり、ラバウルの航空隊や艦船は皆引き上げる事になったため 。

武村さん
 3か月間歩いて移動、アミエからナカナイ山脈を超えて島を縦断しガブへ、そこから北海岸線を移動。
 爆撃が続き、食料はなく、マラリア、栄養失調で死んでいく。
 15000人のうちラバウルに着いたのは7000名ぐらい。
石川さん
 半数ぐらい死ぬのは見込んでいた、それで良いと思っていたのだと聞く。

1944(昭和19)年3月6日 タラモア(北部)に米軍上陸
 第1大隊はガブにいたが、ツルブなど西岸からの撤退を援助するため2小隊をタラモアに出していた。
 そこに米軍が上陸してきた。
石川さん
 偶々師団司令部へ行っていたため助かった。
 連隊史では戦車に爆雷を持って飛び込み戦車が止まったと書いてあるが、実際には戦車が大きくて効果がなく止まらなかったらしい。
 小隊長と当番兵の2名だけが帰ったが、後はほぼ全滅した。
 小隊長は自分が初年兵の時の教官で立派な人だったが帰った。
 頭と足を負傷し、当番兵が担いでガブに帰った。
 お見舞いに行ったが身分の上の人だから「お前どこで何をしおった」とかは言わない。
 お見舞いを言うだけ、頭も足も包帯をしていた。

〈ラバウルへの移動〉
武村さん
〇19人は敵の艦船、飛行機の監視のために残され、無線連絡していたが、更にガスマタへの上陸もあって逃げ切れなくなって「われ突撃す」という無電を送って皆戦死した。
〇2メートルぐらいの背丈のミョウガがあり、それを下に敷いたり屋根にして寝る。
 雨季で午後になるとスコールが来る。”土人道”のぬかるんだところを歩くので1日5キロも進めない。
 ナカナイ山脈は1000m級の山が連なっておりジャングルでうっそうとして上は見えない。
 縄梯子をつけてよじ登るような急なところもあったが、現地の人が歩くかすかな道があった。
〇転進直前に米の支給が1度あり靴下に詰め込んだのを少しずつ食べた。
 おかずは粉味噌、粉醤油でおつゆに、カナカふきという小さなふき。
〇連隊砲中隊の中隊長が連隊の名誉にかけて1門はラバウルまで運ぶと言うので分解し、砲身だけで90キロある砲は連隊砲の兵が運んだが、彼らの装備を運ぶことになり実質2往復することに。
〇ガブ近くで部隊を丈夫な兵隊と弱い兵隊に分けた。
 丈夫な兵隊だったのでこれは米軍が上がったタラシアに行くんぞと噂していたが、結局丈夫な兵隊はガブからトリウまでダイハツに乗ることが出来2日で移動。
 トリウで後から来る部隊のための兵舎作りなどを行う。
 弱い方の兵隊は陸路を歩きへとへとになって1~2週間かかって着いた。
〇ツルブからの兵隊はさらに酷く至る所に白骨になったり息絶え絶えで。
 洞窟の外にこの中に〇〇上等兵という張り紙があるので入ったら体が下痢まみれで、水をくれというので渡したが殆ど飲めず手を出す何がないぐらいだった。
 座ったなり死んでいて、ハエがたかり地獄だった、ものすごい死んでいる。
石川さん
〇靴も破れ巻き脚絆を足に巻いたり、毛布を巻いたり。
 麻糸だから腐って底が抜けてしまい裸足になる。裸足になったらむごいもんだ。
 トリウまで裸足で辿り着いたが、生きているのにウジが湧いていて、今亡くなったばかりなのにハエがたかっている。
〇トリウで飯盒一杯白飯が食べたい、食べたら死んでもいいと言って本当に食べたけど死んだ者がいる。

1944(昭和19)年4月末 ラバウル着
武村さん
 その後は終戦まで訓練にあたった。農耕班を作りそこに入る者もいた。
 マラリア患者は沢山出て入院したり亡くなったりした。
 爆撃は毎日の様に来てそれでも亡くなった。オーストラリアから直接飛んでこられるし、艦載機もあった。
 下士官は測量を習って陣地構築に当たった。

