あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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年末特集ということで、リアルタイムで公開が間に合わなかった写真を掲載しておきます。
それぞれの報告記事に追加する方がわかりやすいかとも思ったのですが、なかなか見直す機会もないかと思い、ひとまず写真だけ新しい記事で上げていくことにしました。
昨年の分等、まだ各キャラバンからもらいそびれている写真もあるので、入手できたら順次掲載していきたいと思います。

まずは、山陽キャラバンが12月14日(水)に案内していただいた炭鉱跡の写真です。


炭鉱
炭坑跡の入口。
外国人捕虜が働かされていた場所です。

記念碑
記念碑。
戦後50年の証言集の売り上げで建てられました。

日本語碑文
日本語碑文の拡大。

◆◆

捕虜収容所 白岩「親和寮」跡
太平洋戦争において1942年184人のイギリス連邦の軍人と1943年アメリカの軍人288人がこの地に収容され炭鉱で働かされた 1945年8月15日終戦により彼らはそれぞれ帰国したが若干の方は病死し帰国できなかった 再び戦争の悲劇を繰返さぬよう恒久の平和を願ってこの事実をここに記録する
1996年9月2日
発起 美祢市民戦争体験記「五十年目の証言」関係者
協力 美祢市教育委員会

◆◆

碑文
プレート部分の拡大。
英語版です。
これはお金が足りず、前住職のポケットマネーで取り付けられたのだとか。
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戦場体験放映保存の会最年少メンバーの「青春18切符 列島横断 聞き取りの旅」の、2011年春分証言一覧です。
これについては、キャラバンと言うべきかどうか難しい面があるのですが、各キャラバンで回りきれなかったところに行ってもらっていることも多いです。
別の用事で出かけたついでという場合もあり、期間も定めづらいですが、証言の一覧がある方が大事だと思いますので、まとまった期間ごとに一覧にします。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
当面、証言概要をブログに転載する都度、お名前を掲載し、リンクをしていく形にします。

青春18切符の旅2011春
訪問都道府県:福岡県、山口県、京都府、三重県、静岡県
日程:2011年3月5日(土)~3月12日(土)

◆◆3月5日(土)◆◆

午後
福岡県糸島市

戦地等:第2船舶工兵、ガダルカナル・川口支隊の上陸支援。ブーゲンビル、ガダルカナルへ。その後ニューギニア。

◆◆3月6日(日)◆◆

午前
福岡県福岡市

戦地等:関東軍野戦重砲。兵隊3カ月、シベリア3年

◆◆3月7日(月)◆◆

午後
山口県岩国市

戦地等:昭和14年召集、歩兵233連隊、中支、昭和16年召集解除。昭和19年7月再招集、299連隊。

◆◆3月9日(水)◆◆

京都府京都市
◎酒井朝次さん
戦地等:祭師団砲兵。昭和15年12月入営、昭和18年まで中国、インパール作戦のため南方転出。ウインゲートの空挺部隊投入にぶつかり実質インパール作戦には参加できず。渡河支援、マンダレー作戦、モチ街道を移動。チェンマイで敗戦。

◆◆3月10日(木)◆◆

三重県鈴鹿市
◎山路金八さん
戦地等:ルソン島(レガスピー~バターン半島)~ネグロス島~内地。
◎宮崎義高さん
戦地等:ルソン島(レガスピー~バターン半島)~台湾

◆◆3月11日(金)◆◆

静岡県静岡市
◎望月耕一さん
戦地等:インパール作戦~ビルマ


3月11日、聞き取り中、東日本大震災。旅を中断。3月12日に帰還。
2011年冬の山陽キャラバンで聞き取りを行った方の一覧です。

お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
今回は、途中の旅の報告で体験者の方のお名前が出ていますので、ほぼ最初から記載しています。

山陽キャラバン
訪問都道府県:岡山県、広島県、山口県
日程:2011年12月10日(土)~12月15日(木)
※12月9日(金)前泊。

◆◆12月10日(土)◆◆

岡山市十一クラブ戦史研究会アレンジ

午前
岡山県岡山市

◎小林忠治さん
戦地等:海軍。駆逐艦「雪風」機関。ガダルカナル沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄特攻。

