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保存の会最年少メンバーの「青春18切符 列島縦断 聞き取りの旅」が、2011年3月10日(木)に伺った証言の概要です。
この日のお一人目の山路金八さんのご近所の戦友の方で、山路さんと同じだったバターン作戦中心の内容だそうです。

◆◆◆

◎宮崎義高さん(91)
取材日:平成二十三年三月十日
所属:歩兵第三十三連隊(垣6556)第十一中隊
兵科:歩兵(擲弾筒)
戦地:ルソン島(レガスピー~バターン半島)~台湾


○大正八年九月、三重県生まれ。

・小学校卒業後、名古屋の大同製鋼(※現大同特殊鋼株式会社)に勤める。
・徴兵検査は甲種合格。

○昭和一五年(一四年?)、歩兵第三十三連隊第十一中隊擲弾筒班に入営。

○昭和十六年十二月十二日、レガスピーに敵前上陸。

・上陸してみると、周辺に誰もいなかった。

○昭和十七年二月~、バターン半島攻略戦。

・米軍が戦車や飛行機が攻めてきて大変だった。
・日本軍は大体夜に攻撃する。
・アメリカはすごい兵器を持っていた。小銃でも機関銃でも違った。
・九州から来ていた部隊がバターン半島に一番乗りをしており、戦闘でかなり戦死者がでていたようだ。
・擲弾筒は戦闘には間に合わないのであんまりつかわなかった。小銃を使った方が早い。
・日本の兵隊もよく戦死した。遺体を見ると「ナンマンダブツ」と唱えていた。火葬する暇はないので遺体はそのまま。
・食糧には乾パンがあった。その他にフィリピン人が米を炊いたのをくれたり、それを取り上げたり、豚や鶏を殺したりして食糧を得ていた。
・後方からの補給はほとんどない。フィリピンが頼り。

○昭和十七年四月九日、バターン半島の米軍が降伏。

・はじめのうちは投降してきた捕虜と握手したり、お互いに仲良くしようという感じだった。
・米軍が降伏した後に捕虜の監視もした。捕虜にはフィリピン人はおらずアメリカ人ばかりで軍人以外の一般の人は解放した。
・学校のような所へ連れて行って監視した。
・捕虜の監視をしていると捕虜と仲良くなる。
・自分が監視している時は捕虜はそんなに死ななかったと思う。
・反抗的な捕虜はいなかった。
・バターン死の行進には参加しなかったが、捕虜がいっぱい死んだらしいということは噂で聞いた。自分が監視している間にはそんなことはなかった。
・九州の部隊が捕虜の番をした時に、バターンの戦闘で大勢戦死しているから死の行進をさせたらしいということも後で聞いた。


・夜、歩哨にでるとフィリピン人も日本軍が怖いのか起きている。しだいに、子供とかが煙草やヘビを焼いたものをもってやってきて物々交換したりした。
・金(軍票)は使わないし貰わなかった。
・フィリピン人と麻雀をしたこともある。仲良くはやっていた。
・治安も悪くなかった。
・日本の兵隊は横暴といえば横暴だったけれど、戦争のために一生懸命だった。

○昭和十七年後半?、フィリピン戦の後、台湾高雄に移動。
【※違う部隊に転属した?】

・空襲があってロッキードが、かなりの高い上空を飛んでいた。
・塹壕を掘ったりしていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・なんとも言えない気持ちになった。
・アメリカ軍がすぐやってきて、高雄の埠頭にある倉庫に収容された。
・中国軍がやってきていたら報復されていたかもしれない。

○昭和二十一年、アメリカの貨物船で広島の呉に入港。そこから汽車に乗り復員。

●終戦時陸軍上等兵。

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今年の3月が来る前に、「青春18切符 列島縦断 聞き取りの旅」の取材報告を転載したいと思います。昨年4月にメーリングリストに流れていたのですが、キャラバンと呼ぶべきかどうか迷ったのと、震災直後の混乱とで、タイミングを逃していました。
保存の会最年少メンバーが、2011年3月10日(木)に伺った証言の概要です。
聞き取りの後、彼が資料をあたって背景等を調べて補完した部分も含まれます。

◆◆◆

◎山路金八さん(旧姓・近藤)
取材日:平成二十三年三月十日
大正八年生まれ
所属:歩兵第三十三連隊(垣6556)第三大隊第十一中隊~名古屋俘虜収容所第二分所(鳴海分所・※元大阪俘虜収容所第十一分所)
兵科:歩兵(軽機関銃)
戦地:ルソン島(レガスピー~バターン半島)~ネグロス島~内地