石川さん
 第1大隊は撤退はトリウまででラバウルには行かせて貰えなかった。
〇敵情視察に行ってバラバラになって仕舞い重機関銃と衛生兵の2人だけ帰ってきた事があったが、衛生兵は捕虜になってシドニーに連れて行かれ終戦後早く帰ったが、大阪に出ていき戦友会などに誘っても出てこない。誰とも会わないようにしていた。
1945(昭和20)年2月25日
 サエ川河口の分掌に熱を出した兵隊の代わりで出た日に兵6名の分掌が敵1個中隊に囲まれた。
 昼の12時から撃ちあいを始めて夜の12時まで相手は下がらない。
 こちらがごそっとでも動けばどんどん撃ってくる、分掌の偽装の囲いもボロボロ。
 分隊長が「突っ込もう」と言ったが、分隊長の1歳年上の兵長が「なんも突っ込むことはない。死んでしまうだけだ」と言って湿地帯に気づかれず逃げる事が出来た。敵は這ってくるのを警戒していたからだと思う。
 湿地が音をさせまいと思ってもズボンズボンするが撃たれなかった。
 この時伝令に来た他の隊で3~4名死者が出たが、次にその場所を通った時死体は埋められて十字架が建てられていた。敵は紳士的な事をするもんじゃなあと思った。
1945(昭和20)年3月6日
 マブロの敵陣地を1個大隊で攻撃することになったが犠牲者が多く2名で斥候に出された。
 相手は同年兵だったが軍曹だったので自分を先に行かせる。
 イノシシと一緒で若いもんから前に行かせる。
 斥候と言っても30mぐらい前にいることは分かっている。
 戻って一人が爆雷を持って切り込み0mから大隊砲を打ち込んだ。これで敵が逃げたので切り込みに行った者も帰れたが、30何ぼの兵隊だったから戦後も行かせた者を悪く言った。
 大隊長も中隊長も小隊長も足をやられ、慣れていないものが軽機関銃を使うから機械は壊れ、軽機関銃隊もようやくもっている感じ。

武村さん
 指揮官は兵隊を殺さないことも大切、それは下士官でも同じ。
 葉隠武士の行け突っ込めの精神だけじゃ日本の兵隊は皆死んでしまう。
 下手な指揮官よりは経験豊かな下士官の方が頼りになることは多い。
石川さん
 惨めな戦闘だった。後から考えると行けば犠牲が出る、行けば相手も撃ってくる。
 行かんでもいいのに何で行きよったんだろう、後で思うだけ。
 それでも行って後へ下がらせてやろうと思ってたんだろうね。

〈ワニについて〉
石川さん
 トリウ川の岸でワニがいて重機関銃を一連打ち込んだ。
 小銃や軽機関銃では弾が通らず、重機関銃もその時は水に潜ったが、翌日浮いてきた。
 頭以外は皆で食べた。
武村さん
 ワニはジャングルの枯れ木の上に上がっている。近付くとばしゃ~んと下に隠れていく。
 斥候でも川の中に入るのは恐ろしかった。
石川さん
 1943年末ごろ斥候に行くときに船に2名乗っていたが二人ともいなくなった。
 ひっくり返されてワニに食われたのだろうと言われたが、気の毒なので戦死になっている。

〈機銃掃射について〉
石川さん
 トリウ海岸が機銃掃射を受けた。
 ドラム缶が水平に穴が開くほど低空から撃たれた。
武村さん
 ヤシの木も折れるぐらい、バラバラバラバラ薬きょうが落ちてくる。
 操縦士の顔が見えるほど低空で覗いて廻っていく。
石川さん 1mおきに穴が開いていく。

〈海野少佐(第3大隊大隊長)について〉
 兵隊上がりの少佐だったので兵隊思いで、演習の時も「兵は休め、下士官は集合」というような号令をかけていた。
 一度復員したが、巣鴨に入りボルネオに送られて処刑された。
 ボルネオ時代捕虜が脱走して中尉が射殺したことがあり、大隊長は作戦でいない間の出来事だったが、当の中尉は戦死しており責任を取る事になった。当時もう50歳前後で子供が3人いた。

