あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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大分・熊本キャラバンが4月28日(土)に伺った証言の概要です。

◎倉兼一二(くらがねいちじ)さん (旧姓:栗田)

生年月日 1919(大正8)年12月31日
当時の本籍地 新潟県

1941(昭和16)年1月10日 舞鶴海兵団に入団
〇東京の薬問屋で丁稚奉公、東京中を自転車で配達に走り回っていた。
 小学校の成績は悪かったが東京に出て人の多さを知り勉強するようになった。
〇海兵団では197名中1番で、12の教班中所属する教班が1番になった。
 班長がお前のおかげで初めて12班中1番になれたと、配所の1週間前に筑摩(巡洋艦)に乗るはずだと所属予定を教えてくれた。
 自分は車でも酔うたちだったので「丘の仕事はないですか」と聞き、30分ぐらいするとうまくいったぞと言われた。

舞鶴鎮守府第2特別陸戦隊に。
 あの時自分の代わりに霧島に乗った人はどうなったのだろうと運命を思う。

1941(昭和16)年5月頃 海南島・定安に
〇一度だけ共産党軍の部落の討伐があった。
 村はもぬけの殻、山の稜線に人影が並びこちらを伺っている。
 赤ん坊が1人残されて泣いていた。
 なんという親かと思ったが、慰問袋にあったお菓子を持っていたので残した。
 古年兵が女性を刺殺しているのを見た、軍隊がいっぺんに嫌いになった。
〇海岸の砂地に輸送路を作る事に。
 ヤシの木を針金で縛って並べたらどうかと提案すると、初年兵なのに「ならお前が行ってやってこい」となって仕舞った。
 通訳2名と日本兵1名だけで行くと百人近い中国人が集められていたが女性や子供、年寄りまで来ている。
 「子供は学校に行け、年寄りは帰れ」と列からはずし女性も軽作業に回すと台湾人の通訳が「シーさんは助べえだ、女性に優しい」と言ってると言う。
 やれやれと思ったがこれで信頼が得られ作業はしやすくなった。
〇太平洋戦争開戦が近づき半年弱で帰国することになると、村長や校長が豚の丸焼きなどを用意した送別会をやってくれた。
 「日本に帰るな、ここにいろ。もうすぐ米国と戦争することになったら死んでしまうぞ。ここならわしらがあんたを守れる」と言われた事を何度も思い出す。

1941(昭和16)年10月末ごろ 出国
 サイパン→太平洋戦争が開戦すると部隊はウエーキ島攻撃(倉兼さんは残留部隊)→ニューアイルランド→ニューブリテン島

1942(昭和17)年1月半ば ニューブリテン島・ラバウル着
 第2特別陸戦隊は第81警備隊と第82警備隊に分割。
 第81警備隊はラバウルに残り、倉兼さんの第82警備隊はラエへ。

1942(昭和17)年3月8日 ニューギニア・ラエに上陸
〇ポートモレスビーから飛来する飛行機で毎日爆撃があったが、当初は零戦が未だあってそれなりに迎え撃っていたが燃料もなくなり、残った飛行機も引き上げていった。 