○大正八年五月三日、三重県に生まれる。

・小学校卒業後、京都で友禅の染型の職人をしていた。
・徴兵検査は甲種合格。

○昭和十五年一月十日、三重県久居の歩兵第三十三連隊第三大隊第十一中隊六班(軽機関銃)に現役入隊。

・中隊長は大瀬昌彦大尉。
・私的制裁は少なかったが、演習中に落伍したり失敗するとビンタをされた。
・演習には青山高原をよく使っていた。
・土方や百姓出身の人は足腰が強かったが、自分はよく落伍した。
・機関銃は故障はまあしない。

○昭和十六年十一月二十一日、名古屋出港。
○昭和十六年十一月三十日、パラオ入港。
○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。パラオ出港。

・夜になると船は全速力で移動。
・第十一中隊第三小隊所属。

○昭和十六年十二月十二日、ルソン島南部レガスピー(Legazpi)に敵前上陸。
【※33連隊は木村支隊に所属し、十一日23時50分レガスピーに進入。十二日02時45分より揚陸開始。】

・縄梯子を伝って上陸用舟艇で移動する。
・五百メートルくらい進むと敵の兵舎があったが、すでに敵は逃げた後で誰もおらず、地下に缶詰が置き去りになっていた。その缶詰を拾って持って歩いた。おいしかった。
・それからマニラへ徒歩行軍やトラックで移動。(※第一、二小隊には内地から送られた自転車が支給されていたが、第三小隊にはなかった)

【※第六中隊が警備のためにレガスピーに残留し、代わりに第十一中隊が第二大隊(安田治少佐)の指揮下に入る。】

・マニラまでにゲリラが少しばかりでた。悪い民間人は放火したり泥棒・略奪する程度だった。民間人が日本の兵隊を襲うことは少なかったと思う。そして民間人を日本兵が殺すことはあんまりなかった。
・沖縄の出身の日本人の移民が通訳をしていた。

○昭和十七年一月三日、自転車部隊がマニラに入ったが、自分達はその手前(ラグナ湖近くのサンタグース河付近)を警備。

○昭和十七年一月末、第一次バターン作戦参加。

・マニラから五日くらい歩いてバターン半島に入る。
・一度ゲリラを捕まえたが他の部隊に引き渡したので、その後どうなったのかは分からない。
・パガック(Bagac)南東のナショナル街道(※現在の「Gov. J.J. Linao National Road」?)を境に米軍と対峙。
・陣地の前はジャングル。十五メートルから二十メートルは伐採してあり、近づくと狙撃される。
・敵味方の死体がごろごろ転がっている所で平気で食事をした。戦場とはそういうもの。
・マラリヤに罹った。みんな罹っていたが、内地を出るときにいろんな予防注射をしていたので死ぬ人はいなかった。
・携帯食糧の乾パンとかを食べていた。
・兵隊は消耗品だった。

※第一次バターン作戦の様子を山路さんの書いた「元兵士の声」という冊子から引用。
『一月三十一日夕時、炊事中大砲(ドラム缶と呼んだ)の集中砲撃を初めて喰らう。慌てた。食後西海岸ジャングルを五日ほど行軍する。最前線バガック付近に着く。バガック南東ナショナル街道手前、西は東シナ海、東はマニラ湾。
第一小隊はマニラ警備に当たる。第二・第三小隊は最前線で苦戦を強いられる。同年兵の磯田は流れ弾に当たり負傷す。「水をくれ、水をくれ」と言いつつ事切れた。初めて戦死者を出す。
二月五日、最前線に着くと同時に、斥候に出る。敵情視察の際、益田小隊長腕負傷。伊藤分隊長以下(私も含む)四名斥候前進後、私一人中隊本部に報告に帰る。途中、敵中を只一人で行動するのは命がけである。初めての経験故、その時の恐ろしさは、何にも喩えることが出来ず忘れる事はない。他三名は、敵中深く視察し無事帰り安心した。
二月六日、決死隊出発前夜、夕食をとりに中隊本部へ、初年兵二人(打田末吉、大石宗一)が出かけたが、ジャングルに迷って敵中に消えた。後日死亡を知る。
二月七日曹長、決死隊、我等一分隊が分隊長以下攻撃に出る。小隊長負傷す。十二名決行中、八名戦死。その際、弾丸雨霰と飛んでくる。命からがら退却。(第一次バターン作戦のこと)
二月九日、日高隊苦戦のため、救出に行く途中、ジャングルの谷間で的に攻撃される。私は軽機関銃を乱射す。大瀬中隊長以下十七名戦死。十六名負傷。死体を捨てて夜を待ち、谷間の小川を退却する。翌日敵戦車の蹂躙を受け谷川に逃げる。同時期、第一小隊角谷部隊は、マニラ警備に当たっていて無傷、天国と地獄の差。常に地獄には死が待っている。第二・第三小隊は三分の二位戦死す。』
【※昭和十七年二月九日、大瀬中隊長戦死。翌十日、師団命令で後退】