午後
広島県福山市
◎川相宗助さん
戦地等:陸軍。歩兵41連隊。中国。


◆◆12月11日(日)◆◆

午前
岡山県岡山市
岡山15年戦争資料センターの方と情報交換

岡山県倉敷市
◎小野一臣さん
戦地等:歩兵第10連隊、ルソン島


◆◆12月12日(月)◆◆

岡山県高梁市

◎石川操さん
◎武村博さん

戦地等:ニューブリテン島
※同年兵のお2人です。


◆◆12月13日(火)◆◆

広島県福山市
退職職員9条の会アレンジ
◎横橋保孝さん
戦地等:陸軍。満州~内地。


◆◆12月14日(水)◆◆

山口県美祢市
現地で体験集を発行されている方のアレンジ。
◎中島速雄さん
戦地等:陸軍。ビルマ。


◆◆12月15日(木)◆◆

山口県山口市

◎三好正之さん
戦地等:軍医。ニューギニア。

山陽キャラバンが12月15日(木)に伺った証言の概要です。

◎三好正之さん

1917(大正6)年10月30日生まれ
当時の本籍地 山口県

1936(昭和11)年 日本医科大学進学、陸軍委託学生に。
 国民皆兵で覚悟は決めていたので、どうせ行くなら早めにと考えた。
 委託生には長期休暇に士官学校の様な授業が行われていた。
 太平洋戦争開戦の日、公衆衛生の教授が泣きながら感激して授業をしたのが忘れられない。
1942(昭和17)年9月 日本医科大学を半年の繰り上げ卒業
 ※この年の4月に結婚
1942(昭和17)年10月 陸軍軍医学校乙種学生(第23期)
 軍陣医学を1年学ぶ
 外傷の治療、毒ガスの扱い、公衆衛生
 凍傷の治療、マラリア・テング熱・コレラ・チフス・出血性腸炎の治療
1943(昭和18)年11月 陸軍軍医学校卒業

同月 36師団(雪)歩兵224連隊付きに、上海へ部隊追及のため出発。
 軍医学校卒業時に希望地を聞かれる。
 小学校5・6年の時に溺死しかけたことがあり海は嫌だったので北支を希望する。
 36師団は希望通り北支に展開している部隊だったが、直前に南方への転進命令が出て上海に待機をしていた。
1944(昭和19)年1月10日 上海出発→宇品→高尾→マニラ
○上海に着くと「本隊は昨日ニューギニアに向かって出ました」と言われる。
 船の手配を待ち傷病などで一緒に出掛けられなかった兵200名を連れて出航。
 段々寒くなるのでおかしいなと思っていると北朝鮮を経て宇品に。
 船の機関が故障したということで2週間ほど待って秋津丸に乗り換え。
 台湾・高尾を経てマニラへ。
○バシー海峡では西方2キロほどに潜望鏡が上がって潜水艦がいるらしい。
 輸送船から野砲を撃ったらその夜は何も無かったが翌朝1隻が撃沈される。
○出征の際、家内が干しダコを千人針の中に入れてくれた。
 舟が沈没した時食べるようだったが、慶応出のK少尉がそれを見て、
 「軍医さんは金持ちだ、金蔵建てた、蔵建てた」(♪黄金虫)
 と歌い皆で食べた。船倉だから機雷でやられたら一番最初に死ぬ。
 死ねばもろとも。

1944(昭和19)年2月20日 マニラ着
○マニラホテルに宿泊
 砂糖、アイスクリーム、肉、魚となんでもある、キャバレーに行きこの世の極楽。
○参謀から「船は1隻もおらん、おっても沈没される、着いたら着いたで食糧はない、医薬品はない、衛生材料もない。100%死にに行くみたいなもんじゃからマニラの部隊に転属しろ」と言われる
 こんな良い所なら居ても良いなとは思ったけれど、「部隊で命令を貰った以上何が何でも行く」と言った。
 「行ったら必ず死ぬ」と散々言われたが断った。

1944(昭和19)年3月21日 ニューギニア・ホーランジアへ
 軍用機でセレベス→アンボン→と乗り継ぎ、アンボンからは海軍飛行機を見つけ(呑龍)、いやがるのを無理矢理ホーランジアへ飛ばせた。
1944(昭和19)年3月24日 サルミの本隊に到着
 10日ほど東京の情報を知りたがる師団長の話し相手になる。

1944(昭和19)年4月21日 米軍ニューギニア・ホーランジアへ上陸
○300キロ離れたホーランジアへ応援に行くことになり5月初めに出立する。
 2週間分だけの米を靴下に詰め、肉缶や鮭缶を少し。
 大きな河が幾つもありワニもいる、40~50キロの糧秣や薬品を持っての行軍。
○1週間ほどたったところで自分達の部隊のところにも米軍が上陸。
 余所を助けに行くどころではなく引き返す。

○ホーランジアに最後までいた部隊(第6飛行師団など)が撤退してくる。
 東大医学部卒で軍医学校同期のN中尉はふんどしもなく裸足で、落下傘の端を身体に巻いていた。
 戦後ビキニで被爆した人たちの治療にあたり有名になった。

1944(昭和19)年6月20~25日 入江山の戦闘
 弾の雨あられ、弾が赤、青、黄の棒のように連なって来る中を夜襲する。
 隣にいた内貴さんの左大腿に迫撃砲の破片が直撃して大腿骨が折れた。
 「おれは小隊長だから下がらん」と言うのを担架を作り、
 「少尉のくせに、おれは中尉だ」と無理矢理後送させた。

