あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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2013年5月の和歌山ミニキャラバンが聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
すでに報告・証言概要が挙がってきていますので、順次掲載していきます。

和歌山ミニキャラバン
訪問都道府県:和歌山県、愛知県
日程:2013年5月4日(土)~5月5日(日)


◆◆5月4日(土)◆◆

訪問地:和歌山県印南町
体験者の方

戦地等:飛行兵(整備士)、中国、戦後共産党軍に徴用

◆◆5月5日(日)◆◆

訪問地:愛知県北名古屋市
体験者の方

戦地等:大型機のパイロット、ビルマ~ラングーン等。沖縄特攻待機中終戦。
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大阪キャラバン後半、10月18日(金)に伺った証言の概要です。
さらに、体験を補完するようなエピソード、復員後の活動のお話等、別便で流れてきていますが、ひとまず体験のみ、メーリングリストより転載します。

◆◆◆

◎阪口繁昭(さかぐち・しげあき)さん(85)
収録日:平成25年10月18日
所属:満蒙開拓青少年義勇軍松浦中隊〜第六国境守備隊鈴木中隊
戦地:満州(東寧〜黒河〜朝水陣地〜孫呉)〜シベリア(ライチヒンスク第十九捕虜収容所)
――――――――――――

・私が、このたび、少年兵としての、戦場体験、また、シベリア抑留の、この、苦しい状況等について、証言を、させていただくことを、機会を、得ましたことを誠に、あつく、御礼を申し上げます。えー、まだ、十月の半ばと言いますけれども、もうシベリアでは、えー、もう、雪嵐といいますか、えー、大変な、寒さ、零下三十五度、四十度の中で、多くの、戦友の、遺体が、放置されています。ま、その点に付いては、戦友の、霊を、弔いながら、その、心に念じながら、報告を、さして、いただきたいと、思っております。また、えー、七十年、数年の前のことでございますので、表現等については、当時の、表現を、使わしていただきますことを、御了解、いただきたいと存じます。
・私は、えー、昭和十八年に、満蒙開拓青少年義勇軍を、志願いたしまして、入隊をいたしました。当時は、満州は、日本の生命線、または「若者よ、満州へ行け」「拓こう、満州の平野を」というほどの叫び声で、当時は、非常に、学校の先生、並びに、もう町中、あるいは、国中が、さかんに、「満州へ、満州へ、若者、行け」ということで、もうさかんに叫び声が、あった、時でございます。えー、そういうことで、一死の、お国のためと、いうような意味も込めまして、満蒙開拓青少年義勇軍へ、志願いたしました。ところが、入所した段階は、「拓け、満蒙開拓」という、そういうスローガンとは別に、教えられましたのは、ほんとうに、つらいつらい、その、軍事教練と言いますか、もう、鉄砲の持ち方
、あるいは、えー、その、一人でも、敵を、仮想敵国をみなして、そして、突撃、あるいは匍匐前進、それから機関銃の扱い方、まあそういうようなことで、まあほんとうにもう、私達が希望しておった、その、満蒙開拓青少年義勇軍とはまったく違っておりました。そこで私は、まあ今現在にいたって、えー、確認をとって勉強をさしてもらったら、一つの、こういう、青少年義勇軍で入隊して、そして、シベリアに抑留されました、方の中で、この、昭和二十年十月に、復員されました“茨の青春”ということで、“まつばらかおる”さんが、えー、非常に、本として、えー、苦しい状況の、ところを本として、発行されております。その中に、えー、この、満蒙開拓青少年義勇軍を、創設した、その意味と、そ
れから青少年義勇軍の役割を、書いていただいております。これを見て、いまさら、ほんとうに、唖然としたものでございます。それは、内地でおる、内原訓練所におります時には、義勇軍の名称は、「満蒙開拓青少年義勇軍」と、言われておりましたけれども、満州へ渡ったとたんに、ハルピンの、義勇軍の本部から、達しがありまして、「本日より、関東軍の命令により、満蒙開拓青年義勇隊と改称する。そして、関東軍の隷下に入れ」ということで、義勇隊の私達の訓練所は、北満の治安の悪い僻地、または辺境に設けられた関東軍にかわって、その地区の警備にあたれと、いう命令と、併せて、義勇隊員は、関東軍の命令で、さらに、国境や、奥地に、配置された、こういうことが、明記されております。な
るほど、そうだったのかと、いまさら、なんといいますか、私達の目的、希望に燃えた目的、青少年の目的が、その違いが、はじめて、唖然として、わかった状況でございます、えー話は戻りますけれども、私は、昭和十八年の三月に、十四歳で、満蒙開拓青少年義勇軍を志願し、内原訓練所に入所いたしました。内原訓練所といいますのは、茨城県の、水戸市の近くでございます。そこにまあ、えー、霞ケ浦、航空隊も、ございまして、えー、よく、赤トンボと言いまして、当時の飛行機が、練習をいたしておりました。航空隊の方が練習しておりました。そういうことで、私達は、毎日毎日、その、銃剣道、あるいは、銃の扱い方、そういうことで、えー、いろいろと、訓練に励んでおりました。特に、農地作業