・その後内地から応援が来るまで塹壕で四十日ほど待機して敵とにらみ合う。

※以下この頃の状況を冊子から引用。
『隊員の三分の二位、戦死または負傷する中、退却して蛸壺生活四十日近く続く。内地からの補充を待っていると。ある日、鵜飼斥候長と私ども四名、敵陣深く状況視察中、ふと左前方に敵兵五十名位、軽機関銃、自動小銃を持っているのが見える。小さな広場だからよく見える。中隊長に報告に帰る。
翌日日本軍三十名くらいで攻撃に出る。昨日敵兵がいた方へ向かって行くと、谷間四十米程崖下に、敵兵五名発見。其の時、私が軽機関銃で射撃するが命中しなかった。(~中略~)地獄見た。味わった。今思えば、人間の命を軽く軽く扱っている。あの時、敵兵に命中しなくてよかったと思う。あの敵兵が今も生きていれば、俺達と同じ年代であろう。幸福に暮らしているかなぁ。嗚呼元比島軍人たちとその家族の人達。』
『谷間の敵兵を追いかけた際、軍馬が一頭死んでいた。谷間を上がった所、コレヒドール島から、大砲(我々はドラム缶と呼ぶ)の集中攻撃を食う。先日の敵兵五人が通告したのであろう。幸い、犠牲者は出なかったがすごい砲弾の嵐。恐ろしいことこの上ない。』


○昭和十七年四月三日、総攻撃(第二次バターン作戦)。

・山が崩れるかと思うくらい日本軍が大砲を撃ちこんでいた。
・10日くらいしたら敵が降伏してきた。あちこちに白旗が上がり、米軍の兵隊や住民が一緒に出てきて、五万とか七万人ずらーっと捕虜が並んでいた。
・捕虜を殺す兵隊はいなかった。
・その後、捕虜達はいわゆる死の行進でマニラに送られたらしいが、自分達は参加せず次の作戦に行った。

○昭和十七年、ネグロス島に敵前上陸。

・ネグロス島では戦闘はなく警備をしていた。
・たまにゲリラが襲撃してきた。
・第三小隊で日本に輸出する材木置き場(?)を警備。
・一年近くネグロスにいた。
・民間人が放火したり泥棒した情報が入ると討伐に行く。
・討伐には小隊全員で行った。しかし討伐に出てもゲリラはすでに逃げていて、捕まえることはなかった。

○昭和十七年十二月三十一日、討伐の帰り軽機関銃をもって船に乗り川を下っていたら、ゲリラに陸から狙撃され受傷。
・ネグロスの民間の病院に収容される。
・それからパナイ島の病院へ入院し、さらにマニラの病院へ入院。ここで初めて日本の看護婦を見た。
・マニラから台湾を経て東京世田谷の第一陸軍病院に入院。
・その後、相模原の第三陸軍病院に入院。

○昭和十九年九月、東京第三陸軍病院退院。

・その後軍属に志願して、愛知県有松の捕虜収容所(名古屋捕虜収容所第二分所)に捕虜の監視役として勤務。
・収容所の監視役の軍属には、戦地で負傷した元軍人が多かった。
・収容所で死ぬ捕虜もいたが自分は知らない。
・二百人くらいの捕虜を軍属や兵隊で監視して、一人あたりでは二十人くらい受け持っていた。
・軍属は朝と夕方の工場での作業の送り迎えについていくだけ。
・工場は名古屋の熱田駅前にあった日本車輛の工場(日本車輛製造名古屋製作所)。
・工場までは収容所から電車に乗って行く。工場に着くと工員が待っていて、捕虜がそれぞれの作業場に分けれられる。その作業が終わるまで待って、終わると再び電車で収容所まで連れて行く。
・捕虜を虐待するような人はいなかった。捕虜と仲のよかった兵隊もいた。
・イギリス人が通訳をしていた。
・アメリカ人の捕虜は少なく、フランス人の捕虜が多かった。
・撃墜された爆撃機の搭乗員だった捕虜もいた。
・お菓子をもらった時、捕虜にあげたらすごい喜ばれた。
・監視役は給料が良かった。公務員が月四十円くらいもらっていた当時、月に七十五円くらいもらっていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦は収容所で迎える。