〈何が運かはわからない〉
武村さん
〇南京でで4年兵(14年兵)が上海へ出発する直前に満期になって喜んで帰った。
 10月頃帰ったが翌年3月には召集があり、分隊長か何かで新しい兵隊を連れて行き、沖縄、フィリピンで大分亡くなった。
 巻き脚絆を代えてくれたり(古い兵隊は良いのを取っているので)、満期じゃ満期じゃと喜んでいたが随分亡くなった。
 この時成績がよく下士官になった人は残され文句を言っていたが、生還した者が多い。
〇自分の部落では同期4名が行って帰ったのは自分だけ。
 2名は第2大隊でブーゲンビルへ逆上陸して亡くなった。
 1名は一度内地に帰ったが沖縄で死んだ。

1945(昭和20)年8月15日
武村さん
 ラバウルは方面軍があったから東京から連絡を傍受した。
 ガクッとしてへたり込んだ。
 連隊長が皆を集め詔勅を読み軍旗を焼いた。
石川さん
 無線で聞いた。

〇しばらくしてからオーストラリア軍が1万ぐらい上がり、揚陸作業や将校の洗濯などありとあらゆる使役に使われた。
 ニューギニアから現地民が連れてこられ自動小銃を持って警備をしていた。

1946(昭和21)年4月24日 ラバウル出航
 リバティー船(7500トンぐらい)で3500人ぐらい詰め込まれて帰った。
 帰りの船で一人が亡くなり水葬した。
1946(昭和21)年5月4日 大竹に上陸、 5月6日 復員手続き
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山陽キャラバンが2011年12月11日午後、倉敷で伺った証言の概要です。
2回目の兵役、フィリピン中心に伺っています。


◎小野一臣さん

1917(大正6)年2月1日生まれ
当時の本籍地 岡山県

1937(昭和12)年 国学院大学卒業 徴兵検査
 歩兵第10連隊入隊(岡山)
1937(昭和12)年 4月 幹部候補生として仙台陸軍教導学校入学
1937(昭和12)年12月 上記卒業、原隊復帰、見習士官に
 800人中600番で、その後「おい600番」と呼ばれた
1938(昭和13)年 歩兵第110連隊(鷺3911)に転属、北支派遣
 河北省 保定、雄県の警備
 30~40人で動いていたの大きな作戦はなかった。
〇中国人がけしを栽培している
 缶詰の上を切った缶でケシの頭を傷つけて廻ると白い汁が出て翌日は乾き大麻となる。
 天津へ売りに行く間に日本兵や警察が取り上げて資金源にするので4分の1ぐらいに。
 彼らは筏の中をくりぬいたり髪に隠して運んだり旅芸人が運んだりした。
1943(昭和18)年 満期除隊
 同年12月 結婚
 県立倉敷商業高校の教員に、主に教練を担当、他に国語や社会

1944(昭和19)年5月 召集
 早々に呼ばれるだろうとは思っていた。
30師団(豹)に転属、平城に
 ※豹5448と記録されていたがこれは後の鉄5448との混同と思われるので平城にあった歩兵第77連隊か?
 小銃が小隊に1丁しかなくがっかりする、「これはどうなるか」と思った。
 草の上を這いまわっての訓練。
1944(昭和19)年10月 下関を経て台湾北部・基隆(キールン)
 米軍の爆撃を初めて経験する。
 港にいた駆逐艦が5機中3機を落とし火を噴いて落ちてくるのを見た。
 また爆撃機から後ろ向きに機銃掃射を受けた日本軍の戦闘機がキリモミしながら爆撃機に突っ込み、一緒に落ちてくるのも見た。
1944(昭和19)年12月 高雄進駐
1944(昭和19)年12月25日 ルソン島・北サンフェルナンドに上陸
〇輸送船はハッチの中の段がはずされ縄梯子がかけられて兵隊は皆船底に座っている
 バシー海峡、夜爆撃を受ける、船の後ろにどんどん落ちてくる。
 避けながら走れたが縄梯子が激しく揺れ登れないほど。
〇ミンダナオに行く予定だったが行けずルソン島に上陸。
 海岸には後半分が無くなった船、ヤシの中には揚陸された武器や弾薬があるが使える状態でない。
〇直前に歩兵第10連隊(鉄5448)の一部(爆撃で沈没した部隊)が北サンフェルナンドに上陸。
 この大隊長が両足を負傷したため豹の中隊長から歩兵第10連隊の大隊長代理で転属。
 実際には豹と鉄が入り乱れて行動している状況だった。
〇アゴー→ブンカン
 ブンカンの南では戦車隊が戦闘をしたが、日本の戦車は背丈もない。
 米軍の戦車に戦車が踏みつぶされた。