1944(昭和19)年7月
○斥候が米軍戦車にやられ生き埋めになっているので行ってくれと中隊長に言われ、衛生兵1名と兵長だけ付けられて行く。
 海岸線から200mでジャングルは膝まで入るような湿地帯、さらに200m入ると丘陵でそこから急に4000m級の山々になる。
 木と木の間に真っ赤な顔、猿が居ると思ったら米兵で、3~4mの距離で目と目があった。1秒ほど睨み合って「敵じゃあ」と叫ぶと兵長が38式小銃を一発。
 衛生兵は武器を持っておらず自分も短銃だけ、米兵は4名で皆自動小銃を持っている。
 米兵は逃げたが息だけ出来るように伏せていると、100mぐらい戻ったところからありったけの弾を撃ち尽くして帰っていた。
 その音で軍医がやられたと思って6人ぐらい助けに来てくれた。
○軍医だったが現場主義で兵と寝起きを共にしていた。
 信頼感を得て何でも相談を持ち込まれたためこういう時は行けとなって仕舞った。
 常に第1線にいたから兵の行動や考え方、色々な問題が即座に伝わってきた。

※5~8月の戦闘で6回戦闘に参加した。
 艦砲射撃、迫撃砲、機関銃、爆撃と皆経験。
 東北の部隊は勇敢で粘り強かったが、日本軍は小出しに1個中隊、1個大隊と送っては全滅を繰り返し、この期間に2/3が亡くなった。

1944(昭和19)年10月頃から 米軍との戦闘は無くなり自活生活に。
 ※米軍の主戦場は比島に移った。
○木の根、草の芽を食べる。
 芋を栽培、サツマイモの葉を主食に、小芋が副食。
○サゴヤシの中はでんぷん質で、中心にウジがいて蛋白源となりおいしい。
  ※海岸線に生息するココヤシは迫撃砲や爆撃ですっかり無くなっている。
   サゴヤシはジャングルの奥の湿地帯に生息したので残った。
○フィリピンに移動した米軍1個師団が砂をかけて隠していった食糧を野豚が掘り返した。
 ベーコンや肉の缶詰があり、「ルーズベルト御馳走」と呼んでこれに随分救われた。
 「軍医殿、石鹸がありました」と持って来られたのがチーズの大きな缶詰で、現地の川の上流に大挙上がってくる1cmぐらいの小さなカニ(コ)を飯盒に汲み取り、サゴヤシでモチを作って炒めたのが本当においしかった。
○マラリアは頻発、41度ぐらいの発熱、自分もかかった。
 薬は全然ない、薬を独り占めしている軍医がいて帰りの船で海に落とそうと騒動になったが、准尉がわしを代わりに落とせと頑張って事なきを得た。
 湿地帯だから病気の巣窟。
 サゴヤシの汁を静注してこれは幾らか効果があったかもしれない。

1945(昭和20)年8月
○敗戦は1週間ぐらいしてから分かった。
 無線が爆撃でやられていたので遅れたが、フィリピンから日本軍の飛行機が伝達に来たと聞く。
○泣いていた人もいたが、これで日本に帰られるかもしれないと言う一筋の希望の光の様なものが湧いた。
○軍旗を焼く、竿先端の金属の部分(※菊の紋章)は手榴弾で破壊した。
 紫の房の一部をこっそり持ち帰った者がおり現在山形の自衛隊に飾られている。
1945(昭和20)年9月8日 武装解除
○師団命令が出て自ら武器をまとめ大発に乗せて海に沈めた。

1946(昭和21)年6月11日 リバティー船に乗船
1946(昭和21)年6月27日 復員
 生後7ヶ月で別れた長男がぽかんとしていた。 
山陽キャラバン最終日、12月15日(木)の様子です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

最終日は新山口から宇部線に乗車、地元のお客さんと空港に行くサラリーマンが混じった1両編成の列車を阿知須駅で降り、阿知須共立病院で三好正之先生(94歳)のお話しを伺いました。
最初に現院長のご長男の部屋に案内されると、「出征前の写真の丸っこいのが僕です」(当時生後7ヶ月)とにっこりした笑顔。
聞き取りが始まると事務の方が病院のHP様に取材風景をパチリ。
ご本人が村の開業医から創り上げた病院とは言いながら、先生が戦場体験を語られることを病院をあげて大切に思っている様子はこの病院の性格を決めている様に思います。

三好先生の聞き取りは224連隊(ニューギニア)戦友の内貴さんほか幾人かの方に勧められていましたが、この軍医さん、なぜか突撃や斥候に。
そしてヤシの実の汁をそのまま静注に使っておられた話しに仰天!
確かにそれはそれで無菌、ブドウ糖輸液代わりになるのですね。

最初から最後までご一緒して下さったセンター長の田中さんに見送られ、病院を後にしました。

◆◆◆

今のところ、病院のHPにはまだその時の様子は上がっていないようです。上がってきたらお知らせすべきでしょうか。
しかし、三好先生が夏にNHKの取材を受けられたときの様子が掲載されていました。
NHKと同じHPに載るであろうという状況・・・いや、日本一の戦場体験集積地ではありますが。
キャラバンに限らず、最近は1人で取材に赴く場合が多いので、取材風景の写真はなかなか残す機会がありません。こうやって他所様に掲載されたものは、保存の会の活動の貴重な記録でもある気がします。
そういえば、山陽キャラバン1日目は、取材風景をブログ係が撮影するということは可能だっただろうか、と考えて後悔しかけましたが、よく考えてみたら、今回はそうでもなかったです。かしこまって座っているべき状況でした。(蛇足、失礼しました。)