があるんかと、満蒙開拓というかぎりは、開拓の作業があるんかなと思ったら、まったく、そういう作業はなかったと、やはり、その、特にまあ、その中でも、私達は、痛切に、毎日毎日精神教育を受けたことは、「義勇軍の本文は、命を大切にし、そして、死をおそれるな」、えー、私達はこの意味がちょっとわかりにくかったんですけれども、教官のいろいろの解説によりますと、平素命を大切にし、いざ、お国のためということになったら、死を恐れるなと、こういうことだと、いうようなことを、教えられました。そして、えー、また、義勇軍の、訓練中は、もちろん、軍事教練がもちろんのことでございますけれども、北海道へ派遣されましてね、そして、乗馬、馬の訓練を、やらされたと、いうことでし
た。それから、あの、壕の掘り方、それは、だいたい、なんと言いますかね、幅が、約、15メートルぐらいでしょうか、ええ、深さが、だいたい3、4メートル、これがあの、戦車壕です、こういう、戦車壕で、えー、仮想をやって、仮定の時事でそれを、実際に訓練に、私達が、従事したと、いうことになんです。それで、そういう、訓練を受けながら、えー、年が変わって、19年の、10月に、えー、いよいよ、満州に、渡りました。えー、先程も言いましたように、いよいよ満州へ渡った途端に、私達は、えー、満蒙開拓青年義勇隊、そして関東軍の隷下に入ってしまったと、いうようなことで、最初、この地図にもございますように、あの、まず、行かされたところは、沿海州の、この、東寧っちゅうと
ころです。えー、東寧ちゅうところで、そして、ここにも書いてますけども、あの、国境、ソ連との国境まではこの要塞は、500キロです。500キロごめんなさい、0.5キロなんです。ええ。もう寸前に、もう、ソ連の、その、領地が見えるわけです。そこで、結局、私達は、その、500メートルに接近した地域に、私達が、そこで、訓練所として、毎日訓練に励むと、いうことで、えー、だいたいは、その、この東寧要塞いうところは、もう日本の兵隊は全部、要塞地帯に入ってしまって、そして、日本軍の兵隊は、本当に、姿を見ることができなかった。ま、こんな状況です。それで、それで、えー、私達は、あの、派遣される関東軍の将校から、手旗信号、当時はもう手旗信号でないと、その無線を使
ってる戦場、戦闘状態になってくると、その、その部隊と部隊との、あるいは中隊と中隊との連絡が取れないと、いうことで、手旗信号を、強行にやらされたんです、その訓練を、手旗信号。それから、匍匐前進、匍匐前進、それから、あの、手榴弾の、投げ方、それから、機関銃の、この、撃ち方、迫撃砲の撃ち方の訓練、もうそういうことを全て全部ねえ、その関東軍の将兵に、教えられたんです。その国境を目前にして。そういうことを、まああの、東寧というところの訓練所で、派遣されたんです。それがあの、ここの、映像で写したんですけれども、この映像の中にはほんとうにもうね、東満の、一番、五大要塞の一つと言われています、東寧にあるんです。ええ。その東寧で、おりまして、そういう訓練
に励んでおったんですけれども、戦局が、だんだんだんだんと厳しくなってきたと、日本の戦局が。それで、えー、約、あ、十九年の十月です、戦局が厳しくなってきたのは。その時に、「阪口、転属やぞ」という命令が、友達、戦友から、来ました。で、中隊長のところへ行きましたら、「阪口ほか七名は、国境守備の第六独立国境守備隊へ、要員として、転属を命ずる」という命令を受けて、今度は一番、北満の、孫呉、孫呉というところ、この近くに、黒河、黒河・孫呉とあります。黒河というところは、あの、日本の、統治の時に、黒河という、町を作ったらしいです。それは、ソ連と対抗するために、鉄道線路を敷いて、そこで、えー、黒河という、まあいわゆる、関東軍が命令した、町づくりと。そして
、関東軍が作った、その、敷設の駅になると、こういうところや、そこはもうまったく、そこの、黒河の方へ、孫呉・黒河の方面へ、転属を命ぜられまして、そして、えー、朝水というところに、あるんです。朝の水、これが「ちょうすい」っちゅうんです。この、朝水陣地へ、この、関東軍の、命令で、派遣されました。えー、ここで、その命令で派遣されまして今度は、なんて言いますか、あくまでも兵隊と違いますよ、まだ、義勇隊員ですよ、ええ。その義勇隊員として、朝水陣地へ、行かされたと、ということは、朝水陣地から、今度は、分哨と言いましてね、その、陣地から、その、約15キロ先、の、その、ところに、もうほんとに国境に近いところ、そこに、前哨、前の、歩哨の哨、前哨っ言うんです
、その前哨の勤務を命ぜられまして、最初は、あの、ソ連の兵隊が、その国境地域のね、その、この、“とんぼ線“【※?】を張ってるんです、陣地まで。接近してくる場合があるんですよ、そんな場合は、威嚇射撃せいと、そんな話やったんです。ところが、戦局が厳しくなって、いたずらに刺激してはならないと、いうことで、その、発砲してはならないと、いうことで、ソ連の、兵隊が、どんどんどんどんとそこに、国境地帯へ来るのに、発砲できないと、いう状況でした。そして、えー、毎日毎日そういうことで、えー、本隊のほうに、異常はないと、ただ、ソ連の、兵力が、たまたま、ちょいちょいと国境近くに、”とんぼ線“近くに接近中という状況を、まあ説明をしておったんです。その時に、八月九
日のちょうど未明です。もうその時にねえ、厚い雲に覆われてとったんです、真っ黒な雲に。当日、ええ。そしてそのへんはねえ、もういわゆる、八月はねえ、そのにわか雨が、スコールっちゅうんですか、すごいんですよ、にわか雨が。で、そういうとこで、その、厚い雲に覆われておったんです。その朝水陣地の前哨で、私達勤務しておったんです。それで警備やっとったんです。その時に、その、なんていうんですかねえ、もうものすごい爆音が聞こえてきた。厚い雲ですからね、その、わからんわけね、その爆音だけが、どんどんどんどん耳に入って来る。そうしたら、そうするとまた、カタカタカタカターという音が聞こえてきた。「なんやろうなあ、えらい、訓練やっとんのかなあ、日本軍が訓練やっと
