あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
TOPフリーエリア
65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
元兵士の連絡所


元兵士から孫世代まで、ご連絡をお待ちしています
※質問、疑問などもお気軽にお問い合わせください
電話 03-3916-2664
※戦場体験史料館開館時間=火・木・土・日・祝日の10時~17時
FAX 03-3916-2676
e-Mail senjyou@notnet.jp
※FAX、Mailは24時間受付
住所 〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
     戦場体験史料館内・元兵士の連絡所

戦場体験史料館までの道順
北海道チームが8月23日(月)に伺った証言の概要です。
札幌市で行った収録会に参加された3名のうちのお一人です。

◆◆◆

◎柏葉武雄さん

1930(昭和5)年3月2日生まれ
当時の本籍地 北海道

○9男2女の末っ子に生まれる。長女の子供が自分と年齢が同じぐらい。
 父親は年配者や朝鮮・台湾の人を使って請け負い仕事をしていた。
 25連隊で兵役を終えた長兄が帰ってきてその家に預けられたがそこに子供が生まれて自分は余ってしまった。
 早めに家を出ろという雰囲気が子供にも分かる。
 自分で自分の道は開かないといけないが炭鉱には入りたくないと思うと、選択肢は軍隊ぐらい、陸軍よりは海軍が聞こえが良いと思った。

●1943(昭和18)年8月or9月
 高等小学校に海軍の募集があり、応募。
 この年齢で受けられる兵種が限られており、第1希望飛行兵、第2希望電信、第3希望水測(何をやるか分からないから)で出した。
 願書を書いた記憶が無いので担任の先生がまとめてやってくれたのではないか。
 受験勉強の特訓を学校がやってくれた。
 少佐の面接があり、長男などは長く聞かれたが、柏葉さんは志望理由を「海軍が好きだからです」と言ったぐらいですぐ終わった。

●1944(昭和19)年1月
  電信兵の合格通知と5月15日に甲府海軍通信学校に入学するよう命令が来る。
  40数名の受験者で合格は1名のみ。
●1944(昭和19)年2月 ところが飛行兵の2次試験の案内が5名に来た。
○1944(昭和19)年3月 高等小学校卒業。
●高等小学校卒業後飛行兵の合格が決まる。


●1944(昭和19)年8月15日 人吉練習航空隊入隊。
 乙種飛行予科練習生23期。
 800人が入学、6ヶ月間主に整備を勉強。
  当時は飛行兵も先にその他の部門の勉強をさせていた。
 最年少に近かったので(3月生まれ)体力がなく大変だった。
 殴られるのも段々なれて兵隊に仕上がっていく。

●1945(昭和20)年2月 951空・鎮海海軍航空隊(朝鮮)へ。
 ○松根油の採取(航空ガソリンとして利用するため)と陣地構築。
 ○直接の戦闘は見ないが飛んでいった飛行機が帰ってこないのは感じる。
 ○年齢ではなく階級通りの扱いで一人前の扱いをしてくれるのが嬉しかった。たとえば煙草や酒も配給してくれた。実際には年長の者に渡していたが同じように渡してくれることが嬉しかった。

○乙飛はさほど教育を受けておられずものを書く事が出来ない。
 学徒兵はある程度人間として出来てから兵隊に行き、苦労はするが地べたから行くわけではなく、帰ってきたら社会的地位もあって体験を残すことが出来た。
 わだつみの声は死んでも後世に残ったのだから良かった。
 一番厳しい戦線に行き死んだ乙飛の先輩たちの体験は殆ど残らなかった事が、代わりに残せるのならどんなに良いだろう。残したかっただろうなと思う。