1943(昭和18)年10月半ば 米軍の艦砲射撃が始まりシオへの転進命令
〇1週間で着くと聞いていた。
 靴下1足分に詰めた米と乾麺棒を渡され出発。
 道はまったくなく磁石でジャングルの中を歩く。
 きれいな鳥はいるが地上には動物もいない。
〇マラリアとテング熱が蔓延し、要は人の暮らせる場所ではない。
 工作隊60名で1人も歩ける者がいない状況も。
〇最初のうちは手榴弾での自決が次々に起こった、もう力が無いのをやっとの事で爆発させ自決する。
 ずっと一緒に歩いていた兵長は都会育ちで貧しい生活が我慢できない。
 まだ米もあるのに自決すると言う、残った米を貰った。
〇工作隊の隊長(大尉)の従兵が1人は亡くなり1人は逃亡して代わりを務めることになった。
 隊長はもう50代半ばの人、だがこれが生還できた大きな要因となった。
〇4000m超のサラワケット山を超える。最後の200mは断崖絶壁で蔓を伝って上がり隊長を引きずりあげる。
 山頂は真冬の寒さ。
 陸軍の兵隊が2名、隊長を見て自分たちの貼っていたテントに招いてくれた。
 以前陸軍がポートモレスビーを目指しその後撤退する事になった時、工作隊はそれを助けた部隊で、その隊長だったので声をかけてくれたものだった。
 朝が明けると泥の中に100名以上が折り重なって凍死していた。
 銃を集めて暖を取ろうと燃やしたあとがあった。
〇武器は手榴弾を残し自分のものも隊長のものも捨てて山を降りる。
〇かなり降りた川沿いで大隊長(大佐)が大きなテントの側にいる。
 見ると川で洗って捨てられた芋の筋を拾い集めている。
 従兵4名は皆倒れてテントの中に寝ていると話した、4名をその後見ることはなかった。

〇5~6人倒れている、腿の肉を取られた人も何人もいて、まだ動いている人もいた。
〇食人種の部落を超える、そこはまとまって通らないと危ないと言われていた。
 家々の戸口には人骨が飾ってある、頭蓋骨が一番上で、あとは大きな骨から上にかかっている。
〇陸軍の兵隊が士官用の食料を配っており一緒にいたので貰うことが出来た。
〇草庵があり隊長が泊まると言う。食人種の部落からまだあまり離れていないので危ないと思ったが、50代の隊長はもう歩けず、山頂の陸軍の兵隊が小銃を持ってまた合流したので4人でそこに入った。
 食人種が2、3人来て何か言ってるが分かるはずもない。
 暫くすると彼らに小屋を取り囲まれている事に気づいた。
 歌を歌い、矢を弓につがえ、調子をとりながら少しずつ間合いを詰めてくる。
 「撃つか」と言われたが銃で撃てる角度は限られている。
 その時なぜか頭の中に「目が喧嘩する」という言葉が浮かんだ。
 まっすぐに手を伸ばして宙を指さしそちらを見つめて1列になって小屋を出た。
 なぜそんなことが出来たか分からないが不思議に彼らは矢をつがえたまま道を開けてくれた。
〇陸軍の兵隊(先の2人とは別)が現地人の豚肉が手に入ったので塩と変えてくれと言ってきた。
 塩は塊を持っていたので幾らか渡すと肉の固まりをくれた。
 隊長にどうしますかと言うと「う~ん捨てるか」と言われたので、自分もそれが良いと思い捨てた。

〇42日目にシオに到着、隊長はその夜の潜水艦でラバウルに行った。
〇シオに着いても何もなく、巨大な岩石の影に隠れて呆然と過ごす。
〇1週間ぐらいして軍医隊長が来て「黙って着いてこい」と言う。
 行くと「この男をラバウルに連れていかんといかんのだ、潜水艦に押し込んでやれ」 と罪人か何かを扱うように潜水艦に押し込まれた。

2日後ラバウルへ
〇潜水艦が入港してすぐ130機によるラバウルの大空襲があり改めて潜水。
 2時間ぐらいで再浮上すると港や街は火の海になっていた。
 この潜水艦は下船後帰りに湾口の中で沈められた。

海軍第8病院に入院。

海軍第81警備隊に仮所属
〇82警備隊の者はいないかと言われて行くと、同年兵が頭から上半身包帯でぐるぐる巻き
になり、すでに亡くなっていた。同部隊なのだから遺体処理をするように言われたが、体力がなく手伝って貰って遺体を運び爆撃の合間合間に焼いた。
〇敗戦までも収容所時代もサツマイモを作って2年を過ごした。