1945(昭和20)年1月 バギオの師団司令部に連絡将校として派遣される。
 ブンカン以南の部隊の状況報告と地図や薬を得るため、当番兵と2名でブンカンからバレテ峠を抜けバギオへ徒歩で移動。
 おしまいになって地図とか言っても仕方ないのだが。
 夜だけ歩き約1月を要する。
 ゲリラの襲撃があり拳銃を抜いて撃った、あたりはしないが。

1945(昭和20)年3月 陣地に帰隊
1945(昭和20)年4月25日 ブンカン~バレテ峠の陣地からの後退を命ぜられる。
〇後退の後衛をしろと言われる。
 もう戦えない、部隊はバラバラになって移動
 迫撃砲は3門くれたが1門につき弾が3発ずつしかなく使い方を知っている者がなく。

 教える余裕もなく最後まで撃つことがなかった。
 兵器はない、食糧はない、薬はない。
 米軍はジープがあるので、平地は歩けず山の中ばかりを移動
 セスナが30~50mぐらいの超低空を飛び、爆弾では面倒なので手榴弾を上空から投げてくる。
 歩き始めて1か月もすると本当に何もなくなって、ないと言ったら本当にない。
 中国で罹ったマラリアが出てき、テング熱も、5月末には後退も難しくなる。
 部隊の一番最後を歩いているので、通るところは死人の散らかっている所だけ歩く。
〇バナナやパパイヤの木を倒しその芯の白い所を食べる、木は一度だけ早いものがち。
 野生の芋があるが口に入れると口が腫れ上がって喉を通らない。
 カエルや蛇は御馳走、焼いては食べた、ナメクジも焼いて食べた。
 大きなカタツムリがいてこれも焼いて食べた。
〇帰隊時ある軍曹から「私の部隊は全滅しました。生きて帰ったのは私だけです」と報告を受けた。
 「馬鹿者!」と叱った、「生きて帰ったとは何事だ」と偶々言ったけど、ぐたっとしてしまう。そこまで行くとなんか言うと気弱というんか、倒れてしまう。
 転進してもバタバタ倒れる、気迫がないから倒れるんだから、きつく言わないと倒れる。
 きつく言っても倒れるんだけど 次々倒れる。
 倒れたらもう立てん、後から行きますって皆言うんだけど着いてきた者はおらんのよ。

 4月25日30名で出発して最後たどり着いたのは4~5人だった。
 気迫がなくなるんだな いや悪口は言えない 私も半分死んだようなものだったんだから。
〇夢を見る。
 兵たちが後から後から追いかけてきては追い越して後退していく。
 自分は歩けないからよたよたしながらついていく。
 大隊の副官が「おい」と声をかけたら座ったまま死んでいたが、その彼が霧の中を歩いていく。
 その光景が見えたのが最後でそのまま気を失った。
1945(昭和20)年7月 後退不能となり筏に。
〇当番兵が起こしてくれ歩いては行けないので谷に降りる。
 前の部隊から余った筏をもらいそれで川を下ることに。
 また意識を失い1週間から10日で意識が戻る。
 切り立った崖が岸に続くが、スコールが来ると一気に水位が上がるため、川岸の木のとても高い所に流された死体がひっかかっていた。
1945(昭和20)年8月 マデラ到着
〇川の谷から開けるところで岸にいた日本兵に声をかけ筏を引き寄せて貰う。
 廃屋みたいな所に1か月ぐらい生活、次第に日本兵が集まってくる。
〇セスナが敗戦の情報を撒く、日本軍の連絡将校が来たという話もある。
 将校連中が集まり軍旗の焼却式、神主だったので式進行を担当。
〇最初は北部の収容所へ、最後は南部のロスパニオスの収容所へ移動。
 収容所の金網の外には1面の十字架が並び、その下に日本兵が5~6名ずついると聞く。