るんかなあ」ということで、私達は、あくまでも訓練というて思うとったんです。そうすると、私達陣地の、ずっと後方から、まあいわゆる、師団本部のある、孫呉、ええ、そのへんからね、どんどんどんどんと火の手がドーンと上がってね、火の手が上がるんですよ、「これは実弾演習やっとるのかなあ」って思っておったんです。その時に、だいたい、夜明ける時分に、乗馬連絡が来た。「戦争や!」ちゅうことで、「ソ連が侵入してきた!戦争や!陣地へ引きあげろ!」というねえ、連絡、「連絡事項終り!」っつうてねえ、次の陣地ずーっと、その乗馬の、この、あの、伝令がまわっとるんです。それで、私達はすぐに、その、朝水陣地へ戻ったんです。その時に、朝水陣地へ戻って、中隊長から訓示があっ
たんです。「皆、集まれ」。そうすると、「ソ連との戦争になった、かねてから、作戦命令により、この陣地は死守することになった。全員、貴様たちの命は貰う。覚悟してもらいたい。いよいよだ」。そして、「本日をもって、阪口繁昭は、陸軍二等兵を命ず」、という中隊長の、この指示なんです。そこではじめて私はね、陸軍二等兵になったんです。ええ。それは、あの、あとで、私の、戦傷確認書に、記載されてますので、はい。それはあの、証明になるんですけども。そういうことで、だから、軍籍のない、町役場に軍籍のない少年兵、はい。その、ソ満国境との戦争になった、日ソ戦争になった、その、当時、中隊長から、もう、命令で、「青年義勇隊員、阪口繁明は、本日をもって、陸軍二等兵を命ず
」ってこういう命令を受けたわけ。そこではじめて、その、私達は、兵隊としての活躍をしたわけ。ですぐ、その場で、「弾薬を運べ」、命令、それから「タコツボ掘れ」っていう命令。タコツボというのは、自分の体が、スポッと中に、タコツボってご存知ですか、その、スポッとね、あの、人間が、この、兵隊が、こそっとその、ここまで、入れるぐらいの、穴を掘る。それが、いわゆる、銃を構えて、そして、戦闘状態に入ると、そういうタコツボなんです。それもいわゆるねえ、軍隊用語で当時はタコツボと言ったんです、ええ、「タコツボ掘れ」って。で、タコツボ掘って、そしてもう毎日毎日もうねえ、やはり、その、ソ連の兵力は、直接、戦争当時の八月九日と十日の時分は、攻めてこなかった。自分
の陣地へ。だから、どんどんどんどん、この、音がすばらしい、すごい、その戦車の移動、どんどん南下する。そうすると、今度は、あの、中隊長から、「よし、あの、一応、本部から、一回、ソ連軍の、南下する、勢力を、確認せよ」という、命令があった。したがって、えー、「潜伏斥候に行け」と、でもう、これは、進んでて歩いてねえ、行くっていうねえ、兵隊はなかった。で、兵隊の、この構成はねえ、あの、戦局の厳しい時に、私達が、朝水、その、陣地を代った途端に、在満のね、日本人が全部ねえ、兵隊にしたんですよ。というのは、そうですねえ、もうかなり、六ヶ月以上、前に、全部在満の18歳以上の人、男という男は全部ねえ、兵隊にしたの。それも、私達の陣地に来とったんです。ところ
がねえ、中隊長は、「にわか作りの兵隊では間に合わん。だから、青年義勇隊出身を兵隊に使え」ということで、それで私達に命令が来た。その時に、もう、いよいよ、敵の近くに寄らんと、南下する兵力は見られないんですよ。その時にもうねえ、もう死守せよという命令を受けた以上は、もう死を覚悟せにゃいかんな、と思いながら、そして、あの、私達少年兵が三人、斥候長一人、その、なんちゅうか、偽装、いわゆる、網をかぶって、草をいっぱい、お互いにさして、そして、あの、全身は、今度は山から下って行く時は、見えないように。そして、いよいよ満人部落を通らにゃいかん。それはねえ、満人部落はねえ、この土壁でねえ、その、黒いんですよ。そして入口が一つ、ねえ、入口と出口が一つ、こ
れがもうねえ、そこを通らにゃいかんわけさ、そうするともうね、まったく無人、皆逃げてしもうて。ええ。全部無人です。しかし、なにが現れるかわからん、ということで、斥候長は、これからの合図は、目と、手でやる、その命令を、よく、斥候長が、うん、従え、という命令を受けて、そして、匍匐前進せい、という命令を受けて、そして、匍匐前進せい、ということで、その、這いながら、その、満人部落を、もうほんとうに人がおらん満人部落を通らにゃいかん時の恐さ、なんとも言えんです。その時に、絶対に、敵を、目の前に発見しても、ねえ、発砲してはならない、という命令を受けた。それで、匍匐前進しながら、行っておったんですけども、その時に、ガタッ!!と音がしたんで、わあっ!!と
もう、まったくもう体中ねえ、冷や汗だらけ。そして、もう、ほんとに、銃にもう、引き金、引きかけたわけ。ところが、猫やったんや。もうほんと言うとここでいかれたかなと思うほど、もう汗びっしょり。ええ。そんな、いわゆる、恐さを、乗り越えながら、その冷や冷やしたっちゅうねえ、もう全身汗びっしょり。そして、それを乗り越えて斥候長は、「前へ進め」っていうことで、もうそうすると、キャタピラの音が聞こえとってあのガタガタガタガタっていうのは、その、ソ連の戦車ですわ。そりゃねえ、もういつも日本の戦車を見とったけども、ソ連の戦車ってやつそーりゃすごい、ものすごい大きい、はい。そりゃもうねえ、後でまたそれは、あの、捕虜になってからわかったんだけども、もうすごい