●司令部の移動に伴い巡洋艦「鹿島」に便乗して舞鶴に移動。
 ○無塗装の晴嵐(水上特殊攻撃機)の訓練を見かけた。
  液冷の飛行機を見るのは初めてだった。
 
●1945(昭和20)年8月15日
 定期進級で兵長に。

●1945(昭和20)年月日 復員
スポンサーサイト
北海道チームが8月21日(土)午後に伺った証言の概要です。
これも旅先からのレポートでした。

◆◆◆

◎鹿山 可久さん

大正9年6月16日生まれ
○昭和16年8月10日 
電信第四連隊補充隊に召集。独立電信第10隊に入隊。
特殊無線中隊に転入。

○昭和17年12月 
宇高へ。船舶通信連隊第三中隊に転属。

○昭和18年1月
能登丸に通信士として勤務。
船舶工兵第八連隊本部に転属。
ガダルカナル~ショットランド

○昭和18年2月
駆逐艦雪風にてブーゲンビル島着。ラバウルへ。
・4月 アッツ島へ出港。トラック島にて待機
・8月 電信第二連隊に転属。第五中隊に編入

○昭和19年3月 
東部第1901部隊(高射砲隊本部中隊)

○昭和20年8月 解除。

●ガダルカナルにまつわる証言●
夏服を渡されて、「貴様らどこへ行くかわかるか?ガダルカナルだ」と怒鳴られた。制空権を握られており、日中航海はできない。島影に隠れて夜間に急いで移動の毎日。星座を見ながら方向を決めて進んだ。
食料、弾薬を郵送。ガダルカナル島には長くて一週間滞在。
「人の腐敗した匂いとどぶの匂いでひどいところだった」
食べるものが無くて、やしの木のシン、バナナの木のシンを食べようと木を切ろうとすると、現地の兵士に怒られた。木が減ると、遮蔽物が減って上から見えてしまうからとの理由だった。
流れ弾で同期が腰から背中に弾が抜けたことがあった、弾の入り口は小さいが、出るところは大きくなって負傷する。

日本軍が米軍捕虜を捕まえることもあった。朝になると捕虜がいなくなっている。現地の兵士に聞くと、にやにやして何も答えない。
「これは必ず食っている」と思った。
巡洋艦とぶつかったこともある。南太平洋の名前も分からない島を通っている時に、ぶつかった。潮の流れで島にたどりついて、3日目に近くを通りかかった海軍に拾われて生還。

ガダルカナルの撤退戦で、撤収側の役割も経験。とにかく、ぼろぼろで、歩くのもおぼつかない兵士を次々に収容した。

「人間の命なんてどこにあるかわからないよ」
「その人の運命」
「電信隊は戦地をわたりあるくが、戦友がいないよ。死ぬときは仲間がいなくてひとりぼっち」

ぼそぼそと下を見ながらしきりに話しをされていました。
北海道チームが、8月21日(土)午前に伺った証言の概要です。
これも、旅の途中でメーリングリストに上がっていたものです。

◆◆◆

◎佐々木豊さん
昭和2年4月15日生
昭和18年6月5日志願
予科練 飛行兵 操縦

中学3年生、学校の飛行兵のポスターを見て、大空にあこがれる。
志願。
昭和18年2月適正検査を受けるために、初めて北海道を離れる。
体重、身長が若干足りないので、背伸びをして、ふんどしに銅線を巻いて少しでも重くしようとした。それほど合格したかった。
3月合格。6月土浦へ。訓練は短縮されて一年予定だったが、さらに短縮されて10ヶ月。

昭和19年1月帰省。上長より、「かならず帰郷した際には、母校に立ち寄ること」との助言をもらい、母校にも立ち寄る。
街で、「荒鷲の歌」が流れており、大変誇らしげに歩いた記憶が鮮明。

昭和19年3月 操縦に。
93式練習機で飛行訓練。飛行時間5時間で単独飛行を経験。
東京に住んでいる同期は、自分の母校の上を低空飛行で飛んで、バンクをふった。無茶をするなと思ったが、うらやましかった。

