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大学生の旅2013、11月16日(土)に伺った証言です。
メーリングリストより詳細版を転載します。

◆◆◆

◎栗野道雄(くりの・みちお)さん(88)
収録日:平成25年11月16日
所属:中部第○部隊〜飛行第44戦隊第1中隊
戦地:中支(漢口)〜朝鮮(大田・儒城)
――――――――――

○1925年(大正14)5月4日、岐阜県生まれ。

・父親は、染色業をやっていた。糸を染めるんですけどね。藍染を。

○1944年(昭和19)4月、専修大学予科に入学。

○1944年(昭和19)12月1日、中部第○部隊に入営。

・だから軍隊はね、大学へ入って、もう、3月、あ4月に入って、そして12月にはもう軍隊へ、引っぱられたんです。ということはね、そのころはね、文科系の学生はね、あの、延期がなかったの、軍隊の。あの、理科系人は、少し、あの、卒業するまで、あの、入隊か、軍務を延期されていたけども、文科系の者はもう、即、あれだったね。それからもう戦争逼迫すると、文科系も理科系ももう、ごちゃまぜになるんですよ、もう昭和20年、19年の終わりころにはあれだねえ、もう、ただし僕は19年の12月の1日に、えー、浜松の、静岡の、三方原いうのがあるんですよ、三つの、方角の方の、原っぱ、そこに飛行隊があって、そこへ、中部、中部何部隊、中部、ちょっと記憶がない、とにかく飛行隊が
あって、そこで、12月1日に入りまして、まもなくして、さっき、さきほども話したように、東南海大地震いうやつがあったんです。強大なその地震が。飛行場歩いていたらもう立ち眩みして、しゃがんでまって、それで僕一人だと思ったらそうじゃないもう、防火用水とか飛行機が格納庫から飛び出して来てみんなが、こうしゃがんでるような大地震なんだよね。で、その当時はもう、機密のあれで、一般には公開、あの、公開されなかったんですと、いう話だった。とにかく東海道線も動かないもんだから、一週間ばかり遅れて、外地へ飛び、あの旅立つ、ことになりまして、その時にあの、飛行場から浜松までの、駅までは、たしか歩いて行ったと思うんです。その距離は、三方が原いうとこから計って、あ
の計ってもらうとわかるけども、とにかくもう行って、浜松の駅を夜出たと思うんですね。それでその頃、今はあの、自衛隊の人はどっか行くと、家族が手を振って送るけども、そういうことは全然、軍の秘密になっていて、もう、人目をさけるように、あの、汽車に乗ったわけだ、ね。そして名古屋駅についたら、夜中の頃だったなあ、たまたまねえ、同じ、初年兵で、名古屋の、男がいましてね、それで今のあの、汽車といってもね、昔はね、こういうふうに開ける、あれがあるんだよ、窓が。今はもう全面で、開けない、開けられないけども、そしてもう一つ、扉が、あの、あったの。それはあの、目隠しになるんだ。二重になっていてね、それでそれをこっそりね、その、男が開けて、「あそこが俺の家だ」
言ってやってるんだよ。でも、家族は全然知らないしさ、秘密でみんな行くんだから、でとにかくそういうような状態で、博多まで行きました博多。博多から船に乗るわけですが、その船に乗る時に、あの、年配者がね、シベリア出兵に、行って、そういうあれがあったんでしょシベリアへ出兵する、その、時に、あの、軍隊で、参戦した、経験者がしゃべっていたことを子供心に聞いていたんですよ。「国を離れる時にはもう泣けてなけてしょうがない」と、ね。それで僕もそういう、あの、気持ちになるかと思って、あの、デッキの上から博多の街を見ていたらね、12月のあれだったけども、意外に緑がきれいにあって、そして、その、涙よりね、「ああこれからちょっと旅立ちに行くかなあ」というような、
感じなんだよ、ね。そしてそれから釜山へ、あその間に、玄界灘がいうのはその、朝鮮と、日本の、間、あの、12月はものすごく時化るのね、海が。もう大きな船だったけれど、揺れて僕らは船底だよこういう兵隊はね、荷物のように。その時にね、あの、元気なね、仲間がおってね、ケラケラ笑って、あの、出されるもの、あの食事も、へっちゃらで、食べとるやつがおったんですよ。僕らはもうへど吐きそうになって、青息吐息だったけどね。それらがね、しゃべっとるのが言葉がわからないの。顔は日本人だけどもその言葉がわからへん。あの、その、東北弁だったんだよ。秋田の言葉だった。ね。でその海をこえて、あのプサン、釜山、プサン、そこへ上陸して、船酔いは、終わりましたけれども、それか
ら汽車の旅になるんですよまた。あの、そのころ日本の鉄道いうのは、狭軌って狭かったんですよ。狭い狭軌。今は広軌って広くなってるけど、むこうのあの、あの、鉄道は、こんな広いやつでね。だから、客車なんかも広かったんですよ。それにまあ、とにかく詰め込められて、旅立ちするんだけども、行く先はもう全然秘密でしょ。それで与えられた、いろんな、着るものによって、判断するわけよ。南の方、へ行く人は、全然そんなもの必要ない、我々は、厚手の毛糸のあれを与えられた。「いやあこれは寒いとこへ行くんだなあ」と思って、ねえ。で、寒いとこいうと当時は、昔満州国と今は中国の東北という、名前になってる、ね、あそこに、その、鬼よりこわい関東軍がいて、まあてっきりそこへ行くと
思ったんですよ。でも、こう、朝鮮ずーっと行って、あの、鴨緑江いうやつがあります。あの、朝鮮と、あの、中国の間。あそこを渡って、そこには新義州いう、新しい義、新義州というとこがあって、こう左に曲がって行って山海関言って、山の、海の、関所の山海関通って、そして天津いうところへ中国の天津。当時は、中国のあれだね、商業都市やったねあそこはたしか。いやあこれはあの満州じゃなくて、こっちへ行くんだなあということを、ちらっと頭にひらめいて。それからもう毎日、汽車の旅行ですよ。僕は当時は林芙美子いう作家がいたですねえ、林芙美子いう。あの人が書いたあの、その、中国の、旅の思い出が読んでいたんです。「朝がきて、昼がきて、夜がくる。そして、朝がきて、昼がきて
、夜がくる」、その繰り返しが中国やと、中国の、大陸の広さをその人が言っておったんだよ。景色はほとんど変わらなくて、こういう、あれで、そして着いた先がその、揚子江、揚子江で、揚子江いうのは当時ねえ、今はもうみんな、鉄橋があの、あるけども、その頃はもう、鉄橋なんてないんですよ。そこで船に乗って、南京って南の京都、南京、当時はそこが一番首都やった、ね。今は北京があれだけども、で、南京へおりて、あの、上陸して、そして、20年のお正月は、南京神社いうやつがあったんだ当時は。もう日本は、占領したとこには日本的な、ものを作るんだよ、御宮でもなんでも。で南京神社お参りして、そして、そこで、えー、一日か二日いたかなあ、それで揚子江行ったんでしょう。今は長
江というんかなあ。それを、あの、ポンポン蒸気に乗って、とにかく、二日か三日でついたのが、漢口いうとこで、漢字の漢に口と書いて、そしてその対岸に武昌いうとこがあってもう一つ漢陽いうとこがある。武漢三鎮って昔は言ったんだよ。そこの、漢口へ、上陸したのが1月15日。