・「負けたんか」、「終わったんか」という感じだった。捕虜は喜んでいたようだった。
・浜松に米軍が来ていたので、そこまで捕虜を連れて行き、引き渡してから自宅に帰った。

○昭和二十一年

・終戦後は食糧難のために闇屋をしていた。
・ある日、自宅に帰ると逮捕命令が届いていたので警察に出頭すると、刑事がやってきてそのまま巣鴨刑務所まで連れて行かれた。
・それから捕虜虐待容疑のC級戦犯として、一年間の重労働と公職追放を言い渡され、服役する。
・刑務所内は自由に歩けて、死刑台なんかをよく見て歩いた。
・巣鴨では監禁されてほとんど遊んでいた。焼跡の整理にも行かされなかった。
・部屋は大部屋で五・六人が一緒に入っていた。捕虜虐待容疑の者が多かった。
・むこう(米軍)の軍服を着ていたが、洗濯をしてくれて折り目のついたものを着ていた。食事も良く、待遇が良かった。
・A級、B級、C級で収容所の棟が違った。

・服役している間に、故郷の村の人々が自分のために減刑運動を行っていた。

○昭和二十二年か二十三年、釈放、復員(?)


※戦後のできごと
・昭和二十六年四月二十七日版の中部日本新聞『六年目報いられた戦火の愛―情けの差し入れ忘れず。レ中尉が感激の再会―』と題された記事から引用。
『“おお、確かにあなたでした、あの時親切にして下さった看守さんは、僕はあの時のレーヴィ、おぼえていますか、あの折は色々ありがとう・・・・・””ああレーヴィさん、おぼえていますとも、ほんとにしばらくでした”と感激に両眼をうるませながら固い握手のうちに再会の喜びを語りあう二人――これはかつて米軍捕虜と日本人監視役の間に芽生えたヒューマニズムの華が六年後に実を結んだ人情佳話である。
太平洋戦争たけなわの昭和十九年夏から終戦にかけて愛知県愛知郡鳴海の戦時捕虜収容所で絶望的な捕虜生活を送っていた二百五十余名の米、英、オランダ連合国捕虜のうちに二十四歳のレーヴェンバーグ(コロラド州出身)という米軍軍曹がいた、軍曹にとり唯一の慰めは苦しいにつけ悲しいにつけ心の動きを如実に日誌に記すことであった、この人のためにきびしい衛兵の監視の眼をくぐって鉛筆や紙を与えたり乏しい配給品の中から煙草や菓子をわけてくれる若い看守近藤金八さんの存在は同軍曹にとって”希望の光”であり”人情の窓”でもあった。
しかし終戦直後の混乱と収容中左足と背中にうけた傷の療養のため同軍曹は本国の病院に送られた、近藤さんの戦犯容疑も知らぬままに六年の歳月が過ぎた昨年十一月朝鮮戦線から九州板付基地勤務将校として再び日本の土を踏んだレーヴェンバーグ中尉は二十五日用務のため来名したのを機会に一目近藤さんに会ってお礼を述べたいと知友の第五空軍体育監督シャーリー氏介して本社に近藤さんの消息調査を依頼、本社記者同伴で鳴海に赴き旧収容所跡(現日本車輛従業員社宅)を訪れ近藤さんの行方を探した結果、同氏は現在三重県深井村に移っていることが分かった、その翌二十六日朝本社津支局の連絡でレ中尉の来名を知った近藤さんは喜びと驚きに胸をはずませ本社にかけつけ六年ぶりの再開となった。
近藤さんは”私はただ人間として当然のことをしたまでです、別にあの人だけに特別親切にしたわけでもないのによくおぼえていてくれて有難い”と再会の喜びを語れば一方レ中尉は近藤さんの減刑運動を報じた星条旗紙の切抜を複雑な表情でよみながら”あなたが巣鴨に収容されていたとは知らなかった、あの時は身動きもできない重態で本国の病院へ運ばれたため証人台に立てなくて申し訳ない、私があの時健康だったらあなたは無罪だったのに・・・・すべては戦争が生んだ悪夢でした、今の私には日本人に対する悪感情は少しもない、それよりも今なおシベリアに閉込められている三十数万の日本人捕虜が気の毒でならない”と昔のうらみを忘れ今なお異境にある日本人に温かい思いやりをかけていた。』