、ええ。どえらいすごいもう大きい戦車。まそういう兵力が、あの、戦車の南下する、数量とか、あるいは兵力とか、そういうものを、だいたい、中隊本部へ戻って無事に戻って、中隊長に報告したと、その、潜伏斥候が、そういうような潜伏斥候が三回あった。それで四回目に、今度は、深夜に、行けと、だから朝水陣地っちゅうのはねえ、あの、小高い山になってるんです。で、国境側のほうは、こういうように、湿地帯があって、山の、窪地があって、えー、陣地が、高いような状況なんです。そういう陣地です。そこで、深夜、やはり、同じメンバーと、一緒に行った。そしたら、約、潜伏斥候に行ったら、約ねえ、えー、二時間ほどたったかなあ、そしたら、下からねえ、「おい、鉄兜の、頭、頭、頭が違
う」こう言う、斥候長が。「頭が違う」、だから、これが違う【※頭を触りながら】、敵や!もう、物は言えませんがねえ、敵や。で、入れっちゅうんや、窪地へ。これ入れっちゅうんや、窪地へ、これ入れって。それでずーっとねえ、斥候長の命令で、その、その、なんちゅうか、教えられとる精神教育、三八式歩兵銃、これねえ、鉄砲撃つところにねえ、菊の御紋あんのや、天皇陛下から頂いた鉄砲やと、大事にせにゃいかんと日常に訓練を徹底的に受けとるわけ、精神教育。そのねえ、三八歩兵銃を、抱えながら、そーっと入ってそして抱えて持った。その時に、ねえ、あの、朝水陣地っていうのは先程言ったように窪地があって、岩もあり、いろいろあった。もう、一人の少年兵が、バタッ!!っとそのねえ
、窪地へ入る時に音さした。その時の射撃のどえらいこと。ものすごい。もう、そんなもうもうなんちゅうんかもう黄色い弾がどんどんどんどん飛んでくる、ええ。それはねえ、それもあとで、わかったことだけども、日本の、我々の持たされとる、銃は、三八式歩兵銃というて、一発、撃ったら弾込めで、また一発、ね。それも、撃てっていう命令で、込めてやっとるわけ。ところがね、捕虜になってはじめてわかったんやけども、なんとソ連はね、この、上にかけてね、引き金引いたら、30連発出んの。で、いわゆるマンドリン銃って、自動小銃っちゅうやつ。あれがその、ものすごいもう頭上げられんくらいねえ、ものすごかったですよ。それで今度は手榴弾投げて来た、むこうから。その時に、何発か投げ
て来たんですけど、ちょうど、あの、鉄棒でねえ、頭殴られたみたいな、ガーン!とねえ、そういう状況になった、僕が。その、チャプンと戦友、一人の少年兵が、チャプンと音さしたために。それでねえ、もうその時はちょっと意識なかった思うんや、僕は。ええ。もうそん時はその、クラクラクラッとしてしもうて、ちょうど鉄棒で、頭どつかれたみたいな、そんな、あの、状況になったんです。それで、あの、斥候長が、敵兵が、鉄兜の変わった、頭の格好が変わったもんが静かになって、なにもない、という状況にいたるまでね、かなりの時間やったと思うんです。そして、「上がれ、上がれ」という命令で、上がらしてもろうて、そして中隊本部へ帰ったら、中隊長に報告したら、「阪口、お前、頭から血
出とる、衛生兵呼べ!」といってねえ、そんで衛生兵呼んでくれた。それで、「あかん、阪口、お前、耳のここ【※耳の後ろ】にいかれとるなあ。食い込んどる。これ、食い込んだままや。痛いけど辛抱せい、赤チンしかないわ」言うて、赤チンばっとふっただけ。そのままでねえ、ちょっとの間はもうほんまに、意識はねえ、ボーッとしてしまったけどねえ、もう、緊張して、緊張しているから、その痛さっちゅうんか、精神的にもう忘れてしまう。それでまたすぐにまた、あの、この、タコツボ入って、そして、「敵の戦車も接近しつつある、だから、下がって、爆雷を用意せい」ということで、もう、飛行機はねえ、ソ連の戦闘機やってくる、それで、あの、いわゆるつわもの、古兵、古い兵隊、古兵の、現職
の、パリパリの古兵は、機関銃で、その、ソ連の、その飛行機を目指してねえ、やるわけよ。一瞬にしてねえ、バーンとやられたらもう姿形一瞬にして無し。その、撃ってる、抵抗してる、うちの、日本の、古兵が、もう姿形ぜんぜんなし。バーン!と飛んでしもうた、もうぜんぜん姿なし。どこへ死体がいってもうたかわからん。そんなような状況、ええ。そういうねえ、状況で、そして、いよいよ、戦車が近づいて来たと。「おい、よし、中隊長の命令や。破甲爆雷持て」。で、破甲爆雷っていうのはねえ、戦車に対するねえ、あの、身を持ってねえ、爆雷持って、飛び込んでゆく、それが破甲爆雷っちゅうんですわ。ええ。その破甲爆雷をタコツボ入ってねえ、タコツボ入って、信管のヒモあるでしょう、信管
、信管のね。それをね、あの、さあ、命令があった時、「さあ!進め!爆雷持って進め!」って言われた時に、その、信管がはっきりわかるように、この、軍服のねえ、ボタン、ボタンへ巻きつける。巻きつけて、そして、「破甲爆雷部隊!進めぇー!!」って言われたら、もう、進むんやけども途中で皆ねえ、もうソ連のマンドリンでいかれる。それでいよいよもうねえ、もう、死というもの、死というもの、もういっこうにねえ、感じることはぜんぜん僕なかった。もう、もういつか、この、朝水陣地の、草木と一緒にもう、散ってしまえなあ、いつもその覚悟しとったから、もう死をおそれるっていうまあ、ほとんどねえ、古兵について、少年兵についてはなかったと思う。一般の、臨時召集した、在満の日本
軍は、それがこわかった、みな。そういう統制のとれんような兵隊はねえ、もう役に立たん。だからもうほんとにもうねえ、青年義勇隊の義勇隊員が、主力になったと思うんです。それからあの、いわゆる昔からの、関東軍の、兵力の一部、その兵隊と青年義勇隊と一緒になって戦ったと思う。それで、もう、残念な、思いをしたのは、破甲爆雷で、戦車に、届くまでに、マンドリンでいかれる。そういうとこでもう順番待ちで、いよいよ、いよいよかなってきた時に、荒城の月の、音楽がかかってきたんです。「なんでやろなあ」、それで一瞬静かになった。それで、「荒城の月の、日本の音楽やなあ、おかしいなあ、おかしい」。そしたら、一瞬ねえ、ものすごい、その、あの、雨あられというぐらいの、その、