○1945年(昭和20)1月15日、漢口に上陸。

・で、そうしたら日本租界ね、その租界いうやつが、あの、もう、中国の、国内に、日本的なその、領地があったんだよ。フランス領、租界とか、日本租界とか、異国租界とかいってねえ、で、そこはもう、中国の行政は全然入れないの。今のあの、沖縄の、米軍基地みたいなねえ。そこに民間人もおるのが租界だったんだよね。そこが爆撃されて、燃えていたのが、その15日。これが戦争かと思って、と、聞くと、前の日に1月14日にきて、あの、空襲で、日本租界やられてと。それで「うわあこれがこういうのが戦争か、こりゃないぞ」って、こんなことがだんだん毎日繰り返されるんだろうという、頭にあって、まあとにかく中国の、漢口の、中山て、中山って、中の山と、中山公園の、それはね、孫文か
なんかのねえ、中山いう、なんかこれ、名前が、あっちでは、なかなか、貴い名前らしい。中山公園の、横を通って、漢口の飛行場へ着いた。飛行場へ着いて、宿舎は、あの、刑務所だったの、刑務所、ね。それを接収して、あの、軍隊のあれに使っとったんだね。それで個室みたいなとこに入ってて、そしてそこでね、初年兵教育は、3か月ぐらいあったかな。ね。そうするとね、中国、そのころ、あの、とにかくあのころね、子供も大人もあれやけども、軍事教練いうやつがあってね、軍事教練、鉄砲の撃ち方とかなんとか、ね。それをあの、その3か月でやるわけだ。飛行隊でもなんでも。それでそれが終わって、あの、各、中隊に配属のところに行くんだけこの、そのころにね僕はね、あの、凍傷になってね
、凍傷いうて、水仕事したことないでしょ、学生のころ。そうして軍隊ではやらなんでしょう、自分で。そしてその時にしっかり、タオルで拭いて、水気をとればいいけどもねえ、そういうこと、怠るともう、すぐここらへんが。で、あの、あれですよ、それで、ここらへんがただれちゃってねえ、もう、こんなふうになっちゃう。それで包帯巻いて、それでその時にね、どういう風の吹き回しかねえ、僕にはその、初年兵の代表でねえ、あの、終了する時にはね、なんか偉いさんの前でこんなことやってねえ、「栗野二等兵以下○名は本日をもって、教育隊を終了しました」なんて、申告するわけだよ。その役を仰せつかってねえ、僕はそういうこと嫌だ言ったけどね、班長がね、各班長、班長いうのはその、まあ
、各班に、ブロックの、あの、古い人が、あの、教える人がおって、自分の班から出れば、ちょっと鼻が高いんだよ。その班長達の競争で僕は、なっちゃってね、いやあそんなこといわれたって、とにかくやれって、まあとにかく、あの、配属されたのは、飛行第44戦隊第1中隊いうとこで、それは偵察機が一機おってねえ、で、その偵察機いうやつはねえ、あの、ゼロ戦だか、あるでしょう。飛ぶとスーッとこの脚が、しまる、それが出っ放しなんだよ。古いやつでね。それでも偵察機やっとったんですよ、ね。それでそれを飛行第44戦隊第1中隊で、そのやっぱり、一番、最後の兵隊で、あとからもう、内地からはその、送り込まれる人がないんですよ。ということはもう、あの日本海のあそこは、だいぶ機
雷かなんかで、あの、アメリカ軍の、あれに、あの、行動が制御されておったわけだ。そんで僕らはもう一年、一年生のままでおわっちゃったけどもねえ、そこで、感じたことは、飛行隊ってもねえ、我々は整備するほうにまわされたの、ね。そして、その飛行機に乗る人はまた別におるわけだ。だいたい少年航空兵いうてねえ、その当時はね、15、6歳で、その、あの、志願して、そして兵隊の教育受けて、そして下士官いうとねえ、そういう言葉をもう、兵隊というのはね、二等兵一等兵上等兵いうのが兵隊、それで下士官いうのはねえ、兵長伍長軍曹曹長いうのが、ちょっと上の人だ。だいたい少年航空兵はそのクラスにおったわけよね。それでその人たちは、あの、操縦して、あの、偵察に行くわけだ。そ
れでその準備をするのがその、整備兵の仕事ね、自動車の整備と一緒で、あの、点火栓を調べたり、この、そのころはね、プロペラでもね、我々は手でやるんだよこういうふうに。今はポーンとやるとダーッとなるでしょ、ジェット機やったらもうぜんぜんあれでしょ、そういう時代の、あの、古い飛行機でね。それでもその、空中勤務者になるとね、食事がぜんぜん違うの。一般の我々とは。しかしそういう人は毎日そういうのを食べてるもんだから、食べ飽きてるわけだよ。それで初年兵としてかわいがられておってね僕は。「おうお前は俺のこれ食べろ」ってね、よく回してもらったんですよ。ええ。それでまあ、僕としてはねえ、あの、空襲、は、一回あったけども、あの、機銃掃射いうて飛行機が来てババ
バーッとやるわけだよ。その時僕は一番に逃げたんですよ。逃げるんですよ、その、あの、みんな笑うけども、そんなボカッと、ボヤッとしとって撃たれたら、なんも名誉なことやないって、ただねえ、その当時は、とにかく死ぬことが名誉だいう思想、教育を受けとったみんなが。それが名誉の戦死だって。しかし、なんにもしないで死んではね、なーにも経済的にもプラスになりもせん、命ながらえて、あの、お国のために尽くす、それがあのほんとの姿やないかいって僕は、屁理屈だったけども、僕は僕なりのことでしゃべって、そしたらみんな「なるほどなあ」いうことになって、サーッともう逃げるようになって、危険は避けるべきだいうことで、ね、もうもたもたしとって死ぬのは何も利益がないって、
そういう、考えでおってねえ、それで、たまにね、あの、話は前後するけどね、ま兵隊、兵隊としての、楽しみはね、会食いうのがある。会社の会にね食べるいう会食。もう隊長からみんなこう、一杯飲みながら、食事をするんですよ。その時に、秋田の連中はね、民謡がうまいの、民謡が。秋田民謡。あの、船の中では朝鮮人やと思うとった人たちが。そしてまたそういう時にね、僕のあの、内地はあの、軍事郵便いうて手紙書けるんですよ。それで相手が出すと、それでしかし、書くときはみんな、隊長、あの、軍隊は、この、検閲するわけです。そして、僕はまあ、比較的、文章、あのころ、は、ちょっと、あれやけど、簡単にして要領のいい、書き方しておったんですよ。そしたらもう他の連中に、「手紙と
いうものは、貴様等こういうふうに書かないかんぞ」って、なんかこっち言われちゃってね、そういう思い出もありますしねえ、それに、あの、制裁というのは私的制裁いうリンチいう言葉があるわねえ、私的制裁は時たまありましたよ。もうあの、上の班長の気分が悪い時とか、ちょっとヒマある時は。でそういう時は連帯責任でね、たまたまその僕が、まあ、いうならば、今でいえば学級委員みたいな、僕らのころは級長みたいな感じでねえ、そうすると、何もしてない僕から始まってくんですよ。バアンバアンと。その時に、この、ベルトの、幅の広いやつでやられたり、そして、ゲートルでこの、あれでやられたり、あの、スリッパいったって、あれ、あれですよ、革靴の、鋲のあるやつの、古いやつを、切
ってそのスリッパにするようなやつ、そんなので殴られんねん。それで、そういうことは2、3回あったけども、どっちかいうとまああとは、その、のほほ〜んとしたね。古い兵隊でも、あの、かわいがられてね、あの、僕だけ特別にね、その公用いう腕章を出して、あの、町、出す機会作ってくれるわけですよ。そしてその、古い名古屋の出身の古い兵隊がその、例の慰安所いうとこにおってね、で、そうして、あの、なんか派手な、女の人の、着物を、はだけたような格好しよる、そうすると、その女の人が、あの、「兵隊サン、ゴクロウサンデス」いうてその朝鮮なまりの言葉、言うわけですよ。そうすると部屋ん中はあんたもう、そんな、カーキ色だけの世界やないですよもう。あの、浮世絵の絵みたいな、
感じの世界になるから、「へえー」大きい声でいってねえ、そういう経験してねえ、あの、普通の、初年兵の人よりは、外へ出る機会も多かったし、そういう、経験もしてねえ。
・外出する時に。ね、そうするとねえ、民家にねえ、こういろんな、物があるんだよ。それでねえ、ああいうとこにおると自然と覚えんのね、あの、カンカンテンホーいう言葉があるの。カンカンいうたら、あの、味わっていいですか、テンホー、テンホいうたらあの、いいですいう、カンカンテンホーいうと、ダメいうとブシン言うんだよ。それで、ハオ言うと、いいわけだよ。そうやってね、民家にね、ノコノコッとはいってってね、あの、チャンチュウてその、中国の、お酒を、こういうふうに舐めてみたりね、そして少年たちはね、むらがってきて、たばこをほしがるの。ね。そうして、あの、そこで、彼らがしゃべる、オーデーニーデーポンユーやなんて、私と、あんたはもうお友達というようなことで、
で、自然と耳につくのねえ、今の、あの子、石川君がやっとる、あの、英語のあれみたいにね。やっぱり現地におるとね、なんとなく覚えるのねある程度は。そんで、その、たばこ、と、交換すると、むこうの、金を、あの、くれるわけだ。そんなことやると、これだけども、あの、外へ出るときは、あの、周囲にこう、あの、鉄条網やっとって、こういうふうにやるわけです、群がってきて。それで接したと、接することとはそのくらいのことで、中国と、朝鮮民族の国民性はちょっと、違いますわねえ。中国の人はおっとりしてますよ。朝、軍隊で、訓練で、外出します、こういうふうに、あの、帰って、するとそこにボーッと立ってる人がおる。おそらくそれは別の人やと思うけども、帰って、帰ってきたら一
日その、作業とか、訓練終わって帰ってきて同じ場所にこんなような人がいるんですよ。のびやかにしてたね、その、戦争中の国民いったらもっととげとげしいと思うけども、あの、漢口の町そのものは活気があってね、あの、我々は関係ないけども、むこうの人はもう達観しておったのかなあれで。あのメイファーズいう言葉がね、もう、ダメだ言うて、あの、私らどうのこうのしたってあれだから、それに従わないかんいうような、あれがあるんだよなむこうは。あの、こういうふうに肩肘はって、抵抗したって、もうどうにも、現状は、あれだから、時期を待たなくちゃいかんいう、あれが、あったんじゃないかなあ、中国の人は。メイファーズいうて、なんでもメイファーズメイファーズいってね。うん。お
おらかでしたよ。朝鮮の人はちょっと、あの、まなじりをつけあがったような感じでね、あの。で、僕は、中国に対しては非常に親近感をもっていた。
・それはね、漢口の教育隊におった時やな。たまたまはじめて、一回だけやったがなあ、ババーッてあの、よく、映画なんかであるでしょ土煙が、あんなふうでね、それでその、防空壕いうてこう、穴が掘ってあるの。そこへ僕が一番はじめに飛び込むんですよ。そうすると笑ったり、馬鹿にするから、そうじゃないお前、こんなことで死んではあれだから、とにかくあの危険は避けて、やれよ言うて、そう言っちゃ悪いけども、そのころの軍隊ったらね、まだ、みんな、学歴、今はみんな学歴上がっとるけども、それで小学校6年生とか、あの、高等科2年で来てる人ばっかりでしょう、ねえ。それで、日頃のあれで洗脳されてまってるわ、お国のために死ね、名誉のことである、一家のためにやれいうて、天皇陛
下のためにって、それでとにかく戦死することは名誉やと思ってるんですよ、ねえ。名誉のその、とりかたが違う言うんだよ僕は。だからこれは逃げて危険避けて、あの、何して、あるのは、卑怯やいうて。その、ポポンと簡単に撃たれ死んだらお前、何の役にもたたないって。そんだから屁理屈やったかもしれんけども、僕はもうそういう考えでおりましたね。それで、あの、今ではね、僕はね、あの、天皇家にたいしては非常に尊敬の念をもってるんです。話が前後するようだけど、あの、日本の文化の象徴、あの継承者はあの人たちやと思うんですよね、それで、学生のころは天ちゃんとかなんとかいっとったけどね、今はあれですよ。それでその、ただ、戦争に行く時は、親父に言ったらこういったんですよ
、天ちゃん、天皇のために死ぬ気持ちはぜんぜんないと、親や兄弟や、ねえ、身内のために命を捨てるのが、あれやいうと、そしたらそういうことを言うと、すぐと憲兵に知られて引っ張られるわけですよ、今のなんとか法いうてやってるのはあれと一緒でねえ、もうあれは、僕はそのころは天皇陛下に対してはあんまり、あの、あれはなかった、今はものすごいですよ。
・中国大陸で、その、初年兵教育受けていた時に、あの、いっぱり、やがて春を迎えるいうことで、あの、種が撒いてあるわけだね、種が。それが芽を吹いとったいうことは、たしかに、記憶があるでなあ、ああ、こんなとこ、あの訓練とかなんとか言って、走り回っていいのかなあっていう気持ちはあったねえ。でもとにかく、あの、教育隊いうのは、初年兵教育いうのは、とにかく兵隊さんになるための準備教育だからね、その、3か月、弱やったから、そっからいろいろ自分の行く、隊へ、こう配属されていく。
・で、手紙のこと言えばね、僕はね、その頃はね、とにかく、軍の行動は、秘密だから、手紙も全部むこう、あの係の人がみて、ハンコを押して出すんですよね。検閲済みだって。で僕はね、今日は僕の誕生日5月4日僕の誕生日ですっていって書くんですよ。それで家につくのに相当時間がかかると、ああ遠くにおるんだなあというような、ね、それで朝鮮来た時は、日曜日に、ひょっとして、外出したら、つつみさん一家にお会いできるんじゃないかなあと書くんですよ、ね。そうすると家におる連中は、あ、つつみさんいうたら大田におる人だいうて、で僕は大田におる。それはもう、軍の人もう少しねえ、あの、しっかり頭働かしたらねえ、こんなことダメだっていうはずだけどね、全部通っとるんです。ま
あ、軍隊は要領をもって本分とすべしいう言葉もあったけどね、僕は要領、よくやる、だけじゃなくてね、なんとなくこう、人から、な〜、もう、いじわるはされなかったんだよ。だから、こんな呑気な、兵隊生活なっちゃうんだけどもね〜。
・2中隊も偵察機で、いて、で2中隊はね、その、あれやその、ソ連の参加した、8月の9日、2中隊同じにいたんですよ、あの、大田に。参戦いうことでね、すると、北朝鮮行ったこの部隊は。そして、シベリアに抑留になっちゃうの。僕ら1中隊は残ったけども、で、1中隊、あの、飛行機は1台。そこに整備兵と乗る人と、そういう人が、おるわけや。全員で何人ぐらいやろうなあ、50人ぐらいおったのかなあ。
・(偵察には)行ってたですよ。あの、ずいぶん中国のね、今日はあそこ行くって、行くと、はい行ってらっしゃいいうようなまあ気持ちでねえ送り出してさ。ただ、その、飛行機がねえ、今から思えば今の、高級な車の車ねえ、あれより簡単なあれやったと思う。高度計と、スピード計と、そしてもうひとつなんか、今なんかややこしいやつ車がいっぱいあるでしょ、操縦席行ったらもっと簡単なあれやったよ。プロペラやって手でこういうふうにやるんやから。
・整備兵の、卵やわね。そんなややこしい、整備はやったことないまだ。ただあの、木ネジの、ドライバーか、ドライバーのやりかたを教えてもらったの。それだけは頭にあるの。垂直にやらないかんいうことを、ね。鋲を締めるには垂直にやれいうことを、それだけは覚えたの。それからあとは点火栓を洗うの。点火栓ってあの、エンジンの、あれをガソリンで洗う。そら冷たいですよ。それで気にくわない人がおると、整備兵が、変な、あの、整備の仕方するんで命が危ないいうことは、そういううわさはあったね。現実にはそんな、墜落したいう話は聞かないけどもさ、整備兵は大事にしなあかんぞ言う。

・それからそのうちに、入院いうこともやって、普通やったら、「そんなことで、たるんどったからなるんだ」って怒られるんだけどね、あっさりね、入院の手続きしてくれて、それで、陸軍病院、あの、漢口でね、陸軍病院に、入ったんです。そうしたら隣におった同じような年頃のやつと話をしとったら、あの、こぐらざきなんとかいってたけど、「僕の親父は陸軍中将」って、大将の次ですよ陸軍中将。で、そに、漢口の、一番偉い人なんだよ。それで親父の副官が、僕をあの、車をもって迎えに来て、時たま、親父のとこへ行くといって、で、あの、一番初年兵が後ろへ乗って、副官の偉い人が前の、あの、助手席に座って、そして、なんか旗立てて行くんだよその頃はね。そうすると、衛兵がこうやってや
って、中を見ると初年兵が乗っとるわけですよ。ね。そんな漫画チックなようなね、話あの、経験もしとるんですよ。
・それはね、診断は気管支炎。のどの。だから普通だったらね、「貴様たるんどるぞ」って言われるんですよ。その、あの、病院なんか入るようなあれじゃねえ、それがどういうわけかね、僕はすらーって、入ってって。そして、マラリヤは、その、中国におる間に、感染して、朝鮮行ってから、発病したかなあ。あの、中国の病院退院して、こっちへ来て、南朝鮮へ、で、それから、マラリアの薬もらうように、あの、熱が出て、あれだから、これはもう、内地帰ってからもう二年くらい、そらすごいよこれは。遊びにいっとっても、その時間なるともう、わかるの。それで家へ帰って、真夏でも、あの、日光消毒してある、ふとんにくるまって「寒い、寒い」ってやってる。それで病気は、あのあそこにいる時は
、漢口にいる時は、気管支炎ていう極めて、軍隊においては、病気ともいえないような病気で、入院しました。そっからまた、運がよかった。
・いやあ、けっこういましたよ。ええ。だから、ふつう、マラリアいうと南方の病気や思ってたけども、中国にいたんですよ。僕が、実際に経験してね、そしてこっち帰って二年ぐらいは苦労しましたよ。夏になるとその、症状がでてくんで、あの、予兆がね。あこれはいかんと家へ帰って寝ておるんです。暑い暑い夏に寒い寒い言って。そうするとね、キニーネという薬があって、それを飲むと肝臓が悪くなるんだけどね、んー、それ乗り越えました。
・漢口の町もちらっと、上っ面だけ見たかもしらんけども、人ごみの中へ入っても、あの、そんなに危険を感じることもなかったしね。
・特攻隊いうのも見送りしましたよ。で、特攻隊にまつわる話としてはね、それは、おそらくそれはあの、世間では、絶対ない、ことやろうけども、なんかあの、行く、前の番はね、ものすごく荒れたんだって、そういう人は。やっぱり、お国のためや言うても、死にたくないんでしょう。もうドンチャン騒ぎで行ったいうて、僕はその現場は見てないけども、軍刀忘れて飛行機に乗った人とかね、そういう、まあうわさ話は結構でましたよ。あの、特攻隊でみんな軍神で、神様として崇め奉ってもう、完全、無欠の人やけども、人間ですよやっぱり、死ぬことにはね。それで、その飛行機で飛び立つ時には、帽を振れで帽子を振れってことでだーっと振るんだけどもねえ、そういう経験もしてねえ、その、銃弾の飛
び交う、その、経験はないんけども、戦争の裏側いうかねえ、軍隊にはそういうところもあったんで、せっかくあんな、あの、日用品とか着るものとか、食べるものを、そういう、むちゃくちゃなことして、周囲に、飢えた人が、たくさんいたはずやけど、わかちあたえることもなく、やってまったんですねあれ。それが、今、だったらもう許されないことや思うんだよねえ。
・あの、鹿児島のねえ、少年航空兵出身で、かつめ軍曹いう人とがいたんだよ。僕が大好きで人でよ、でむこうもよう話し相手になってくれてね。そんな初年兵を話し相手にするような、いない人やけども、その人がね、どういうわけか知らんけど、僕、部屋へ呼んでね、そうしてまあ、軍隊の、なんていうのかな、矛盾ていうのかな、あの、そういうことについて、ちょいとしゃべった、あの、しゃべった、ことがあるんだけども、その人が、あの、僕が、入院してる時に、退院してまず一番はじめに会いたいと思ったのその人だったんだよ。そうしたらいないと言うんだよ。その中共軍ねえ、今の中共軍、あっちへ、飛行機と、共に、逃亡したいうんや。んで、むこう行ったらなんか偉い位になってまって、なに
したいう話があったな。あの、その人ねえ、ほんとに、立派な人で、軍隊の非合理か、そういうことをね、しゃべっとった、二人で。そういう人も、いたんです。こういうことはほんとに、表に、活字には出来んような話やけどもさ、かつめさん、会いたいなあその人に。もう心ある人はねえ、そりゃ軍隊に入ってもねえ矛盾をかんじますよ。うん。だから、あの、えらくなるほど、そういうことを隠しちゃって、ねえ、おるけども、あの、まあ、心ある人は、やっぱり、戦争というものに対しては、真摯に考えないかんと思うんですよ。ええ。結局苦労するのは一番、したっぱの方が、苦労するだけで、だからあの朝鮮の時だって、あの、戦争終わって、ある部隊なんかは、偉いさまだけ飛行機で、あの、日本へ帰
ってまっとるんですよ。
・そして朝鮮へ、あの、本隊はもう、朝鮮きてまってやね、後からおっかけたわけですよ。
・6月のおわりごろに、そういう部隊がいっちゃったから、もうお前たちも飛行機で送るから、もう退院しろ言われてさあ、そうしたら、乗りきれないわけだ、入院しとる連中が。それで、列車で行ったんだけどもね、とにかく、6月の終わりごろかなあ、だから、厳密にいうと、朝鮮の生活も、2月ぐらいかなあと思って。

