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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
岐阜キャラバンが、12月16日(日)午後に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。


◎桂川慎一さん

生年月日 1929(昭和4)年3月30日
所属 鳳凰開拓団

※鳳凰開拓団について
 竹原村と中原村が1938年経済更生計画村の指定を受け、県下では最初の分村を満州に作ることになった。
 1940年、竹原村村議会議員を団長に入植開始。
 位置 満州国北安省徳都県南和村(現黒竜江省)
  北安街から北に20キロ地点
 敗戦時 大人の男性68名、女性60名、子供男性72名、女74名 計274名
 60世帯

 鳳凰開拓団での自決死亡者 206名
 濃飛開拓団での自決死亡者  9名
 引き上げ中に病死        9名
 ソ連に抑留中に死亡       5名
 行方不明              2名
 引き上げ帰還者         48名


1942(昭和17)年3月 一家で鳳凰開拓団に入植。
〇村の人々や子供たちが皆で日の丸を振って駅で送ってくれた。
 当時地域には2つの小学校があり400人近い子供たちがいた。
 同じときに行ったのは4~5家族、40人ぐらい。
 満州にはあこがれを抱いていたし、当時は地図の朝鮮も台湾も赤く塗ってあったから、満州に行くことは今の北海道や九州に行くような感覚だった。
〇父母と8人兄弟で渡満し(慎一さんは第2子の長男)、向こうで一番下の坊やが生まれた。
 祖母は寒い所は嫌だと名古屋の娘の所に行ったが、娘が結核で亡くなったため、1944年にあとから入植した。死にに行ったようなもの。
 父は敗戦時42歳。私は国民学校高等科の1年を終えたところで、開拓団であと1年学校に行った。
〇開拓団は米は配給があり(複数の開拓団を束ねる農協のような組織がありそこから配給された)、鶏は各家で100羽近く飼っていて、やがて乳牛なども飼うようになり食糧に困ることはなかった。

1945(昭和20)年8月11日
 開拓団はそれまで二つの部落に分かれて暮らしていたが、ソ連参戦を受けて私たち第1部落は団長ほか幹部の多くいた第2部落に引っ越しになった。
 この結果6キロほど更に奥地に入ることになって仕舞った。

同年8月13日 現地召集
 父親をはじめ残っていた団員に召集が来て出かけた。
 彼らはその後、結局敗戦と言う事で帰された。

同年8月15日 敗戦
〇敗戦は団長から聞いた。県から電話があったのだと思う。
 学校ではラジオでも聞いたらしい。
〇武器は家畜が野生動物に襲われるため持っていた。銃があり、機関銃も団に一つあった。
 手榴弾も持っていた。
 武器を返すように県からは何度も言って来たが県公署が遠かったし、武器は唯一の便りで従わなかった。
 ここで返却をしていたらあんな事にはならなかったかもしれない。

同年8月23日 若い男女2人が開拓団に逃げ込んで来た。
〇それまでも今後のことで議論は続いていたが、この2人がソ連軍が女性を襲い暴力を振るっている様子を伝えたので、皆死ぬ気になって仕舞った。
 18歳だった姉はそんな事なら自決した方が良いと言っていた。
〇ソ連の戦車が数キロの集落まで来ていると出入りしている中国人が言っていた。
 実際にはそんなに近くには来ていなかった。
 また後日実際に戦車を見たが大変大きく、集落に来るには必要な橋を渡れるはずがなかった。
〇本当は都市部まで近い開拓団だったから、そこに行けば途中死ぬものは出てもあんなに皆死ぬことにはならなかったと思う。
〇幹部たちは議論を繰り返していたが、酒やこれまでに蓄えたいろいろなものを持ち出し、それをあおりながらの議論になって来た。お酒は結論が出てから飲んだのではない。
 私たち青年団の者はその場にまったく居なかった訳ではないが、発言できるわけもなく、主に監視塔に上がって見張りをしていた。
 晴れ着を出してきて家族に着せるものもいた。
〇夜、いざと言う時には飲めるように赤いセロファンにモルヒネを包んで配られた。
 毒薬があるならまだいいが、モルヒネではすぐに死ねるわけではなく苦しむだけ。
〇家族ごとに遺髪を集め、開拓団で日章旗を掲揚していたポールの足元に置いた。
〇母は「死にたくない」と言っていた。
 祖母も自分は年だから良いが幼い孫たちは可哀相だと泣いていた。
〇3番目の弟が警察の通信の勉強のため旅順に行っていた。
 母と祖母はこの子が1人残されるのは可哀相だから、私と父だけは何としても生き延びるように言って、リュックを作りそこに食料などを詰め込んでいた。
〇父はI校長やほか数名と生き残り逃げる打ち合わせをしていたらしい。
〇姉が成田山のお守りにお守り袋を作ってくれて、首にかけてくれた。
 (現在も車にこのお守りはかけられています)
 また親しい軍人から貰った夜光時計をくれた。これはのちの逃避行でとても役立った。


