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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
8月23日(月)午後、北海道チームが札幌市で行った収録会で伺った証言の概要です。
この取材には新聞社も同席。写真入りで新聞に掲載されたそうです。

◆◆◆

◎三澤 正道さん
1925(大正14)年11月23日生
1944(昭和19)年8月15日志願 
航空 整備
特別幹部候補生

○1944(昭和19)年から毎日B29が日本にきていたので、満州が一番安全だと思ったので希望した。
○1945(昭和20)年1月赴任 半年くらい飛行機エンジンの教育、整備。
陸軍仕官学校の生徒が、卒業間際の飛行訓練できた。
同じ年齢くらいで、本土の件を話をすると、日本本土がやられていること、沖縄もやられていることを知った。
日本のニュースは正確ではないので、ラジオ、新聞は見なかった。
人の情報が頼りだった。
ソ連とは戦争をしないだろうと思っていた。

1945(昭和20)年
8月9日 非常召集がかかった。
8月11日 移動開始 奉天に本隊。雨が多くて列車がスムーズに動かない
8月14日 明日重要な報告があると情報あり。
8月15日 上官が聞いた玉音放送を伝えきく。それから一週間ハルピン駅で寝泊り。

8月23日武装解除。鉄道に乗せられて途中で事故で止まる。
横道河子横断。ハイリンで40日間捕虜生活。食べるものには困らなかった。
ただ、時計、万年筆は全て取られる。
「スコーラ、ダモイ」もう少しで帰すを信じる。
10月になってから移動命令ハバロスクから280キロ離れたところへ。
丸太作りの流刑地。飢えと寒さと重労働。
当初、上官が兵士をリンチしていたが、2年ほどたつとその上官がリンチに合う。

冬 伐採、夏 鉄道工事。ノルマは無理な感じではなかった。ノルマ未達成でもロシア兵に怒られるくらいだった。満州から運んだ大豆、粟、ひえをおかゆにして食べる。黒パンは1㎝くらい。一年するとよくなったが、初年度は取りあいがあった。
1946(昭和21)年 つるし上げが始まった。威張っている上官、いじめていた上官が対象だった。
殺すこともあった。
やがて、つるし上げが終わると、選挙でリーダーを決めようということになった。
1949(昭和24)年8月ハバロスクへ。共産党の民主教育を受ける。
タス通信(現地の朝日新聞みたいなもの)を読んだりしていた。9月に舞鶴に帰国。
北海道チームは、8月23日(月)午後、札幌市で収録会を行いました。
収録会では、3名の体験者の方のお話を伺いました。そのお一人の証言の概要です。
この方は、息子さんと一緒にいらっしゃったそうです。

◆◆◆

◎姉帯 文博さん
○1921(大正10年) 11月17日生
○1942(昭和17年) 4月1日召集
・教育召集。5月2日、歩兵第28連隊補充隊。
・6月22日 教育召集解除→臨時召集。
兵站警備に転属。第52兵站警備隊。

・7月8日上海上陸
中隊本部の勤務 100名くらい職員がいた。
給与、人事、総務で7-8名。人事功績係りに配属。
作戦参加の台帳管理が仕事。
その兵士がどこの作戦に参加したかの記録をつくり、昇進等の基礎資料にすることが仕事。

・第二次長沙作戦後の警備に従事。ただし、後方にいたので、戦闘の経験はなし。食事は1日2食。玄米おかゆ。塩が足りなかったが、他の物資は不足している感じではなかった。きたものを食べていたので、どうやって食料を調達していたかは知らない。

・空襲は週に1回は受けた。
たまたま、事務処理が忙しくて、本部から呼び出しを受けたがいけなかったのでかわりに戦友をいかせた。
そのとき、P-38の機銃掃射があって、その戦友が死んでしまった。自分の身代わりになったと思っている。
(ここで泣いてしまって止まってしまいました)

○終戦は8月15日に聞いたが、信じられなかった。まだ戦えるのに、と思った。
実際に姉帯さんがいた部隊が激しい損耗を受けたわけではないのでそう思った。武装解除をして、はじめて実感がわいた。
8月24日(火)午前、北海道チーム第1班が伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎本間 金吾さん 
1924年(大正13年)3月30日生
1940年(昭和15年)10月1日 志願
飛行兵 操縦
飛行第87戦隊

飛行機に乗ってみたい。とにかく早く乗りたい。
若いうちにと思い、志願。
試験は2万人から2千人合格というもので、見事合格。
陸軍航空学校に1年間訓練、勉強。
1941年(昭和16年) 宇都宮で即席で教育。
1942年(昭和17年) 操縦訓練。
第三航空軍配属、台湾上空で訓練。
九七式戦闘機で半年間搭乗訓練