 天幕に24人ずつ入る。収容所は2千人ぐらい。

1946(昭和21)年6月 佐世保に復員
〇奥様は、フィリピンは激戦地だと聞いているのでどんなんかなどんなんかと思っていたが、帰ってきた人たちの話で何かしら生きてるんじゃないかと思っていた。
 悲観はしていなかった。
〇公職追放令により教職に戻れなくなる。
1952(昭和27)年 高校教員に復職。
2011年冬の山陽キャラバンで聞き取りを行った方の一覧です。

お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
今回は、途中の旅の報告で体験者の方のお名前が出ていますので、ほぼ最初から記載しています。

山陽キャラバン
訪問都道府県:岡山県、広島県、山口県
日程:2011年12月10日(土)~12月15日(木)
※12月9日(金)前泊。

◆◆12月10日(土)◆◆

岡山市十一クラブ戦史研究会アレンジ

午前
岡山県岡山市

◎小林忠治さん
戦地等:海軍。駆逐艦「雪風」機関。ガダルカナル沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄特攻。

午後
広島県福山市
◎川相宗助さん
戦地等:陸軍。歩兵41連隊。中国。


◆◆12月11日(日)◆◆

午前
岡山県岡山市
岡山15年戦争資料センターの方と情報交換

岡山県倉敷市
◎小野一臣さん
戦地等:歩兵第10連隊、ルソン島


◆◆12月12日(月)◆◆

岡山県高梁市

◎石川操さん
◎武村博さん

戦地等:ニューブリテン島
※同年兵のお2人です。


◆◆12月13日(火)◆◆

広島県福山市
退職職員9条の会アレンジ
◎横橋保孝さん
戦地等:陸軍。満州~内地。


◆◆12月14日(水)◆◆

山口県美祢市
現地で体験集を発行されている方のアレンジ。
◎中島速雄さん
戦地等:陸軍。ビルマ。


◆◆12月15日(木)◆◆

山口県山口市

◎三好正之さん
戦地等:軍医。ニューギニア。

山陽キャラバンは、12月15日(木)の夜、東京に戻っていました。
帰りの飛行機はとてもすいていてびっくりした、ということです。

最前線からメーリングリストに投稿される時間と、ブログ係が更新できる時間とに差があるため、リアルタイム性に欠けるところがありますが、ご容赦ください。
帰還の報告と順番が逆になりますが、最終日の報告も、後ほど紹介することになると思います。

今回2人で始まった山陽キャラバンですが、ブログ係は2日目の昼ごろで離脱。
リーダーが一人で一足も二足も延ばす長丁場でした。お疲れさまでした。
体験者の方の急な入院等で直前キャンセルもありましたが、最終的に岡山・広島・山口3県で2名以上の方のお話を伺うことができたことになります。

現地の皆様、ありがとうございました。
山陽キャラバンの12月12日(月)の様子です。
メーリングリストより転載します。

キャラバンでは、この駅に来るのは自分の生涯で今日が最初で最後かもしれないと思う駅に降り立つことがあります。
今日降りた伯備線・井倉駅もそんな一つです。
降りて初めて知ったのですが、ここには井倉洞という鍾乳洞があるらしく、駅から見える山の風景も紅葉の下に中国の山岳画か何かのような独特の岩肌を見せています。

そこから更にタクシーで道に迷う事1時間。。。
運転手さんが「不安だねえ。昼で良かったねえ。夜はたぬきが出るんだろうな」(私は運転手さんが今たぬきに変わらないか不安だ!)と言う様な山道を幾つも越えて

30分の大遅刻でお約束の石川さん宅にたどり着くと予想外に、「石川さんに呼ばれた」という同年兵がもうおひとり。

お二人は歩兵第54連隊でニューブリテン島へ、それぞれ大隊は違ったので島内でおられた場所も違っていて
「その頃私は」と交互に3時間、お話をしてくださいました。
「〇〇村の〇〇は」がどんどん出てくる証言はまさにキャラバン、郷土部隊の性格がよく出ています(公開の方法が難しいですが)。

ちなみに石川さんはニューブリテン島製のトカゲの皮のお守り袋をお持ちでした。
(当然ながら中身は召し上がったわけですが)

帰りはこれもキャラバン恒例、89歳運転の軽トラで山道を激走、タクシーがすぐにわかる山のふもとまで送っていただきました。(実はこれで数千円助けられているのです)

夕方に山陽線を福山まで移動、明日は市内で「福山・退職教職員9条の会」の皆様のご協力の聞き取りです。