同年8月24日
〇開拓団は周りを土塀で囲んで作っていたが、外には現地の人たちが真っ黒に取り囲んでいた。
〇青少年団が集められ校長から、
 「ソ連と戦闘になった時は自決用に最後の1発は残しておくように。銃口を喉にあてて足の指で引き金を引くので軍足の親指を切り抜いておくように」
 と指示された。
〇モルヒネを飲む時には団長の指示で私が半鐘を鳴らす事になっていた。
 監視塔の上にいると半鐘を早く鳴らせと下に集まって来る人もいたが、団長の指示は未だだからと頑張っていた。
〇鐘を鳴らさないうちにある人が自分の家の火鉢に手榴弾を投げ込み、火が出て藁ぶきの屋根に燃え移って仕舞った。
 手榴弾では死にきれず弟の同級生が飛び出してきたが、父親のYさんは青年団の私の先輩に撃つように頼んだ。
 先輩は酒の強い人で随分飲んでいた勢いもあったのかすぐに頭を撃ってしまった。
 Yさんは息子の遺体を燃える家の中に放り込んだ。
〇団長が自決を決意、合図の鐘を鳴らしモルヒネを飲み始めたが嘔吐するばかり。
 見かねて団員は次々に手榴弾を自分の家に放り込み、あちらでもこちらでも火の手が上がった。
 死にきれず飛び出してくる子供などがどの家もいたが他の家の団員が殺した。
〇先の先輩は飛び出してきた弟も銃殺した。
 弟の方も覚悟を決め合掌をし、先輩は「俺もすぐに行くから笑って死ね」と言って撃った。
〇私の家でも他の団員が手榴弾を投げ込み、3男と4男が飛び出して仕舞ったらしい。
 父は自分では撃てず他の団員に殺してもらった。
 私が見たときは家は激しく燃え上がり家族の遺体は見ていない。
〇家族の自決が終わってもすぐに団員の自決は起こらなかった。
〇父と校長たちはこっそりと抜け出した。
 私は前日まったく寝ていなかったので本部で眠り込み寝ぼけて仕舞ったらしい。
 父は私を起こし後ろに付いてきていると思っていたが私はまた本部に戻って寝てしまった。
 父は隣の濃飛開拓団まで行って私がいないことに気づき、私に来るように電話をしてきた。
 Yさんは激怒して「お前の父親は死ぬのが怖い臆病者だ」と私を怒鳴りつけたのが忘れられない。
 しかし団長は「桂川と一緒に行きたい者は行けば良い」と言い更に何人かが一緒に行くことになった。
 団長はまた「ここに団のお金が5000円あるから持って行け」と言ったが、お金の事なんかを考えるような感じではなく大金だが貰わなかった。
 1か月ほどして開拓団の集落のあったところに戻る。
〇あてもなく西へ向かったが途中で中国人に襲撃される事を繰り返し、これぐらいなら家族が死んだところで死のうとなって戻ってきた。
 開拓団のあったところはすっかり焼け野原になっていた。
 けれど死にそこなった人間は結局死ねない。
 あまりに悲惨な光景を見ると逆に本気で死ねなくなってしまう。
〇そこにいると、開拓団にいた“唖”の人がどこからか出て来た。
 彼は家族の集団自決の時に銃殺されたと思われていたが、弾は肩の肉をえぐったものの命は助かりどこかに隠れていたらしい。
 その後自分の兄弟たちもどこかで生きているのではないかと時々思うようになった。
〇女性でも一人負ぶっている年齢の子供と生き残っている人がいて出てきた。
 私もソ連と戦うから連れて行ってくれと言われたら断ることはできない。
 そもそもこちらも死に損なった人間だし。
〇開拓団の集落の前にいて関係の良かった中国人のリーダーが
 「お前たちは家族を殺してしまうとは何をしているのだ。とにかく北安街に出ろ。中国人の恰好をすると良い」とアドバイスしてくれた。
 残っていたお金やもので中国人の洋服をそろえて貰い武器は彼らに渡した。
 姉の夜光時計を中国人のリーダーに渡したら大変喜ばれた。