高尾から船でシンガポールへ。
第一野戦補充飛行隊29名 パレンバン、ジャワ、マランで訓練。
29名のうち自分も含めた5名が87戦隊に配属。
搭乗機は二式単座戦闘機 鍾馗。

メナドのベラ湾の防空も経験。
P-24が偵察していたが、上空で遭遇したことはない。
日本軍のレーダーの性能が悪かったので、迎撃命令の誤報が多かった。

1945年(昭和20年)1月 英国機動隊がパレンバン100キロくらいまで進出。艦載機が攻撃をしかけてきた。
情報が遅く、迎撃にあがってすぐに敵機と遭遇。高い位置を取ることができなかった。ロッテも組めなかった。
ただ、敵の練度は低く、後ろをとっても気づかない。
5日後に再来襲。製油所と飛行場を攻撃してきた。グラマン、コルセア、アベンジャーと空中戦。下は製油所が火の海で、煙が3,000メートルまであがっていた。
11名戦死。1日2回出撃があった。上官が飛行機の被害を受けて、本間さんの機で出撃をして、帰ってこなかった。

1945年(昭和20年)8月13日 シンガポールのケチル飛行場に着任。
友軍機が上空を旋回して着陸を支援。無事に着陸。掩体にすぐに飛行機を隠す。任務は特攻機の援護。
8月14日敵空母発見できず、特攻隊員は出撃せず。これでこの人達は助かった。
8月15日 玉音放送を直接聞いた。
シンガポール周辺の島に部隊全員で道路作り。食料は少ない。英国軍人とはあわなかった。栄養失調のものがほとんどだった。

1946年(昭和21年)6月船で帰国。

本間さんの豆知識
〇パラシュートは水平飛行のときは開かない。
〇ムスタングとも戦ったことがある。
〇艦船攻撃の訓練もしたことがある。
〇パイロットの事故は多かった。離陸してすぐに爆発、夜間飛行で帰ってこない人もいた。
〇本間さんも事故を起こしたことがある。メダンの飛行場で前のめりになったことがある。翼も尻尾もなくなったが助かった。
8月26日(木)北海道チーム第1班が午後に伺った証言の概要です。
第1班の最後の聞き取りでした。

◆◆◆

◎山本 栄さん
大正14年7月10日生まれ
昭和18年7月志願 工兵
第三国境守備隊第50部隊工兵⇒127師団挺身奇襲隊

もともと太平洋炭鉱で働いていた。昭和18年に志願。
広島に集合、検査、合格。
九州博多から釜山へ。
満州50部隊で初年兵教育。チチハルから旅順士官学校へ。
挺身奇襲隊で後方かく乱の任務。

○教育の様子
黒いめがねをかけて、夜間戦闘の訓練。夜に5人一組で訓練。
夜、知らないところにほっぽり出されて、目的地まで移動する訓練をした。射撃訓練はしなかった。
訓練をしていて、「日本は戦争に勝てるのか?」と思っていた。
日本から補充される兵士は皆銃が人数分至急されなかった。
飯盒も足りなかった。分隊で15名中、5名に銃。実弾は15発のみ。
飯盒は5名くらいだけ。

「爆破訓練」と称した訓練があったが、爆薬を使わなかった。手順等を教えてもらっただけ。戦車に見立てた車に飛び込む訓練もした。

8月18日に敗戦を知る。
8月12日にロシア兵が侵入、装備がないので戦闘をするな!と上から命令あり。勝てる見込みもないので、山に入って隠れていた。
朝鮮の上三峯(カミサンポウ)での出来事。
8月16日ごろ撤退命令。周りに将校はいなかった。ロシアにつれていかれた。引率中に、捕虜になりたくなかったので戦友と脱走。
ただ、引率していた以外のロシア兵に捕まった。

ウラジオストクの傍の缶詰工場で働いた。カニを加工したクズを食べて空腹をしのいだ。
生大豆を炒って食べた人は下痢で死んだ。煮て食べた人は生き残った。
宿舎はアメリカ製のテントだった。
昭和24年11月帰国命令。船上で「東京を通ると代々木(共産党)にいくと疑われるから裏日本から帰国するようにしたほうがいい」と本気で話し合っていた。
引き上げて、自宅に一週間警察に張られていたと思う。
8月25日(水)、北海道チーム第1班が午後に伺った証言の概要です。
北海道の田園地帯に建つ会館の一室での収録でした。

◆◆◆

◎満山 凱丈さん
大正12年2月10日生
昭和19年2月 現役 24師団89連隊(通称 山3476)
歩兵 

○1944(昭和19)年2月10日ごろ 帯広の列車に4-5人乗った。旭川へ。
何か不明だが、流行病がはやっており、兵舎に入れなかった。
椅子に座ってマッキャハンを巻いていたら、いきなり殴られた。
「初年兵のくせに椅子に座るとは何事か!」と怒られた。
・2月中旬に特別列車に乗せられた。