昭和19年9月編隊訓練を実施。大村航空隊で念願のゼロ戦の操縦に。
ただし、帝都の空を守るのは経験のある先輩たちで、佐々木さんは、待合室でひたすら待機し、「敵機襲来」の合図でゼロ戦に乗って、雲に隠れる空中退避の役割。
一回につき20分から30分ひたすら隠れる。雲がないと、隠れることができなくなるので「青空が怖かった」とのこと。下を見ると、爆撃で火があがるところがわかり、艦砲射撃の弾幕を見ると、弾道が感覚的にわかり、どこに落ちるかが手に取るように分かった。

昭和20年8月15日終戦。
玉音放送で日赤の看護婦が泣き出し、みんなうずくまった。徹底抗戦を叫ぶもの、情報が間違っている負けるわけが無いと叫ぶもの大変な混乱だった。
少し前(11月11日)、北海道チームが8月21日(土)に聞き取りを行った佐藤正さんの証言概要を掲載しましたが、これはいろいろ史実を確認しながら最近まとめられたものです。
北海道チームが旅の途中で送ってきていたものもありましたので、そちらも掲載します。
北海道チームの旅のころは並行して中国地方番外編もあり情報がたくさん入っていたため、ブログで紹介したつもりでできていませんでした。すみません。
旅先でまとめられたものは雰囲気が違っていますので、いくぶん間違いも含まれるようですが、旅の記録ということで「簡易版」として並べて掲載します。

◆◆◆

◎佐藤 正さん
大正10年1月5日生
飛行兵 整備 (途中操縦)

昭和17年7月1日現役。
八戸飛行隊入隊 6ヶ月間訓練。
土地の名前も分からず移動。
昭和18年秋 茨城県つくばに配属。
昭和19年3月幹部学校に入学、4月まで学校。
特攻隊の志望を募られる。全員が挙手。(700名くらい)
健康診断、適正検査を受けて最終的に82名に。この中に佐藤さんも入ってしまう。

キ-62で特攻。任務は米軍艦艇の撃沈。
昭和20年2月硫黄島周辺の米艦隊へ特攻が計画。
出発前に飲めない酒を飲んでふらふらに。
つめ、髪の毛、を形見として遺すように助言を受ける。
上からの命令は、米軍艦艇の撃沈であり、それが果たせないと判断をしたら帰還することも許された。
結局硫黄島へは5回特攻したが、生還することができた。

沖縄戦への特攻が次ぎの任務。
9機編隊で特攻。途中、グラマンが上空で待機しており、レーダーで待ち伏せをされたと思われる。散々に追い立てられて、編隊は崩れる。
雲の切れ目を抜けると米軍艦隊上空に飛び出たが、とたんに激しい対空砲火。花火がたくさんあがっているみたい
だった。被弾をし、燃料も漏れ出した。海面すれすれに飛行して、上昇をしてなんとか切り抜け、帰還を決意。
上昇する際は燃料を使い、下降するときはエンジンを切って滑空する飛行でなんとか大分までたどり着き、着陸。30箇所に被弾をしており、副操縦士は死亡。

結局、特攻で選抜された82名は7名に。特攻する飛行機もなくなり、待機に。
飛行場で爆撃を受けること何度もあった。一度、4名で走って防空壕に逃げ込もうとしたら、同期の高橋が破片でスパッと腹を切られて、内臓が飛び出した。「苦しい」と言っていたので、無我夢中で爆撃の中を医務室に運んだが、死亡した。

終戦時、玉音放送を聞いた特攻の同士7名は意を決して自決を図ろうとする。どこで漏れたか自決をしようとしたときに周りから兵士が出てきてとめられて。

自宅に帰ったら、家族は腰を抜かした。特攻のことは知っていたので、戻るはずがないと思っていたようだ。父親が「しばらく外出をするな。恥になる」と言われたのは非常にショックだった。
北海道チームが8月21日(土)の夕方に伺った体験の概要です。

◆◆◆

◎佐藤正さん

1921(大正10)年生
航空兵 整備(操縦訓練も受ける)