鉄砲の弾や、発砲、発砲がバタッて止んだ。「おかしいなあ」、それで、「撃ち方やめぇー!そのまま待機!」っというてねえ、中隊長言うし、そしたら、その、あれ、気球船ちゅうんかなあと思うんや、僕、この上あげて見たのがねえ、もっとしっかり、女性の、ソ連の兵隊も見たんや。その時に、遠く、だいぶ高いとこからずーっと旋回しながら、そして、もう抵抗せんことわかった、と思うんや。それで低くなって、それで、あの、ソ連の、女性の兵士を見ることが出来たと思うんです。その時ね、「日本の兵隊さん、日本負けました。無駄な抵抗やめなさい。日本が無条件降伏したんです。無駄な戦争やめなさい。武装解除しなさい」というねえ、それを何回も何回も旋回しながらねえ、そして、飛びさって
行った。「ん〜、そんなこと信じられんぞおい」、「ん〜、だけどあの気球船が真上に来て」「うん、しかし、無条件降伏せい、日本が負けた、おい信じられるか」っていうねえ、タコツボ同士の話。「おかしいなあ、おかしいなあ」と思うとったです。その時に、もう、なんでしょう、撃ち方やめて、ソ連の、戦車やら兵力やら、陣地の下へ来てますんやで。その時に、その中から、日本の将校が、白旗持って、日本の将校が白旗持って、こういうふうに持って、陣地のへ上がって来たの。それで中隊長となんか話して、そしたらやっと、日本は、その、まあ、負けたと、「信じられん、信じられんけども負けたんや」、ということで、それで、「ただちに武装解除せよ」と、そうでなかったら、ねえ、ソ連は、戦
車は一斉に、またソ連の部隊は一斉に陣地を攻撃する。うん。死滅する。降伏か、陣地降伏か、あるいは、ソ連軍のとおり、ね、守って降伏するんか、あくまでも抵抗するんか、抵抗しても無駄やと、いうことを、中隊長と、その白旗を持った日本の将校と、話し合いがあった。その時にはじめて、中隊長は、「わかった、武装解除を命令する」というて、それでやっと、武装解除の命令来た。その時にもうすぐねえ、ソ連の兵力やってきた。最初はこわごわ来たよ。ソ連の兵隊が。その時に全部ねえ、そのもうポケットからなにからもう弾丸とかそういう物入ってないか全部ねえ、みな、放り出し。そしたら、そのねえ、今度は整列せよっちゅうことや。武装解除にして丸裸にして。そうしたら残念なことにねえ、
戦闘中のことやから、その朝水陣地にはねえ、山という山の穴倉、そこに食糧からねえ、衣服からどっさりあんねん。その貯蔵してあんねん。そのねえ、食糧持つこともできん、「すぐ並べ」、ということでソ連軍にすぐ、あの、無条件降伏した部隊が引率されるんです。無駄な抵抗できへん。もう、なんにも、銃も何にもないから。そして、どこへ連れて行かれるんかなってそれもわからん。うん。しかし、こうなった以上はもう、ソ連軍のところについて行かなしゃあない、というて、そして、やっとわかったのは北孫呉やったけども、まそれまで行くとこわからへん。そんなしていとったら、もう、あの、食糧もなんにもないし、水もないし、皆ふらふらふらふらねえ、もう、ばたばたばたばたと、倒れ出した
の。そしたら、倒れたら、放っとけと、ソ連の、近寄ったらダメや、近寄ったらダメやって、マンドリン小銃の、ソ連のカンボーイに、監視兵に、あの、監視されながら、拉致されとるんやから。その時にもうねえ、もう私自身もあかんな、ところが、その、へたってしもうてねえ、もう、そこで、もう、道端のところで、もう、なんちゅうか、もう倒れてしまう、そういう、戦友が、多くなってた。しかし、つかえることは許さん、逃亡とみなして銃殺、だから、その点は、ソ連軍の、言うとおりに、守らにゃいかんとっちゅうことは、このはじめての、この捕虜や、日本ははじめての捕虜やからわからんやん。しかし、ねえ、規律ある行動をとって、ソ連軍に反するようなことやったらあかんぞ、それはあくまで
も銃殺されるぞっていう話やった。そしたら、その、倒れた兵隊のところへ戦友のところへね、かばおうと思うても、かばうことができへん。できない。そしたらもうその兵隊は、そこで、野垂れ死に。うん。その北孫呉というところへ連れて行かれるかわからん。それ野垂れ死にそのままもうほっとかなしょうがないから死んでしまう。そういうことでね、そして、えー、途中に、たまたま、僕がねえ、雑草の中からねえ、どろどろになったキャラメルの箱見つけた。さあ、う〜ん。もうその時はねえ、ソ連に囲まれとる兵隊に囲まれてあかんということを、もう、ぜんぜん、頭になかった。もう無我夢中でねえ、ひょっとしたら空かわからん。空かなにか入っとるかなんにもわからん。えーい!と思ってもういき
なり、その、雑草の中の泥まみれになった箱をねえ、キャラメルの箱をバッと手にしたんや。それで、ゆすってみたら、カラカラいうとる!っていうことで、「あ!入っとる!」ということで、その、箱開けたら一粒入っとった。その一つのキャラメルも、紙そのまま口ん中放り込んだ。そうしたら、なんとねえ、もう、体が弱って、もうほんとうにもう、私達寸前に倒れるかなと思っとったんですが、なんかねえ、カーッと体がねえ、力が、この、与えてくれたっちゅうか、たった一粒のキャラメルで。それで、私もやっとねえ、一粒のキャラメルで、北孫呉っちゅうねえ、ええ、その、戦略物資の着いたところへ、行けたんだけども、途中にまたねえ、大休止ってあったんですわ。大休止っていうのはね、そこで