あちこちの駅で国防婦人会の方々からお茶をもらった。上官から「移動中は口を開くな」と言われていたので、お茶のお礼ができなかった。
東安に到着。毎朝馬の世話、苦手だった。馬に蹴飛ばされた。連隊砲も訓練で扱う。分散搬送も実施。開拓団が畑仕事をしているのを見て、なつかしく思った。
師団長に演習を見せて、褒められたこともある。

・1944(昭和19)年7月 南方にいくかものうわさ。
半そでを至急された。いつ出発したかは不明。貨物列車に乗せられて、背嚢だけを持って移動。仲間に朝鮮出身の金田という兵士がいた。頭がよかった。
金田は上官に「軍人の本分はなにか」と問われ「天皇のために死ぬことです」と即答をして褒められていた。
輸送船で九州へ。「ぎょうくう丸」六千トンに弾、糧食を詰め込んだ。一つの船に同種の兵種をまとめず、ばらばらに輸送した。分隊長が酒好きで、ビールを船上で飲んでいた。

・1944(昭和19)年8月 門司港を出港。15隻。
・8月5日 到着 きれいな島で竜宮城かと思ったら、沖縄だった。
天願小学校到着。ここが居住地。
衛兵をやることになったが、歩哨訓練をやったことがなかった。捧げつつをせずに礼をしてしまったら「ばか者!」と言われた。連隊長だった。

砲を隠す場所を作って、陣地構築。「くじかわ」に陣地構築担当。
・1944(昭和19)年10月10日 大空襲。沖縄はめちゃくちゃに。食料、弾薬が大損害を受けた。

○1045(昭和20)年1月 演習。下士官教育を受ける。
・1945(昭和20)年4月 海面に船が沢山。米軍がいることすら知らなかった。
4月末に戦線投入
拳銃を支給された。壕に砲を設置する件でひと悶着。陣地構築の決定は小隊長だが、学生あがりで、決めず、分隊長に責任転嫁。
壕に隠れて待機をしていたが、疲れていたので寝てしまった。夢で体が揺れていた。
起きると、周りのサトウキビが全部飛ばされて、荒地になっていた。分隊長が生き埋めに。必死に掘ったが間に合わなかった。幹部クラスが全て死亡。
「ヤンキーめ、ぶっ殺してやる」と叫びながら射撃。無茶苦茶撃ちまくった。米軍も反撃してくる。近くに着弾。ぴかっと光った。飛ばされて、片目がぶら下がっていたのが見えた。

野戦病院へ移動。現場は手足を切りまくって女性が捨てに行っている。野戦病院もやがて解散命令(5月末か?)。反撃命令がでて、動けるものは中隊を探せ、動けないものは自決しろといわれた。自決できないものに、看護婦が毒を飲ませていたと聞いた。

絶対に捕虜になるな、死守命令。米軍からは降伏勧告。戦車が壕をつぶしに来た。
洞窟にいたときに、一度ガス攻撃を受けた。手足が動かなくなった。死ぬことは怖くなかったが、北海道の両親兄弟を思い出しながら気絶した。
気がつくと、壕がつぶされて入り口が岩にはさまれていた。死にかけているもの、大声をだしているものがいた。

やがて、切り込み隊が編成された。友人の森が指名された。「満山、早くよくなれよ」といって出発。帰らなかった。
負傷兵は移動命令。死守命令があるのだから、負傷兵も残してくれといわれたが、駄目だった。

・8月くらい?大規模戦闘は終わったのうわさ、ヤンキーが騒いでいた。
・秋、10年でも戦うと思い食料を集めていた。隠れ家の洞窟で寝ていたら、米兵が周りに数名いた。
とっさにひとりを撃ち殺した。他はちりじりに逃げた。当時不思議だったのは、武装をしていなかったこと。やがて、米兵が死体を取りに来た。隠れてやり過ごす。次の日、日本兵がきて、「戦争は終わった」と呼びかけてきた。戦争に「負けた」とは決して言わなかった。

話をして戦争が終わったことが理解でき、米軍のキャンプへ。
米中隊長が「貴方が殺した兵士の時計を返してほしい」と、満山さんは「記念品だから返さない」といった。通訳が「お願いだから返したほうがいい」と言われたので返還した。

満山さんは戦争が終わってから米兵士を殺したので、覚悟をした。
米中隊長が「戦争の終結を知らず、部下の兵士には危険だから洞窟に入るなと厳命していたにも関わらず入ってしまった。殺された兵士は私の命令に背いた。だから我々にも非がある。なので公式上この件は無かったことにする」と言って助かった。