昭和十七年七月、現役兵とした八戸に入った時は歩兵みたいなものだった。イチニイチニと訓練を六ケ月続けた後、昭和十八年一月、宮城県岩沼の飛行場に移り、整備士の訓練が始まった。それから半年経った昭和十八年秋に茨城県筑波に移動した。

昭和十九年三月、幹部候補生となり、三重県の加佐登(鈴鹿市)にあった幹部学校に入った。学校には四月までいたが、その間に学校全部に対して特攻隊への志望が募集された。七、八百名くらいいた全員が手を挙げた。手を挙げなかったら大変だった。

一次試験は目や耳や内臓などが検査され、百八十名くらいが落とされた。その後、夜行列車で東京(板橋?)に行き、操縦士としての適性検査を受けた。適性検査は三日間続き、合格した者は名前が読み上げられた。どうせ受からないと思っていたが、八十二名の合格者の中に私も入っていた。

幹部学校卒業後、茨城県筑波に移動し、万年筆のようなズングリとした双発の重爆で整備の訓練を受けた。配属となったのは飛行第六十二戦隊だった。もともと六十二戦隊は、ジャワなどの南方で作戦を行っていたが、南方から帰ってこられなくなり、急遽、私たちが集められたということだった。

ある時、B29が霞ヶ浦に落ちたというので走って見に行った。水面に落下したのに沈みもせず、ほとんど浮いていた。どんな装置がついているのだろうと思い調べてみたが、機銃も何も壊れていなかったのには驚いた。その機銃もボタン一つで動く。風速や風の向きを調べる装置もボタンを押せば、すぐ結果がわかる。日本の装置とは大違いだった。B29の装置を取り外し研究したが、中央が何もやってくれないので、自分たちで工夫するしかなかった。

筑波で半年、訓練を受け、十一月一日、浜松に移動した。ここでは離発着の操縦訓練を受けた。私は整備兵だが、操縦の適性検査に合格したので、整備長として飛行機に乗ると操縦も出来る。操縦士に何かあったら、私が飛行機を操縦しなければならない。そのため、ある程度乗せて、練習させてくれるのだ。飛んでいる最中は車の運転より簡単だ。何も障害物がないのだから。だが、離発着は難しい。

浜松で三ケ月訓練を受けた後、福岡の太刀洗に移った。昭和二十年二月のことだった。太刀洗に着いてすぐ、爪と髪の毛を桐の箱に入れて親元に送った。遺書は書かなかった。検閲があったので下手なことを書けなかったが、手紙は何度か出した。

二月末、硫黄島への特攻出撃が命じられた。硫黄島周辺の米艦艇を攻撃するのが目的だった。その時、私は機長になっていた。出撃する時、一個中隊九機、三十数名が一列に並び、別れの杯というものを編隊長と交わした。私は酒が飲めないのだが、気分も高揚していたのだろう。編隊長につがれた酒を一気に飲んでしまった。その途端、顔が真っ赤になり、フラフラになってしまった。そのため、私の機だけ出撃が中止になってしまった。

我々は、絶対に無駄死にするなと言われた。目的達成のためには特攻しなければならないが、そうでなければ帰って来いと言われていた。出撃する時は、もちろん死を覚悟していたが、目的を達成する前にやられることが多かった。敵機が来ても、こちらは対抗する術がなかった。特攻機の乗員は機長、副機長、航法、機上整備、通信の四、五名で、射手がいなかった。護衛機もなかった。

私の隊は硫黄島に五回出撃した。私は最初を除き、四回出撃した。敵機の攻撃を受けたら上昇してはいけない、必ずやられる。下降しなければならない。海面スレスレで飛行すれば、敵機は突っ込んでこないし、攻撃してくる方向を予測できる。ずい分、苦労したが何とか切り抜けることができた。

硫黄島が玉砕すると、我々は特攻隊編成をいったん解散し、筑波に戻った。四発の新型長距離爆撃機の勉強をすることになっており、その飛行機でアメリカに一番乗りするつもりだった。まだまだ負けるなどとは考えてもいなかった。 