、あの、座って寝れと、大休止って言うたところで寝よと、そういう、命令ですわ。そこで、ところがねえ、水が飲みたいんですよ、水。もう水もなんにもないんやから手ぶらやから。で、水が飲みたいっていうたときに、「おーい!みんな水あるぞ!」っていうねえ、だからもう、ソ連の監視、監視兵の、間をぬうてね、こっから逸脱できんしまへんがな。これを、その、水のところへいって、そして、その窪地の中の水をね、飲んだわけ。そりゃもうね、なんともいえん、もう、のどがカラカラやから。その水を飲んでようやくね、来た。夜が明けた。戦友が浮かんでる。戦友がね、もうね、これ軍服のね、このバンド、これはち切れそうです。それで軍服のボタンがね、ちぎれそうや。そのぐらいまでね、もう
、体が張ってんの。うん。これを見てねえ、「しかし戦友すまんだなあ、おまんらの、浮かんでるね、とこの水飲ましてもろうて、俺達は助かった、すまんなあ」と手を合わせながらねえ、みんな、みんな手を合わせながら、ほんとに手を合わせながらねえ、そして、ソ連の、拉致するところについたわけ。そこで、与えられた仕事は、関東軍の、もういたるところの地平線、その中に、アンペラっつってねえ、竹で編んだね、屋根。その中にね、米、醤油、味噌、それから缶詰類、なんでもある、もう。この、見渡す限り。それをね、ソ連の、その、トラックへ積め、あるいは、あの、貨物に積め、その積み上げ作業。それを、やりましてねえ、そして、北孫呉から、それを全部、その荷物の積み出しを、やらされ
て、えー、なんといっても、えー、この、私達後で聞いた話では、もう、ソ連へ、えー、拉致された入ソされた兵隊というのは、57万とか58万の日本の兵隊がね、全部、あの、ソ連へ入ソでしょ。その間ね、北孫呉のね、収容所を、その戦略物資をどんどんどんどん積ましてもろうて、その、いわゆる、なんというんかしまいにはレンガまで運べって、使えるレンガ、それまで運べって運ばされたことあるんですけれども、それでね、えー、十月の、上旬まで、その作業やった。そして、えー、11月の上旬に、その、あの、黒河を、から、結局、あの、ソ連へ入った、シベリアへ入った。だからその間は、その、あの〜、日本の兵隊が、何十万てあるから、その何十万ちゅう兵隊がね、その間は、結局、収容所
へ、黒河を渡って、黒竜江を渡って、収容所へ着く間、もう三百キロから歩きましたね。ですから、その間は、その作業しながら、食糧も与えられ、たとえばコルホーズある、また馬鈴薯掘れと、で、馬鈴薯掘ったその馬鈴薯かじったり、そうしながら、ずっと、やれやれで、一定の、捕虜生活の、シベリアの抑留所へ着いた。これはライチーハというとこへ着いたんです。でライチーハっていうところは、あの、第19、捕虜収容所なんです。第19捕虜収容所ですけども、しかし、その19収容所は、10か所を統括してるわけ。うん。ですから僕らは、えー、まあ、入ソさしてもらって、そしてじきに、この、傷の手当、やってもらわにゃいかん、その傷の手当する時には、あの、日本の軍医がやってくれまし
た。ええ。あの、四国のね、“ながた”っていうね、中尉、陸軍中尉、軍医がやってくれました。その中尉が、「この若者だけは、助けてやろう、なんとか助けてやろう。しかし、麻酔がないぞ。麻酔はないけども、お前の命は助けてやる。じきに意識がなくなる。だから、約、そうやなあ、一週間は経ったら気付くやろう、痛さが、一週間ほど続く、まそれ辛抱したら、なんとか生きていける」、ということで、で、“ながた”中尉の、麻酔なしの執刀で、それが、できたわけ。そして、僕は、もう、いわゆる、ライチハというところはね、炭坑の街です。だから私達は、あの、捕虜収容所で、さきほど言いましたように、捕虜収容所で、えー、まあ、いろいろ労働しなければ、結局、食を与えないというような極
端なとこですから、ですから、あのー、一番、なんちゅうんかなあ、あの、労働の、耐えられる、基準というものの中で、ソ連は、一級から五級まで決めてあった。で、えー、だいたい、僕は、だいたい二級から三級、ぐらいの程度やったと思います。なお、傷もだいたい痛みもおさまってきた段階で、その、あの、石炭の、あの、出て来たやつを、その、炭坑から出て来たやつを、その、トロッコへ積んで、それで、その、集積場まで、押して行く、そういう作業とか、あるいは、木を、樹木をね、切る場合、奥入って、その場合に、あの、二メートルなら二メートルの間隔で、木を切って、そして、その、貨車へ載せるわけ。で、貨車へ載せる時に、そうやね、その、作業、隊長が、号令かけるわな。「おーい!
積むぞー、行くぞー!いいかー、みんなええかー!さあー!よいさあ!よいさあ!」って言ってその、号令かけて、その、丸太をもう積んどったわけ、その、伐採した木を。そしたらソ連の兵隊がね、ゲラゲラゲラゲラ笑い出す。「なんでやろ、こっちは一生懸命やっとんのになんでそんな、ソ連の兵隊、笑いごとやっとんのやな」と思ったら、そしたら後で聞いたらね、そしたら、その、日本の兵隊は、我々は作業隊は、掛け声で、勢いで、やらんと、腹減っとるからどないもならん、ね。それで号令かけて「よいさ!」って続くわけやけども、それがね、「ホイサ」っちゅうねえ、ソ連の言葉に置き代えるらしいわ。そしたらね、女性を侮辱しとる言葉になんのやて。それでね、ソ連の兵隊が、カンボーイがね、
笑うとったの。ということもあとで、その兵舎へ戻ってわかった。そんなこともあるし、それから、まあ思い出としては、こういう黒パンね、これが、なんといいますかね、えー、味とか、大きさとか、そういうものを、和歌山県の、教育委員をされている、“さとうりつこさん”が、これをね、私の方へ、わざわざ来ていただいて、何べんも何べんもね、その、確認をしていただいて、そうして、この、味そっくりに、また大きさそっくりに、この、黒パンを作ってくれた。これを、五人分の一食、ということで、これで、結局、ノルマを果たしたと。しかし、ノルマを果たしたんだけども、もうとてもたまらん、ということで、栄養失調で、どんどんどんどんとねえ、その、体が、その、弱ってくる。そしたら、