○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・そして、8月の15日、いよいよ、そのころね、ちょうど昼ごろでね。あの、当番としてあの、食事を取りに行く、当番で、山道を歩いておったんですよ。そしたらあの、なんか、あの、「発表がある」いうてね、12時に集まれいうことでね。それであの、例の、あの、我々にとっては一番、あの、終戦の日ですよ。そしたらね、あの、中国大陸にいる飛行隊は、第五、第五、五、第五、航空の、第五航空とかいうてたかな、正式なのは。あの、第一、第二、第三なんて、あの、南方にいるは第一とかだったような、で、中国には第五航空軍は、無傷やいうてねえ、もうあの古い兵隊は、叫んでおったですよ。「無傷だから我々はまだやる」って、ねえ。しかし、あの時になってホッとしたね僕は。そうしたら途
端にもう帰りたくなっちゃって。そやからあの、あの、あれですよ、すごい故郷恋しの気持ちになってまって。しかしすぐ帰れなくて、10月ごろまでおったんだけども、その間に、日本にはもうほとんどなにも、着るもんもあの、いいのはなくて、人造絹とかなんとかいうやつ、その当時はもう、軍隊いうのはもっとったんですよ、もう新品の服とか、ね。それで僕らはその、大田というところの、郊外に、儒城という、温泉町にいたもんだから、毎日、温泉通いでねえ、で洗濯すんのはめんどくさい、だから、毎日新しいもんに着替えて、それで古いやつを燃やして、ねえ、それ燃やし、古いやつだけじゃなくて、新しいのも燃やしきれなくて、それ小学校の校庭で、一週間ぐらいやったねえ、燃やすの。落下傘
、あの、パラシュート、あれは絹製のねえ、ものすごいいいものですよ、あれも燃やす、軍服も燃やす、それで中に着るものも燃やす、そして革製の、靴も燃やす、ね。航空隊の、その、空中勤務者の、靴は、半長靴いうて、ちょっとかっこいいんですよ。あの、半分のやつがあるでしょう、あれも新品のやつ、毎日ガソリンかけて火を付ける。そうすると周囲には、地域の住民がいっぱい見てるわけですよ。ね。こういうふうに、越えも出さずに、あれをあの時、みんなに分けてやれば、もう少し、気持ちは、あれだったと思います。そのくせ我々は、その後兵舎というものはなくて、あれなんですよあの、民間のその、ちょっとしたとこに、分散して、お世話になっておったんですよ。ただその時に僕の印象とし
てはねえ、そこの、おかみさんと、奥さんがねえ、キムチを、やったの、壷がたくさんあるんですよ。それを取りに来てもね、笑顔も一つ見せないんですわ。ね。やっぱりなんか、わだかまるものがあったんでしょうね。旦那さんの顔は全然みたことなかったけどもねえ。だから、いろいろ問題って、朝鮮がどうのこうと言ったってねえ、終いに、民間のとこへ押し入ってねえ、そういう生活してきたからねえ、ある程度、ほんとにしっかり謝罪せないかなんだと思うんですよ。それは、笑顔一つ見せたことなかったね。うん。そして、終戦のその日はね、ちょっと高いとこにいたから、下にその、朝鮮の、人の、ドンチャカ騒ぎ。もう夜を徹して。解放されたって。それからその、住民は、強くなりましたよ。あの
、たまたまね他の部隊の将校がね、誰かを、轢いたんですよ子供を。そうしたら昔だったらね、もう、轢き殺されても声も出なかったけど、みんな囲んじゃってその人をこれです。もう自分たちの天下になって。だから、そういう、僕としては、鉄砲一つ撃って人を殺すこともなかったけども、そういうね、軍隊の、軍隊より日本政府の矛盾やわねあれは。あんだけのものをあの、火に燃やしたということはまず一番もったえないことよあんた。それから思い出すのはなんだろうなあ、ああ、だからそういうわけで、食糧事情も、大変、良くなって、缶詰なんか毎日もういっくらでもあんだよ牛缶が。それ食べるのが、あの、飽きちゃって、なにが一番ごちそうだったかいうたら大根おろしやった。そして、豚の、頭
を切ったやつがドラム缶に、乗せて、そしてその日のその、豚の、あれでね、その日だけはその顔みてから食べれなかったけどね、そういうね、ひもじい思いもしてないしさ、ただその、あれ、沖縄戦争始まった時には、頭の髪の毛を少し切って、爪を切って、それを家族に送れるように、準備せよと、そういうこといわれて、ギクッとしたけども、まあ幸いそれもならずに、命長らえたわけでねえ、ほんとにあの、官費旅行しとったようなもんですよね、疎開しとったようなもんです。そういう兵隊もいたいうわけですよ。そらあの内地から、あの、中国渡った時はね、びっくりしましたよ。豚の、中国の人は半分切ってこうぶらさげてるんだよ。ねえ。店にダーッと並んでる。それで革製品はいっぱいあるんです
よ。それでこっちにおる、人はわらじみたいなもん履いておったんですよあのこのねえ、せっぱ詰まった時。だから、あの、ビルマとか、あの、南方で苦労した人の話聞くと、まったく浮世離れしたような話ですよねえ。そしてあの、古い兵隊でも比較的、古い兵隊いうとねえ、だいたいねえ、大学行っとるやつは、あの、狙われるんですよ。それもなしですんだし。それで、もたもたしたやつは、よく、私的な制裁受けてねえ、ウグイスの谷渡りなんていうねえ、こういう、高いとこに、足をかけてねえ、そしてここに椅子やって、こここういうふうにやって、もうそれで病気になっちゃった。だから、病気の、あの、あれも、経験したし、そして、マラリアにも、あの、漢口におる時に、なって、このマラリアい
うのがまたねえ、熱の出る病気でねえ、もうちょっと想像つかないけども、そういう、つまらん病気も経験して、一方ではそういう軍隊生活もして、そうして、あの、戦争終わってからは、もうやることないから草野球ですよ。で、草野球だけども、あの、だいたい古い兵隊がやるんだけども、どういうわけか僕を引っ張り出してくれるってね、それでライトで八番ですよ。ね。甲子園に出た連中もおるんだからね、草野球やってね、そうするとその、隊長さんが、こんな初年兵を、あんまり、会ったことがないから、「お前、大丈夫か」って、病院にはいっとったこと知っとるもんやから、「この人と俺のこと知っとんのやな」って、その人が半沢あきら言ってね、今テレビでやっとる半沢なんとかのね、あの半沢
なんです。だから今まで僕あの半沢あきらなんてね、もうほんとに、立派な古武士然とした人だからね、尊敬の眼できたんだけど、テレビであんだけ半沢半沢言うとね、なーんか穢れたような気に、垢が、手垢がついたような感じになっとる。僕が二十歳の時に二十七歳、その人。ねえ。威圧感がなくてね、親しみがあんのその。しかし尊敬せざるを得ないような人。で、だいたいあの人もね、軍隊いうのはね、上におべっこ使ってどーっと、犠牲にして上がってくのが、軍隊だよ、どこの世界でもそうだけどさ、あの人はそういうことをしなかったからね、おそらくその、飛行隊でも、偵察機という地味なところへ配属されてまって、やったんだけどもね、もうほんとに上がってくやつは蹴落として上がったけど、
その人はそういうやつじゃなかったんだよ。ね。だから、僕はね、そういうとこで人間を発見したしさ、そして、やっぱり、人の接し方も、出来たし、ね。

・少年航空兵なんていう連中は、操縦のあれでもってね、少年兵航空兵だったら十何歳のでしょう、やっぱ。それで、あの、終戦なったらね、その、子供達、みんなもう、明日の命がないもんだから、その、慰安所とかああいうとこへ、行って、練習をしておったんでしょう、病気をみんなもらってきてねえ、いわゆる、あの、花柳病、性病よ。あの、みんなここを自分で、治療しておったよ子供達。

○1945年(昭和20)10月末ごろ、復員。

・んーっとね、僕は自分でもう、10月の末頃やと思ってます。ということは、あの、広島をとおってきたでしょ、11月のそんなおわりやったら寒いと思うんですよ。で石炭の上に、あの、あれが、屋根のない、あれだから、もう普通に、あったかい気持ちで、これたから、十月やと思ってるんです。
・忙しい中に閑ありって、ひまの閑、忙中閑ありという言葉あるけども、忙を軍隊とすると、ねえ、軍隊の中におって、僕は閑、閑があったそういう、のんびりしたとこにいやはったんや、僕は。で、帰りは、釜山からまた帰りました。あの、仙崎いうところへ上陸して、仙崎から厚狭いうところに、あの、こういうふうに、厚い、狭いと書くのかな、厚狭いうところを周って、そこから、名古屋まで、無蓋車、あの、あれがない、石炭積むやつ、昔は石炭よく積んでた、その上に乗って、国へ帰りましたけども、広島を通る時は、ちょうど、あの、お月さんが出ていて、まあ、青白い光がね、墓場のような気がしたんだよ。人がぜんぜんいなくて。で、むこうにいる時に、広島に落ちたものは、新型爆弾いいよった
僕らはね、その時。新型爆弾で、ひどい、あの、被害を受けたいうことを。でそれでその時帰る時に見て、「ああこれが新型爆弾の跡か」と思って、墓場のような気がしたね。
・ただ、アメリカ兵の恐かった、いうことは、こっち帰ってきて、学校行って帰ってそれで、僕は中野の駅から降りて、高円寺の、アパートへ、帰ることがあった。そうしたらね、桃の園っていって、中野から、桃、桃、桃の園、あの、中野駅南口をおりて、斜め行くと、桃、桃の園町か、それがあって、そこでね、あの、むこうのガーッとやってきたですよ。それで僕は逃げて、あれだけどね、後で聞いたら、同じアパートの人は全部殴られたいう話でね。あの、米軍の、進駐軍でしたね。だから、だからあの、軍隊の時はその、生命の危険は、一回の、その機銃掃射以外、ないですね。
・僕は逃げたけどもね、人通りのないとこだったよ。それで、その日に、同じアパートの人が、後から来た人らしいけど、全部、やられたいう話でね。それは戦後のね、あの時代の話だからさ。黒い人やった。

○1950年(昭和25)3月、専修大学卒業。

・旧制大学の生き残りなんですね。当時は予科3年で、学部3年で、計6年だったんです。今は新制大学だから4年で卒業するけど、僕らの頃は予科3年やって、学部3年ということですね。

●最終階級:陸軍一等兵
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ややキャラバンとは違うところもありますが、大学生が遠方取材した証言の報告を掲載します。
メーリングリストより転載します。

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◎小牧治市(こまき・はるいち)さん(90) ※旧姓:林
収録日:平成25年11月16日
所属:中部第4部隊〜中部第2部隊〜陸軍経理学校〜南方軍経理教育部(岡543)【※威10345?】〜第7方面軍野戦貨物廠(岡10356)〜独立砲兵第13連隊【独立重砲兵第13連隊?】
戦地:ルソン島〜昭南〜レンパン島
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○1923年(大正12)8月7日、岐阜県生まれ。

・実家はお米屋。
・大垣商業学校卒業。

○1941年(昭和16)4月、法政大学専門部法律科に入学。
○1942年(昭和17)4月、専修大学予科(二部)に入学。
○1943年(昭和18)9月、法政大学専門部法律科卒業。
○1943年(昭和18)9月、専修大学予科(二部)卒業。
○1943年(昭和18)10月、法政大学法学部法律科に入学。
○1943年(昭和18)10月、専修大学経済学部(二部)に入学。