○比島侵攻作戦中、陸軍上等兵。


※ネグロス島に33連隊がいつどれくらいの規模でいたのかは分かりませんでした。


●参考文献
・「歩兵第33聯隊史・栄光50年の歩み」・聯隊史刊行会・S47
・「戦史叢書2・比島攻略作戦」・朝雲新聞社・S41
・「元兵士の声」・山路金八・H20
・中部日本新聞昭和26年4月26日版の切り抜き
ほか
戦場体験放映保存の会最年少メンバーの「青春18切符 列島横断 聞き取りの旅」の、2011年夏分証言一覧です。
これについては、キャラバンと言うべきかどうか難しい面があるのですが、各キャラバンで回りきれなかったところに行ってもらっていることも多いです。
別の用事で出かけたついでという場合もあり、期間も定めづらいですが、証言の一覧がある方が大事だと思いますので、まとまった期間ごとに一覧にします。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
当面、証言概要をブログに転載する都度、お名前を掲載し、リンクをしていく形にします。

青春18切符の旅2011夏
訪問都道府県:岐阜県、静岡県、長野県、大阪府、滋賀県、三重県
日程:2011年8月6日(土)~9月4日(日)

◆◆8月6日(土)◆◆

岐阜県大垣市
◎種田修さん
戦地等:海軍。軍艦扶桑乗員。ラバウル他~ソロモン諸島。

◆◆8月7日(日)◆◆

静岡県静岡市
◎出口忠一さん
戦地等:独立混成第2旅団で北支。除隊後海軍軍属。

◆◆8月9日(火)◆◆

静岡県小山町

戦地等:満蒙開拓義勇団。シベリア抑留。

◆◆8月10日(水)◆◆

静岡県熱海市

戦地等:第1軍。山西省残留。

◆◆8月11日(木)

長野県安曇野市
安曇野市で聞き取りをされている女性と情報交換。

長野県安曇野市
◎井口武雄さん
戦地等:海軍。輸送隊。小笠原諸島他。

◆◆8月12日(金)◆◆

長野県安曇野市
◎浅川吉富さん
戦地等:五十鈴乗務員。レイテ沖海戦等。ノンギック島の近くで6時間漂流。

◆◆8月13日(土)◆◆

長野県安曇野市
◎小林操さん
戦地等:陸軍歩兵。満州、二・二六事件、パラオ諸島

8月14日(日)一時帰京。
8月17日(水)再度出発。

◆◆8月18日(木)◆◆

長野県大町市
◎赤羽秀男さん
戦地等:通信兵。満州~シベリア抑留。

◆◆8月19日(金)◆◆

長野県安曇野市
◎矢口元貞さん
戦地等:中国~ビルマ

8月20日(土)関西へ移動。
8月21日(日)より関西キャラバンと合流。
※証言概要が関西キャラバン第2弾と一部共通です。

◆◆8月21日(日)◆◆

午後
大阪府大阪市
新風書房を表敬訪問。

◆◆8月22日(月)◆◆

午後
滋賀県大津市

戦地等:トラック島警備兵。
◎福井佐兵衛(ふくい・さべえ)さん
戦地等:海軍。マリアナ沖海戦(瑞鶴)、沖縄特攻(磯風)