ある時、薬局出身の、兵隊が、「おい!ええもん見つけたぞ!」「なんや!?」「カラマツの、カラマツの木や」「カラマツの木、なんだ!?」それを、「ええんや、とにかくええんや」ということで、ほしたら、その、小隊長、この兵舎の小隊長、収容所の中の、「今晩の夕食は、30本ずつわける」というてね、「え〜何わけんのやろうなあ、30本もなにわけんのやろなあ」と思うとったら、そしたら、カラマツの葉をねえ、カラマツの葉っていったら、この、この葉が長い、葉がものすごい長い。それは、その、薬局出身の兵隊に言わしたら、ビタミン素材になる、ビタミンになる、うん。それをね、30本、適当に食え、それ夕食代わりに食え、それをねえ、食べたけども腹に力が入らん。うん。それだけ
ども、その、それを、今度は、だんだんだんだんと、ソ連のカンボーイに、どんどんどんどんと多く、とれるようになったと、そこで、栄養失調の者が、どんどんどんどんそれをとったら、体がこういうふうにむくれとるやつがね、ひっこんでくる。栄養失調がなおってくる。そんな状況、まあ苦しい面も、あったんですわ。だから、ん〜、それと栄養失調で、倒れていく、亡くなっていく、戦友、が多かった。まあ、僕の隣の、戦友も、今日は故郷の話が多すぎる。上官が、「おい阪口、お前の隣の戦友ねえ、ちょっと故郷の話やらねえ、故郷のねえ、大福餅うまかったとかねえ、どうもごちそうの話しとる。だからもう、おい、うるさいと言わんと最後まで聞いたれよ」って言ったら案の定ね、そうしたら、やっ
ぱり、なんて言うんですか、あくる日に、もう冷たくなってる。それもね、ほんとうにもう、お腹いっぱいに食べた、顔、顔つきで、満足した顔で亡くなってる。うん。それを見た時にもうねえ、今度はソ連の将校が来て、「裸にせい」っちゅう。裸にすんですよ。そして、この、今度は、死んでいく者の番号書くんですよ。ところが死んでいく者の番号書くんやけども、ところが、その、番号書くとこない。油分が、出て、それで腹は、へっこんで、腹は、船底型ですわ。だから、ここへ石灰をね、溶かして、そして、この大腿部のここへね、ええ、番号書くんです。大腿部の番号、ここへ。そうして、「おい」、上官が、「気をつけたれよ、手をまっすぐにして、足もまっすぐにちゃんとのばしたれよ。それで外
へ出すときは、二人で出て、丁重に、出してやってくれ。お前、出す自分も、凍傷にかからんようにきちんとしていけよ」ということで、それで、二人で抱えて、外へつれたとたんに、もうまっすぐピンですわ。凍結。そしてそれをね、積み上げる、遺体を。で遺体をだんだんだんだん、積んでいったら増えて来る。それで、まあ、そのシベリアの夏っていうたって、もうほんまにもう一瞬だけども短いもんです。うん。一年間、のうち六ヶ月以上は冬やな。そういう35℃40℃ぐらいのね、寒さの中、そういう時期の、以外の時に、その、遺体をね、載せて、そして、奥へ、この、ソリで、ずーっとひっぱってねえ、そして、奥へその、遺体を、埋葬しようとするやけども、なかなか、掘れないの。もうツルハシ
でやってもカチンて火花が出るぐらい。だから、もう20センチか30センチぐらいになるかわからんけども、それで雪をかぶして、そして帰って来る、その屍当番が一番ねえ、つらかった。だから、シベリアの抑留生活の中で、もう食に飢えて松の木まで食べたと、松の葉っぱまで食べたと、ということ、この、黒パンと塩スープ、うん、これで労働やってたと、それから遺体は、うーん、もう、雪嵐のなか、凍結の中、あの、奥地へ奥地へやっぱ置きますでしょう、だから風の吹きさらし、なんぼ月積んでも吹きさらし。そういう状況の中で、遺体は放置されている。そういう点がね、もう強く印象に、残ってる。うん。もう、それ以外のことについてはほんとうにもうね、うーん、まあ、夜中に起こされたりね
、荷物来たから貨車きたから、下ろせとかね、うん、そういうことをやらされた以上に、あの、忘れられない、出来事というのは、故郷の話をして、食うも食わずに、そういう疲れた体で、ソ連に与えられたノルマを仕事のノルマを果たして、そして亡くなっていった、そのごちそうの話して亡くなっていったのは、もうほんとうに、もう満足した、ごちそういっぱい食べたよっとした、その顔で、亡くなってる。そしてつらかったことは、僕らは、その遺体を裸にして、番号をここへ書けと、いわれて、石灰で溶かしたやつを、ここへ書かされて、そして遺体を軒先へ積む、それのつらさ、それと、それから今度は、遺体がどんどんどんどん増えて来る、だから、どうしても、こんどは、あの、ラーゲリ、よりも、
ずっと離れたところへ、移動せにゃいかん。その時にソリに置いて、移動していく、そのまま、遺体は放置、もうそれのつらさが一番、こたえる。これがシベリア抑留でも、自分が食べられへんだとか、もう、空腹で食べらんだというような、亡くなった戦友と一緒やねん。だから、その、なんとかしてでも生きのびてきたということは、まあ、天の恵みかどうか、戦友にかわってお前だけ命助けたるというふうに守ってくれたんか、まそういう意味やと私思うんです。ですから、シベリア抑留中の、印象つったらそれが一番、残ります。だから、私は、こういうねえ、悲しい、なんちゅうんかなあ、人の、命を、奪い合いする、こういう、この悲惨な悲しいねえ、戦争という名の下に、なんのための戦争やと、そう
いう、ことの、今の平和というものを、十分噛みしめて、二度と戦争のこないような、町づくり、今の平和な町づくりを、いつまでもいつまでも続けるように、若者たちに、今後も、ずっと、続けて行って、訴えて行きたいと、こういうように思ってます、はい。