・結局、専修大学は一年遅れで、予科と、法政の、二年になって専門部二年で、そっから同時進行してやっていた。
・二重学生は普通じゃないです。私一人だけだったと思います聞いてる限りでは。で、大学は近い、近かったんですね。そうすると、専修大学に夜間に予科がありました。当時、探してて私が、東京では日大と専修大学が、あの、夜間の予科があったんです。で、専修大学は近かったんですね法政に一番。で、歩いてこう、昼終わると夜、そちらへ行くという。そういう生活。で、それは他の、学生、仲間には、誰にも言わなかったです。家へも言わなかった。家にも言ってない。それで、家からは、おこづかいを、ちょっと、余計、あの、もらうようにしただけで、行ってるとは言わない。
・それはね、あの、やっぱり私は大垣商業学校卒業なんです県立のね。で、あの、法政も、専門部法律で、やっぱり教養科目をもーっと勉強しないといかんだろうと思って、それで、あの、大学予科、どっかないかなと思って探して、入ったわけなんです。そんなことでね、あの、夜、あの学校に行ってるいうは、家族にも学生なんかにも言わなかったです。ずうっと隠し通して来たんです。自由料でもなんでも、もらうんやけど、たくさんもらうようにしただけです、家に。でまあ家はね、あの、そんな、なんにも理由も聞かないで、くれたからね、よかったです。
・で、学生生活というものは、そういうことで、友達が出来なかった、ほとんどね。あの、昼と夜の間に、時間があれば図書館で勉強するという、これがまあ私の、日課のひとつだったんです。で、専修大学の方は、夜間来られるんで、勉強の実力は別としても、非常に熱心でしたね、みんな勉強が。これは言えると思います。法政のほうは昼間で、親から仕送りでやってるんで、あの、もうちょっと、ね、遊びもやれば、のんびりしてました。だけど、夜の学校は、そうじゃなかったですね。それは、あの、よかったと思ってます。それで、教養科目のね、数学とか、高等数学とか、あの、哲学とか、倫理とかそういう方面を、一生懸命勉強するという意味で、あの、専修大学を出ていた。だからそこらへんがんばってました。がんばってたつもりです。それで、一番難関は、その間、試験というのはね、あの、昔の中学に比べて、回数が少ないですよ一年に一回とか、予科だったら二回、か三回だったです。夜昼、あの、学年試験とかね、試験なんかさがるんですよ。これはもうたいへん、こたえました。そやから、教室で、全て覚えるようにと、で、ノートは、あまり使わないで、本に書き込むと、教科書に。そういう方式で、勉強してました。はい。それはやっぱり、非常に役立ったと思うんです。ですから、あの、授業中覚えると、帰ってから夜、遅くなりますんで、あんまりできない、風呂入ったりしてると。すると、勉強すること自体を、効率的にするようになりましたしね。まあ、嫌いではなかった出来はよくなかったけど。嫌いではなかったですね。はい。
・それで、まあ、あの、徴兵延期、停止になりました。あれまあ東條さんが演説したかどうか、議会かなんかでね、急にポンとなって、せっかく、徴兵、猶予をとったんですが、その時に私は、体力が、みんな弱かったですからね。兵隊は向いてないと、いう気持ちも当然ありましたし、つらかったです学校教練も。ですから、まああの、勉強一筋でやってたんです。でもまあ、教練では、あの、なんですか、えーっと、配属将校言うのがおりましてね大佐の。“さいとうけんじろう”というのが法政ではありまして、あの、その方が、あの、非常にいい方でしてね、うん、大佐ですけどね。それで日曜日なんか、乃木修養会というのが当時ありましてね、法政には。乃木大将のね、あの、遺徳を偲ぶということで、乃木神社に集まったり、それから、さいとうたいさは、よくあの多摩のほうとかね、あの、あちらのほうへ、日帰り旅行とかいうのを、やってくれてね。あの、とても楽しく、いい、いい、あの、軍人だったですね。そういう、ようなね、教練でもだから、絞られるということはなくて、行軍なんか行っても休憩したりして、あの、やってるだけっていう、まあ、絞いうことはしなかったですね。うん。よかったと思いました。
・それでこれ、ああせっかく徴兵延期したのに、ダメだなあと思って、思ってたらもう12月1日、入営、というこうだから。しょうがないなっちゅう感じでしたね、せっかく、あの兵隊行くのはやっぱり、あんまり好きじゃなかったと思うんです。ですから徴兵、延期をね、どうしてもしたかったです。そういう意味もあって、まあ専修も、両方かけてりゃ、先週は予科だから、大学に自動的に行けるし、法政は、専門部だから、もういっぺん入学試験があるわけですね、学部。まあ、だけど、どちらもね、まあ無事入ったんですが、はい。

○1943年(昭和18)10月21日、出陣学徒壮行会(明治神宮外苑競技場)に参加。

・あんまり覚えてないけども、ねえ、学校ごとに集まったと思いますがね、あれ天気悪かったですかなあ。それで、あそこから、あの、靖国神社へ行進したんじゃなかったかなあと思いますが。ただ、その程度の記憶しかないです。

○1943(昭和18)12月1日、中部第4部隊に入営。

・それから、その次行きますと、徴兵、猶予が停止になって、あの、軍隊ついて、えー、最後の、最後のもう、授業ね、大学入ってから。印象的なのが、あの、これは法政大学の刑法の先生でしたが、「みんな、あの、軽挙妄動しないで、やってってください」と、あの「あまり、あの、体大事にして」と、言われたりね、言われている、そうやね、それであの、調子のってはいかんなあという、なるべく、控えめにやるようにというような感じだった思いますね。うん、よかったと思いますそれについて。専修大学では、“こいずみ“先生、”こいずみ”学長やったかなと思いますが、演説されたかと思います校庭で。それは、覚えてませんけども、“こいずみ“先生のお話があったと思います。それで、ずっと続けてよろしいですか?その後は、あの、徴兵検査ね、その間ずっとあって、私は、第一乙か第二乙、種になって、甲種にはなりませんこんな体だから。でも、あの、その結果、えー、まあ歩兵、岐阜の、今度ね、歩兵連隊、68連隊と言いまして、中部第四部隊と、そこへ、入営が12月1日決まって、その前に、あの、成田山とかね、新居浜とか、伊勢神宮とか、あの、この、なんぶ神社とか、そういう、縁のある、ね、あの、命に縁のあるような、神社をお参りしたと、いうことだけですね、その入営前はですね。それで入営したと。で、入営したら、あの、岐阜の連隊は、かなり厳しい連隊でして、あの、中国から、戻ってきた、部隊だったんで、厳しかったですね。だけど、12月いっぱいはお客様、若干お客様扱いでしょうね。割合、あの、和やかにやってたけども、正月過ぎたら、あの、かなり厳しくなって来て古兵がね。でも、そこでは、あの、古兵、といっても、あの、この地方の人ばっかりでしたからね、あの、自分の、村の、出身の方もいて、非常に、かわいがってくれて、あの、困ったことがあったら黙って俺んとこから、物を持ってってもいいとかね、何でも失ったら持ってけとか、助けてくれたもんで、非常に助かった、と、思ってます。殴られることも、あんまり多くなくて、まあ連帯責任だけは、まぬがれられないけども、非常に、あの、初年兵としては、あの、楽な、初年兵だったと思ってます。いい方が、上にいたから、村の方で出身で。知り合いではないけどね、私らよりは、5つ6つ、上だったです。まあ3つか4つだったかもしれんけども、上の方ですね。農家の方ですから。知らないけども、むこうは良く知ってた。僕は知らないけど、むこうは。それで助かったですね。はい。もうその方は、あそこへ、あの、えーっと、えーっと、グアムのこちらの、サイパン、サイパン行きましたからね。あの年の、5月か、5月ごろにね、動員が、名古屋師団にくだって、だから全部、師団長以下全部行きましたもんね。サイパンへいかれて亡くなってます。サイパンで。伊藤、伊藤、兵長か上等兵かだと。幹部候補生は全部のこったですね。
・それからあとは、その時に、一月になったら、あの幹部候補生の試験があります。幹部候補生の試験は、兵科、歩兵の兵科と、経理と両方あるんです。で、経理のほうが、優先でした。経理部幹部候補生になりました。で、経理部幹部候補生は、当時、そうですねやっぱり、文科系では、一番、あの、誰しもが、一番受けて入りたいという、ね、えー、幹部候補生ですから、まあ、よかったと思ってます。で、仲間にもいろいろね、慶応やとかどっか、人もおりましたし、なんかいうたけど、経理落ちた人たちは、あの、乙幹といって、乙種幹部候補生ですね、下士官になる、それでもいいから経理行きたいなんて言う、行きたかったって、よく言われたりなんかして。
・(仲間が自殺)それはまあ、神経的に参ってたんじゃないかなあと思いますね。よくわからないですけれども。あの、実弾演習の時にね、弾を、5発もらって、つめた、途端にこうたてて、あれ、小銃でも、引き金を、押せるんだね、頭に当てて、ドーンと。ちょっとあれはね、意外な出来事でした。隣ではないと思いますが、一緒に並んでたと思いますその時。もう、2、3人前からとか、前に、後かな。私は小銃、嫌いだったです、目が、あの、あんまりね、良くないのと、腕の力がないと、悪かったですね、安定しないから。びっくりしたですね、名前は、全然覚えてません。学徒出身です。

○1944年(昭和19)2月13日、中部第2部隊へ転属。

・で、経理部幹部候補生になってから、2月、名古屋の、中部第二部隊といいますかな、お城の中の歩兵連隊に移りまして、そこで、師団の、集合教育。各、師団の中の、部隊から来た経理部幹部候補生全部、教育するんです。で泊まりは、その歩兵の、中部第二部隊ですか、教官は、全部、師団司令部から来て、で、師団司令部の講堂とか、仮校舎っていうのがありまして、そこの講堂で、だいたい授業をやったと。えー、その時、あ、ちょっと前後しますが、経理部幹部候補生の、あの、試験ですね。試験科目は、あの、覚えてるのは、えー、インフレーションについてと、いう、一問と、もう一問は、えー、緊急勅令についてと、この二問があって、私はまあ、経済も両方やってたし、あの、よく書けたなあと思ってたんです。たら通ってたわけです。まあまあこのへんは、両方行っててよかったと、二つ、そう思っていました。そのかわり名古屋ではもう、集合教育ですね。集合教育は、あの、非常に、なごやかに、やってくれて、非常に、楽して、勉強したという、ただ、春先から、夏、初夏のころですから、講堂でいつも居眠りばっかりしてたと、思ってたんですね。で、教授も、教官がね、兵科の教官が、週に一回だけ教練、っていうのをやりますので、で、適当に、どっかね、今でいえば、まあ、軍隊で言えばハイキングのようなもんかもしれませんけども、あちこち連れてってくれてね、少し、演習の真似事をしては、あの、終わったりして、非常に、いい環境で、やってましたです。そのへんは、経理に入ったし、教官もよかったんで、たいへん助かったと思います。

○1944年(昭和19)4月3日、43師団長が交代。

・堵列というのはね、その、師団長が交代する時の儀式なんです。で、サイパンへ行く前にね、師団長交代したんです。前の、師団長は、賀陽宮さんと言って、宮様だったんです。だから、その、そういう方を、サイパンに出すわけにはいかないんじゃないですか。で、斉藤、斉藤中将というのが来まして。それからあの、師団長になって、新しい師団長が代る時に、名古屋駅の駅から、あの、兵営、のところ、まっすぐあの、広い通りをね、両側で、歩兵とか、幹部部隊から、あの、選抜されたのが、並んでお迎えする、そういう儀式なんですね。それを堵列と言いまして。だから、宮さまは戦地に出さないんだ。

○1944年(昭和19)7月1日、陸軍経理学校入校。(第十三期経理部幹部候補生)

・それから、その年の6月ごろだった思います。ここに書いてあると思いますが、東京の小平市、に、北多摩郡か、なんかだね、小平町と言いましたあの当時は。そこで、あの、そこへ、行きましてですね、そこで、そこは、非常み、大きく広大な敷地にね、あの、校舎が建ってて、あの、ここも師団の教育と同じようなもんで、昼間、あの、勉強ですね。この勉強が非常に合理的でね、詰め込みを、非常に、きついけども、もう、教官が、教科書ありますとね、教科書で進むけども、しゃべったことは必ず、あの、プリントをくれるんです。プリントで、で、翌日の、次の時の、その方の授業には、必ず小テストをやるんです。徹底的に覚える。だから、遊ぶひまはないわけです。夜は、12時就寝ですけど、11時まで自習ですね。夕食とかそういうことはありますが、あの、それ以外、勉強、自習室で。で自習室には、一期前の見習士官になった経歴のね、その方が、一人、一つの教室というか、部屋に、自習室に、一人はついててね、わからんことなんでもいいから、聞けということでね、居眠りもできないし、宿題もたくさん出ますので、あの、毎日毎日が宿題で、で、宿題とテスト宿題とテスト、それで、やったんで非常に合理的でね、いい勉強をさしていただいたと思います。あの、軍隊経理、全般のことですが、お金のことから、あの、食物ですか食べる物、食糧っていいますか、それから衣服いう、それから建築のこととか、もうあらゆる、兵器以外のことはすべて、その間に叩き込むという、非常に合理的でしかも、あの、詰め込みの勉強、非常によかったと思ってます、あそこは苦労はしましたけども、みんなそれに耐えぬいて勉強したと、いうことです。で、ただ、あの、経理部の幹部候補生、は、経理学校五か月で卒業なんです。あの、幹部候補生はね。ですから五か月の間の、二ヶ月たった時に、あの、急に南方へ行く要員を、パッと選び出された。いっぺんに発表になって、だいたい4分の1、ぐらいかね、南方へ、転属ということで、南方はあの、シンガポールにね、南方総軍の、経理教育部というのがあって、まあ、経理学校ですね、の分校みたいなもの。そこへあと三カ月勉強すると、いうことで、戦況が悪くなってから、あの、行けないといかんということで、送り出された。で残りは、東京で。私は南方へ、行った、南方軍で。
・会計とか、あの、資金前渡官吏、国のあの、大蔵省で言う、あの、資金、お金を、前渡、前渡しで管理して、それを払って、給料払い、物を買って払うと、そういう、まあ一種の、なんですか、会計上の、地位というか扱える、資金前渡官吏と、その下に、資金前渡官吏の分任官といって、もう一つ細かい、下士官ぐらいがなるのがある。それを命令するのは部隊長が命令する。だからお金の、責任は、全部、あの、経理部将校がやるんです。お金とか被服とか、食糧とか、建築の材料とか、そういう衣食住全部、経理部将校がやる、仕事なんです。建築もです。それから建築の勉強も少しはやる。被服も、織物屋とか軍服屋とかありよるの、素材とかね、ああいうものをやるんですわ。短期間に。建てることもやる、それの、授業、というかね。ただ、建築だけはね、経理部の中に、建技という、建築の技術いう、そういう、あの、私共は主計やけども、建てる、ほんとの建てることは建技の将校がやる。だけどそれの調達は、我々が主計がやる。
・で、経理部にはね、主計と、建技と、えーと、あとは、織物なんかのね、被服、あれの、技術が、なんつったかなあ、その3つがあったんです。だけども主計が、一番、金もなんか持ってるんで、主計が中心になって。