北安街に出てそこから列車で新京へ
〇日本人がいなくなった寮に入った。
 父は一番お金を持っていた菓子職人だった人と組んで空き家になった家を借りてきた。
 のちに寮ではチフスが流行ったので寮に居たら帰れなかったかもしれない。
〇菓子職人が菓子を作って父と私で売って歩いたが、売り先は日本人だけでやがて行き詰った。
〇居留民会が名簿を作り帰国を進めていった。

1946(昭和20)年8月7日 白竜丸で博多に帰国
〇コレラが出て乗船が2週ほど遅れた。
〇私の家は叔父の意見で土地を残していったので良かった。
 他の家は土地も家も全部売って出かけていたから更に大変だったと思う。
 暫くは生活することで懸命。
〇やがて開拓団から召集されシベリア抑留をされた人たちが帰国してきた。
 開拓団では彼らの出征の時家族のことは心配するなと日の丸で送り出していた。
 何も知らず帰国したら家族が殺されていたのだから反目は激しかった。
 私は敗戦時子供だったからそんなでもなかったけれど、父は相当きつかったと思う。


1977年8月 碑を竹原村のお寺に建立
2006年 開拓団のあったところを慰霊訪問
〇遺体は中国人が集めて埋葬してくれたと言う。
 大きな木が目印になって場所もおおよそ特定出来た。
2012年12月の岐阜キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
岐阜キャラバンは、皆様メーリングリストの日々の報告にお名前が挙がっていましたので、先に載せさせていただきました。

岐阜キャラバン
訪問都道府県:岐阜県
日程:2012年12月16日(日)~12月20日(木)


◆◆12月16日(日)◆◆

午前:岐阜県加茂郡川辺町
◎堀江辰吉さん
戦地等:1943年酒田日満技術工養成所に入所。学徒動員で20年4月に渡満。敗戦時奉天。21年7月に舞鶴へ帰国。

午後:岐阜県下呂市
◎桂川慎一さん
戦地等:16歳で敗戦、鳳凰開拓団(黒竜江省)、引き上げ中に集団自決が起こる。

◆◆12月17日(月)◆◆

午前:岐阜県高山市
◎谷口岩雄さん
戦地等:予科練、奈良海軍航空隊に配属されるも怪我のため帰京。
 高山市戦争を語り継ぐ有志の会会長

午後:岐阜県高山市
◎伊藤東市さん
戦地等:中国、工兵

◆◆12月18日(火)◆◆

午後 岐阜県高山市
◎瀬上藤士夫さん
戦地等:中国(歩兵第68連隊)→ビルマ(歩兵第67連隊)→敗戦時シンガポール(第7方面軍司令部、終戦処理を手伝う)

◆◆12月19日(水)◆◆

午前: 岐阜県美濃加茂市
◎和田昇さん
戦地等:少飛10期生。第4飛行師団司令部でフィリピン、1945年3月臨時野戦補充隊に編入されバレテへ

午前~午後:岐阜県美濃加茂市
現地協力者の方にご挨拶
◎佐野綾目さん
 戦争関係の本を中心に集めた伊深親子文庫を運営
 30数年にわたって毎年地元の「戦争記録」を発行しておられます
 今回の岐阜キャラバンは、この方にご紹介いただいた方が多いです。

◆◆12月20日(木)◆◆

午後:岐阜県輪之内町
◎田中秀啓さん
戦地等:1944年1月入隊、マニラ陸軍病院、1945年9月下旬投降
 「正光寺げてもの史料館」
岐阜キャラバン最終日、12月20日(木)の旅の様子です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

東京に戻っています。
本日の聞き取りは輪之内町、町ですがJRの大垣や岐阜羽島からバスで30分ほどで比較的便利な場所にあります。

田中秀啓さん(89歳)は正光寺の前御住職、境内のガレージに物品を集め戦争史料館を作っておられるという新聞記事を見てご連絡したのですが・・・
境内に入ると「正光寺げてもの史料館」の看板!
「げてもの史料館」なんていうものを開館して仕舞う89歳の御僧侶が面白い方でない訳がありません。


田中さんはマニラ陸軍病院に所属、衛生兵の教育を受けますが、配置された庶務課で担当したのは亡くなった方の御葬儀や御遺体の火葬場への送り迎えに合同慰霊祭、庶務課には他にも何人か衛生兵の僧侶がいたそうで、なるほど軍隊にそういう役割分担があったのかと妙に納得してしまいました。