◆◆8月23日(火)◆◆

滋賀県
午前:
◎田中善三郎さん
戦地等:陸軍。中国北部。

午後:
◎佐野岩男さん
戦地等:航空兵(整備)。内地。

戦地等:陸軍少年飛行兵。

◆◆8月24日(水)◆◆

滋賀県

戦地等:満州(現役)~本土決戦要員として島原。途中予備士官学校で教育を受ける。

◆◆8月25日(木)◆◆

三重県

戦地等:無線通信士。中国。

戦地等:陸軍士官学校第60期生。

8月25日(木)帰京。

訪問地:
◆◆8月31日(水)◆◆

午後
静岡県長泉町

戦地等:満州通信兵。シベリア抑留。

◆◆9月1日(木)◆◆

静岡県長泉町
◎星屋清さん
戦地等:陸軍衛生兵。中国中部。

◆◆9月2日(金)◆◆

静岡県長泉町
◎土屋貞雄さん
戦地等:陸軍。野戦重砲兵。中国南部~千葉。

◆◆9月3日(土)◆◆

静岡県長泉町
◎前田 喜六さん
戦地等:陸軍。蒙古~中国中部。

◆◆9月4日(日)◆◆

静岡県長泉町
◎浄住昇さん
戦地等:海軍衛生兵。横須賀海軍病院。
戦場体験放映保存の会最年少メンバーの「青春18切符 列島横断 聞き取りの旅」の、2011年春分証言一覧です。
これについては、キャラバンと言うべきかどうか難しい面があるのですが、各キャラバンで回りきれなかったところに行ってもらっていることも多いです。
別の用事で出かけたついでという場合もあり、期間も定めづらいですが、証言の一覧がある方が大事だと思いますので、まとまった期間ごとに一覧にします。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
当面、証言概要をブログに転載する都度、お名前を掲載し、リンクをしていく形にします。

青春18切符の旅2011春
訪問都道府県:福岡県、山口県、京都府、三重県、静岡県
日程:2011年3月5日(土)~3月12日(土)

◆◆3月5日(土)◆◆

午後
福岡県糸島市

戦地等:第2船舶工兵、ガダルカナル・川口支隊の上陸支援。ブーゲンビル、ガダルカナルへ。その後ニューギニア。

◆◆3月6日(日)◆◆

午前
福岡県福岡市

戦地等:関東軍野戦重砲。兵隊3カ月、シベリア3年

◆◆3月7日(月)◆◆

午後
山口県岩国市

戦地等:昭和14年召集、歩兵233連隊、中支、昭和16年召集解除。昭和19年7月再招集、299連隊。

◆◆3月9日(水)◆◆

京都府京都市
◎酒井朝次さん
戦地等:祭師団砲兵。昭和15年12月入営、昭和18年まで中国、インパール作戦のため南方転出。ウインゲートの空挺部隊投入にぶつかり実質インパール作戦には参加できず。渡河支援、マンダレー作戦、モチ街道を移動。チェンマイで敗戦。

◆◆3月10日(木)◆◆

三重県鈴鹿市
◎山路金八さん
戦地等:ルソン島(レガスピー~バターン半島)~ネグロス島~内地。
◎宮崎義高さん
戦地等:ルソン島(レガスピー~バターン半島)~台湾

◆◆3月11日(金)◆◆

静岡県静岡市
◎望月耕一さん
戦地等:インパール作戦~ビルマ


3月11日、聞き取り中、東日本大震災。旅を中断。3月12日に帰還。
2011年夏の関西キャラバン第2弾で聞き取りを行った方の一覧です。

お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
証言概要をブログに転載する都度、お名前を掲載し、リンクをしていく形にします。

関西キャラバン第1弾
訪問都道府県:京都府、大阪府、兵庫県
日程:2011年8月20日(土)~8月25日(木)

◆◆8月20日(土)◆◆

静岡県長泉町
現地で戦争体験の継承活動をされている方と情報交換。


◆◆8月21日(日)◆◆

午前:
大阪府豊中市

戦地等:シベリア抑留

午後:
大阪府大阪市
新風書房表敬訪問。

◆◆8月22日(月)◆◆

●1班
午後:
滋賀県
滋賀県平和委員会の方と情報交換。

戦地等:トラック島警備兵。
◎福井佐兵衛(ふくい・さべえ)さん
戦地等:海軍。マリアナ沖海戦(瑞鶴)、沖縄特攻(磯風)

●2班
滋賀県大津市
午前

戦地等:海軍。マーシャル諸島。

午後

戦地等:陸軍。予備士官学校出身。野砲兵。

◆◆8月23日(火)◆◆

滋賀県
午前:

戦地等:陸軍。中国北部。

午後:

戦地等:航空兵。

戦地等:陸軍少年飛行兵。

◆◆8月24日(水)◆◆

滋賀県

戦地等:満州(現役)~本土決戦要員として島原。途中予備士官学校で教育を受ける。

◆◆8月25日(木)◆◆

三重県

戦地等:無線通信士。中国。

戦地等:陸軍士官学校第60期生。