○1944年(昭和19)9月6日、門司出港。

・で、9月のはじめに、門司港で乗船して、あの時はじめて海底トンネル、鉄道の、で、わたったんで、あ、海底トンネルだということでね、門司港で、乗船して、南方行の貨物船に乗船して、周防灘で、船団組むために、一週間くらい、待船というかね、おき待ちをしてたんです。で、一週間ぐらいしてから、出港して関門海峡、それで、玄界灘へ出たと。その時の船団は、まあ2、30杯ぐらいの、大船団でしたよ。低速でね。その大船団で、行きまして、無事、基隆へ着いたんですが、その途中でやっぱり潜水艦が出たとか言って、潜望鏡が見えた、みんな昼間、あの、それと思ったんですが、それは、ビール瓶かなんか浮いてたんで、そこへ、あの、大砲とかね、あの、撃ちこんだけども、そこまで当たらないし、ったら「あれはビール瓶やった」とか言って、話して、それで、基隆の沖から、基隆というかあの沖から沿岸沿いで台湾を、高雄へ着きまして、高雄で、そっから、南、バシー海峡ですか、あの、潜水艦が多いんで、ここは船団を小さくするって、行くということで、5、6杯の船団に分かれて、ぼつぼつこう、出港して行った。で、その時に、嵐にあって、台風だと思いますがね、で、バシー海峡は無事に渡れました。かえって、台風、来てたんで、潜水艦むこう、来なかったと思う。
・戦地へ行く時は、もう、特に、そういう感慨うってる暇がなかったと思いますのでね、もう、自然の流れだなっていうような感じで、いました。ただ、内地はお参りするやら、武運長久を祈るような、ところだけが、最後の見納めだと思って回って行った。その程度ですね。で、戦地行く時はね、一番やっぱ印象に残るのは、門司の港、関門海峡出る時にね、船団ずーっと、海ゆかばという、あの、ねえ、あのありますね、あれをみんな合唱して、出て行ったのが印象的です。

○1944年(昭和19)10月5日、北サンフェルナンド・ポロ港に入港。

・で、最初に見えたのが、ルソン島のアパリという港がね、遠くに見えまして、昼また着いたら「ああ、あれアパリだよ」ってみんなが言いだして、それからずーっと、北側から、西へまわり込んで、リンガエン湾に、ポロという港が、サンフェルナンド、市の、あのサンフェルナンド、という、北サンフェルナンドっちゅう、あの、町があって、そこの外港ですか、港、ポロというね、きれいなところですがそこへ着いたら、ここでもう降りるんだって、降ろされちゃって、で、次の船を待ってたらなかなか来ない。で、そのうちに、マニラ経由で、あの、コレヒドール島の横を通って、シンガポールに向かったわけですね。で、ちょうどマニラへ行くころは、あの、レイテ島でね、戦闘がはじまったところなんです。だから、「おお、こら早く行かないといかんな」と思ってたら、なんとか、マニラから乗船できて、あの、レイテ、あの、ボルネオ、ですか、パラワン、島と、ボルネオの沖を通って、それで11月3日に、明治節といいますかね、今では文化の日かなんかですが、その時に、シンガポールの、岸壁へ、着船しました。そうしたら、むこうの経理学校から、迎えがちゃんと来てまして、トラックに、乗って、岸壁で、しるこかなんか、ふるまってくれて、で、むこうの経理学校へ着いた。フィリピンはね、あの、2週間ぐらい滞在したと思いますが、あの、非常に、レイテ、島付近へ、アメリカが、くるということを待ってて、どんどんどんどん、あの、あそこ、関東軍の兵隊がね、その、リンガエン湾というのはね、ポロという港が、サンフェルナンドとも言いますが、そこへ上陸をダーッとして、そっから歩いて、レイテ島へ向かってた。それはすごい、兵力だったと思いますが、でそこで、まあ民家、あの、やることないからね、私共は。そこで、あの、住民との交流がいろいろあってね、下手な英語でしゃべったりみんな、学生上がりばっかりですから、しゃべったり、物をやったりもらったりして、楽しい、ちょっと楽しかったです。
・もう、えーっと、あそこはペソですか、軍票ね。ペソですが、内地で、コーヒーが、あのころ、高くなってたかも知れんけど、25円とか30、あ、25銭ですね、銭です、25銭とか30銭ぐらい、東京ではね。あそこへ行ったら単位が一つ違って、25円、30円とか、50円とか、それだけ、軍票の価値が下がってた。それで、内地から持っていったお金、日本円ですね、軍票でなしに。我々は、着いた時は、軍票なかったですからね、で、日本円持ってって、あの、家でちょっと、いくらくれたか知らん、千円ぐらいもらってったかもしれんけど、どっかに書いたかもしれん、持って行ったお金、瞬く間にね、もう、20円とか25円でしょう、100倍も違いますので、あの、びっくりしたですけどね。
それでも、あそこで、フィリピンでは、もう、レイテ湾へ、アメリカが来るということを、わかってる、始まるというところだったのでね、インフレがダァーっときてはったです。日本円の価値が無くなってる。それでも、内地の、日本銀行券と、現地の軍票では、100倍までの差があった、10倍とか。まだ日本銀行券がましだった、軍票よりは。もう、戦争はじまるとそんなもん。それで、シンガポールへ着いたですね、シンガポール行ったら、内地よりちょっと高い程度で、コーヒーでもなんでも、飲めたし、安定、治安が安定してると、貨幣価値も、日本の信用力ですね、貨幣に対する信頼度という、それはやっぱりね、治安が悪くなり、戦争が始まるいうたら、日本円みたいの持ってたってなんにもならんというようなことで、ダアーッと落ちて。それはやっぱり、あの、経理部幹部候補生受ける時には、インフレーションについてって、出てた。やっぱり、ねえ、そういうこと、わかってるんだ、経理部はね。だから、それを心がけてなきゃいかんちゅうことでしょうねえ。
・軍票はフィリピンではじめてですが、軍票は、あの、手に入らなかったです私共。一時的に上陸しただけですから、給料をもらったり金を、あの、もらったりしたことないですね。だから内地から持ってった、日本円で、やってた。だからまだ、値打ちはあったけども、こんな調子やったら家では大金貰って来たつもりやけど、瞬く間になくなってすごいなあと思っとった。

○1944年(昭和19)10月27日、マニラ出港。

・で、あとは、ボルネオがねえ、もう高い山ばっかりばあーっと、ねえ、険しい山だと思って、山脈だなと思って、それとあの、石油の櫓がね、海岸から見えたりして、「ああここはボルネオだ」と。その時に、あの、ボルネオ沖ぐらいで、日本の、海軍の、レイテ湾へ突っ込んだ海軍のね、あの、艦隊が、戦艦、なんかずーっと10杯か10何杯ぐらい、すれちがったんです。「あ、これからレイテ行くんだ」って。そこであれやられましたね。

○1944年(昭和19)11月3日、シンガポール上陸。南方軍経理教育部に到着。
                  (第五期生)

・で、まあ、南方の経理学校は、内地の経理学校と、同じような、やっぱり勉強の仕方で、詰め込みで、むこうは暑いですからね、眠たいの、ありましたけど、あの、勉強させられたですね。それが終わったのが、もう、3か月ほど遅れましたからね、内地の経理学校より。
・正式名称は、経理教育部と言いましたかね、南方総軍の経理教育隊、南方総軍の中に、第七方面軍というのが、そこの指揮下で、経理教育。だけど南方総軍の、中では、あの、それしか、経理、経理の将校を、あの、養成する、学校っちゅうのが、なかったですね。
・だいたい、あと、島のちょうどこうひし形の、真ん中付近ですね、ちょうど真ん中ぐらいです。あの、ブキテマ高地っていうのがありましてね、一番高いところは。それはあの、南の方に、あの、政庁といいますかね、市の政庁ですね、政庁、まあ市役所のようなもんですが、あって、そこが、官庁街で、そっから、あのジョホールバルって、マレー半島の、あの、ジョホール州の、あの、州都といいますか首都といいますか、そこ、王様が住んでいる町ですが、その、間に、こう、ひし形のね、島があるんです。それがシンガポールで、その真ん中ぐらい、そこが、あの、ブキテマ高地って一番高いところより、ちょっと町よりの、シンガポールの町より南に寄ったところへ、ブキテマロードと言いまして、第一番の幹線の道路ですね、あの、マレー半島から、政庁のほうへ、向かって行く。そこの、あの、道路わきにありまして、で、それは、もともとは、あの、えーっと、中国人がね、えー、南洋華僑、中学とかいって、ああ高校ですね。高校があったとこです、華僑の。立派な学校でした。で、敷地も広いし、あの、緑も多いし、立派な学校。それを、あの、経理部、経理学校が、あの、使わしてもらってる。

○1945年(昭和20)1月31日、南方軍経理教育部卒業。見習士官。
                  第7方面軍野戦貨物廠(総務部輸送科)に配属。

・一月の、末、ですね、卒業で、最初配属になったのが、えー、野戦貨物廠、第七方面軍野戦貨物廠でシンガポールにある、あの、物資を集めたり、補給したりする部隊、そういう仕事をやってました。で倉庫と、あの、トラックもって、運んで、そういう仕事なんです。で、船の積み下ろし、で私はそこで、船からの積み下ろしの仕事をやってた。そこで、の状況と言うか、いろいろありまして、港も、あの、B29の爆撃機が来てやられましてね、えー、あれはインドのほうから来るんですね、あの、あそこは正論島ですか、セイロンとか、それから、ベンガル湾の、あの辺から、B29が来てね、100機とか100何十機とか、いっぺんに、港がやられてしまいまして、焼夷弾でね、もう、二日三日、毎日ごうごう燃えて、燃やしてしもうて。それでも、徹夜で積み下ろししてね、これは、非常に、やりがいのある仕事でしたですね。その、状況が悪くなって、貨物廠も、洞窟掘りを、シンガポールで、はじめたんです。これは、あの、総軍の、命令でしょうね、あの、作戦命令というのがでまして、で、貨物廠の割り当てが来て、ブキテマの、高地の、一番高いところですが、そこの、北側の、マンダイという、マンダイ・ヒルと言いますかね、マンダイ山とも言ってます。そこで、洞窟を私ら、掘りまして、3つ、1、2、3、4つ掘ったですか、3つか4つ掘りました。だいたい、ね、500キロか1トン爆弾でも耐えるような、洞窟を作れって、奥へ奥へと、それで、洞窟掘りの、技術も覚えました。
・輸送船の、荷降ろしと積み込み。内地やとか、南方各地へ。あの物資はね、内地からは、弾薬とか、これは私ら貨物廠の、あの、管轄じゃないです兵器ですからね。弾薬とか、ああの、そういうようなもの以外だと、主に、内地からあんまり入らなかったかな、それでもいろいろ入った、たばこはジャワ、ジャワ島から来たりね、お米はビルマから来たり、あの、集めて行ったんです。それで錫はマレー半島からと。それで、そういうものは内地へ送るんです主として。生ゴムとかね。で埠頭の、あの、岸壁のところにある倉庫へ集めといて、船が着いたら、あの、積み込むと。だいたい、岸壁に沿って、あの、上屋という、倉庫ですね簡単な屋根だけある。それが一列二列あって、この二列目の、奥には、あの、鉄道、マレー半島から来た鉄道が入って、で、そっから、一列目の倉庫は、船から降ろしたら、すぐそこへ入れると。あの、屋根ありますよね、上屋というか。で、主に、むこうから内地へは、生ゴム、錫、それからキニーネ、あの、医薬品ですね、生ゴム、錫、キニーネ、錫はインゴットですねこういう。砂糖、お米、そういうものを内地へ、送り込んで、で内地からは、お菓子とか、あの、缶詰類とか、そういうものを、どんどんいれて、で、徹夜で、岸壁の、下ろしたら、ただちにトラックに積んで送る倉庫へ送る、それが輸送科の仕事なんです。で、船の中の、作業ね、あの、フックにかけて、網を、網に乗せて、で、積み下ろしすると、それも、貨物廠の仕事なんで、で船の中の、下ろすまでは、こちらだけど、中は、あの、船のほうで、あの、あの、チーフメイトっつって、あの、一等航海士ですか、積み付けを、やるんですね、傾かないようにいろいろ、あの、重さを、調整しながら、そういうことをやるチーフメイトに、引き渡すと、チーフメイトは、ここへ積め、ここへ積めって、あの、ハッチプランつって、これを積みたい言うと、ここへ、あの、船倉ですか、一番二番三番四番五番とかいって、あるもんで、船の中仕切ってあるんです。あの、片寄ると、船片寄っちゃいますからね。だから仕切ってあって、この、一番の戦争、二番三番四番て、そこをむこうが指示してくるから、チーフメイトが、そこへあの、クリーとか兵隊を入れて、あの、もっこいうやつですね。あの、大きな、網です。このぐらいの、家ぐらいある、そこへ、あの、貨物をね、梱包したやつをダーッと入れて、あの船の中に吊り上げて、下ろすと。で、中は中で、また、あの、しっかり積むことをね、専門の、傾かないように船が動いても、移らないように、やる人がいて、そういう人が、やって、それが積み下ろしの、あの、現場まで、持って行く、トラックで、そういう仕事ですね、それと、上げたら、あの、倉庫に保管するんですね、貨物を、それをあの、保管の業務。倉庫をだからたくさん持ってる、貨物廠。それは、お菓子から食糧から、被服から、そういう物をいっぱい持ってる。
・僕は、ハッチプランちゅうて、プランをもらって、ね、ここへあの、運べ、っていって、渡すと、みんなやるだけです。
・そこで働くのは、捕虜と英軍の捕虜と、クリーです。クリーって、中国人のね、あの、労働者です。これはまた、クリーっていうのは力持ちですね。100キロぐらいのね、お砂糖や米の袋を、担いでトントントントンと歩いて、あの、行きますからね、倉庫の中でも向こうはサーッと、積み付けやってきます。中国人ですね、力持ちやっぱし中国人、力持ちやで。中国系が、7割ぐらいが中国人、中国人の町です。それで、あの、3割を、インド人とマレー人と、まあ白人は少しですけど、そういう町ですね。
・ドウフメン、洞窟掘りの時にね、英国の捕虜が、もう、日本軍がシンガポール落としたころからの、捕虜ですね。伍長でした、ねえ、日本語が、上手なんです。で、イギリス、ロンドンとパリか知らんが、で、貨物の、輸送会社みたいなのやってると言ってましたが、そういう人で、大学も、やっぱり、2つぐらいでてるようなこと言ってました。で、日本語がね、上手なんですよ。で、日本語が上手でねえ、あの、私がしゃべること、みんな英語に直して、むこうの捕虜に伝えるもんでね、私は便利で、英語習わなくて、済んだっちゅうような感じで、それが今、ねえ、その時に苦労して覚えりゃよかったなあと思う、そういう、あれ、インテリですね、むこうの。で、だから、私はいつもドウフメン伍長を置いといて、あの、仕事を命令しておった。
・終戦近くなってね、イタリアが降伏しましたでしょ、そしたら、あの、シンガポールに潜水艦が来ておったんです。それがみんな捕虜になって。捕虜として使うようになって。で、イタリアの捕虜は、仕事、さしても、ちょっと、僕もね、先入観があったかもしれんけど、乞食の国だっていうような、ことを聞いてたんで、やっぱりあの、日本の兵隊がたばこ吸うと、吸い殻ほかるでしょ、そうするとそれ拾って、また吸っとると、それは、イタリアの捕虜で、イギリスの捕虜はそういうこと絶対しないですね。やっぱり、誇りを持ってる、民族だなあという、イタリア乞食だなあというような感じ、そのくらいの感じで、でした。
・捕虜を殴ったり、そういうことはしなかったです。あの、私の部隊長は、“とが“部隊長という部隊長ですが、捕虜にはあの、博愛心をもってあたれと、殴ったりそういうことはしてはいけないということを、こんこんと最初に言われとるんです。だからうちの部隊は、そういうことはやってないからね、だから戦犯も出てないはずです。立派な隊長でした。大佐ですけれど、よかったです。誰も殴ったりね、虐待したりすることはなかった。
・台湾の軍属はほんとに、日本人と同じ感じで、働いてくれた、仕事やってくれた。で、朝鮮は、朝鮮の軍属は直接使ったことないです。台湾はいっぱりおりましたけれど、うちの部隊の中にも、入ってましたけど。朝鮮はね、空襲警報が、出ると、ね、みんなあの、持ち場をほかって逃げてってまうという、話を聞いてたんです。それで、しかも、あの、捕虜の、支給する、あの、食べ物とかいろんなものをね、それはうわさだけども、ピンハネして使ってる。で、全部行き渡らない、それでね。ピンハネするとかいう話を聞いてる。台湾の人はそういうことなかったですね。うん。それだけ、違ってたわけです。台湾はほんとに、いい方が、来てましたね。
・まあ、いい悪いというよりも、日本が、勝って、くれるということは、あの、嬉しいことだと思ってましたもんね、うん。世界に伸びるチャンスだと思ってますね、羽ばたくね。そういうような気持ちは、もう自然に起きてましたね。まあ、イギリスに勝つ勝たんとか、そういうことではなしに、戦争に勝って、あの、海外で、働けるというのは、いいことだと思ってましたね。旅行したりすることができるんだろうから、そういうようなぐらいの気持ちですね。だから関心はありましたけどね。えー、悪く、今のような、悪い印象を持たれるようなことは、しない、してないし、そういう考えもなかった。
・終り頃は負けると思いましたよ。もうシンガポール、それから、あの、レイテやられるころはね、もう危ないかなと思ってた。それは、感じてましたね。もうシンガポールで捕虜と働いてると、ねえ、日本はもうすぐ負けるよっつって、いうのが耳に入る、捕虜たちからね。だけどまあ、それは、我々としては、あの、快いものではないけども、そうなんだなというね、ことは思ってました。いづれは勝てないんだろうという、もう2月3月前から、捕虜の間では、そんなことはささやかれていたようですね。