昭和二十年四月一日、米軍が沖縄本島に上陸。我々の部隊に沖縄への特攻命令が出た。四月二十四日か二十六日頃、最初の出撃をしたが、敵機の攻撃を受け引き返すことが続いた。硫黄島の経験もあり、中隊長を中心に敵機を振り切る方法を考えた。敵はどうやって情報を集めるのか、必ず待ち伏せしていた。そこで編隊の形を「階段式」に配置することにした。五千メートルに一機、五百メートル下がって一機というように、高度差をつけて階段のように編隊を組むのである。

四回目の出撃は九機編隊だった。私は第二小隊一番機。私の前には第一小隊の三機、続いて第二小隊の三機、その後方に第三小隊の三機が階段式に編隊を組んだ。敵グラマンはやはり待ち伏せしていた。それも、ちゃんと高度差をつけて縦になって待っていた。第一小隊がまずやられ、私の小隊の二番機、三番機がやられた。次に襲われるのは私の機だ。私は海面に向かって急降下した。無我夢中だった。二、三百メートルまで下がっただろうか。追いかけてきた敵機が次々と海面に墜落した。航法士が「機長、敵機を撃墜した!」と報告する。何事かと思ったが、不用意に近づいたグラマンが双発エンジンの風圧にあおられて操縦不能となり、三、四機墜落してしまったのだ。敵機が消えたので上昇し、雲の上まで上がった。誰かついてくるかと待ったが誰も来なかった。すべてグラマンに撃ち落されてしまった。

九機のうち残ったのは私一機だけになった。一機だけで沖縄に向け飛び続け、この辺りが沖縄だろうと雲の下に出た。その途端、花火を撒き散らしたような対空砲火を浴びた。目の前に火花が飛んだようだった。突然、副操縦士が倒れた。機体の下から操縦桿に当たった跳弾が副操縦士の胸を貫いたのだ。薬や包帯で副操縦士に応急処置を施す。

対空砲火の威力は凄まじい。このままでは任務遂行どころではなく、燃料も漏れ出したので雲の上まで上がった。再び下がっても待ち伏せている敵艦に落とされるだけだ。かと言って、新たな敵軍艦を見つける燃料はない。「無駄死にするな」と言われている。私は帰還する決意をした。帰りは上昇するのに燃料を使い、エンジンを切って下降することを繰り返し、燃料節約に努めた。太刀洗までは戻れず、大分の海軍飛行場に着陸した。副操縦士を海軍の医務室に運んだが息絶えた。機体の損傷もひどく、胴体だけで一八ヶ所被弾、ガソリンタンク1個がダメになっていた。その頃になると、特攻のための飛行機はなくなり、選抜された八十二名のうち生き残りは私を含め七名しかいなかった。六月の初めには特攻隊も解散になった。我々は一ヶ月の休暇をもらい、六月末に筑波に戻った。筑波に戻ってからは、ほとんど毎日、空襲で逃げまどった。

玉音放送は筑波で聞いた。五、六十人いただろうか、皆、正座して聞いた。生き残った我々七名は自決しようと、夜、日本刀を手に兵舎になっていた洞窟を出た。しかし、情報が漏れ、我々の行く先に兵隊が待ちかまえて押しとどめられた。やがて付近の農民が敗戦の混乱で騒ぎ出す。それをなだめなくてはならず、事務処理も忙しくなり、自決どころではなくなってしまった。

八月二十七日、列車と連絡船を乗り継ぎ、北海道の自宅に帰った。私が特攻隊員だったことは家族も知っていたから、軍服姿で玄関に立った私を見て家族は腰を抜かすほど驚いた。父は「まだ帰ってこない男たちがたくさんいるんだから、帰ってきたことを言うな。外出するな」と言い、一週間くらい家の中に閉じこもっていた。生きて帰ってきたことが恥だと言われた時代だった。特攻隊で行ったことを皆、知っているからなおさらだった。戦後長く、自分が特攻隊員だったことを誰にも話さなかった。