しかし米軍上陸に伴い例にもれず山中へ。
「現世に地獄があるとしたらあれがそうだ」と、「地獄」は時折聞くことのある表現ですが、僧職の人があえてその言葉を使うと少し違った風に響きます。
「艱難辛苦と闘って生きるのは自決するよりずっと辛かった」
こちらは取材報告をお待ちください。


ちなみに「げてもの史料館」にはご本人の軍装や米軍から貰った米軍の水筒、こっそり持ち帰ったと言う注射器などを筆頭にアジア太平洋戦争関連の物品は勿論、シベリア出兵や日清戦争の記章や日露戦争の出征杯にとっくりといった時代のもの、そしてアイロンの歴史とかミシンの歴史とか髪飾りの歴史とか下駄のスケートとか、ありとあらゆる日常生活の上手物ではないものが所狭しとひしめき合っており(と言っても400平米と決して小さな空間ではないのですが)「ちょっと雑然としすぎていると言われるんだけどね」とのお話で、それはまあ言われるだろうけれど、これはこれしかないんではないですか! という感じ。
ああいうものが好きな人には1日いても飽きない空間だと思います。
(入館無料、要予約 058-469-2911)

◆◆◆

岐阜キャラバン、最後まで充実して終了の模様です。
岐阜の皆様ありがとうございました。
岐阜キャラバン5日日、12月20日(木)の日程です。

午後:岐阜県輪之内町
体験者の方
◎1944年1月入隊、マニラ陸軍病院、1945年9月下旬投降
 私設の史料館を開設、1000数百点を展示しておられるそうでこちらも拝見します

岐阜キャラバンも最終日を迎えました。
最後までよろしくお願いいたします。
岐阜キャラバン4日目、12月19日(水)の様子です。
メーリングリストより転載します。


本日は7時過ぎの普通列車で再び美濃太田へ降りてきました。
出発を早めて浮かせた特急代分、忘年会用の日本酒のお土産を豪華に。(もちろん会のお金ではありません)。

乗り合わせた女子高生たちが一斉にお弁当箱を広げ朝食を取り始めたのには面喰いました。
あと30分早起きすれば親御さんの負担も減るのにとおばさんな事を思いつつ、それぐらい車内は空いてはいます。
そのあと彼女たちは曇った窓ガラスに気になる人の名前を落書き。


和田昇さん(89歳)は17歳で東京陸軍航空学校に入学(少飛10期生)、実施教育中手を怪我して操縦から機上無線に専門を変えますが、赴任したチチハル第4飛行師団司令部でソ連領内への司令部偵察が行われていた様子を垣間見ておられたり、転戦先のマニラでは特攻の無線傍受に当たったりという珍しい体験もお持ちでした。

その後米軍上陸に伴い師団から野戦補充隊が編成され、急に陸上部隊としてバレテ峠に放り込まれる事になります。
右下腿に迫撃砲の破片が貫通、次いで左足付け根に砲弾破片を受けたときは肉の焼ける臭いがはっきり分かったと。
そして背中に砲弾の破片、今も腰椎の真横に残っておられます。
蛸壺の中で「死ぬ、死ぬ、死ぬ」と思った時涙が出て止められなく、その寂しさ、悲しさは言い表せないと何度も繰り返しておられました。
しかしこの負傷があったため他の重症兵を連れて皆這いながら動けるだけ後方に下がる事が許され、その後部隊は全滅しました。
今年の夏に出された絵と手記からなる大判の本を寄贈頂きましたので、ぜひ史料館でご覧ください。


本日の聞き取りは10時開始、昼ご飯を取らないまま午後3時までと大変申し訳ない事態になって仕舞いました。
和田さんもあとひとつ話したいお話があり、私も短くこれだけは質問したいと思ったら新たな展開が生まれ・・・
みたいな事で、2時頃には双方居直って(奥様も多分諦めて下さって)、どんどん写真で記録を取るべきものが運び込まれてくると言った展開に。(米軍が戦犯ではないことを記した書類や、復員書類、少飛同期生での寄せ書き(よくある日の丸とは違いメッセージを書きあっています)、捕虜時代に手作りしたステンレスの指輪等々・・・)
でも本当に褒められた事ではありません。

なお今日の聞き取りには午前中、今回のキャラバンに多くの方を紹介して下さった「伊深親子文庫」の佐野綾目さんが同席されたのですが、こんな展開でしたから殆ど御挨拶だけで終わって仕舞いました。
戦争体験の冊子を毎夏出し続けて30数冊を数えている方で、こちらも申し訳ないことでした。

本日は岐阜どまり、最終日の明日は輪之内町です。