○1945年(昭和20)8月10日、独立砲兵第13連隊に転属。
【※独立重砲兵第13連隊か】

・そんなことで、終戦になって、終戦になる時に、今度は、あの、ボルネオとか、あボルネオじゃない、あの、スマトラとかね、小スンダ列島とかねあの、あのへんから寄せ集めて来た、砲兵隊、で、あの、砲兵第十三連隊という、あの、連隊が編成されて、そこの大隊附主計になって、そこで、終戦、もうずうっと、復員まで、やりました。

○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・終戦の時はね、あの、私は砲兵部隊へ転属したばっかりです。そこで、あの、終戦の、まあ勅諭というかね、御言葉があるということで、将校は全部、あの、砲兵の部隊ですから、あの、全部集まりまして1ヶ所に。で、玉音放送を、聞くという。ただラジオは、あの、なかなか、聞き取りにくいことだったけど、負けたなっちゅうことはわかりまして、だけどその時に、本ちゃんの将校ですね。連隊長とかいう、あの、士官学校出たような、将校は、ほんと涙流して、あの、聞いてましたけど、まあ私は、もうそのへんは、あの、涙流すということはなかったです。もう、まあ、前もって、前々から聞いていたしね、捕虜からもね、それやからまあ、来る時が来たという感じで、あの、みとっておったという感じ
です。

○1945年(昭和20)8月20日、少尉任官。

・で、あの、終戦後は、英軍が、入ってきましてですね、ですから、英軍に、引き渡す、物資のリストとかなんか作って、英軍で作って渡したりして、やってまして、そのへんが引き継ぎが無事終わって、マレー半島の、あの、南部の方をね、あの、移動させられて、あちこちで、でレンパン島というところへ、あの、最後、送られた。

○1945年(昭和20)11月13日、レンパン島へ上陸。

・でレンパン島へ行く前に、検問、というか検査があるんです、一人一人、英軍将校、と、下士官兵がついて、4、5人で、一つの、あの、単位で、10ぐらいの単位で、動いて、ずーっと並んで、で、持ち物所持品検査やとか、あの、どこへ、あの、戦闘やって来たとか、そういうことを聞いて、戦犯を、そこで捕えたんだと思います、捕まえようとして。だけどまあ、我々の部隊はそういうのはなにも、ひっかからなかったです。そこで、それから、その前にもう全部書類なんか全部焼いてしまって、ないで、もう、裸のような形で、レンパン島へ行きました。ですからもうそこで証拠品になるもの、書類もなんにもなくなったです。で、レンパン島は、11月か12月に着きまして、そこで開墾して、開墾して
タピオカとか、サツマイモとか植えて、野菜とかね、で、自活、ですね、現地自活と言う、で、あの、食物を一緒に、野菜とか食べる物、野菜とか、そういうものを作って生活してたんです。それが、翌年の、3月、4月ごろ、から引き揚げが始まって、私共は、あの、うちの部隊は、一番後でいいっていうようなことで、一番最後のほうで、21年の、6月、6月ぐらいですかね、あの、最後の復員ですね、ほぼね。島中もう空になって。で、島は、道路作ったり畑作ったりして、かなり、開墾された、その状態で。

○1946年(昭和21)6月21日、レンパン島復員船V54号(リバティー型貨物船)にて出港。
○1946年(昭和21)6月28日、宇品上陸。

・で、内地着いたのが、7月の、6月のおわりか7月のおわりだったですね、約、2週間ぐらいかかったですかね、船の足が遅いから。そんなふうで、内地、宇品、広島ですね、あそこへ上陸しまして、あそこでDDTとかなんか、あの、米軍の、あの、消毒や検疫やられて、それで復員しまして、復員の時は、あの、帰る、先までの、切符ですね、鉄道のきっぷと、まあ食糧と、乾パンといっても、芋の、芋を焼いた、ような乾パンをね、一日、二日分か三日分ぐらい、くれて、それで、帰りまして、それでまあ、もう、学校は大学は、休みでしたからね、夏休みになってて。ったら、家のほうに手紙が来てるよっていうね、学校へ来てくれといってきてるよということで。それで、大学行って、手続きして復員。
それでその年の、21年の9月ごろから、両方の大学復学して、またずうっと勉強したんです。その時に、1年生は2か月ぐらいでしょう、正味1ヶ月も勉強してない、その時来たらもう2年生だって、夏休み過ぎてから、あの、下宿するとこもないのに2年生だって、で、2年生終わって、3年1年ぐらいしか勉強してないで、卒業ということでしたから、まあ、あんまり勉強してない、学生になってしまったんです。若いころは一生懸命やるつもりで、もう、その頃は、卒業だけ出来たらええよというような、あの、それでも、勉強としては、陸軍経理学校の勉強方法はね、やっぱり身に着けました。それで、短時間やけども、かなり身についた勉強が出来たと思います。1年足らずで、3年分、勉強したというような感じです。

●最終階級:主計少尉

参考:「私の軍隊手帳」小牧治市
メーリングリストに、今年になって最初の証言概要が上がってきましたので転載します。
岐阜キャラバンが12月19日(水)に伺った証言の概要です。


◎和田昇さん

取材日 2012年12月19日

生年月日 1923(大正12)年7月1日
当時の本籍地 岐阜県

陸軍
兵科など 航空(機上無線)、陸軍少年飛行兵(10期) 
所属部隊 第4飛行師団司令部、臨時野戦第2補充隊

1940(昭和15)年4月 東京陸軍航空学校に入学(第5期生)
1041(昭和16)年4月 熊谷陸軍飛行学校に入学(少飛10期生)
 操縦士としての訓練を受けていたが、実施教育の演習中に手の怪我をして1か月休むことになった。
 この時機上無線への転科を進められ水戸陸軍飛行学校で教育を受ける。

1943(昭和18)年1月 満州・斉斉哈爾(ちちはる)の独立飛行第53中隊に赴任
1943(昭和18)年8月 満州・佳木斯(じゃむす)の第4飛行師団司令部に転属
〇「司令部偵察隊はどうか」と聞かれた。良く分からないので「お任せします」と答えると転属が決まった。「初の偵察下士官だ」と言われていた。
〇部隊で使用していたのは100式司令部偵察機(新司偵)
 偵察将校たちは毎日国境を越えソ連領内に入って写真を撮っているようだった。
 ウラジオストックの東にある飛行場群が対象で、毎日連続写真を撮ってくる。
 毎日見ていると各飛行場が所有している飛行機の種類や台数、飛行場群の役割分担が分かってくる。撮った写真は大本営に直接送っていた。
〇国境を超える時は高度を取るように言われており、場所ごとに射程距離に入らない高度は把握していた。
 また越境する時は直線で飛ばないよう大回りをしていた。
〇自分自身は国境を侵入した事は無い。
 主に参謀に付き添いその機上無線の仕事をしていた。

1944(昭和19)年5月 第4飛行師団がフィリピン・マニラに動員下令
〇バシー海峡を蛇行して走行、私は飛行機の経験があり大丈夫だったが、皆船酔いが激しい。トビウオが水面近くを飛ぶのが魚雷と見間違えられる。
〇マニラ港では桟橋に遺体がゴロゴロしていた驚く。
 海に浮いた遺体を集めたものだった。

特攻の無線受信
〇ある日「身体を清めて集まるよう」命令が出た。「無線を受信しろ」と言う。
 これが最初の特攻だったと後から分かった。当時は特攻と言う言葉も知らなかった。
 特攻機は存在を知られてはいけないので突っ込む瞬間以外は無線封鎖され沈黙の飛行機。
 偵察機から何時にどこどこを通過と入ってくるのを受けた。
 この後何度か同様の任務はあったが、特攻隊員の無線を直接受けることは無かった。

1945(昭和20)年3月 臨時野戦第2補充隊が編成される
〇当時部隊はマニラからエチアゲに避難していたが通信士、内務班長などが一堂に集められた。
 外からも飛行師団の色々な兵隊が集められていた。
 参謀長がこの時初めて戦況を説明、野戦補充隊の編成(40ぐらい編成された)を告げ、バレテ峠で米軍を1日でも食い止めるように言われた。
 すーっと肝が冷える感じ。

同年同月 バレテ峠へ
〇峠に着き「金剛山」に掘られた壕に荷物を残して最前線へ向かった。
 荷物の見張りに既婚の召集兵を残したのは気遣いだったが、彼はひとり残るのを淋しがった。
 やがて爆撃で壕が崩落し彼は戦死したと聞いた。
〇”妙高山”に壕を掘って敵を迎える準備をする。
 自分は軍曹で分隊長だったが一番年下で、そもそも少飛出身者は周りには一人きり。
〇敵情偵察のため斥候に出て右下腿に砲弾の破片が貫通。
 中隊長には「ご苦労やった」「しかしこれからが本物の戦争や」と言われた。
〇砲弾が来るがそれこそ雨霰で何百発と来る。
 2~3mおきに1人ずつ蛸壺を掘ってその中に隠れ手榴弾を谷間に向かって放り込んだ。

 砲弾が頭の上で炸裂して、その破片が蛸壺の中に飛び込み左足の付け根に突き刺さった。

 焼肉のような臭いがして、熱さと痛み。破片は手で引き抜いて蛸壺の外に放り出した。

〇本隊に合流せよと言う命令が出て、朝暗いうちに壕を出て、歩けないので這うようにして山を登る。
 銃声が3~4発聞こえて一等兵が即死したが、土というか落ち葉をかぶせただけで進んだ。

1945(昭和20)年4月24日(おそらく)
〇鉄帽で穴を掘って蛸壺を作りその中に潜む。
〇今日が最後の決戦と思われたので、暗いうちに起きて、励ますために部下の蛸壺を覗き話し始めたら、落ち葉がピシャッ、ピシャッとビンタをとられるような音で鳴って一斉に砲撃が始まり背中に砲弾の破片が突き刺さって気を失った。
 部下が元の穴の中に入れてくれたんだと思う。
〇気づくと弾がすべて自分に向かってくるように思える。
 鉄帽で身体を隠して守ろうとするが上にも下にも鉄帽が何個も欲しい感じ。
〇蛸壺の中で一人、砲弾がどこに止まっているのかも分からない。
 「死ぬ、死ぬ。死ぬ」と思い涙が出て、言葉に出来ない悲しさ、寂しさ。
 ところがお昼前になっても死なないので、今度は「生きられるかもしれない」「生きたい、生きたい」という気持ちが湧いてくる。
 そうすると空中勤務者としての自負心が出てきて、空ならともかく「こんな穴の中では死にたくない」と思い出した。
〇穴の外では夜が明けて、どんどん死んでいっている。
 自分は夕方まで放置されて穴の中にいた。