1946(昭和21)年11月 復員
〇船に乗っている12日間の間に12人が海に落とされたと聞いた。
 乗船した時「兵長殿日本に着いたらもうお別れだから」と個室が用意され、上げ膳据え膳で面倒をみてくれ便所に行くとき以外ほとんど出して貰えなかった。
 これは収容所で何度か喧嘩を止めたことがあったので、同じ場所にいると船から落とすうえで邪魔になると思い仕組まれたことだとあとで分かった。

取材日 2012年4月28日
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ゴールデンウイークの大分・熊本キャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
大分・熊本キャラバンは、皆様メーリングリストの日々の報告にお名前が挙がっていましたので、先に載せさせていただきました。

大分・熊本キャラバン
訪問都道府県:大分県・熊本県
日程:2012年4月28日(土)~5月5日(土・祝)
   4月27日前泊

◆◆4月28日(土)◆◆

大分県日出町
午後
◎倉兼一二さん
戦地等:東部ニューギニア

◆◆4月29日(日・祝)◆◆

大分市にて護国神社等訪問

◆◆4月30日(月・祝)◆◆

大分県佐伯市
協力:長陽会
◎狩生潜さん
戦地等:海軍。駆逐艦「初霜」の主計兵。
◎宮本久人さん
戦地等:戦車第1連隊。その後軍需工場勤務。
◎御手洗環さん
戦地等:北千島・パラムシル島(幌筵島)の守備隊~チタ抑留
◎佐藤百合子さん
戦地等:女学校在籍中小倉の郵便局に勤務
◎藤原タマさん
戦地等:女子挺身隊

◆◆5月1日(月)◆◆

午後:熊本県人吉市
◎原岡勇さん
戦地等:ビルマ等

◆◆5月2日(月)◆◆

熊本県熊本市
協力:新老人の会・熊本支部
午前:
◎早道友記さん
戦地等:陸軍。ブーゲンビル。
午後:
◎吉田牧子さん
戦地等:熊本女子商業学校教員

◆◆5月3日(火・祝)◆◆

熊本県熊本市
協力:新老人の会・熊本支部
午前:
◎竹口阿佐子さん
戦地等:従軍看護婦。中国。
午後:
◎嶋田敬士さん
戦地等:海軍航空隊整備員、アジア各地 

◆◆5月4日(水・祝)◆◆

熊本県熊本市
協力:新老人の会・熊本支部
午前:
◎中原金蔵さん
戦地等:陸軍鉄道9連隊。泰面鉄道建設。
午後:
◎青木キミ子さん
戦地等:開拓団。旅順。1953年まで中国で生活。

◆◆5月5日(木・祝)◆◆

熊本県熊本市
協力:新老人の会・熊本支部
午前:
◎新道満人さん
戦地等:海軍特別年少兵
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写真は熊本の「おてもやん」像です。

昨日の夜遅く、大分・熊本キャラバンが帰還しました。
ゴールデンウィークフル稼働状態の長旅でしたが、日付が変わってもお土産話をした後、さらに夜通し報告を書いていたようです。
お疲れ様でした。
大分・熊本の皆様、大変ありがとうございました。
大分・熊本キャラバンの4月30日(月・祝)の様子です。
ほんのり内輪受け的、しかしそうとばかりもいえない偶然もあったようです。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

昨日(4月29日)は当初OKを頂いていた体験者の方の聞き取りがご家族の心配で駄目になり(残念ながら最近ままあるケースです)オフ。
折角遠くに来たのだから普通の休日として楽しめば良いようなものですが貧乏性の私としては護国神社や県立図書館で過ごすことになってしまいました。