2013年10月の大阪キャラバン後半が聞き取りを行った方の一覧表です。
お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。

大阪キャラバン後半
訪問都道府県:大阪府、和歌山県
日程:2013年10月17日(木)~10月19日(土)


◆◆10月17日(木)◆◆

午後:
大阪府堺市北区
◎河野宏さん
戦地等:敗戦後共産党軍に参加


◆◆10月18日(金)◆◆

午後:
和歌山県橋本市
◎阪口繁昭さん
戦地等:義勇軍、シベリア抑留


◆◆10月19日(金)◆◆

午前:
大阪府大阪市中央区
体験者の方
◎福原陽平さん
戦地等:特幹1期、天津飛行場で終戦
午後:
大阪府吹田市
◎正田信夫さん
戦地等:気象隊、京城の測候所

大阪キャラバン2日目、10月18日(金)の様子です。
主に証言概要の速報です。後日、詳細版もメーリングリストに流れると思います。
最前線からのメールより転載します。

◆◆◆

◎阪口繁昭さん

昭和3年生まれ

昭和18年、義勇軍に志願。
親に内緒でハンコを持ち出して応募。

内原訓練所。
開拓のことより軍事訓練ばかりで、思っていたのと違った。

昭和19年10月 渡満。東寧へ。

そのうち第6国境守備隊に行かせられる。国境付近の監視にあたる。

20年8月9日、ソ連満州侵攻。

口頭命令で陸軍二等兵に。
斥候に出る。

12日、斥候中に負傷。

15日ごろ、捕虜に。

その後捕虜になりライチハ収容所へ抑留。
22年10月、復員。

軍籍がなかったが、戦友が証明書をかいてくれた。

◆◆◆

同じくメールからの情報ですが、阪口さんは地元でたくさんのボランティアをされている有名人で、今日は、日ごろから協力関係にあるらしい地元の交番で待ち合わせだったとのこと。
終戦直後に夜警のようなものを結成されたころからのつきあいのようですが、図らずも「出頭」状態になったキャラバンメンバーでありました。
迷わないようにとのお心遣い、ありがとうございました。
大阪キャラバン2日目、10月18日(金)の日程です。
大阪キャラバンといいつつ、後半唯一の府外、和歌山県です。

午後:
14:00~
和歌山県橋本市
体験者の方
◎義勇軍、シベリア抑留

無事たどりつけるか体験者の方が心配されて、意外なところで待ち合わせすることになったようですが・・・
その辺も含めて、報告を期待したいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。