〇あたりには重傷兵が泣き、わめき、痛がり、転がっていた。
 小隊長だった学徒兵の少尉が気が狂ったようになって駆け回っていた。
 これらの者がおってくれたのでは邪魔になるという事だったろうと思う。
 彼らを連れて夜にどれだけでもいいから下がれる者は下がらせろと命令が出た。
 自分の小隊の小隊長から軍用通信紙に書かれた命令書が渡された。
〇重傷者は本来一人で下がれるような力はなかったが、1歩でもいいから下がれという事で叱咤しながら下がる。
 下がると言っても曳光弾が後ろから追いかけてくる。
 大きな木々が砲弾で倒れ道をふさいで乗り越える事が出来ない。
〇足首から切断された兵隊が「班長どの、連れて行って下さい、連れて行って下さい」 と懇願する。とりあえず近くの穴に入れ2~3時間後に戻ると、土の塊が胸の上に落ちて絶命していた。
〇20~30人で下がって下がりきったのは10人ぐらいだと思う。
〇4月25日の夜、分隊の兵隊が蛸壺に凄い形相で顔を突っ込み、米軍は戦車で進んで来て中隊が全滅した事を告げた。

山中を移動
〇観測機が飛び回り場所を修正しながら爆撃してくる。
 指で胸を付けばひっくり返るほどの体力では、生きたいとか死にたいとかが無い。
 俺はどうでもいいと気力がなくなり、寝たら最後あの世行きの者も多い。
〇ぺんぺん草や春菊を食べる。
 キャンガン近くで稲穂の詰まったニッパハウスを見かけた。
 自分も他の飢えた兵隊も寄って行ったが、佐官級の将校が軍刀を振るい追い返された。
 第4飛行師団司令部のエチアゲ残存部隊が移動してきたものだった。

1945(昭和20)年敗戦後
〇砲弾が来なくなり、会う兵ごとに「戦争が済んだらしい」と風の便りがあった。
〇川の中を食べ物を探して歩いていると、小さな子供が「兵隊さん、兵隊さん」と呼ぶ。横にお母さんの腐った遺体があって離れられないようだった。
 靴下に入れて腰にぶら下げていた拾い集めたモミ投げ渡した。
〇乞食のような恰好をした女性が膝にしがみついて米をくれと言う。
 マニラで食堂をやっていた女性。
 即座に断ったが膝にかじり付いたまま離れようとしない。
 仕方なく少しモミをやった。
 互いに無事に帰れたらと住所を交換したが、のちに復員したら、彼女が伝えてくれたらしく実家では私が生きているのを知っていた。
〇キャンガン周辺で食料を探し回っていた兵士が集められ、木や人骨を取り除いて道を作った。
 何のためか知らなかったが、山下司令官が投降するための道だったらしい。
 
1945(昭和20)年9月18日ごろ 米軍に投降
〇指示系統はなかったが、山下司令官が投降したことで堰を切ったようにキャンガン周辺の兵士は投降した。
〇キャンガンの小学校で裸にされ武装解除
 DTTをかけられてPW(prisoner of war)になった。
 組み立て式の寝台を一つずつ渡されて線路を収容所まで歩いたが、寝台が重くて歩けない。
〇収容所では最初は4オンスの粥が出された。量を増やしたくて水を足して食べたが、飢えた体には健康食はよくないという配慮だったらしい。
 のちにレーションになった。
 収容所に蛇が出ると皆で寄ってたかって襲い、引きちぎって食べた。
〇泥棒が横行しており、作業をして帰ると、「私は泥棒です」と札を首にかけて箱の上に立たされている者たちがいた。
 同情して見ていたので「どうせ“バンザイ組”がやらせたのだろう」と言っていた。
 “バンザイ組”は敗戦前に投降した人たちで事務所員などをやっており、栄養状態も良く、一般の兵からは偏見の目で見られていた。

〇エンジニアだと言う事で一般の使役ではなく自動車の修理工場で作業に当たった。
 戦争中に使ったトラックや自動車の解体作業で、フィリピン人4~5人にPW1名が組にさせられたが、フィリピン人に「泥棒」とか言われて「何この野郎」と喧嘩が絶えない。
 フィリピン人は勝ったと思っているし、日本人も優越感が抜けないし、日本人だけで組ませてくれたら何倍も能率が上がると願い出たが、「フィリピン人に日本の技術を提供するためだ」と米兵に言われた。
〇慣れてくると工場の隅にあるステンレスを使って昼休みに指輪などを作った。
 タバコ2箱ぐらいや缶詰4~5缶と交換できる。
 黒人兵は白人兵の目を盗んでどんどん作ってくれと注文してきた。
 (※ご自分用に作った指輪を一つ持ち帰っておられ拝見しました)
〇体が戻ってくると“光明座”というガラクタバンドを作ったりした。
 
1946(昭和21)年12月14日 マニラ出航
1946(昭和21)年12月24日 復員(名古屋港へ)
岐阜キャラバンが12月20日(木)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。


◎田中秀啓(しゅうけい)さん

取材日時 2012年12月20日

生年月日 1923(大正12)年2月10日生

陸軍
所属部隊 南方第12陸軍病院
兵科 衛生兵

1944(昭和19)年1月 南方第12陸軍病院(マニラ)に入隊するため広島に集合、現役兵
 兵隊は好きではなかったが行くものだと思っていた。
 初年兵受領をする兵隊がマニラから来ていた。
 10隻ほどの船団で宇品出航、高雄経由、魚雷や爆撃を避けジグザグ運転をしたためマニラに着くのに1か月かかった。
 乗っていた船(長城丸)はこの後ミンダナオへ向かう途中魚雷で沈んだ。

○バギオで3か月間の歩兵教育。
 歩兵部隊に預けられていた。
 すでに戦況が良くないことを知っていたので、行進や敬礼の訓練など。
 実戦力にはならない馬鹿な事をするなと思っていた。

○陸軍病院で5か月間の衛生兵としての教育
 注射の方法や包帯の巻き方、止血方法、脈の見方、薬の知識など。
 軍隊で役立つことは殆ど習わなかったがこれだけは役に立った。

○南方第12陸軍病院庶務課に配属
 庶務課には“お寺さん”が多かった。
 毎日病棟に今日亡くなった人のチェックをして葬儀を行う。
 各葬儀はその病棟の看護婦長、衛生下士官、将校など5~6人で行い、特に階級による差はなかった。
 それから遺体をマニラ郊外の火葬場へ運び、前日のお骨を貰ってくる。
 半年に1度ほど合同慰霊祭があり、その時は病院長(中将)以下皆が出席した。
 一等兵だったが、お経をあげるので中将と並んで真ん中に座っていた。

1944(昭和19)年12月末 病院はバギオに疎開、残務整理のため200名ほどが残った。

1945(昭和20)年1月末 マニラを夜中に脱出
 日本軍の工兵が既に橋を落とし始めている中を急遽脱出した。

バギオを目指していたが爆撃が激しく山中に入る事に、アリタオ~バガバッグ辺りからだと思う。
〇サリナスの森でロッキードの空襲を受けた。
 ガソリンの入ったドラム缶を落とし(※ナパーム弾か)、ジャングルが火の海になり鉄兜もかぶれない。
 図嚢を頭の上に乗せて逃げ惑うだけ。
 隣の兵は頭がザクロみたいに割れて脳が飛び出していた。
〇グラマンに追われた事もある。
 この時はマラリアで40度以上の発熱でニッパハウスで寝ていた。
 機銃掃射を受けて防空壕に逃げ込んだが、50キロ爆弾が近くに落ちて防空壕の土が頭上に落ちてきた。
 もとの小屋に戻ると自分の毛布に幾つも弾の穴が空いていて、枕元の編上靴が撃ち抜かれていた。
 この後は投降までずっと裸足で過ごすことになって仕舞った。
〇部隊は内科診療長だったT少佐が隊長だったが、お医者さんで戦争に慣れている訳ではない。
 部落で薬をやるから何かを持ってくるようにと自分の居所を教えて仕舞い、ゲリラに襲撃されて戦死した。
 
〇山中に入ってからがこの世の地獄。
 食うにもの無く、家もなく、戦争をする意欲も無い。
 統制が取れなくなり、自分の身体の事で精いっぱいになる。
〇大腸カタル、マラリア、赤痢が流行
 自分は一時血便が出ていたので赤痢だったのかと思う。
〇イゴロット族(山岳民族)のさつまいもを盗んだがそれもいつまでもあるわけではない。
 野草、春菊、サル、野豚、イゴロットが飼っていた豚や水牛も食べた。
 イゴロット族は日本兵が行く前に山中に逃げ込んでいた。
 それからバナナの木やビンロジュの木を切って芯の柔らかいところを食べる。
 マニラを出たあと米粒は一粒も口にしなかった。
〇一番困ったのは塩が無い事、汗が噴き出して舐めても辛くない。
 夢にしょうゆや塩を見た。
〇餓死して死んだ者は電信柱のような間隔で見かける。
 川の水に顔を突っ込んだまま死んでいる者、1個の手榴弾に5~6人が集まって折り重なって自決しているのも何度も見たが、またかというような感じで不感症になってくる。
 生きる方が死ぬより辛かったが、仏教の教えとして命は自分のものではないと考えていたので、自分は自殺をしてはいけないとは思っていた。
〇最初は外科行李を持って出て野戦病院を開ける態勢だったが山の中に落とした。
 時計一つが重い。鉄兜も毛布もほかしたが、ゴボウ剣だけは持っていた。芋を掘るのに必要なので。
〇1人になるのは怖く5~6人で行動した。
 シラミがたかるので半ば裸みたいな恰好で生活していた。
 アシン河があったので河で服を洗いシラミをつぶす。
 在留邦人や看護婦さんたちもいたが女性は生きていくことが更に大変。

1945(昭和20)年9月20日頃 米軍に投降
〇敗戦そのものは通信を通じて2~3日後には知っていた。
 しかし、負けたらすぐに出ていくとはならなかった。
 命令系統がないので話がまとまらない。
 先に捕虜になった者が呼びに来て、このままでも飢え死にするだけだと投降する事になった。
 山を2日かけて降り、アシンの谷で投降。

カランバン収容所へ
〇出入りする米兵が帽子を脱ぐ事に驚いた。
 勝ち誇こったようなところがなく実に鷹揚で、まず聞いてくるのは「ワイフはいるか?」
 それから時計を持っていると欲しがる。
〇食事はレイションでカロリーは足りているらしいが量は少なかった。
 ビスケットやチーズ、バター、ガム、タバコ。
 量が欲しいと交渉したら「お前らが捕虜にした時はどうだった」と言われた。
〇使役はあったが遊ばせてはいけないという程度で見回りもゆるやか。
 万事鷹揚だった。

1945(昭和20)年12月 復員

※ありあまる米軍の物量の前に、大和魂で精神力で勝つというのは話にならない。
 そういうのは妄想に憑りつかれた考えで、あれは妄想。教育というのは恐ろしい。
 一人も人を殺さず自衛隊も一人も死なずに来たのは9条のお蔭。
 集団的自衛権を行使するようになったらまた靖国神社を言う様になるのか。
 私はどこまでも戦争反対。わしは仏教者やから、仏教では殺しても殺されても殺させてもいけない。
※命は良いか悪いか死ぬまで離れられない。
 離れられないと言うのはそれが本当のことだねと言う事。
 それがわれわれのアイデンティティーであり、そういうものが無ければ我々は生きていけない。
※戦争体験は大きな勉強にはなった。誰もその埋め合わせを付けてくれるものはいないが、住職をするうえで戦争体験が意味をもったと言えるほど偉そうなことはない。
 フィリピンは地獄の島だったから戦争体験に鍛えられたが、だからと言って戦争を賛美する気持ちは無い。

正光寺では「げてもの史料館」を運営
戦争関係の物品をはじめ、古いさまざまな日常用品を見学する事が出来ます。(要事前連絡)
岐阜キャラバンが12月18日(火)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎瀬上藤士夫(せうえとしお)さん

取材日 2012年12月18日

生年月日 1920(大正9)年9月7日
当時の本籍地 岐阜県

陸軍
所属部隊 歩兵第68連隊、歩兵第67連隊、第7方面軍司令部副官部
兵科 輜重兵

1940(昭和15)年8月 徴兵検査 第3乙種(身長が低かった)で第2補充兵に
1946(昭和16)年11月25日 教育召集(1か月) 中部13部隊

1942(昭和17)年2月 臨時召集、歩兵第68連隊第1大隊本部大行李班
〇シンガポール陥落の日に赤紙が来た。
 当時は戦争に行けないのは男のくず、お嫁さんも来ないので、やれ嬉しやという感じ。
 祖父は日露戦争時代甲種合格だったがくじはずれで従軍していなかった。
 父はお前ぐらいは兵隊に行かないと肩身が狭いと喜んでくらしゃった。
 けれど階級はどうでもいいから生きてご奉公してこいと言っていた。
〇浙かん作戦や大別山作戦などに参加

1943(昭和18)年3月末 15師団(祭)歩兵67連隊第1大隊本部大行李班に転属
 当時67連隊は南京に居た。
 兵站編成から野戦編成に変わるため中国の各師団から2名ぐらいずつ、約200名が集められた寄せ集めの部隊。
 選ばれたのか、(自分が)間に合わなかったからか。