本日は早朝、このために帰省して貰ったような中田事務局長と大分駅で合流。
鈍行で南へ1時間半、佐伯市を目指します。
途中臼杵駅に長く停車した折、ちょうど開いたドアの向こう、目の前のホームに早春賦の歌碑と、作詞 吉丸一昌の文字!
そう、「語らずに死ねるか」のプロデュサー吉丸昌明さんが早春賦の作詞者のお孫さんだとは知っていたのですがなぜ臼杵に? 長野の歌じゃないの?? と思ったら臼杵は吉丸一昌さんの生誕の地だそうです。
詳しい経歴など拝見しながら「吉丸さんのお祖父さんって本当なんだ」(←別に疑っていたわけではありません)と車内で大盛り上がり。。。
知らない土地にいきなり親近感がわくから単純なものです。


佐伯市では長陽会が運営するケアハウス・コスモスほか各施設の方々からお話を伺いました。

狩生潜(かりうひそむ)さん(92歳)は駆逐艦「初霜」の主計兵。
大和と特攻に出る前命令で船倉の蓄えを全て使い尽くす宴会を二晩。
沖縄特攻からは戻りましたが、その後舞鶴沖で沈没しています。

宮本久人さん(96歳)は戦車第1連隊! と思いましたがご高齢過ぎて?太平洋戦争開戦前のお話、戦車が泥沼にはまり参謀が亡くなられた話などありましたが、中心はその後の住友金属での軍需工場のお話だったそうです。

御手洗環さん(90歳)は北千島・パラムシル島(幌筵島)の守備隊。
その後チタに抑留された体験。

佐藤百合子さん(83歳)は女学校に籍を置いたまま小倉の郵便局に勤務。
「当時はねずみがいるから郵便物に穴があいて豆を炒ったのがこぼれてきたりするの。
それを誰ともなく食べて、そうすると穴が少しずつ大きくなってきてね」
一方で「欲しがりません、勝つまでは。命も欲しくなかったの」

藤原タマさん(90歳)は女子挺身隊で魚雷のネジを作っていました。


こちらの施設では毎夏「戦争を語り継ぐ会」を開催してもう16回を重ねているとのこと。
施設外の方たちも聞きに来られる夏のイベントとなっておられるようです。
北関東キャラバンの方もケアハウスにお世話になったようですが、保存会の都合ばかりではなく、戦争体験を聞く場を作ってくださる施設は恐らく入居者にとって良い施設なのだと感じています。
つまり職員や家族の都合以上に入居者の方を向いている姿勢の反映で、残念ながら決して多数派ではありません。

施設で出しておられるのと同じお昼御飯も御馳走になりましたが、普通においしいことにびっくり!
更に食器をプラスチック製ではなくちゃんとした陶磁器を使っておられる事に感心しました。
GW中はちょうど有田の陶磁器祭りなのですが、今日は職員の方が3人で今年の新しい食器を買い出しに行っているとのこと。
「陶磁器を使うとお年寄りが割ると言うけどあれは嘘、割るのは職員!」(笑)と御手洗和子園長。
本当にお世話になりました!!

最後に列車までの1時間、佐伯市平和祈念館やわらぎへ。
佐伯海軍航空隊の兵舎跡地に建てられた大分県唯一の平和祈念館で、何となく大人の来館者は久しぶりだった気配??(学校の平和学習での利用は活発な様です)
年配の男性職員の方が全館付き添って詳しく説明して下さいましたが、特に佐伯の特徴を中心に、海軍の誘致合戦のお話などもあって興味深く贅沢な見学となりました。

その後大分市内へ。
中田事務局長は明日の通常出勤に向けて最終便で帰京しましたが、実は濃霧発生で高速が閉鎖、空港行きのバスが下の道で渋滞に巻き込まれ、飛行機には実に間一髪の到着だったそうです。
羽田から無事戻ったと電話がありました。

私は明日は九州を横断、5時間列車に乗って熊本県人吉を目指します。
大分・熊本キャラバンの4月30日(月・祝)の日程です。

訪問地:大分県佐伯市
終日 ケアハウスにて聞き取り
5名ほどの体験者の方にお話を伺います。詳細は行ってからのお楽しみ、とのこと。

連休前半大分に帰省しているメンバーが合流して、取材に参加します。

皆様よろしくお願いいたします。