1943(昭和18)年9月2日 呉淞(うーすん)出航
 南方に行くと言うだけで行き先は知らなかった。
 海が大変荒れて左右に上下に凄く生きた心地がしなかったが、そのおかげで潜水艦や飛行機の攻撃を受けることは無かった。
1943(昭和18)年9月22日 仏領印度支那・サイゴン上陸
 サイゴン米のおいしさよという歌があったぐらいで、そのお酒もあり、のどかなところ。

1943(昭和18)年11月 プノンペンで馬を汽車に積む時に大隊長馬に蹴られて負傷。
〇自分の担当していたのは癖のある輓馬だった。
 もともと野砲の馬だったが6頭建てにした時隣の馬を蹴って蹴ってしょうがないので、輜重なら1匹ずつだから使えるだろうと送られてきた。
 自分は馬には召集前から慣れていたし、馬は甘いものが大好きで、自分の分を我慢して取っといてやるとすぐになつき何か持っていないかと鼻を擦り付けてくる。
〇積む時はきつい馬同士で並べないと弱い馬は蹴り殺されてしまうので、自分の馬とやはり癖のあった大隊長の馬を並べたが、大隊長の馬に胸部を蹴られて息が出来なくなり意識不明になって仕舞った。
〇病院で名前を呼ばれても胸が広がらず声を出せないでいると手を両方から引っ張られ、大隊の副官が「馬は馬鹿だ、その馬鹿に蹴られる者はもっと馬鹿だ」と活を入れられた。
 親切だった上等兵が「今お前の魂を呼び戻したんだぞ」と言われた。ありがたかった。

〇この時実家に私の魂が帰っていたらしい。そういう話を信じる方ではないが、両親が私の話をしていると玄関先で声がする、いるはずがないのにと行ってみると、白い服を着て立っていてすっと消えたので両親は私が戦死したと長く思っていた。

タイ・チェンマイへ
〇20日ほど入院したが追及が大変になるので自分から申し出て退院。
〇軍用のパスポートをもらい民間列車で1人で追及。
〇途中英国の捕虜が運転するトラックに便乗した。彼は日本語も堪能で、「日本では捕虜になると恥だと言うが、英国ではそれだけ敵に近づいた事だから最高の名誉だ」と言いなるほどと思った。
 また「私ももう2年ほど経てば英国が迎えに来てくれる」とも言っていた。
〇原隊に着くと「死んだという話だったが来たのか」と言われた。
 副官は「思ったより早く来たな」と言ってくれ、1人だけ上等兵に進級した。
 大隊長の馬に蹴られたのが良かった、蹴られるなら偉い人の馬の方が良い。
〇トラなど猛獣が出てきて馬を襲うし兵隊も咥えていくからと夜通し火を焚いていた。

1944(昭和19)年2月 行李班を離れ先発隊として大隊の主計少尉と他4名でビルマに先発。
〇メイミョウの横浜正金銀行に行き13万円を受け取る。
〇伍長と2人でサガインの野戦倉庫に行き被服や編上靴、慰問袋を受け取りトラックで運搬。
 イラワジ河を渡河するため請負師に頼んで10人ぐらいの苦力を調達して貰う。
 中国時代は兵隊2名でこんな荷物を持っていると強奪や拉致されかねなかったがビルマはコソ泥はいてもずっと安全だった。
〇マンダレー駅で伍長がマラリアになって居なくなり一人になって仕舞った。
 駅の兵隊には1人でいいから出発しろ、それには貨車の要請書類を書けと言われる。
 上等兵でそんなものを出したらえらい事になると思ったが、書類がないと向こうは列車を動かせないし、「いないもんはしょうがない」と言われたので手配をした。
 一人だと食事が来なくなって仕舞った。食べるものが無いので悪い事だけど慰問袋を探し、これならいいかと思ってキムチを盗って食べた。キムチを食べたのはあれが初めて。
 主計大尉が帰ってきたので叱られるとびくびくしていたら褒められて、スイカを食えよとランニング姿で持ってきてくれた。
 ほっとしてあとは皆に任せてスイカを食べながら見ていた。
〇マンダレーから汽車で部隊のあるシボーに運ぶ。
 停車時は車両が外されて減ってしまう事があるので連結部の見張り。
 メイミョウで見たら荷物の上にビルマ人の女性がちょこんと座っている。
 シボーで居たら大変な事になるので、どこかの駅で降りてくれるように頼み込んだ。

1944(昭和19)年3月 爆薬受領のためトングーに出張を命じられる。
〇出張に慣れた者と選ばれた。
〇爆薬は野積みになっていた。
〇野戦の出張は寝食を忘れるし食べられなくなる。
 戻ると熱が高くなっていた。
〇当時から肋膜炎という診断だったようだが病名は知らされずマラリアだと聞いていた。
 出張の無理や馬に蹴られた怪我も影響したのだろうし、そもそも栄養が良ければかからなかったのではないか。 
1944(昭和19)年5月 大隊にインパール作戦への出動命令。
同年5月10日 カレワから重要書類と一緒に後方に送られる事に。
同年6月 メイミョウの兵站病院に。
〇トラックに乗せて貰えた、道々歩いて下がる兵隊がヨロヨロ羨ましそうに見ていたが、ああなると止めて乗せてくれというような気力もなくなる。
 「靖国街道」とか「白骨街道」と呼んだ。
〇名前こそ病院だが、患者が多すぎて収容できず軒下に寝かされる。
 看護婦さんは緑色に染めた服を着ていた。人手もなく何もできない。
 歩ける者は薬を持たせて強制退院させどんどん戦地に送り返していた。
〇食事も与えられず水道の水を飲むだけ。

ジャングル病棟と呼んだ分院に
〇軍医が診察をして「お前はこの身体でこれだけご奉公したんだから下げてやりたいが、下げる体力もないから分院で力を付けておけ」と診断した。
 ここで自分が肋膜炎であると確定診断される。
 当時は今の癌と同じように「死の病」だと思われていたから弾に当たった訳でもなく情けなかった。
〇高熱が出て軍医の側で寝させられる4名にもなったが、ここでは3度のおかゆが出て快復した。特別食に焼きナスが出た。
〇薬包紙が無かったので慰問袋の雑誌を切って薬包紙にした。
 薬包紙を持っていかないと薬をくれなかった。

ラングーンに貨車で後送される
〇衛生兵がいないので独歩患者が面倒を見るように言われたが、独歩患者も普通では独歩しないような患者。
〇アメーバ赤痢の患者の下痢や、傷の膿の臭いが満ちているが、列車が止まっても降りると上がる力がないので寝たまま。
〇右肩を痛がる患者がいて見るとガッパガッパ傷口が開きウジ虫が覗いている。
 手でウジ虫をつまみ出し、兵隊が救急時用に一つづつ持たされているガーゼと包帯を出すと、「それはあんたのや」と言われたけどそれで手当をした。
 病院に着いてからも大変感謝された。

トラックでラングーンからモールメンの病院に
〇マルタバンから渡河があり筏に乗せられて対岸から工兵が引っ張ってくれたが、ここで落ちて死んだ人もいる。
〇モールメンの病院には北からどんどんどんどん患者が送り込まれてきていた。
〇衛生兵から手伝いを頼まれ行くと屍室に連れて行かれた。
 処理が間に合わず人間の腐ったヘドロが流れていて凄まじい臭い。
 病人が素っ裸で転がっている、生きているのやら死んでいるのやら。
 衛生兵が運ぶので担架に乗せてくれと言うがどこを持っていいか分からない。
 鼻からはウジが出ている。
 乗せようとしてぴくぴく動いたら生きているから他のにしようととにかく尋常ではない。
 自分もこうなるのではないかと不安。
 自分の身体が大事なので衛生兵のいない間に逃げ出した。

タイ・バンコクへ後送
〇泰緬鉄道に乗るが、前を見ると木の橋は激しく揺れているし下を見ると貨車が落ちている。
 外を見ないことにした。
〇バンコクでサイゴンとシンガポールに患者の行き先を分けた。
 病状の良いものをシンガポールに送っていたように思う。

1944(昭和19)年8月 南方第3陸軍病院(ジョホールバル)に入院
〇マレーに入る所に「大日本帝国」の看板がかかっていた。
 そこからは看板も全部カタカナが併記してある、両側はゴム林。
〇第3陸軍病院の看護婦さんは本当に白衣の天使の恰好をしていた。
 同じ病棟の患者はビルマからの兵隊ばかり。
〇1週間は食事の時だけ目をさまし後はずっと眠っていた。
〇婦長さんから「内地送還だね、良かったね」と言われたが馬鹿まじめだったので、内還にしないでくれと婦長に頼み込んだ。
 負傷ならともかく肺病では恥ずかしくて帰れない。弟(10歳年下)もいるし、死ねばお金もおりて親孝行になると思った。
 婦長には「あんた馬鹿ね。皆内還になったら喜ぶのに」と言われたが、軍医に取り次いでくれ「帰りたいと泣いて頼む見習士官がいるからそれと代えるか」となった。
〇乗るはずだった病院船は途中で沈没、婦長からは「あんたの真心が通じたんだね。あれに乗っていたら今頃お陀仏よ」と言われた。ちょっと口の悪い人だった。
〇これまでの給料がまとめて出たが使い道もないので100円は国防献金し、60円を生きている事を知らせるため家に送った。金なら着くと聞いていた。
 ご奉公して病気になったうえ、国防献金をするとはと病院で皆の前で表彰された。

1944(昭和19)年12月31日
 看護婦長から危篤患者の見守りを頼まれる。
 19~20歳ぐらいの可愛らしい初年兵で未だ戦地に出たこともないらしかった。
 そのまま亡くなっていき衛生兵が屍室に運んで行った。
 翌朝穢れたからと新しい白衣を貰った。

1945(昭和20)年4月 第3陸軍病院を自己退院、第1陸軍病院(シンガポール)へ
 第1陸軍病院では練成班があり体力の回復を図っていた。

同年7月 南方第1陸軍病院を退院、兵站宿舎へ
 原隊の追及をしたい兵隊たちが集まっていたが追及が出来る情勢ではない。
 シンガポールの玉砕を想定して病院の看護婦たちも竹槍の訓練をしていた。

1945(昭和20)年8月16日 敗戦を知る
〇隊長が皆を集めて敗戦を伝えた。
〇「やっぱり負けたか」という感じだったが、無条件とは思い切ったな、弱った事になったな、英兵にこき使われ内地には帰れないのだろうと思った。
〇自分のようなビルマなどから来た兵隊はそんな風だったけど、ずっとシンガポールにいた兵隊は負けるなんて信じられない様子だった。
 若い将校が軍刀でバナナの木を切りつけて廻り、そういう行為は日本軍の恥だから慎むようにとお達しが出た。

南方開発銀行の警備
〇前の広場には民衆が押しかけていたので、機関銃を上に向け威嚇射撃を行った。
 撃つといったんは散らばるがまたすぐに戻ってきてしまう。
〇軍票が各地から回収されて運ばれて来ていた。
 石油箱(一斗缶2個が入る木箱)に軍票を詰めると10円札で24万円入る。
 これをトラックの荷台に載せているが、速度を落とすと“現地人”が車に上って手をかけてくる。
 荷台で小銃を持ち、登ってくる人を銃口で突いて落とす仕事もした。
〇シンガポールの火葬場に軍票を運び焼却。
 束のままでは中は焼けないので封を切ってばらして投げ込まなくてはいけないが、真夏のシンガポールの釜の前は重労働。
 人足を集めようとしたが敗戦で男性は集められなくなった。日本人に協力するとリンチに遭うと言う、協力者が女性ばかり50人ほど連れてきた。
 2日もすると焼却炉の機能が落ちて焼けなくなる。
 海岸に運んで焼いたが風が吹き散らかして住民が取りに来てしまう。
 反物などを売って軍票を回収したところもあると聞く。

1945(昭和20)年8月20日 兵站から上等兵約20名が選ばれ第7方面軍司令部副官部衛兵隊に転属。
〇マウントバッテン提督や寺内寿一元帥が住んだ大邸宅があり、その庭の防空壕を埋めに行く。
 シンガポールは電柱のない街で地下に埋まっていたがそれを傷つけてしまったらしく、オランダ人の設計士の地図には庭木からの距離がケーブルの目印になっていた補修した。
〇調印の打ち合わせで参謀ほか2名の護衛に出かける。道路に有刺鉄線などがあり先に除去。
 参謀たちの車はわざと少しおんぼろのものを使っていた。
 途中で“地方人”の女性が家の前に出て、日の丸を腰巻にしお尻を向けて叩いてみせた。
 閣下たちも見たと思う。

1945(昭和20)年9月2日 司令部の明け渡しを行う。
〇この日の正午以降シンガポールに残っている日本人は捕虜にして良いとなっていた。
〇5名が選ばれ明け渡し要因として残された。
 一人は兵長だが英語が堪能な人で、あと4名は先方にご無礼をするような度胸はない人。
〇12時に営門で待っていると、白人下士官1名と黒人兵4名を乗せた車が到着。
 申し送りをして自分たちは残してあった車1台で引き上げた。
 司令部は勿論町の中にもう日本人はいない。
 日本語の看板も英語に架け替えられており場所が分からなくなって道を間違えた。
 もう町のいたるところに英兵が立っていたがパスポートを貰っていた。

〇司令部に自動車隊が作られ、その隊長の当番兵に。
 同じ上等兵に「生意気だ。軍隊は位は同じでもメシの数だ」と殴られた。
 この時は「瀬上の方が古い兵隊だぞ」と隊長が叱ってくれた。
 背が低いので下に見られることが多かったが、これで中国からの兵隊だと周りも知るようになった。

1945(昭和20)年11月 レンバン島へ
〇上陸する時、海辺でやせ細った人がごみをあさって食べ物を拾っていた。
 中尉の階級章を付けていた。
 自分があがったのはレンバン島へ行った中では最後の方で、わりに早くレーションが来たのでそれほど食べ物の苦労はしなかった。
〇軍医部の軍医大佐の当番兵になったが、自分の事は自分でする人で、食事の上げ下げと往診に付いていくぐらい。

1946(昭和21)年6月15日 名古屋に復員

最終階級 兵長